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「脳梗塞になる前から、前兆はあったのよ。淳美ちゃんには黙っていたけれど、病院にもかかっていたの」
佳奈子の訥々とした語りに耳を澄ませた時、露原家の壁掛け時計が午後七時のメロディを奏で始めた。淳美は佳奈子と二人、居間のテーブルでもやしの根を掃除していた。夕飯の支度を志願したのだ。佳奈子をさらに恐縮させてしまったが、案外すんなりと手伝わせてもらえたのは、互いに二人で話す時間が必要だと、どこかで求め合っていたからかもしれない。菊次は淳美との散歩から帰るとすぐに、介護用ベッドで眠りについていた。
「あの警察の方、本当に申し訳ないことだけれど、来られたのは二回目なの。きっと、こういう通報に慣れてらっしゃるのね。本来なら通報の内容を文書にまとめて、上に報告したりするのも、お仕事なんでしょうけれど……うちみたいな人たちの話をにこにこ聞いて、柔軟に対応してくださって。申し訳ない気持ちと同じくらいに、助けられた気持ちが大きいの」
びっくりしちゃったでしょ、と続けた佳奈子は、小さな秘密を打ち明けるように、ひっそりと寂しく笑った。涙で身体が構築された怪物が、心の内側で手に負えないほど暴れ出してしまいそうで、笑顔でいようと己を律している人がここにもいる。痛々しいその笑顔から、淳美は確かな心強さをもらえた。この寂しさは、決して一人では抱えきれない。
「一回目は、いつだったんですか」
「先月ね。淳美ちゃんが初めてお料理をうちで振る舞ってくれた日の、少し前くらい」
「全然、気づきませんでした」
「それもそうよ。平日の昼間だったもの。あの時は、心臓が止まるかと思ったわ。お義父さんったら、私が疲れてお昼寝をしている間に、警察に電話をかけてしまったんだもの」
「どういう理由で電話をしたか、訊いても構いませんか」
「泥棒が出たんですって」
「泥棒? ……この家に?」
「ええ。お義父さんは、そうだと信じてる」
ありふれた話だった。友人から聞かせてもらう祖父母の話と、不思議なくらいに合致する事例だ。佳奈子は、静かに語り続けた。
「淳美ちゃんも知っていると思うけれど、お義父さんは気さくだけれど筋が一本通ったしっかり者で、いろんな人から頼りにされる、とっても立派な人だったのよ」
立派な人だった。淳美は、もやしの根をぽきりぽきりと折って捨てた。過去形の言い方が悲しかった。
「でも、寄る年波には勝てなかったのね。浩哉が大学生になった頃に、ふっと蝋燭の火を吹き消したみたいに生気がなくなってしまったの。別人のようだったわ。最初は浩哉がいなくなって寂しくなったのかと思ったけれど、あの子が戻ってきてもお義父さんの様子は変わらなかった。病だと気づいたのは、物忘れが酷くなってから。一人で何でもできてしまう矍鑠とした人だから、気づくのが遅れてしまった……なんて。なんの言い訳にもならないわよね。お義父さんの認知症に気づいてあげられなかったのは、不出来な嫁の私の所為」
耳にかけた茶髪が一房、乱れて頬にかかった佳奈子は、悲しそうに微笑んだ。淳美は、首を横に振った。大きな感情のうねりが喉を塞いで、すぐには声の形にならない。それでも伝えたい思いを込めて、時間をかけて言った。
「不出来な嫁なんて、そんなことない。佳奈子さん、誰にそんなこと……」
最後まで言い切る前に、淳美は口を噤んだ。誰が佳奈子を責めたのか、残酷な心当たりが胸に刺さった。淳美が顔も知らないような親戚縁者であればいいと、縋るような気持ちで思ったが、気休めで誰かが幸せになるわけでもない。淳美は、掃除の済んだもやしをボウルに入れた。今晩のメニューは、ワンタンと野菜炒めだそうだ。
「私が、いけなかったのよ。『泥棒に入られた』って訴えるお義父さんに、『泥棒なんていませんよ』なんて言い返して、頭ごなしに否定したから。お義父さんにとっての真実を、虚構だと決めつけて、共感しようとしなかったから。……でも、ちゃんと分かっているの。お義父さんだって、好きで私を非難したいわけじゃない。私たちはみんな、仲が良くて幸せな家族に戻りたいと願っているのに、なかなか上手くいかないものね」
「佳奈子さん、浩哉はもしかして……」
「ああ、大丈夫よ。あの子なら考えそうなことだけどね。俺が一人暮らし始めた所為で、じーちゃんは寂しくて認知症になっちゃったんじゃないか、なんて最初は言ってたけどね。病気は、病気。あの子も、そのあたりは分かってるから」
「……よかった」
