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第1話:旦那様公認のニート生活、はじめました
旦那が俺を探しているなんて、夢にも思いませんでした。
だって言ったのは旦那様の方だ。「自由に過ごしていい」って。
俺はその言葉を、法的な効力を持つ「労働免除の契約書」だと受け取ったし、今でもその解釈は間違っていなかったと思っている。ただちょっと、俺たちの間の言語プロトコルに、深淵なる溝があっただけで。
「……君に、この家の規範を押し付けるつもりはない」
結婚式の翌朝。
俺、ルシアン・ヴァーデルの新しい生活は、そんな旦那様のありがた~いお言葉から始まった。
場所は、王都の一等地に屋敷を構えるクライス伯爵家のダイニング。
目の前には、朝からフルコースかと思うような豪華な食事が並び、長いテーブルの向こう側には、俺の結婚相手であるオルドリン・クライス伯爵が座っている。
オルドリン様は、二十四歳という若さで当主の座を継いだ切れ者だ。
艶やかな黒髪をきっちりと撫でつけ、冷ややかなアイスブルーの瞳は、眼鏡の奥から常に冷静に世界を観察している。背も高く、肩幅もあり、黙って座っているだけで威圧感がすごい。まさに「氷の伯爵」という二つ名がぴったりの美丈夫だ。
そんなハイスペックな旦那様と、しがない男爵家の次男(しかも魔力も才能も平均以下)である俺が結婚した理由は単純。政略結婚だ。
俺の実家は金に困っていて、クライス家は「血筋の箔」と「形だけの伴侶」を求めていた。需要と供給の一致。そこに愛なんて不純物は一ミリもない。
昨夜の初夜だってそうだ。
俺はてっきり、貴族の義務としてそういうコトをするもんだと覚悟して、風呂上がりにちょっと緊張しながらベッドで待機していた。
なのに、寝室に入ってきたオルドリン様は、俺を見るなりピタリと足を止め、能面のような無表情でこう言ったのだ。
『寝室は別にする。……君に指一本、触れるつもりはない』
そして、くるりと踵を返して出て行ってしまった。
取り残された俺は、広いベッドで大の字になりながら、天井を見上げて思ったものだ。
(ラッキー!!)
と。
いやだって、男と結婚することに抵抗がなかったと言えば嘘になる。前世、日本の男子高校生だった記憶を持つ転生者の身としては、恋愛対象はやっぱり女の子がいいな~なんて淡い願望もあったし。
だから、この「白い結婚」宣言は渡りに船だった。
そして今朝の、この追加宣言である。
オルドリン様は、ナイフとフォークを優雅に動かしながら、淡々と言葉を続けた。
「君の実家の事情は聞いている。今まで窮屈な思いをしてきたことも。……だから、ここでは好きにするといい。私に気を使う必要もないし、当主の配偶者としての公務も強要しない」
「えっと、つまり……?」
「生活費は十分に入れる。屋敷の出入りも制限しない。……君の時間を、私のために使う必要はないということだ」
俺は、飲んでいたスープを吹き出しそうになるのを必死で堪えた。
ま、マジで?
それってつまり、衣食住保証付き、小遣い(限度額不明)付き、そして義務なしの……
完全なる「高等遊民(ニート)」生活のすゝめ!?
俺は感動に打ち震えた。
前世では受験戦争に追われ、今世では「出来損ないの次男」として実家で肩身の狭い思いをしてきた。
それがどうだ。結婚した途端、こんなパラダイスが待っていたなんて。
俺は居住まいを正し、目の前の「顔がいいATM」……じゃなかった、旦那様に、満面の笑みを向けた。
「ありがとうございます、旦那様! 俺、ご厚意に甘えて好きにさせていただきますね!」
「……ああ」
オルドリン様は、俺の笑顔を見ると、ふい、と視線を逸らした。
冷たい。相変わらず表情筋が死んでいる。
きっと、「金さえ渡しておけば文句ないだろ」と思っているに違いない。俺に興味がないのがアリアリと伝わってくる。
でも、それでいい。むしろそれがいい。
愛だの恋だのドロドロした感情を向けられるより、こうやってビジネスライクに放置してくれる方が、俺にとっても好都合だ。
「じゃあ俺、さっそく今日から出かけてきてもいいですか? 王都の街を見て回りたくて!」
「……構わない。好きにしろ」
「やった! 行ってきまーす!」
俺はパンを口に放り込み、足取り軽くダイニングを飛び出した。
背後で、カチャン、と食器が鳴る音がした気がしたけれど、振り返らなかった。
◇◇◇
「うっひょー! 自由だああああ!!」
屋敷を出て十分後。俺は王都のメインストリートで両手を突き上げていた。
青い空、賑わう人々、屋台から漂う香ばしい匂い。
実家にいた頃は「魔力制御の訓練」だの「貴族の礼儀作法」だので、勝手な外出は許されなかった。
でも今の俺は、何をしたって誰にも文句を言われない。最強の無職(既婚)なのだ。
俺が最初に向かったのは、ブティックでも宝石店でもない。
路地裏にある、古びた看板が掲げられた建物――「冒険者ギルド」だ。
そう、俺の夢は冒険者になることだった。
前世でやり込んだRPGのように、剣と魔法で世界を旅する。男なら一度は憧れるシチュエーションだ。
実家では「危ない」「貴族の恥だ」と一蹴されていたけれど、今は「自由にしろ」という旦那様のお墨付きがある。
ギルドの扉を勢いよく開けると、むっとした熱気と酒の匂いが押し寄せてきた。
昼間から酒を飲んでいる荒くれ者たち。壁に貼られた依頼書。
うわあ、異世界っぽい!
