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第2話:焔の灯、まだ胸に
しおりを挟む神殿の奥深くへと進むにつれ、空気はひんやりと重みを増していった。壁に刻まれた古代文字は、魔導士たちを夢中にさせていたが、アッシュの意識はそこにはなかった。
カイルは常に学者たちの中心にいた。彼の周りだけ、まるで光を纏っているかのようだった。無駄のない動きで資料を読み解き、的確な指示を飛ばす姿は、遠目にもその存在感が際立っていた。
時折、魔力の痕跡を辿るため、カイルが火属性の魔法を用いる。そのたびに、彼の指先から放たれる焔を見るだけで、アッシュの胸はかすかに痛んだ。
──あれは、騎士団時代の記憶。
極秘任務で二人きり、人気のない古い屋敷に潜伏していた夜。冷え込む石造りの部屋の片隅で、カイルはそっと焚き火を灯した。炎は小さく、けれど温かかった。彼が差し出したその魔力の焔は、ただ熱を持つだけでなく、アッシュの胸にまで沁みるようだった。
「アッシュの無属性魔法も綺麗だが、私の焔も、なかなかだろう?」
そう言って、カイルは悪戯っぽく笑った。その笑顔と、焔の持つ柔らかなぬくもり。それは、アッシュの記憶から決して消えることはなかった。
――今も、あの温かさは彼の中に残っているのだろうか。
気づけば、アッシュは無意識のうちにカイルの背中を追っていた。物理的な距離を取ることはできても、心の距離だけは、どうしても離しきれなかった。
休憩時間、カイルは学者たちに囲まれ、和やかな表情で談笑している。アッシュは一人、少し離れた場所で剣の手入れをするふりをしながら、その声に耳を澄ませていた。
彼が今、どんな話題に興味を持ち、どんな表情で笑うのか。
この三年で、カイルの言葉遣いはより洗練され、所作も王族としての威厳を帯びるようになっていた。あの頃の、ただの魔法騎士団員だった彼の姿は、もうどこにも見当たらない。
それでも、不意に見せる真剣な眼差しや、何かを説明する時の、つい前のめりになる癖――そうした細かな仕草だけは、昔のままだった。
アッシュは、その変化と不変の狭間に立たされながら、静かに感情の波に揺られていた。
◇◇◇
夜の帳が降り、神殿の広間にはいくつかの焚き火が灯されていた。調査隊の面々は疲労に身を委ね、それぞれの場所で静かに眠りについている。アッシュは焚き火の傍に腰を下ろし、警戒の当番を続けていた。膝に剣を置いたまま、ただ揺れる火を黙って見つめていると――足音が近づいてくるのが聞こえた。
ゆっくりと、しかし確かな足取り。
アッシュは手を止め、わずかに体を起こす。現れたのは、やはりカイルだった。昼間のきりりとした表情とは違い、どこか肩の力が抜けた、穏やかな顔をしている。
「……番か?」
焚き火の反対側に静かに腰を下ろしながら、カイルがぽつりと口を開いた。
「ええ」
アッシュはそれだけを返す。続く言葉はない。ふたりの間に、沈黙が落ちた。
気まずいはずの沈黙。けれど、嫌ではなかった。むしろ、この空間に二人きりでいることに、アッシュの心はざわめいていた。
風が吹き抜けるたび、焚き火の焔が大きく揺れる。その光が、カイルの顔を照らしたり、影に落としたりする。
「……アッシュは、肉が好きだったな」
不意に、カイルが口を開いた。
「この旅では、あまり良い肉が手に入らなかった。悪かった」
思いがけない言葉に、アッシュは思わずカイルの顔を見る。
「そんなこと……」
「昔、任務の帰りに、よく町の食堂で肉料理を頼んでいただろう。私はあまり得意ではなかったが、君が嬉しそうに食べるのを見るのは、嫌いじゃなかった」
カイルの声は、どこか懐かしさを帯びていた。それはまるで、三年前の記憶がこの場にそっと流れ込んでくるような感覚だった。
他愛ない会話。それだけのことなのに、アッシュの胸には、じんわりと温かいものが広がっていった。
別れてからの三年間、アッシュは意識的にカイルの記憶を遠ざけてきた。けれど今、こうして目の前に座る彼の言葉が、封じていた記憶の扉をひとつひとつ開いていく。
それは痛みを伴うものだったが、同時に、得も言われぬ安堵のような感情を呼び起こした。
「……星を、見よう」
カイルがふと夜空を仰ぎ、指差した。
「昔、君はよく、名前も知らない星に勝手な名前をつけていたな」
アッシュは反射的に空を見上げた。満天の星が、神殿の天井の開口部からこぼれ落ちるように瞬いている。たしかに、あの頃も二人で夜番をしながら、そんな他愛もない話をしていた。
「……覚えて、いらっしゃるんですね」
「忘れるはずがない」
カイルは、まっすぐアッシュを見つめて言った。その瞳の奥に、確かに光が宿っているのをアッシュは見た。
その一言が、胸に深く刺さる。アッシュは、自分がまだカイルに未練を残していることを、改めて痛感した。
もし、あのとき身を引かなければ。
もし、もっと別の選択肢があったなら。
そんな「もしも」が、次々に脳裏をよぎる。
ふと、アッシュは焚き火に手を伸ばしかけた。まるで、その温もりに触れて確かめようとするように。
その瞬間、指先にふと伝わったのは、微かに漂う魔力の気配。それは、紛れもなくカイルのものだった。
焚き火の焔に、彼の魔力が宿っている。まるで、意図的にその炎に想いを込めたかのように。
――焔は、まだ消えていない。
その事実が、アッシュの中に、カイルへの想いが今も確かに生きていることを示していた。
そして同時に、カイルもまた、かつての「焔」を手放せずにいるのではないかという、淡い希望を芽生えさせた。
二人の間を隔てるものは、まだあまりにも大きい。けれどこの夜、焚き火の焔は、その距離をほんの少しだけ、縮めてくれたような気がした。
遺跡の夜は、まだ長い。
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