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第2章 俺たちは『伯爵と夫人』じゃなくて、『相棒』になりたい
第11話:敬語禁止と、心臓に悪い朝食
しおりを挟むチュンチュン、と小鳥のさえずりが聞こえる。
爽やかな朝だ。
最高の目覚め……と言いたいところだが、俺、ルシアンは布団の中で硬直していた。
理由は単純。
目の前――至近距離5センチの位置に、オルドリン様の顔があるからだ。
「…………」
彼は起きている。
ぱっちりと開かれたアイスブルーの瞳が、瞬きもせずに俺を見つめている。
その視線には、期待と、緊張と、そして隠しきれない興奮が混ざり合っていた。
(……起きていたのなら、起こしてくれよ)
俺は心の中でツッコミを入れつつ、昨夜の出来事を思い出した。
嫉妬に狂った(?)旦那様からの、切実な訴え。
『他人行儀なのが寂しい』『普通に話したい』
そして俺たちは約束したのだ。「明日から敬語をやめる」と。
つまり、今この瞬間から、ミッションはスタートしている。
(えーっと……まずは挨拶か)
たかが挨拶。されど挨拶。
身体に染み付いた「おはようございます、旦那様」というフレーズを封印し、ラフな挨拶に切り替えなければならない。
相手は伯爵様だぞ?
本当にいいのか? 不敬罪で捕まらないか?
俺がゴクリと喉を鳴らすと、オルドリン様の瞳がキラリと光った。
待っている。
尻尾をブンブン振って、「さあ! 来い! 俺の名前を呼べ!」と待機している犬の幻影が見える。
俺は覚悟を決めた。
よし、いくぞ。
「……おはよ、オルドリン」
言った。
言ってしまった。
呼び捨て&タメ口。
その瞬間。
オルドリン様の顔が、ボンッ!という効果音が聞こえそうな勢いで真っ赤に染まった。
そして、彼は両手で顔を覆い、枕に突っ伏した。
「ぐぅっ……!!」
「えっ、どうした!?」
「…………想定以上だ……」
彼は布団の中で悶えながら、掠れた声で呟いた。
「呼び捨てで……呼ばれた……私の名前を……ルシアンに……」
「いや、そう呼べって言ったのアンタだろ」
「そうだが! 想像と現実は違う! ……朝一番の無防備な声で、呼び捨てにされるのがこんなに……心臓に悪いとは……!」
オルドリン様はプルプルと震えている。
怒っているのではない。どうやら、感動しすぎてキャパオーバーを起こしているらしい。
面倒くさい。
朝から最高に面倒くさいけど……まあ、悪い気はしない。
「ほら、いつまで寝てる気だよ。朝飯食お」
俺は布団を剥ぎ取り、彼の肩を叩いた。
「……っ、ああ。……起きる」
彼は指の隙間から俺を見て、とろけるような笑顔を見せた。
「おはよう、ルシアン。……最高の朝だ」
その笑顔があまりに幸せそうで、俺もつい吊られて笑ってしまった。
なんだこれ。
ただ挨拶しただけなのに、世界が輝いて見えるぞ。
◇◇◇
そして、戦いの舞台はダイニングルームへ移る。
今日の朝食は、オムレツとソーセージ、そしてサラダ。
給仕をしてくれるのは、この屋敷を取り仕切る老執事のセバスチャンと、数名のメイドたちだ。
彼らはまだ、昨夜の「敬語禁止令」を知らない。
席に着き、ナプキンを広げる。
いつものように静かな朝食……にはなりそうになかった。
向かいの席のオルドリン様が、ソワソワと落ち着きなく俺を見ているからだ。
(……分かってるよ。話せばいいんだろ、話せば)
俺はフォークを手に取り、努めて自然に口を開いた。
「あのさ、オルドリン」
カチャン。
背後で、メイドの一人がスプーンを落とす音がした。
セバスチャンの眉がピクリと動く。
屋敷の空気が凍りついた。
「奥様が、旦那様を呼び捨てにした!?」という衝撃が走っている。
しかし、当のオルドリン様は満面の笑みだ。
「なんだ、ルシアン」
「そのドレッシング、取ってくんない?」
「ああ。どうぞ」
「サンキュ」
ヒュッ。
誰かが息を呑む音がした。
無理もない。貴族の食卓で「取ってくんない?」「サンキュ」はありえない。マナー講師がいたら泡を吹いて倒れるレベルだ。
俺も内心冷や汗ものだった。
やっぱり、使用人の前では敬語の方がよかったんじゃないか?
