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第2章
第9話:同じ屋根の下、違う呼吸
しおりを挟む朝の光は、思っていたよりも早く部屋に入り込んできた。薄いカーテン越しの白い光が、まだ眠りの名残を引きずる室内を、容赦なく照らしている。
目を覚ました瞬間、まず感じたのは――他人の気配だった。
すぐ隣で、規則正しい呼吸が聞こえる。静かで、深くて、どこか安心感のある呼吸。視線を動かさずとも、それが誰のものか分かってしまう自分に、少しだけ苦笑が浮かんだ。
カイルは、まだ眠っていた。
昨夜遅くまで、特別調査官としての書類仕事をしていたせいだろう。簡素な寝台の上で、横向きになり、肩まで毛布を引き寄せている。銀金の髪が枕に散って、朝の光を柔らかく反射していた。
――同じ家で、同じ朝を迎えている。
その事実を頭で理解するのに、未だ少し時間がかかる。三年もの間、誰とも深く関わらず、夜は一人で目を閉じてきた。
ふと、シーツの上に投げ出された自分の左手が目に入る。薬指に光る銀の指輪。
それを見るたび、胸の奥がじんわりと熱くなる。隣に誰かがいることが、こんなにも落ち着かず、同時に温かいものだとは思わなかった。
そっと、息を潜めるように身を起こす。寝台が軋まぬよう、慎重に体を動かしたつもりだったが――
「……もう、起きてしまうのか」
低く、寝起きの声が背後から聞こえた。
しまった、と思うより早く、気配が動く。毛布がずれ、カイルがゆっくりと上体を起こした。まだ完全に覚醒していないのか、その眼差しはどこかぼんやりとしている。
「すみません。起こしてしまいましたか」
「いや……。君の気配が消えるのが、分かっただけだ」
それが当たり前のように言われて、胸の奥がかすかに揺れた。昔から、彼はそうだった。自分の足音や呼吸の変化に、人一倍敏感だった。
アッシュは、返す言葉を探しながら、視線を逸らした。
「朝食の準備をしようと思いまして。……仕事でしょう?」
「君もだろう。護衛と調査、両方ある」
淡々とした会話。だが、その距離感が、まだ測りかねているものだということを、互いに感じ取っていた。
沈黙が落ちる。
かつてなら、言葉を探す必要はなかった。ただ同じ空間にいるだけで、十分だったはずなのに。
アッシュは、意を決したように立ち上がった。
「先に下で準備します。……ゆっくりで構いません」
そう言って部屋を出ると、背後で小さく「ありがとう」と聞こえた。
その一言が、なぜか胸に残った。
階下の簡易な台所は、まだ新しい木の匂いがしていた。湯を沸かし、乾燥肉と硬めのパンを並べる。冒険者としては慣れた朝食だが、今日はどこか手順がぎこちない。
――誰かのために、用意する朝。
そんな意識が、手元を狂わせる。
やがて階段を下りる足音がして、カイルが姿を現した。外套はまだ羽織っておらず、簡素な室内着のまま。王子だった頃の姿より、ずっと素のままに見える。
「手伝おう」
「いえ、大丈夫です」
即座に返した言葉が、少しだけ強すぎた気がして、アッシュは眉をひそめた。
カイルは一瞬だけ言葉を飲み込み、それから小さく笑った。
「……そうか。では、座って待つことにする」
その態度が、責めるでもなく、踏み込むでもないことに、逆に胸が痛んだ。
二人で食卓を囲む。向かい合って座ると、距離が思った以上に近い。視線を合わせると、すぐに逸らしてしまいそうになる。
「味は……どうですか」
「問題ない。……君の作るものは、昔から悪くなかった」
昔から、という言葉に、思わず手が止まる。
過去を持ち出していいのか、まだ分からない。だが、完全に切り離すことも、できそうになかった。
「今日の任務は、王都北側の廃塔調査だったな」
カイルが話題を切り替える。
「ええ。魔力反応が不安定だとか」
「君と行けるのは、正直、助かる」
さらりと言われて、アッシュは小さく息を呑んだ。
頼られることには慣れている。だが、それが“隣に立つ者”としての言葉になると、胸の奥に違う重みが生まれる。
「……過信はなさらないでください」
「していない。ただ、信頼しているだけだ。……それに、今の私は一人ではないからな」
カイルの視線が、アッシュの左手に一瞬だけ落ち、それから優しく微笑んだ。
逃げずに受け止めると、そこには揺るぎのない静けさがあった。かつての情熱的な熱ではなく、長い時間を越えて沈殿した、確かなもの。
食事を終え、装備を整える。剣を腰に下げると、自然といつもの感覚が戻ってくる。
玄関先で靴を履きながら、ふと気づく。
呼吸のリズムが、朝とは違っている。二人の動きが、無意識に噛み合っている。
「……行こうか」
カイルの言葉に、アッシュは頷いた。
扉を開けると、王都の朝の空気が流れ込んでくる。まだ冷たいが、どこか柔らかい。
並んで歩き出しながら、アッシュは思った。
同じ屋根の下で、同じ道を歩く。
それは、距離が縮まることでも、すべてが分かり合えることでもない。
ただ、違う呼吸を持ったまま、隣にいるという選択。
――それを、これから何度も、選び続けていくのだろう。
背中越しに感じるカイルの気配は、もう決して遠くはない。
朝の光の中で、二人は静かに、けれど確かな足取りで歩き続けていた。
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