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第1話「沈黙の英雄」
しおりを挟む目を開いているはずなのに、漆黒の闇しか見えない。耳はあるはずなのに、微かな音すら届かない。まるで、深い深い水の底に沈んでいるかのようだった。
けれど、俺のこの“思考”だけは止まらない──それがどれほどの時間続いているのか、もう数えることもできない。果てのない、孤独な瞑想。時折、身体の奥に染み込むような冷たい“気配”だけが、外の時間の移ろいを教えてくれる。雪の気配。雨の気配。それが何度巡っても、一体どれほどの年月が流れたのかはわからず、俺はただ、虚しい問いを心の中で繰り返し続けるしかなかった。
名前はイグニス。かつてこの世界に正義をもたらそうと、剣と魔法を掲げて戦った……なんて言えば、少しはかっこよく聞こえるか?
でも、実際は違う。
俺は強すぎた。この異世界に転生して、生まれ持った魔力は桁違いで、保有スキルもすべてが規格外。正義を振りかざすその一方で、無自覚に人々を怯えさせていた。チートスキルを惜しげもなく使い、誰よりも速く、強く、目立ち続けた。仲間ですら次第に口を閉ざし、顔には引きつった笑みが浮かぶようになっていたのに──俺は、それに気づかなかった。
「すごいな……」
「さすがだね……」
称賛の言葉は確かにあった。けれど、その目はいつだって、心の底から笑ってはいなかった。
それすらも、見ようとしなかった。傲慢なまでに自分の正義を信じていた、俺自身が。
そして──あの日。
「ごめんな」と、背後から掠れるような声でそう呟かれた、ほんの直後。魔力の奔流が俺を襲った。仲間とともに訪れた洞窟の奥、そこに仕掛けられていた禁忌の封印術。常時展開していた鑑定眼のおかげで、何をされたのかだけはすぐに理解できた。
俺は、封印されたのだ。
身体が石のように固まっていき、視界が閉ざされ、音が消え、気づけばここにいた。意識だけが、置き去りにされて。
どうして封印だったんだろうな。もし本当に脅威だったのなら、いっそ世界から消してくれればよかったのに。そうすれば、こんな終わりのない孤独を味わうこともなかった。
動けない。声も出せない。けれど意識だけが、この石の中で、いつまでも冴え続けている。歪みかける思考の中で、ただ己の無力さを噛みしめていた。
寒さも、痛みもない。ただ空っぽの時間が、静かに、果てしなく流れていくだけ。まるで、自分の存在が世界のすべてから忘れ去られていくようだった。
封印されてから、どれほどの月日が流れたのだろう。絶望ですら擦り減り、今はただ、無為な時間に身を委ねている。いつものように、ぼんやりと意識を漂わせていたそのときだった。
──音がした。
脳裏に、かすかな振動が走る。石に伝わってくる、規則正しい震え。
……また幻か? この果てしない沈黙の中で、そんな夢を見たことも、一度や二度じゃなかった。だから、聞こえた瞬間、胸の奥がざわつくのを、強引に押し込めた。
(やめろ……期待なんてするな。今さら、誰が、俺なんかを──)
それでも足音は、止まらなかった。確かに、こちらに向かってくる。迷いも、戸惑いもなく。
ゆっくりと、けれど確実に近づいてくる足取り。やがて、それは地面に響く、重く深い音へと変わっていった。
……こんな場所に来る物好きがいるのか? 採掘? 遭難? それとも──俺を砕きに来たのか? どれであれ、この闇にようやく差す光なら、歓迎すべきことかもしれない。
なぜかふと、記憶の奥底に沈んでいたあの少年の顔がよぎった。あの時、俺が命を救い、背中に隠して守った、小さな王子の笑顔。あの頃、まだ六歳だった。
(そんなこと、あるはずないのにな……)
──だが、それは“まさか”だった。
「……やっと……みつけた……!」
その声が届いた瞬間、凍りついていた時間の膜が、音を立ててひび割れた気がした。
懐かしさが一気に押し寄せる声。けれど、記憶にあるものよりも深く、低い。幼さのあった少年の声は、今や大人の男の声に変わっていた──だが、この静かな熱情を帯びた響きは、どうしても聞き間違えようがない。
封印石の前に膝をついて、彼は泣き出した。長い年月のあいだに積もった埃のせいで、彼の姿はぼんやりとしか見えなかったが、その震える声と、喉の奥でせき止めたような息遣いが、はっきりとその様子を伝えてきた。
「こんなに、一人で待たせて……ごめんなさい」
(どうして、お前が泣くんだ……? 置いていかれたのは、俺のほうなのに)
彼の手が、俺の石に触れる。冷たい石の表面に、かすかな暖かさが伝わってきたような錯覚に陥る。それが錯覚でも、心が震える。
「あなたを死なせないことしか、できなかった……非力な私を……許してください……」
(──俺なんかを、まだ……覚えていてくれたのか)
必死に目を凝らす。彼のぼんやりとした今の姿に、あの幼い頃の面影を重ねようとする。けれど……俺の記憶の中の、小さかった彼とは違い、あまりにも大きな存在になっているせいで重ならない。
(レオン……ハルト……だよな?)