彼らの教育に悪いし、旦那様の威厳に関わるのでは――。
そう思ってチラリとオルドリン様を見ると、彼はドレッシングを渡した自分の手を、愛おしそうに見つめていた。
「……ルシアンに頼み事をされた」
「うん、ドレッシングね」
「『取って』と言われた。……命令でも、懇願でもなく、対等な依頼として」
「解釈が重いよ!」
俺がツッコミを入れると、彼は嬉しそうに目を細めた。
「もっと言ってくれ。何でも取ろう。塩か? 胡椒か? それとも私の心臓か?」
「いらねーよ心臓! 食欲なくなるわ!」
「ははっ、手厳しいな」
オルドリン様が声を上げて笑った。
その瞬間、執事のセバスチャンが目を見開き、そして深く、深く頭を下げた。
その目元が少し潤んでいるように見えたのは気のせいだろうか。
(……そっか)
俺は気づいた。
この「氷の伯爵」が、こんな風に食卓で笑うことなんて、今までなかったのかもしれない。
使用人たちも、主人の笑顔を見て、安心しているんだ。
そう思うと、俺の肩の力が抜けた。
なんだ、気にする必要なんてなかったな。
「……このオムレツ、美味いな」
「そうか? なら、私のも半分やろう」
「え、いいのか? オルドリン、これ好物だろ?」
「君が食べてくれる方が、私にとっては栄養になる」
「全く意味分からんけど……もらうわ」
俺は彼の皿からオムレツを奪い、口に放り込んだ。
美味い。
そして何より、楽しい。
堅苦しいマナーも、貴族の仮面もいらない。
ただの「ルシアン」と「オルドリン」として囲む食卓は、どんな高級料理よりも美味しく感じられた。
◇◇◇
朝食後。
オルドリン様は仕事へ行く時間だ。
玄関ホールでのお見送り。これも日課だが、今日からは少し違う。
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
俺がつい癖でそう言うと、オルドリン様が悲しげに眉を下げた。
「……ルシアン」
「あ、やべ間違えた」
いけない。条件反射だ。
俺は咳払いをして、言い直した。
「行ってらっしゃい、オルドリン。……仕事、頑張れよ」
ポン、と彼の肩を叩く。
友人を見送るような、軽い仕草。
すると、オルドリン様はその場に崩れ落ちそうになった。
「っ……!」
「ちょ、しっかりしろよ!?」
「すまない……。『頑張れ』の威力が……」
彼は壁に手をついて体を支え、荒い息を吐いた。
「君に応援されたら、私は……世界だって征服できそうだ」
「しなくていいから! 領地経営して!」
「ああ……今なら、未決済の書類の山も、一瞬で片付けられる気がする」
彼の背中から、キラキラとしたオーラが出ている。
やる気満々だ。
単純だなぁ、と思うけれど、俺の一言でここまで元気になってくれるなら、安いものだ。
「じゃあ、行ってくる。……夕食までには、必ず帰る」
「おう。待ってる」
彼は名残惜しそうに何度も振り返りながら、ようやく馬車に乗り込んだ。
その足取りがスキップしそうなほど軽いので、御者も困惑しているのが見えた。
◇◇◇
その日の午後。
俺は一人、屋敷の図書室で本を読んでいた。
静かな午後だ。
窓から差し込む日差しが暖かい。
「……ふぅ」
本を閉じ、天井を見上げる。
口をついて出るのは、自然な独り言だ。
「敬語やめるだけで、あんなに喜ぶなんてなぁ」
思い出すのは、朝の彼の笑顔だ。
あんなに無邪気に、子供みたいに笑う顔。
「氷の伯爵」なんて呼ばれていた男の、本当の素顔。
俺は今まで、どこかで一線を引いていたのだと思う。
「自分は転生者で、凡人で、彼は雲の上の貴族様だ」と。
対等になりたいと言いながら、心の奥底では「住む世界が違う」と諦めていた。
でも、敬語を外してみたらどうだ。
不思議なことに、彼がすごく身近に感じられる。
「……悪くないな」
俺は自分の胸に手を当てた。
そこにあるのは、温かい充足感だ。