ほっとしたが、胸の閊えは取れなかった。浩哉は全部知っていて、淳美には打ち明けなかったのだ。
「教えてくれたら、よかったのに」
「ごめんなさいね。浩哉が淳美ちゃんに言わなかったのも、私の所為。口止めしていたのよ。できる限り淳美ちゃんには教えないで、お義父さんに接してもらいましょうねって」
佳奈子の微笑が、華やいだ。二人でスパゲティの準備をしていた昼前のように、少女のような明るさが、蛍光灯の無機質な光で満たされた部屋に、虹色に灯る。
「だってお義父さん、淳美ちゃんと過ごす時は、昔のお義父さんなんですもの。訊かれたら何でも答えられて、昔のこともはっきり覚えていて、淳美ちゃんが初めて作った、夕焼け色のスパゲティのことだって、ちゃんと覚えていて……笑顔を見たら安心できて、私たち家族を見守る眼差しが優しい、私たちのお義父さんだったんですもの。脳梗塞を患ってから、認知症が一気に進んでしまったことなんて、嘘みたいだった。この時間のほうが本当なんだって、少しの間だけでも信じられて、私たち、幸せだったんですもの」
ゆっくりと立ち上がった佳奈子は、淳美からもやしの入ったボウルを受け取ると、「ごめんなさいね」と泣き笑いのような顔で囁いた。
「明日の土曜日のスパゲティは、お休みにしましょう。私たちは今日のことを考えるために、少し時間が必要だから」
「分かりました」
淳美は、頷いた。佳奈子の気持ちは、痛いほどによく分かる。警察までやって来たのだから、気に病んで当然だ。
「材料を用意してくれたのに、本当にごめんなさい」
「いいんです。それに、元々……いつまで続けられるか分からないって、話でしたから」
脳梗塞の後遺症から、菊次は目覚ましい回復を見せていたが、再発のリスクがあることを、淳美はこの家で初めてスパゲティを作った日に、佳奈子から聞かされていた。血糖値をコントロールするために、食事制限が必要なことも。
それに――菊次はもう、淳美と過ごしていても、記憶の飴玉を両手の指の隙間から、ぽろぽろと畳に零している。幼い淳美と浩哉がどんなに探し回っても、溶けた綿菓子みたいに消えてなくなっていく宝物を、大人になった二人の瞳では見つけられない。
美里なら、見つけられるだろうか。淳美には見えなくなった色を探し当てて、手を伸ばして、この世界に繋ぎとめられるだろうか。
佳奈子の訥々とした語りに耳を澄ませた時、露原家の壁掛け時計が午後七時のメロディを奏で始めた。淳美は佳奈子と二人、居間のテーブルでもやしの根を掃除していた。夕飯の支度を志願したのだ。佳奈子をさらに恐縮させてしまったが、案外すんなりと手伝わせてもらえたのは、互いに二人で話す時間が必要だと、どこかで求め合っていたからかもしれない。菊次は淳美との散歩から帰るとすぐに、介護用ベッドで眠りについていた。
「あの警察の方、本当に申し訳ないことだけれど、来られたのは二回目なの。きっと、こういう通報に慣れてらっしゃるのね。本来なら通報の内容を文書にまとめて、上に報告したりするのも、お仕事なんでしょうけれど……うちみたいな人たちの話をにこにこ聞いて、柔軟に対応してくださって。申し訳ない気持ちと同じくらいに、助けられた気持ちが大きいの」
びっくりしちゃったでしょ、と続けた佳奈子は、小さな秘密を打ち明けるように、ひっそりと寂しく笑った。涙で身体が構築された怪物が、心の内側で手に負えないほど暴れ出してしまいそうで、笑顔でいようと己を律している人がここにもいる。痛々しいその笑顔から、淳美は確かな心強さをもらえた。この寂しさは、決して一人では抱えきれない。
「一回目は、いつだったんですか」
「先月ね。淳美ちゃんが初めてお料理をうちで振る舞ってくれた日の、少し前くらい」
「全然、気づきませんでした」
「それもそうよ。平日の昼間だったもの。あの時は、心臓が止まるかと思ったわ。お義父さんったら、私が疲れてお昼寝をしている間に、警察に電話をかけてしまったんだもの」
「どういう理由で電話をしたか、訊いても構いませんか」
「泥棒が出たんですって」
「泥棒? ……この家に?」
「ええ。お義父さんは、そうだと信じてる」
ありふれた話だった。友人から聞かせてもらう祖父母の話と、不思議なくらいに合致する事例だ。佳奈子は、静かに語り続けた。
「淳美ちゃんも知っていると思うけれど、お義父さんは気さくだけれど筋が一本通ったしっかり者で、いろんな人から頼りにされる、とっても立派な人だったのよ」
立派な人だった。淳美は、もやしの根をぽきりぽきりと折って捨てた。過去形の言い方が悲しかった。
