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2章
10.5話 エリオット視点
腕の中に、確かな重みと温もりがある。
それだけで、俺の心はかつてないほどの平穏に満たされていた。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいるが、まだ起きたくない。
俺の胸に頬を寄せて規則正しい寝息を立てているこの愛しい存在――陽貴の鼓動を感じていたいからだ。
あの夜、瀕死の彼を救うために俺は禁忌とも言える異種族への「騎士の誓い」を行った。
本来ならば、人間同士が互いの同意の上で、生涯の伴侶として命を共有するために行う神聖な契約。それを、言葉も通じず、種族も違う彼に対して一方的に行ってしまったことへの罪悪感は、今でも胸の奥に棘のように刺さっている。
だが、その結果として彼が生き延び、こうして俺の腕の中にいてくれる今の状況は、俺にとって幸福以外の何物でもなかった。
彼が目覚め、身じろぎする気配を感じて、俺は腕に力を込めた。
「(……ん、おはよう。陽貴)」
念話で語りかけると、彼もまた眠たげな声で返してくる。
この「心で繋がっている」感覚は、何にも代えがたい至福だ。彼の感情が、温度を持って直接俺の中に流れ込んでくる。
朝の支度を終え、母上への挨拶の場面。
陽貴が突然、口を開いた。
「……ぼ、な……」
空気が漏れるような、か細い音。
だが、それは紛れもなくこの世界の言葉での挨拶だった。
母上が驚き、喜びの声を上げる。俺もまた、心臓が跳ねるほどの衝撃を受けていた。
彼が、こちらの言葉を話そうとしてくれている。
念話を使えば意思疎通に不便はないはずなのに。それでも彼は、俺たちの世界に歩み寄ろうと、その小さな喉を震わせてくれているのだ。
その健気さ、愛らしさに、俺の胸は締め付けられるように痛んだ。
「(陽貴……! こちらの言葉を話そうとしてくれているのか? すごいな、完璧な発音だったよ)」
嘘ではない。俺にとっては、どんな歌姫の美声よりも、彼のその拙い一言の方が美しく響いた。
もっと聞きたい。彼の声で、俺の世界の言葉を紡いでほしい。
そんな独占欲と期待が、俺の中でふつふつと湧き上がっていた。
出勤前の準備中、陽貴がソファで発声練習を始めた。
俺の名前を呼ぶ練習だという。
「えー、り……ぅお……」
たどたどしい唇の動き。
一生懸命に舌を動かし、音を探るその姿は、生まれたばかりの雛鳥のように無垢で、破壊的なまでに愛らしかった。
直視していると理性が蒸発しそうになる。
ただ名前を呼ばれるだけの行為に、これほど心を乱されるとは。
「エ……リ、オ……ット」
彼が俺を見つめ、はっきりとその名を紡いだ瞬間。
全身に電流が走ったような衝撃を受けた。
鼓膜を震わせる彼の声。
念話の直接的な響きとは違う、空気の振動を介したその音色は、甘く、くすぐったく、俺の核を揺さぶった。
たまらず彼に膝をつき、抱きしめる。
「(名前を……俺の名前を呼んでくれた……! 君の声で、俺を呼んでくれた……っ)」
歓喜で震える俺に、彼は優しく「エリオット」と囁き返してくれる。
ああ、もう駄目だ。
仕事になんて行きたくない。
このまま彼を部屋に閉じ込めて、一日中、いや一生、俺の名前だけを呼ばせていたい。
そんな昏い欲望が頭をもたげるのを、必死の理性で抑え込む。
陽貴は無自覚だ。
自分がどれほど魅力的で、俺を狂わせているのか、全く気づいていない。
それがまた、俺をどうしようもなく惹きつけるのだが。
結局、彼の上目遣いと「一緒に行きたい」というおねだりに完敗し、俺は彼を騎士団本部へ連れて行くことになった。
誰にも見せたくないのに、彼の願いは叶えてやりたい。この矛盾する感情に、俺は振り回されている。
騎士団本部への道中、俺は陽貴を人混みから守るように歩いた。
フードを目深に被らせているとはいえ、彼の纏う空気は明らかに異質だ。
清浄で、透き通るような気配。
すれ違う人々が、無意識に彼を目で追うのがわかる。そのたびに俺は視線で威嚇し、彼を俺の影へと隠した。
本部へ到着し、執務室に入る。
部下たちが一斉に起立し、敬礼する。
彼らが俺を見て息を呑み、動揺しているのがわかった。
無理もない。
自分でもわかっているのだ。今の俺が、異常な状態にあるということが。
久しぶりの職務だというのに、体は羽のように軽い。
思考は研ぎ澄まされ、視界はクリアだ。
何より、体内に満ちる魔力と生命力が、以前とは比較にならないほど膨れ上がっている。
ペンを握る指先に少し力を込めただけで、ペン軸がミシリと音を立てそうになる。歩くたびに、床から伝わる振動で周囲の気配が手に取るようにわかる。
全盛期の調子どころの話ではない。
今の俺は、人間としての器の限界を超えようとしている。
――これは、『騎士の誓い』の影響だ。
書類にサインをしながら、俺は冷静に分析していた。
騎士の誓いは、伴侶と命を共有する契約だ。互いの生命力を循環させ、運命を共にする。
だが、俺と陽貴の場合、その関係は対等ではない。
陽貴は「妖精」だ。あるいはそれに近い、高位の種族。
彼の持つ生命力は、人間である俺とは比べ物にならないほど強大で、純粋だ。
そんな彼とパイプを繋いでしまえばどうなるか。
低い方へ水が流れるように、彼の強大な生命力が、俺という器に流れ込んでくるのは道理だ。
俺は今、陽貴によって生かされている。
いや、それどころか、彼の命を糧にして強化されていると言ってもいい。
ふと、執務室の隅でちょこんと座っている陽貴に目を向ける。
彼は窓の外を眺め、足をぶらぶらさせている。
その小さな体の中に、これほど凄まじい力が秘められているとは、誰も思わないだろう。
罪悪感が、再び胸をよぎる。
俺は彼を救うために誓いを立てたはずだった。
だが結果として、俺は彼から一方的に搾取しているのではないか?
