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第3話:嵐の夜と秘密の魔法
しおりを挟む俺と師匠が出会ってから、五年が経った。
俺たちは十二歳になった。
身長も伸び、声変わりも始まり、周囲の環境は少しずつ、だが確実に変化していた。特にシリル様を取り巻く環境は、加速度的に厳しさを増していた。
公爵家の次期当主としての英才教育は、もはや虐待の域に達していた。
高度な魔法制御、複雑怪奇な政治学、剣術、社交……。完璧超人であるシリル様は、そのすべてを涼しい顔でこなしているように見えた。
だが、俺は知っている。
彼が時折、ふと遠くを見るような、虚無的な瞳をすることを。
そして、その歪みは、季節外れの激しい嵐の夜に決壊した。
◇◇◇
その日、俺は「スパダリ合宿」と称して(実際はただのお泊まり会だ)、公爵家に滞在していた。
夜半過ぎ。
窓を叩く激しい雨風の音で目が覚めた。
なんとなく胸がざわつく。隣のベッドを見る。
――いない。
シリル様の姿がなかった。
嫌な予感がして、俺は廊下に出た。
屋敷の中が騒がしい。使用人たちが青ざめた顔で走り回っている。
俺は近くにいたメイドを捕まえた。
「何があったの?」
「り、リアン様! お部屋にいらしてください! 若様が……魔力暴走を!」
血の気が引いた。
魔力暴走。それは、体内の魔力回路が制御を失い、あふれ出した魔力が肉体を蝕む現象だ。最悪の場合、命に関わる。
原因は主に、過度なストレスや疲労。
「シリル様!」
俺は制止する声を振り切って走った。
目指すは、屋敷の最奥にある、魔力遮断壁で囲まれた「静養室」だ。
部屋の前には、執事長と数人の治癒術師が立ち尽くしていた。
「中に入らないんですか!?」
「入れないのです……!」
執事長が悲痛な声を上げた。
見れば、重厚な扉の隙間から、冷気が漏れ出していた。廊下の床がバリバリと音を立てて凍りついている。
シリル様の属性は氷。暴走した魔力が、周囲を無差別に拒絶し、凍てつかせているのだ。
「治癒魔法をかけようにも、近づくことさえできません。このままでは、ご自身の冷気で心臓が止まってしまう……!」
「開けてください」
「なっ、危険です! 貴方まで凍ってしまいます!」
「いいから開けて! 俺なら大丈夫です!」
根拠はなかった。
だが、確信はあった。
シリル様が俺を拒絶するはずがない。だって俺は、彼の「一番弟子」なのだから。
俺の気迫に押されたのか、あるいは他に手立てがなかったのか、執事長が震える手で結界を解いた。
轟ッ、と吹雪のような冷気が吹き荒れる。
俺は腕で顔を庇いながら、その極寒の嵐の中へと飛び込んだ。
◇◇◇
部屋の中は、死の世界だった。
家具も、カーテンも、すべてが氷に覆われている。吐く息が白く濁り、睫毛が凍りつくほどの寒さ。
その中心にあるベッドの上で、シリル様はガタガタと震えながら膝を抱えていた。
「……来る、な……」
掠れた声が聞こえた。
拒絶の言葉。だが、その声は「助けて」と泣いているように聞こえた。
俺は構わず進んだ。皮膚が冷気で焼けるように痛い。
けれど、そんな痛みはどうでもよかった。シリル様が一人で泣いていることのほうが、よっぽど痛い。
「師匠!」
俺はベッドに駆け寄り、氷のように冷たいその体を抱きしめた。
「馬鹿、か……離れろ……殺して、しまう……」
「殺されません! 俺はしぶといのが取り柄ですから!」
接触した部分から、容赦ない冷気が俺の体温を奪っていく。
だが、俺は離さなかった。むしろ、さらに強く抱きしめ、自分の魔力を全開にした。
俺の魔力は、戦闘には使えない弱小なものだ。
だが、特性がある。【生活魔法・適温維持】と【安眠支援】。
前世で言えば、湯たんぽと精神安定剤のようなものだ。
強大な氷の嵐に対して、俺の魔法はあまりにもささやかだった。蝋燭の火のようなものだ。
それでも、俺は必死にイメージした。
温かい暖炉。柔らかい毛布。甘いココア。シリル様が安心して眠れる場所。
「大丈夫、大丈夫です。俺がいます」
呪文のように繰り返しながら、こわばった背中をさすり続ける。
俺の体温と魔力が、少しずつ、本当に少しずつだが、彼の分厚い氷の殻を溶かしていく。
しばらくすると、暴れ狂っていた冷気が凪ぎ始めた。
シリル様が、俺のシャツを握りしめる。その手は震えていた。
「……怖いんだ」
シリル様の口から、初めて聞く言葉が漏れた。
あの完璧な、何一つ恐れるもののない天才が。
「期待されるのが、怖い。失敗するのが、怖い。誰も私を見ていない……みんな、私の『能力』しか見ていない……」