「でも、寄る年波には勝てなかったのね。浩哉が大学生になった頃に、ふっと蝋燭の火を吹き消したみたいに生気がなくなってしまったの。別人のようだったわ。最初は浩哉がいなくなって寂しくなったのかと思ったけれど、あの子が戻ってきてもお義父さんの様子は変わらなかった。病だと気づいたのは、物忘れが酷くなってから。一人で何でもできてしまう矍鑠とした人だから、気づくのが遅れてしまった……なんて。なんの言い訳にもならないわよね。お義父さんの認知症に気づいてあげられなかったのは、不出来な嫁の私の所為」
耳にかけた茶髪が一房、乱れて頬にかかった佳奈子は、悲しそうに微笑んだ。淳美は、首を横に振った。大きな感情のうねりが喉を塞いで、すぐには声の形にならない。それでも伝えたい思いを込めて、時間をかけて言った。
「不出来な嫁なんて、そんなことない。佳奈子さん、誰にそんなこと……」
最後まで言い切る前に、淳美は口を噤んだ。誰が佳奈子を責めたのか、残酷な心当たりが胸に刺さった。淳美が顔も知らないような親戚縁者であればいいと、縋るような気持ちで思ったが、気休めで誰かが幸せになるわけでもない。淳美は、掃除の済んだもやしをボウルに入れた。今晩のメニューは、ワンタンと野菜炒めだそうだ。
「私が、いけなかったのよ。『泥棒に入られた』って訴えるお義父さんに、『泥棒なんていませんよ』なんて言い返して、頭ごなしに否定したから。お義父さんにとっての真実を、虚構だと決めつけて、共感しようとしなかったから。……でも、ちゃんと分かっているの。お義父さんだって、好きで私を非難したいわけじゃない。私たちはみんな、仲が良くて幸せな家族に戻りたいと願っているのに、なかなか上手くいかないものね」
「佳奈子さん、浩哉はもしかして……」
「ああ、大丈夫よ。あの子なら考えそうなことだけどね。俺が一人暮らし始めた所為で、じーちゃんは寂しくて認知症になっちゃったんじゃないか、なんて最初は言ってたけどね。病気は、病気。あの子も、そのあたりは分かってるから」
「……よかった」
ほっとしたが、胸の閊えは取れなかった。浩哉は全部知っていて、淳美には打ち明けなかったのだ。
「教えてくれたら、よかったのに」
「ごめんなさいね。浩哉が淳美ちゃんに言わなかったのも、私の所為。口止めしていたのよ。できる限り淳美ちゃんには教えないで、お義父さんに接してもらいましょうねって」
佳奈子の微笑が、華やいだ。二人でスパゲティの準備をしていた昼前のように、少女のような明るさが、蛍光灯の無機質な光で満たされた部屋に、虹色に灯る。
「だってお義父さん、淳美ちゃんと過ごす時は、昔のお義父さんなんですもの。訊かれたら何でも答えられて、昔のこともはっきり覚えていて、淳美ちゃんが初めて作った、夕焼け色のスパゲティのことだって、ちゃんと覚えていて……笑顔を見たら安心できて、私たち家族を見守る眼差しが優しい、私たちのお義父さんだったんですもの。脳梗塞を患ってから、認知症が一気に進んでしまったことなんて、嘘みたいだった。この時間のほうが本当なんだって、少しの間だけでも信じられて、私たち、幸せだったんですもの」
ゆっくりと立ち上がった佳奈子は、淳美からもやしの入ったボウルを受け取ると、「ごめんなさいね」と泣き笑いのような顔で囁いた。
「明日の土曜日のスパゲティは、お休みにしましょう。私たちは今日のことを考えるために、少し時間が必要だから」
「分かりました」
淳美は、頷いた。佳奈子の気持ちは、痛いほどによく分かる。警察までやって来たのだから、気に病んで当然だ。
「材料を用意してくれたのに、本当にごめんなさい」
「いいんです。それに、元々……いつまで続けられるか分からないって、話でしたから」
脳梗塞の後遺症から、菊次は目覚ましい回復を見せていたが、再発のリスクがあることを、淳美はこの家で初めてスパゲティを作った日に、佳奈子から聞かされていた。血糖値をコントロールするために、食事制限が必要なことも。
それに――菊次はもう、淳美と過ごしていても、記憶の飴玉を両手の指の隙間から、ぽろぽろと畳に零している。幼い淳美と浩哉がどんなに探し回っても、溶けた綿菓子みたいに消えてなくなっていく宝物を、大人になった二人の瞳では見つけられない。
美里なら、見つけられるだろうか。淳美には見えなくなった色を探し当てて、手を伸ばして、この世界に繋ぎとめられるだろうか。
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