【16話完結】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている

キノア9g

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第6話:辞退と選択、未来の道へ

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 数週間後、アッシュは王都の片隅にある静かな療養所にいた。遺跡での負傷は深く、回復には時間がかかった。だが、その間、アッシュの心はかつてないほど穏やかだった。カイルの涙、そして「もう失いたくない」という切なる叫びが、凍てついていた心に、ゆっくりと温かな光を灯していた。

 療養中、アッシュのもとには幾度か見舞いの品が届いた。質の良い薬草や、新鮮な果物。差出人の名はなかったが、その気遣いの細やかさから、誰の手によるものかはすぐに分かった。あれは、カイルからの、無言の手紙だった。かつて秘密裏に交わした文のように、静かに心へと染み渡っていく。

 そんなある日、王都に激震が走った。

 第二王子カイル・ディストランが、王位継承権の辞退を表明したという報せだった。

 アッシュは、療養所の窓辺に腰かけ、王都の街並みを遠く眺めながら、その報せを耳にした。

 ざわめく人々の声、王宮周辺の物々しい空気。

 ──まさか、そこまでとは。

 彼が重大な決断を下すだろうとは、薄々感じていた。だが、まさか王位そのものを手放すとは思わなかった。

 数日後、カイルは王室主催の記者会見に姿を現した。

 王位継承権の正式な辞退。そして今後は「特別調査官」として、王家直属の任務に就き、王国の復興と戦乱の爪痕が残る地の調査に尽力すると語った。

 それは、王子という立場からは一歩退く決断だったが、それでも国に仕えるという意志の表れでもあった。

 その発表は、王都の貴族や民衆の間で賛否を巻き起こした。誰もが口々に意見を述べるなか、アッシュはただ、彼の言葉を静かに反芻していた。

 ──彼の決断は、自分のためではない。

 そう言い聞かせた。

 だが、あの夜の涙と、「もう失いたくない」という声が、アッシュの中で何度もこだました。

 ──あれは、誓いだった。

 彼の決断の真意を、アッシュは直感的に悟っていた。

 そして、アッシュの容態が回復し、療養所を出た数日後。

 王都の冒険者ギルドで、新たな拠点の手続きを終えようとしていたアッシュの前に、一人の男が現れた。

 カイルだった。

 その姿は、以前のような豪奢な衣装ではなく、動きやすい簡素な旅装。けれど、その立ち姿には、変わらぬ気品と凜とした存在感があった。

 まっすぐに歩み寄ってきた彼の声は、優しさと安堵に満ちていた。

「アッシュ、体はもう大丈夫なのか?」

 その問いかけに、アッシュは驚きを隠せないまま、ゆっくりと頷いた。

「……ええ、もう問題ありません」

 カイルはアッシュの正面に立ち、その瞳をまっすぐに見据えた。

 その目には、迷いのない決意が宿っていた。

「アッシュ。……改めて、伝えたいことがある」

 言葉と同時に、空気がふと静まる。周囲の喧噪が遠のき、時の流れさえも緩やかに感じられた。

「あの時、君が去った理由──私の足かせになりたくなかったからだと、今なら分かる。けれど、私は、君がいなければ何の意味もなかった」

 カイルは一歩、距離を詰めた。

「私は王位継承権を捨てた。王族としての鎖から、ようやく自由になった。……すべては、君と、もう一度歩きたいと思ったからだ」

 その言葉が、アッシュの心にまっすぐ突き刺さる。

 三年分の想いと、後悔と、自責の念が、一気に押し寄せてきた。

「もう一度、私の隣にいてほしい。君のいない人生は、もう耐えられない」

 カイルは、そっとアッシュの手に触れようとした。

 だが、アッシュは無意識にその手を引いてしまった。

「……あなたは、王族です。俺とは違う」

 口を突いて出たその言葉は、三年前と同じ、拒絶の呪いだった。

 一瞬、カイルの表情に影が差す。けれどすぐに、彼は穏やかな微笑を浮かべた。

 その笑みは、アッシュの胸に柔らかく届いた。

「違うからこそ、共にいたいと思う。君が冒険者として自由に生きるなら、私は特別調査官として、その隣に立つ。それでいいと、私は思う」

 揺るがぬ瞳が、まっすぐにアッシュを見つめていた。

「私はもう、何ものにも縛られない。ただ、君と……君との未来を築きたい」

 彼は、もう一度アッシュの手を取り、その掌を包み込んだ。

 その温もりが、静かに、確かに、アッシュの中に広がっていく。

「それが間違いかどうかは──これから、二人で確かめよう」

 その一言に、アッシュの胸が大きく揺れた。

 彼の瞳に映るのは、揺るぎない覚悟。そして、深く、切実な愛情。

 三年前、アッシュが自分を犠牲にして守ろうとしたその想いは、カイルにとってただの痛みだった。けれど今、彼はその痛みを越えて、すべてを賭けてアッシュの前に立っている。

 もう、その手を振り払うことはできなかった。

 カイルの掌から伝わる温もりが、凍てついていたアッシュの心を、静かに溶かしていく。

 雪解けのように、ゆっくりと。

 ──それは、三年間の苦悩と沈黙の先にようやく見えた、確かな光だった。

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