それは、十二歳の子供が抱えるにはあまりに重すぎる、孤独の吐露だった。
もし俺がここで「次期公爵なんだからしっかりしろ」と言えば、彼は壊れてしまうだろう。
「君ならできる」という励ましも、今の彼には呪いでしかない。
だから、俺は「スパダリ」を目指す者として、最高の回答を選んだ。
俺は彼の頭を胸に抱き寄せ、耳元で囁いた。
「聞かなかったことにします」
シリル様が、ビクリと肩を揺らす。
「今の言葉は、俺が全部聞いて、そして全部忘れてあげます。ゴミ箱にポイです。だから、シリル様は弱いままでいいし、泣いたっていいです」
「……忘れる、のか」
「はい。俺の記憶力はザルですから。明日の朝には『昨日は寒かったですねえ』くらいしか覚えてません」
嘘だ。きっと忘れられない。
彼の弱さを、痛みを知っているのは、世界で俺だけでいい。俺だけが、彼の人間らしい部分を知っていればいい。
「だから安心してください。俺はずっと、あなたの味方です。あなたが公爵じゃなくなっても、魔法が使えなくなっても、ただのシリルになっても、俺はずっとあなたの弟子です」
それは、恋愛感情というよりは、信仰に近い決意だった。
俺の言葉に、シリル様はしばらく沈黙し、それから――。
堰を切ったように、俺の胸に顔を埋めて、声を殺して泣き出した。
冷たかった彼の体が、次第に熱を帯びていく。
俺はずっと、彼が泣き止むまで、その背中を撫で続けた。
背中を撫でるリズムは、前世で母親にされたのを思い出しながら。
これは「お母さん」の役割かもしれない。スパダリ修行とは違うかもしれない。
でも、今、シリル様を救えるなら、俺はお母さんでも犬でも何にだってなってやる。
◇◇◇
翌朝。
小鳥のさえずりで目が覚めた。
目を開けると、目の前に美しい彫刻のような顔があった。
シリル様だ。
同じベッドで、至近距離で向かい合って寝ていたらしい。
(うわ、近っ! 睫毛ながっ!)
俺は飛び起きそうになったが、腰に回された腕が強すぎて動けなかった。
完全にホールドされている。抱き枕状態だ。
「……おはよう、リアン」
頭上から降ってきた声は、まだ少し眠そうで、とてつもなく甘かった。
恐る恐る見上げると、シリル様が薄目を開けてこちらを見ていた。
その瞳を見て、俺はドキリとした。
昨夜の嵐のような混乱は消え失せ、いつもの静かなアイスブルーに戻っている。
けれど、何かが違う。
氷の奥に、昏い、ねっとりとした熱のような光が灯っている。
「体調は、大丈夫ですか?」
「ああ。嘘のように軽い。……君のおかげだ」
「よかったです! 俺の微弱な『湯たんぽ魔法』も役に立つんですね!」
俺がへらりと笑うと、シリル様は愛おしそうに目を細め、俺の頬にかかった髪を指で梳いた。
その仕草が妙に色っぽくて、俺は思わず赤面する。
「リアン」
「はい」
「昨夜のこと、覚えているか?」
試すような問いかけ。
俺はニカッと笑って、約束通り答えた。
「いいえ? 何も覚えてませんよ。昨日は急に冷え込んで、二人で毛布にくるまって寝ただけですよね?」
シリル様は一瞬きょとんとして、それからふっと吹き出した。
心からの、楽しそうな笑い声。
「……ふふ、そうか。君は本当に……私の『共犯者』だな」
「共犯者? いえ、俺は弟子です」
「いいや、君はもう逃げられないよ」
シリル様は俺の額に、こつんと自分の額を当てた。
熱の残滓が伝わってくる。
「私には君が必要だ。他の誰でもない、君だけが」
「ええ、もちろんです! スパダリになるまでは、師匠のそばで修行しますから!」
「……フッ、一生かかっても卒業させないつもりだがね」
シリル様がボソリと呟いた言葉は、俺の耳には届かなかった。
ただ、彼が俺を抱きしめる腕の力が、痛いほど強くなったことだけは感じた。
この夜を境に、シリル様の態度は変わった。
以前のような「可愛がる」距離感ではない。
どこへ行くにも俺を同行させ、俺が他の誰かと話していると、無言で背後に立って威圧するようになった。
視線が常に俺を追っている。
まるで、飢えた獣がようやく見つけた獲物を、決して逃がさないと見張っているような。
けれど、危機感のない俺はこう解釈した。
「やった! 師匠との絆が深まったぞ! これでまた一歩、スパダリに近づいたな!」
――二人の認識のズレは決定的になった。
シリルにとってリアンは「唯一無二の精神安定剤(依存先)」となり、リアンにとってシリルは「守るべき師匠」となった。
この依存の歯車は、もう誰にも止められない。
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