彼と「対等」になれた気がして、誇らしいような、嬉しいような。
「奥様」
不意に声をかけられ、俺は振り返った。
執事のセバスチャンが、紅茶とお菓子をワゴンに乗せて立っていた。
「あ、セバスチャン。ありがとう」
「いえ。……少し、お話をよろしいですか?」
セバスチャンは紅茶を淹れながら、穏やかな声で言った。
その目は、孫を見るように優しい。
「今朝の旦那様……あのようなお顔は、久しぶりに拝見しました」
「へえ? いつもムスッとしてるもんね」
「はい。先代様が亡くなり、若くして当主となられてから……旦那様はずっと、肩に力を入れて生きてこられました。弱みを見せず、完璧であろうと、ご自身を律しておられたのです」
セバスチャンは遠い目をした。
「ですが、奥様……ルシアン様がいらしてから、旦那様は変わられました。人間らしい感情を、表に出されるようになったのです」
「……俺、振り回してるだけだけどね」
「それが良いのです。旦那様には、共に笑い、共に歩んでくださる方が必要でした」
老執事は、深々と頭を下げた。
「どうかこれからも、旦那様を……オルドリン様を、よろしくお願いいたします。あの方は、不器用ですが、愛情深い方ですので」
「……うん。分かってる」
俺は紅茶を一口飲んだ。
香りが、いつもより良く感じられた。
「任せといてよ。俺があいつの『普通』になるから」
そう答えると、セバスチャンは嬉しそうに微笑んで下がっていった。
俺は改めて、自分の役割を再確認した。
俺は、彼の「妻」である前に、彼の「日常」でありたい。
彼が鎧を脱いで、ただの男に戻れる場所でありたいのだ。
◇◇◇
夕方。
玄関の方から、バタバタという足音が聞こえてきた。
貴族の屋敷にあるまじき騒々しさだ。
「ルシアン!!」
執務室の扉が開くよりも早く、オルドリン様の声が響いた。
俺が迎えに出る間もなく、彼がリビングに飛び込んできた。
髪は少し乱れ、ネクタイも緩んでいるが、その表情は晴れやかだ。
「おかえり。……早いな、まだ日没前だぞ?」
「君が待っていると思ったら、仕事など秒速で終わった」
彼は俺の前まで大股で歩み寄ると、勢いよく俺の手を握った。
「ただいま、ルシアン」
「おう、おかえり。オルドリン」
自然に返すと、彼はまた感極まったように顔を歪めた。
「……幸せだ」
「大袈裟だって」
「いいや、幸せだ。家に帰って、君に名前を呼んでもらえる。……これ以上の幸福が、この世にあるだろうか」
彼は俺の手を額に押し当てた。
その体温が、熱い。
「……あのさ、オルドリン」
「なんだ」
「俺も、悪くないと思ってるよ。……こういうの」
俺が少し照れながら言うと、彼は目を見開き、それから破顔した。
「そうか。……なら、もっと慣れてもらわないとな」
「え?」
「言葉だけじゃない。……これからは、もっと君に甘えてもらうつもりだ」
彼の手が、俺の腰に回された。
距離が縮まる。
至近距離で見つめ合うアイスブルーの瞳には、もう迷いも壁もなかった。
「君が私を『対等』だと思ってくれるなら……私も、遠慮なく君を愛させてもらう」
低く、甘い声。
それは「乙女な旦那様」ではなく、紛れもなく「男」の声だった。
俺は心臓が跳ねるのを感じた。
「……お手柔らかに頼む」
「善処はしない」
彼は悪戯っぽく笑うと、俺の唇を塞いだ。
敬語禁止令。
それは、俺たちの間の最後の防壁を取り払い、ただの「男同士」の恋愛へと引きずり込むスイッチだったらしい。
甘いキスの合間に、俺はぼんやりと思った。
これは、冒険よりもスリリングな日々が始まりそうだな、と。
でもまあ、この幸せそうな大型犬の笑顔が見られるなら、それも悪くないか。
俺は彼の首に腕を回し、その重い愛を真正面から受け止めたのだった。
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