思考の中に、その名が刻まれる。出会った頃、彼はたったの六歳。俺が封印されたときには十一歳だったはず。ということは、今の彼は……。
(……あれから、一体何年が過ぎたんだ……? 声の感じからすると、二十をとっくに超えてる。──ってことは、十年以上も経ってる?)
信じられなかった。あれほど止まっていたかのように感じていた時が、確かに流れていたのだ。彼は成長し、大人になって、ここまで──俺を探しに来てくれた。その事実が、凍りついた胸の奥に、ひとすじのひびを走らせた気がした。
俺の前でしばらく泣いていた彼は、やがてゆっくりと立ち上がった。このまま帰ってしまうのか──そう思った瞬間、彼の足音は洞窟の奥から外へと向かう。ただ、遠ざかっていく気配はなかった。
しばらくして戻ってきたその足音には、何かを引きずるような、重たく鈍い響きが混じっていた。どうやら荷物を運んできたらしい。
それから、彼はこの洞窟に住み始めた。封印石の周囲を丁寧に片づけ、慣れた手つきで焚き火を起こす。パチパチと薪がはぜる音が、何年も無機質だったこの空間に、かすかな人の暮らしの温度を運んできた。布を敷き、寝具を整え、そして、俺に語りかける。
「私は、王にはなりませんでした。兄が王になったのです。……いや、なってしまった、というべきかもしれません」
抑えた口調だった。けれど、言葉の端々に、未だ消えない悔しさが滲んでいる。
「あなたの封印を解くことは、どうしても許されませんでした。ですが──あなたの“石”だけは、何とか譲り受けました」
ぽつぽつと、心の底から掬い上げるように言葉が続く。
「場所を教えてもらえなかったので……何年も探し続けました。あなたを、この世界のどこかに、一人だけで閉じ込めておきたくなかったから……」
そのひとつひとつが、胸の奥にじわじわと染みてくる。冷たく固まったこの石の奥にまで届いて、音もなく痛みを刻んでいく。
(……どうして、お前は──そんなに、俺に優しいんだ)
ただ守られるだけの子供だったのに。……いや、違う。もしかしたらずっと前から、レオンハルトは、俺なんかよりよほど強く、まっすぐな信念を持って、生きてきたのかもしれない。
夜が深くなる。焚き火の炎が、揺らめきながら彼の影を壁に映し出す。静かに石の前に座った彼が、ぽつりと囁いた。その声は、昼間よりもずっと近く感じた。まるで、俺の意識のすぐそばで囁いているように。
「あなたは……私のヒーローでした。そして……私の初恋の人です」
心臓が、一拍、妙に遅れて脈打った。
(初恋……だと……?)
この長い時の中で、俺が忘れていた言葉。その響きが、まるで遠い記憶の鐘のように、胸の奥で微かに鳴る。
「あなたが少しでも心穏やかに過ごせるように。……私はずっと、あなたのそばにいます」
彼は、そっと俺の石に手を伸ばし、拭ってくれた。布が石の表面を滑るたび、ひんやりとした感触の奥に、じんわりと彼のぬくもりが染み込んでくるような気がした。錯覚でも、それは確かに、心を揺らした。
「これで……あなたの顔が、ほんの少し見えるようになりました」
積もっていた埃が取り除かれ、彼の姿がわずかに鮮明になる。そこにあったのは、優しさで満ちた手と、涙に濡れたまなざしだった。
この世界で、たったひとり──
俺を忘れずに探してくれた人。
存在ごと封じられた俺を、ただの石ではなく「俺」として見つけ出してくれた人。
(……なぁ、レオンハルト。お前は、俺を──助けに来たのか?)
問いかけることはできない。だけど、その問いだけが、今の俺の中に、小さなぬくもりを生み出していた。
それは、この長い闇の中で、初めて灯った希望の炎だった。
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