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第5章 俺たちは『英雄』じゃなくて、『愛の逃避行』がしたい
第40話:極上の獲物と、焦がれるほどの愛
しおりを挟むズズズズズ……ッ!
幻影の霧が晴れた直後、遺跡全体が悲鳴を上げるように激しく振動した。
天井からパラパラと砂塵が舞い落ちる中、広場の中央で空間が歪み、どす黒い質量を持った「何か」が実体化していく。
「グルルルァァァ……!!」
鼓膜を直接揺さぶるような重低音の咆哮。
現れたのは、先ほどまでの不定形なスライム状の魔物ではない。
岩盤のように硬質な甲殻に覆われた頭部。鞭のようにしなる無数の触手。そして、獲物をねめつける巨大な単眼。
古代の海に君臨したとされる伝説の魔獣――『幻惑のクラーケン』の真の姿だった。
「……ッ、でかいな!」
俺、ルシアンは風魔法で足場を確保しながら叫んだ。
見上げるごとき巨体。その触手一本一本が、大樹のような太さを持っている。
魔物はもはや言葉を話さなかった。
幻術という搦め手が破られた今、奴にあるのは純粋な殺意と、侵入者を排除しようとする破壊衝動のみ。
「ルシアン、私の背後に! こいつは魔法耐性を持っているぞ!」
オルドリンが即座に氷の防壁(アイス・シールド)を展開する。
直後、魔物の触手が轟音と共に防壁に叩きつけられた。
ドォォォン!!
氷の壁に亀裂が走り、衝撃波が俺たちの髪を揺らす。
硬い。そして重い。
生半可な魔法では、あの装甲を貫くどころか、足止めさえ難しいだろう。
「チッ……防御一辺倒じゃジリ貧だぞ!」
「だが、君を危険に晒すわけには……!」
「守るな、攻めろ! 俺が隙を作る!」
俺はオルドリンの制止を聞かず、防壁の影から飛び出した。
「ルシアン!?」
「こっちだ、デカブツ! 図体がでかい分、動きは鈍いはずだ!」
俺は風魔法『エア・アクセル』を発動し、床を滑るように疾走した。
魔物の巨大な目玉が、チョロチョロと動く俺を捉える。
狙い通りだ。奴の意識が俺に向いた。
ヒュンッ!
風を切る音と共に、触手が俺めがけて振り下ろされる。
速い。巨体に似合わぬ速度だ。
だが、見切れないほどじゃない!
「っと!」
俺は紙一重で触手を回避し、そのまま触手の上を駆け上がった。
風の刃で表面を切りつけるが、金属のような硬い音を立てて弾かれる。
「硬ぇな! ……なら、関節はどうだ!」
俺は触手の付け根、甲殻の継ぎ目を狙って風の弾丸を撃ち込んだ。
魔物が嫌がって身をよじる。
ダメージは浅いが、注意を引くには十分だ。
「オルドリン! 今だ、右が空いたぞ!」
俺の叫びに、オルドリンが反応する。
彼は一瞬、俺の行動に息を呑んだが、すぐにその瞳に決意の光を宿した。
俺が作った一瞬の隙。それを無駄にするような男ではない。
「……ああ、分かった! 私の愛ごと食らえ!」
オルドリンの杖先に、周囲の空気を凍てつかせるほどの魔力が収束していく。
だが、魔物もまた、古代の支配者としての狡猾さを持っていた。
オルドリンが攻撃の予備動作に入った瞬間、魔物は俺を追っていた触手の軌道を変え、予期せぬ角度から跳ね上げたのだ。
鞭のようなしなり。回避行動の先を読んだ一撃。
「――しまっ!?」
俺は空中で身を捻った。
直撃は避けた。
しかし、鋭利な吸盤の鉤爪が、俺の脇腹を掠めた。
ビリィッ!!