俺は受付のお姉さんに、持参したフード付きのローブを見せながら、少し声を低くして告げた。
「冒険者登録をお願いしたいんですけど」
「はい、身分証はありますか?」
「あー……ワケありなんで、魔力認証だけでお願いします。名前は『ルーク』で」
貴族だとバレると面倒なので、偽名を使う。これも異世界の定番だ。
魔力測定の結果、俺のステータスは「魔力量:下の中」「適性:風魔法(微弱)」という、笑えるくらい平凡な結果が出た。
でもいいんだ。俺は世界を救う勇者になりたいわけじゃない。
日帰りで薬草を採ったり、スライムをポコポコ叩いたりして、夕方には家に帰ってフカフカのベッドで寝る。そんな「週末冒険者」ライフが送れれば十分なのだ。
「登録完了です、ルークさん。ランクは一番下のFランクからのスタートになります」
「ありがとうございます!」
真新しい鉄のプレートを受け取った俺は、さっそく掲示板へ向かった。
『薬草採取(王都近郊の森):報酬・銅貨5枚』
『ドブさらい(下町):報酬・銅貨3枚』
『迷子猫の捜索:報酬・干し肉』
……しょぼい。
しょぼいけれど、今の俺にはこれが「自由の翼」に見える。
俺は薬草採取の依頼書をひっぺがすと、意気揚々とギルドを飛び出した。
◇◇◇
その日の夕方。
俺は泥だらけのブーツを玄関マットで拭いながら、クライス伯爵邸に帰還した。
「たっだいまー……っと」
屋敷の広間に入ると、ちょうど執務室から出てきたオルドリン様と鉢合わせた。
彼は完璧な着こなしの執務服姿で、俺の姿――安物のチュニックに泥がついたズボン、髪には葉っぱがついている――を、じっと見下ろした。
うっ、さすがに汚すぎたか?
「貴族の品位を落とすな」とか怒られるパターンか?
俺が身構えていると、オルドリン様のアイスブルーの瞳が、俺の頭のてっぺんから爪先までをゆっくりとスキャンした。
そして、一言。
「……おかえり」
「え?」
「夕食の準備ができている。着替えてくるといい」
それだけ言うと、彼はまた無表情のままダイニングへと歩き出してしまった。
怒られない。
「何をしてきたんだ」とも聞かれない。
本当に、俺の行動に一切の関心がないらしい。
(すげえ……本当に「完全放置」だ……!)
俺は感動のあまり、拝みたくなる気持ちで彼の背中を見送った。
これならいける。
昼間は「ルーク」として冒険を楽しみ、夜は「ルシアン」として優雅なセレブ生活を送る。
二重生活の完成だ。
最高の人生が始まった予感に、俺はスキップしながら自室へと向かった。
◇◇◇
一方その頃。ダイニングルーム。
先に席に着いたオルドリンは、誰もいない空間で、ふぅ、と長く重い息を吐き出していた。
心臓が、早鐘を打っている。
(帰ってきた……)
朝、ルシアンが笑顔で出て行ってからというもの、オルドリンは仕事が全く手につかなかった。
『自由にしろ』と言ったのは自分だ。
嫌々結婚させられた彼を、この屋敷に縛り付けたくない。
自分のような無愛想で可愛げのない男と顔を合わせるより、外の空気を吸っている方が彼も幸せだろう。
そう思って突き放したのだが、いざ彼がいなくなると、不安で胃に穴が開きそうだった。
実家に帰ってしまったのではないか。
このまま二度と戻らないつもりではないか。
あるいは、王都の悪い人間に騙されているのでは――。
部下にこっそり護衛につかせ、逐一報告は受けていた。
『奥方様、冒険者ギルドで登録を済ませました』
『現在は森で薬草を採取中。スライムに追いかけられていますが、楽しそうです』
『転びましたが、無傷です』
報告書の中の彼は、屋敷にいる時よりもずっと生き生きとしていた。
それが少し寂しく、同時に、守ってやりたいと強く思った。
先ほど、廊下ですれ違った時のルシアンの姿。
泥だらけの服。ボサボサの髪。頬についた土汚れ。
普通の貴族なら眉をひそめるような格好だったが、オルドリンの目には、それがひどく眩しく映った。
まるで、図鑑の中でしか見たことのない、愛らしい小動物が冒険から帰巣したかのようで。
「……泥だらけで、可愛かったな」
誰もいない部屋で、オルドリンはぽつりと呟いた。
普段の鉄仮面が嘘のように、その口元はだらしなく緩み、耳の先は真っ赤に染まっている。
「怪我もしていないようだし……よかった」
おかえり、の一言を言うだけで、心臓が喉から飛び出るかと思った。
本当は「楽しかったか?」「疲れていないか?」と聞きたかったし、頬についた泥をハンカチで拭ってやりたかった。
だが、そんな馴れ馴れしいことをして、「旦那様キモい」と引かれるのが怖くてできなかった。
(明日は、今日よりも美味しい夕食を用意させよう。……彼がまた、家に帰ってきたくなるように)
最強の魔導師であり、冷徹な当主と呼ばれる男は、そんな健気で乙女な決意を胸に秘め、愛しい妻(夫)が着替えて降りてくるのを正座待機で待ち続けるのだった。
全く噛み合っていない二人の生活は、まだ始まったばかりである。
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