彼の寿命を縮め、俺が長らえる。そんな寄生虫のような真似をしているのではないか?
恐怖にも似た感情が湧き上がる。
もし、この力の代償として、彼に何らかの負担がかかっているとしたら――。
「(ねえ、エリオット。みんなすごく驚いてるみたいだけど……)」
陽貴からの無邪気な念話が届く。
俺は慌てて表情を緩め、彼に悟られないように答えた。
「(ああ、久しぶりの出勤だからね。それに……誓いの影響かもしれない)」
彼に心配をかけたくない。
俺が彼から力を得ていることは事実だが、彼自身はピンピンしているように見える。
むしろ、人間の大きさになったことで、以前よりも生き生きとしているくらいだ。
それが唯一の救いだった。
陽貴が窓の外を指差し、興奮気味に声を上げてきた。
「(エリオット! あそこ! あの看板! あれって冒険者ギルドだよね!?)」
指差された先には、街でも一際騒がしい区画にある、冒険者ギルドの支部があった。
俺は眉をひそめる。
あそこは、陽貴のような無垢な存在が近づくべき場所ではない。
粗野な冒険者、金に汚い依頼主、魔物の臭い、酒と脂の臭い。
欲望と暴力が渦巻く掃き溜めのような場所だ(と、俺は思っている)。
そんな場所に、この清らかな陽貴を連れて行く?
冗談ではない。彼が汚れてしまう。
それに、あそこには様々な種族や、裏の事情に通じた連中も出入りしている。陽貴の「特殊性」に気づく輩がいないとも限らない。
「(……ギルドか。あそこはあまりお勧めしないな)」
やんわりと拒否する。
だが、陽貴は食い下がってきた。
「(でも、見てみたいよ。本物の冒険者を見てみたいし、どんな依頼があるのかも知りたい)」
彼の瞳が、キラキラと輝いている。
純粋な好奇心。未知の世界への憧れ。
ああ、この光に俺は弱い。
彼はソファから立ち上がり、俺の袖を掴んで見上げてきた。
「(エリオットと一緒なら、大丈夫でしょ?)」
トクン、と心臓が鳴る。
「(だって、エリオットはこの国で一番強い騎士様なんでしょ? 君が守ってくれるなら、どんな場所だって安全だよ)」
……卑怯だ。
そんな全幅の信頼を寄せられて、断れる男がいるだろうか?
いや、いない。
それに、彼が言うことも一理ある。
今の俺には、誓いによって得た過剰なまでの力がある。
以前の俺なら、多勢に無勢の状況では彼を守りきれるか不安だったかもしれない。
だが、今の俺なら――。
体内に巡る魔力を確認する。
溢れんばかりの力。研ぎ澄まされた感覚。
ギルドのごろつき程度、束になっても指一本触れさせない自信があった。
いや、もし彼に害をなそうとする者がいれば、この力で灰になるまで叩き潰してやる。
愛しい陽貴が、世界を見たいと望むなら。
その世界がどんなに汚れていようと、俺が先回りして清め、安全な道を作ればいいだけのことだ。
「(……はぁ。わかった。連れて行くよ)」
ため息をつきながら了承すると、彼はパァッと花が咲いたような笑顔を見せ、俺に抱きついてきた。
その温もりと、甘い香り。
胸の中に満ちる幸福感と共に、俺は改めて誓った。
この身に宿る力は、全て彼を守るためにあるのだと。
彼が望むなら、地の果てでも、魔境でも、どこへでも連れて行こう。
そして、誰にも彼を傷つけさせない。
俺は陽貴の背中に腕を回し、その小さな体を抱きしめ返した。
部下たちが呆気に取られた顔でこちらを見ているのに気づいたが、正直どうでもよかった。
今の俺の世界には、陽貴しか映っていないのだから。
仕事を早々に片付け、俺たちはギルドへと向かった。
陽貴の手を引きながら、俺は周囲に鋭い警戒の網を張り巡らせる。
彼を守護するという使命感が、俺の騎士としての本能を、かつてないほど鋭利に研ぎ澄ませていた。
だが、俺はまだ甘かったのかもしれない。
陽貴という存在が、単に「可愛い」だけでなく、この世界の理すら揺るがしかねない「秘密」を抱えているということに、心のどこかで目を背けていたのだ。
ギルドという場所が、その秘密を暴く装置になるとは予想もしないまま、俺たちはその扉を開けようとしていた。
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―――
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(名義を統合しこちらに移動することになりました)