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第8話:永遠の「スパダリ見習い」
しおりを挟む王立学園を卒業してから、半年が過ぎた。
俺、リアン・アークライトは、現在十九歳。
肩書きは、オルディス公爵家当主、シリル・ヴァン・オルディスの「筆頭補佐官」である。
筆頭補佐官。
それは響きこそいいが、実態は謎に包まれた役職だ。
通常なら、領地経営の補佐や外交の随行など、激務に追われるはずのポジション。
しかし、俺の毎日は少し……いや、かなり様子が違っていた。
「――リアン。こっちへおいで」
「はい、師匠」
公爵邸の広大な執務室。
分厚い絨毯の上を歩き、俺は執務机に向かうシリル様の元へ近づいた。
シリル様は、父である前公爵から家督を譲られ、若き公爵として多忙な日々を送っている。
今日も山のような書類と格闘していたはずだが、俺が近づくとペンを置き、優雅に手招きをした。
「喉が渇いた。君の淹れたお茶が飲みたい」
「お任せください! ちょうど新作の茶葉が入ったんです」
俺は手早くティーワゴンを運び、完璧な手順で紅茶を淹れた。
温度よし、蒸らし時間よし。
カップをソーサーに乗せ、シリル様の前に差し出す。
「どうぞ、師匠」
「ありがとう」
シリル様はカップを手に取り、一口飲むと、ほうっと満足げなため息をついた。
「……ああ、生き返る。やはり君の淹れる茶でないと、味がしない」
「また大袈裟な。メイド長が淹れた方が美味しいですよ?」
「いいや。君の魔力(愛情)が隠し味になっていないとダメなんだ」
シリル様は甘い声でそう言い、空いた左手で俺の手首を掴んだ。
そして、ぐい、と引き寄せる。
俺の体はバランスを崩し、シリル様の膝の上にストンと収まった。
「わっ!?」
「じっとしていて。補給が必要なんだ」
シリル様は俺の腰に腕を回し、背中に顔を埋めた。
深い深呼吸。俺の匂いを吸い込むような音。
俺は公爵家の当主の膝の上で、完全に固まっていた。
「あの、師匠。仕事中ですよ?」
「これが仕事だ。筆頭補佐官の最重要任務は、当主のメンタルケアだからね」
「……それ、雇用契約書に書いてありましたっけ?」
「書いてあるよ。一番下に、小さくね」
嘘だ。絶対後付けだ。
だが、シリル様の声には疲労が滲んでいる。
若くして公爵位を継いだ彼へのプレッシャーは計り知れない。古狸のような貴族たちとの駆け引き、膨大な決裁。
それを一人で背負っている彼を、メンタル面で支えるのが俺の役目だというなら、拒否する理由はない。
(仕方ない。上司のコンディション管理も、有能な部下(スパダリ)の務めだしな)
俺は諦めて力を抜き、シリル様の頭をそっと撫でた。
サラサラのプラチナブロンドが指に絡む。
すると、シリル様はさらに強く俺を抱きしめた。
これが、俺の日常だった。
「筆頭補佐官」の仕事の九割は、こうしてシリル様のそばにいて、お茶を出し、マッサージをし、時には抱き枕になること。
残りの一割は、シリル様が俺のために用意した「簡単な書類整理」だけだ。
衣食住は完璧に保証されている。
部屋はシリル様の寝室の隣(扉一枚で繋がっている)。
食事は最高級。
給料は、平民なら一生遊んで暮らせる額が振り込まれている。
……正直、待遇が良すぎて怖い。
俺は前世のブラック企業時代を思い出した。
「楽な仕事ほど裏がある」。もしくは「能力に見合わない報酬は破滅の元」。
俺はとんでもない「給料泥棒」なんじゃないだろうか?
◇◇◇
ある日の夜。
俺たちは夕食を終え、プライベートリビングで寛いでいた。
暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが響く、穏やかな時間。
シリル様はソファで読書をし、俺はその足元に座って、彼の足のマッサージをしていた。
「……ねえ、師匠」
「ん? 足が痛いかい? 代わろうか?」
「違います! マッサージするのは俺の役目です!」
すぐに俺を甘やかそうとする師匠を制して、俺は以前から抱えていた疑問を口にした。
「俺、本当にこのままでいいんでしょうか」
「どういう意味だ?」
「だって、俺、大した仕事してないじゃないですか。給料泥棒な気がして……」
俺は俯いた。
シリル様は完璧だ。公爵としても、男としても。
それに比べて俺はどうだ。
剣の腕は並。魔法も生活魔法レベル。頭脳も平凡。
ただの幼馴染というだけで、こんな厚遇を受けていていいのか。
もっと実務能力の高い、優秀な補佐官が必要なんじゃないか。
「リアン」
静かな声が俺を呼んだ。
顔を上げると、シリル様が本を閉じ、真剣な眼差しで俺を見ていた。
彼はソファから降りて、俺と同じ目線になるように絨毯の上に座った。
「君は、自分の価値を低く見積もりすぎている」
「でも、実際……」
「いいかい。私が公爵として立っていられるのは、誰のおかげだと思っている?」
シリル様の手が、俺の頬を包み込んだ。
その瞳には、吸い込まれそうなほどの熱が宿っていた。
「あの嵐の夜。君が私を温めてくれなければ、私は孤独に凍えて壊れていた」
「……それは、昔の話です」