乾いた布の裂ける音が響く。
「ぐっ……!」
俺は床に転がり、すぐに体勢を立て直した。
痛みは走ったが、浅い。かすり傷だ。
だが、俺の着ていたお気に入りのシャツは、脇腹から背中にかけて無惨にも引き裂かれ、肌が大きく見えてしまっていた。
「やっべ……服が!」
「ルシアン!!」
オルドリンの悲痛な叫びが響く。
俺は慌てて破れた箇所を押さえたが、それよりも先に、遺跡内の空気が一変した。
キィィィィン……。
音が消えた。
いや、物理的な音が消えたのではない。
空間そのものが恐怖に震え、凍りついたかのような静寂が訪れたのだ。
俺は戦慄して顔を上げた。
視線の先。
オルドリンが、ゆらりと立ち尽くしていた。
ただ、そのアイスブルーの瞳が、一切の光を失った深海のように暗く沈殿し、魔物一点を見据えていた。
ピキ、パキキ……。
彼の足元から、白い霜が爆発的に広がっていく。
それは魔力制御の暴走ではない。
研ぎ澄まされた、純度100%の殺意による冷気だった。
「……よくも」
吐き出された言葉は、絶対零度の風のように冷たかった。
「……私の宝物に触れ、あまつさえその柔肌を衆目に晒すとは」
オルドリンが、杖を下ろした。
代わりに、素手を魔物に向ける。
その掌には、圧縮されすぎて黒く変色して見えるほどの冷気が渦巻いている。
「万死に値する。……その不潔な触手、一本残らず塵にしてくれる」
魔物が本能的な恐怖を感じたのか、威嚇するように咆哮を上げた。
全触手が一斉にオルドリンへと殺到する。
だが、遅い。
激昂した「氷の伯爵」の前では、全てが止まって見えるほどに。
「ルシアン、目を閉じていろ。……極大魔法を放つ」
オルドリンが静かに告げ、指を弾いた。
「消え失せろ。――『絶対零度・断罪の氷柩(ジャッジメント・コキュートス)』」
カッ……!!
世界が白に染まった。
音が、時間が、空間が凍結する。
魔物の巨体は、襲いかかろうとした姿勢のまま、細胞の一つ一つに至るまで瞬時に氷の結晶へと置換された。
断末魔を上げる暇さえなかっただろう。
そこにあるのは、巨大で美しい氷像だけだった。
パリンッ。
次の瞬間。
小気味よい音と共に、氷像が粉々に砕け散った。
ダイヤモンドダストとなって舞い散る光の中で、いくつかの塊がゴロリと地面に落ちる。
それは、魔力によって変質することなく、新鮮なまま瞬間冷凍された「クラーケンの身」と、副産物の「巨大エビのような部位」だった。
圧倒的な勝利。
……いや、もはや一方的なフルボッコに近い。
「……すっげぇ」
俺が呆然と呟いていると、殺気を霧散させたオルドリンが、雪崩のような勢いで駆け寄ってきた。
「ルシアン!!」
「うおっ!?」
彼は俺の目の前で膝をつくと、血相を変えて俺の体を確認し始めた。
「怪我は!? 痛むか!? 今すぐ治癒魔法を……いや、まずは隠さねば!」
「え? いや、かすり傷だって。それより魔物、倒したな!」
「魔物などどうでもいい!!」
オルドリンは大声で叫ぶと、自分の着ていた上着をバサッと脱ぎ捨てた。
そして、それを俺の頭からすっぽりと被せ、ぐるぐる巻きにした。
「見えている! 腰のラインが丸見えだぞぞルシアン!!」
「わっ、ちょ、苦しい!」
「ダメだ、そんな無防備で扇状的な姿……私以外に見せてはいけない! セバスチャンにも、ジュゴンにさえも見せたくない!」
彼は必死な顔で、俺の破れた服の隙間を鉄壁のガードで覆っていた。
さっきまでの魔王のような冷徹さはどこへやら。
そこにいるのは、ただ妻の肌の露出に動揺し、独占欲を爆発させる心配性の旦那様だった。
「……アンタなぁ。倒した余韻とかないのかよ」
「ない! 君の肌の方が一大事だ!」
彼は俺を上着ごと強く抱きしめた。
震えている。
「……怖かった。君の体に傷がついた瞬間、本気でこの島ごと世界を氷河期にするところだった」
「物騒だな……。でも、ありがとう。助かったよ」
俺は布越しに彼の背中を叩いてやった。
過保護で、重くて、面倒くさい。
でも、この温かさが俺を守ってくれたのだ。
◇◇◇
