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第1話「恋を諦めた男」
しおりを挟む目が覚めれば朝で、気づいたら夜だった。そんな日々を繰り返しているうちに、人生はあっという間に流れていく。
俺の毎日は、工場と家を往復するだけの単調なものだ。
印刷工場の仕事を終え、家へと続く道を歩く。指先にはインクの匂いが染みつき、夜風に晒してもなかなか消えない。
(……今日も、何もなかったな)
淡々とした作業、気心の知れた同僚との適度な会話、それ以上でもそれ以下でもない人間関係。寂しさを感じないわけじゃない。でも、これが俺にはちょうどいい距離感だった。
──俺は、恋を諦めた。
ガキの頃から、周りと違うことには気づいていた。好きになるのは女じゃなく、男。でも、それを口に出す前に、周囲の何気ない言葉で理解してしまった。
『男が男を好きになるなんて気持ち悪い』
『ありえねえよな、そんなの』
ああ、そうか。俺の恋は間違いなんだな。
そう思った瞬間から、心の奥に鍵をかけた。告白することも、誰かに期待することもなくして、ただ淡々と日々を生きる。それが俺の生き方になった。
──このまま、一人で生きて、一人で死ぬんだろうな。
そんなことを考えながら、いつもの公園を横切る。
「……お前、またいるのか」
夜の公園、ベンチの足元に黒い影がうごめく。黒猫だ。
艶やかな毛並みに、金色の瞳。こいつはなぜか、俺がここを通るたびに近寄ってくる。最初は警戒していたが、最近は慣れた。
「悪いな、今日も何も持ってないぞ」
俺がそう言うと、黒猫は気にする素振りも見せず、するりと足元に身体をすり寄せてくる。
その仕草が妙に愛らしくて、俺は思わずそっと抱き上げた。
「……お前、意外と重いな」
黒猫の金色の瞳を覗き込む。
──その瞬間。
視界がぐにゃりと歪んだ。
◇◇◇
身体が重力ごと引っ張られるような感覚とともに、俺は硬い地面に膝をついた。
(……何だ、ここ……?)
辺りを見回すと、見たことのない世界が広がっていた。
白い石畳、荘厳な建物、遠くには城のようなものがそびえ立ち、空には異様なほど大きな月と星が輝いている。
──夢、か?
「……オマエ、驚かないな」
低く、よく通る声が耳を打った。
驚いて振り向くと、そこにいたのは──
黒髪に、鋭い金色の瞳を持つ男だった。
高身長でしなやかな身体つき。整った顔立ちに、黒豹のようなしなやかな雰囲気。そして、頭には獣の耳がついている。
「……ちょっと待て」
俺は思わずまじまじと男を見つめる。
「お前、まさか……さっきの黒猫か?」
「そうだ」
あっさりと肯定されて、俺は思考が追いつかなくなる。
「いや、いやいや……え? 夢か?」
「違う。オマエ、こっちの世界に連れてきた」
「……は?」
「王の番だから」
「王の……何だって?」
「番」
「……」
「王の伴侶」
さらっと恐ろしいことを言われた。
「ちょっと待て、俺はただの工場勤務の男だぞ!? 王の、なんだって?」
「番」
「……それさっきも聞いた!」
「王の伴侶」
「だから、そう何度も繰り返すな!」
ライナスは淡々としたまま、続けた。
「王はオマエが生まれた時に気づいた。でも、異世界の人間だから、無理に呼ばなかった。幸せを奪いたくなかったから」
「……幸せ?」
「でも、オマエ、幸せじゃない。だから連れてきた」
心臓が、ドクリと鳴った。
(……俺は、幸せじゃない?)
それは、誰よりも俺自身がよく知っていることだった。だけど、だからといって、異世界に連れてこられる理由にはならない。
「……俺は、帰れるのか?」
「王に会ってから決めろ」
そう言うと、ライナスは俺の腕を掴んだ。
「……おい、勝手に──」
「行くぞ」
抵抗する間もなく、俺は城へと連れて行かれた。
◇◇◇
王宮は、息を呑むほど美しかった。
大理石の床に、金細工の施された柱、煌めくシャンデリア。まるで絵本の中の世界だ。
そして、重厚な扉が静かに開かれる。
その奥に立っていたのは──
長身で、ゆるやかに金色の髪をなびかせた男だった。
湖のような深い青の瞳。堂々とした佇まい。
俺を見つめる視線は、驚くほど優しく、そして──
「──ようやく、会えたな」
まるで、俺をずっと待っていたかのようだった。
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