「今もだ。君がいない世界など、私には考えられない。君が『おはよう』と言ってくれるから起きられる。君が淹れてくれるお茶があるから仕事ができる。君が『おやすみ』と言ってくれるから、悪夢を見ずに眠れる」
シリル様の指先が、俺の唇をなぞる。
「君は私の酸素だ。私の心臓だ。……心臓がないと、人間は死んでしまうだろう?」
「えっ、し、死ぬんですか!?」
「ああ。だから君が離れたら、私はきっとダメになる。この国ごと道連れにしてね」
さらりと恐ろしいことを言った。
でも、その瞳は真剣そのものだった。
この人は、本気だ。
俺という存在がなければ、この完璧な公爵様は機能不全を起こしてしまうのだ。
俺の中で、何かがストンと落ちた。
(そうか……俺は『役に立っていない』んじゃない)
俺の仕事は、「能力」を提供することじゃない。
「俺」という存在そのものが、シリル様にとっての唯一無二のライフラインになっているんだ。
それはある意味、どんな実務能力よりも代えがたい、重い責任のある仕事だ。
「……わかりました」
俺はシリル様の手を握り返した。
前世で夢見た「可愛いお嫁さんと子供」はいない。
でも、目の前には、俺がいなければ生きていけない、手のかかる幼馴染(上司)がいる。
俺の淹れた下手な紅茶を「世界一」と言い、俺の存在を「酸素」だと言ってくれるのだ。
なら、いいじゃないか。
俺が目指していた「スパダリ」とは、パートナーを支え、安心させる男のことだ。
シリル様が俺といれば最強でいられると言うなら、俺はここにいるだけで「スパダリ」の役割を果たせているのかもしれない。
「俺、自信持ちました」
「ほう?」
「俺はシリル様の精神安定剤(メンタルケア)担当として、一生あなたを支えます! 他の誰にもこの激務は務まりませんからね!」
俺が力強く宣言すると、シリル様は目を丸くし、それからくしゃりと顔を歪めて笑った。
それは、幼い頃に見せたような、無防備で、とろけるように幸せそうな笑顔だった。
「……ああ、そうだね。他の誰にも務まらないよ。絶対に」
シリル様は俺を引き寄せ、強く抱きしめた。
俺もその背中に手を回し、ポンポンと優しく叩いた。
よしよし、これで明日からもバリバリ働いてくれよ、師匠。
この「鳥籠」は、外から見れば異様かもしれない。
でも、俺にとっては、ここが世界で一番やりがいのある「職場」であり、居心地のいい場所だった。
◇◇◇
それから数年後。
オルディス公爵邸の一室。
「師匠、そろそろ休憩にしませんか?」
「あと少し……と言いたいところだが、リアンが言うならそうしよう」
シリル様は書類の山を脇に退け、ソファに深く腰掛けた。
俺はすかさず隣に座り、彼の方へ体を向ける。
自然な動作で、シリル様が俺の膝に頭を乗せた。
膝枕だ。
二十代半ばになった大の男二人がすることではないかもしれないが、これが当主の疲労回復に最も効果的なのだから仕方ない。
「リアン、撫でて」
「はいはい。今日もお疲れ様です、シリル様」
俺は彼のアッシュブロンドの髪を梳いた。
シリル様は目を閉じ、至福の表情を浮かべている。
その顔を見ていると、俺も不思議と「いい仕事をしたな」という達成感に満たされていく。
結局、俺は前世の願い通り「定時で帰って(というか在宅勤務)、温かい家庭(職場)」を手に入れた。
「可愛い恋人」は……いないのだが。
「……ん、そこ」
「ここですか? 凝ってますねえ」
「……愛してるよ、リアン」
寝言のように呟かれた言葉。
シリル様は、一日に何度もこうして愛を囁く。
きっと、これも欧米的なスキンシップの一環であり、部下への最大限の信頼表現なのだろう。
「はいはい、俺も尊敬してますよ、師匠」
「……『敬』はいらないと言っているのに」
「ふふ、いつかね」
俺は曖昧に笑って誤魔化した。
正直、最近気づき始めているのだ。
シリル様の向ける感情が、「信頼」や「師弟愛」なんて生易しいものではなく、もっと重くてドロドロした「執着」に近いものだということに。
そして、俺自身も、シリル様以外の人間との人生なんて想像もできないことに。
でも、言葉にする必要はない。
名前のない関係でも、俺たちが互いを一番必要としている事実は変わらないのだから。
俺はシリル様の額に、ちゅ、と音を立てて口づけを落とした。
福利厚生のサービスだ。
シリル様が薄目を開け、とろんとした瞳で俺を見上げる。
「……誘っているのか?」
「まさか。お疲れ様のキスですよ」
「そうか。……なら、私からもお返しが必要だな」
シリル様が身を起こし、俺の肩を押し倒す。
視界が回転し、俺はソファの上でシリル様に見下ろされる形になった。
「ちょ、師匠!?」
「スパダリたるもの、報酬は倍返しが基本なのだろう?」
楽しそうに笑うシリル様の顔が近づいてくる。
逃げる気はない。
俺は観念して目を閉じた。
俺の「スパダリ修行」は、まだ終わらない。
いや、きっと一生終わらない。
この最強の師匠兼パートナーに愛され、囲い込まれながら、俺は幸せな「見習い」として生きていくのだ。
唇が重なる瞬間、俺は心の中で呟いた。
――まあ、こういう人生も、悪くないかな。
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