遺跡の外へ出ると、空は茜色に染まりかけていた。
俺たちは戦利品(冷凍された巨大イカとエビ)を魔法で浮かせ、浜辺へと戻った。
「お帰りなさいませ。……大漁ですな」
浜辺では、セバスチャンが何食わぬ顔でBBQ魔道コンロの火加減を調整していた。
テーブルの上には、既にバターやソースが用意されている。まるでこうなることを予期していたかのような手際の良さだ。
そして、俺たちの姿――特に、旦那様の上着で蓑虫のように梱包され、お姫様抱っこされている俺を見ても、眉一つ動かさない。さすがプロの執事だ。
「セバスチャン、直ちにこの食材を調理してくれ。ルシアンが空腹だ」
「かしこまりました。……おや、奥様のお召し物が?」
「見るな! 想像もするな!」
オルドリンがガルルと威嚇する。
俺はため息をつきつつ、抱っこされたまま苦笑した。
「ごめん、セバスチャン。着替え頼むわ……」
「承知いたしました。テントにご用意してございます」
着替えを済ませ(その間もオルドリンがテントの入り口を仁王立ちで警備していた)、俺たちはようやく落ち着いてテーブルに着いた。
目の前には、セバスチャンが手際よく捌いたクラーケンの切り身と、殻付きのエビが並んでいる。
炭火の上に乗せると、ジュワァ……と食欲をそそる音が響き、香ばしい匂いが立ち上った。
「きゅぅ~!!」
足元から歓喜の声が上がった。
いつの間にか戻ってきていたジュゴンが、セバスチャンから貰った特大のゲソを「ムシャムシャ」と幸せそうに頬張っている。
どうやらガスが出た瞬間に海へ避難し、戦闘が終わったのを察知してちゃっかり戻ってきたらしい。
「お前……まさか、これを食いたくて俺たちを案内したのか?」
「きゅっ!」
ジュゴンは悪びれもせず、つぶらな瞳でウィンク(?)してみせた。
なるほど、最初から俺たちはこの食いしん坊な魔獣に利用されていたわけだ。
「ははっ、現金な奴だな」
「まあいい。結果的に最高の食材が手に入った」
焼き上がったイカを、オルドリンがフーフーと冷まして差し出してくる。
「はい、あーん」
「……いただきます」
口に入れると、プリッとした弾力と共に、濃厚な旨味が口いっぱいに広がった。
噛めば噛むほど甘みが出る。
泥臭さなんて微塵もない。最高級の海鮮だ。
「美味いっ!!」
「そうか、よかった」
俺が満面の笑みを浮かべると、オルドリンもようやく肩の力を抜いて微笑んだ。
「苦労した甲斐があったな。……あの幻影が見せた『理想』より、数百倍も良い」
「違いない」
俺たちは波音を聞きながら、冷えた果実水を飲み、獲れたての食材を堪能した。
空には満天の星が瞬き始めている。
「なあ、オルドリン」
「ん?」
「俺さ、やっぱり『現実』が好きだよ」
俺はエビの殻を剥きながら言った。
「アンタは重いし、過保護だし、すぐ嫉妬するし……世の理想の王子様とは程遠いだろうけどさ」
「……うっ」
「でも、こうして隣で熱々の飯を食って、笑い合えるのは……アンタしかいないから」
俺が言うと、彼は一瞬きょとんとして、それから顔を覆って天を仰いだ。
「……君という人は。不意打ちで心臓を止めに来るのはやめてくれ」
「へへ。事実だろ?」
彼は俺の手を取り、油で汚れるのも構わずに指先にキスをした。
「愛しているよ、ルシアン。……どんな理想よりも、君がいるこの現実こそが、私にとっての楽園だ」
星空の下、俺たちは笑い合った。
トラブル続きで、ドタバタで、命がけのバカンス。
でも、これが俺たちらしくて丁度いい。
「……ま、とりあえずの課題は、この山のようなイカをどう消費するかだな」
「ふふ。愛の力で食べ尽くそうじゃないか。三食イカ尽くしでも、君となら幸せだ」
俺たちの「愛の逃避行」は、最高の満腹感と、大量のお土産(冷凍クラーケン)と共に幕を閉じた。
さて、屋敷に帰ったら、まずはセバスチャンとイカ料理のレシピ会議だな。
俺は膨れた腹をさすりながら、平和で騒がしい日常への帰路についた。
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