アリスの飛び降りた教室

一初ゆずこ

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22 何も要らない

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 翌日の朝、仁科の嫌な予感は的中した。
「おはよっ」
 背中からの声に条件反射で立ち止まった。顔も、自分で分かる程引き攣った。
「おはよっ」
 無視して仁科はすたすたと歩く。捕まったらヤバい。その文字が頭の中で赤く点滅した。
「仁科。仁科ー。おはよー」
 きた。名指しだ。人違いという可能性が、頭の中で陽炎のように揺らめいて消えた。仁科は速度を上げて歩く。あくまで聞こえない振りを貫く気だった。
「……おはよーってば!」
 背後の声が、ついに痺れを切らした。
 宮崎侑の声を背後に残し、仁科は脱兎のごとく駆け出した。
「仁科、さっきちょっと立ち止まったじゃない! なんで逃げるの!」
 早朝の通学路を行く生徒を次々と追い抜いて驚かせながら、俺ってこんなに足速かったのか、と自分の意外な一面を発見した仁科の内心は、複雑だった。


     *


「今日は早いねえ」
 机へ乱暴に鞄を放り、勢いでどすんと席に着いた仁科は、喘ぐように息を吐いた。
 完全に、息が上がっていた。こんなにも全力で、かつ長時間走ったのは小学校低学年時の持久走以来だった。ちなみに高学年では既に怠けてたらたらと走り、中学一年目の持久走も、やはりやる気のない態度でとろとろと走っていた。
「仁科らしくないなぁ。どしたの?」
 塩谷が意外そうに、それから面白そうに訊いてくる。仁科は手で追い払う動作をした。この状況に対して、塩谷から何の追求も受けたくない。
「言っとくけど。これは別に、遅刻が怖くて走ったとかじゃないから」
「そりゃ、仁科が遅刻を恐れるなんて誰も思っちゃいないから」
 確かにそうだ。脳にまだ酸素が足りていないらしい。仁科はぐったりと鞄に顔を埋めた。
「今日の体育の授業、また三周校庭走るの忘れてない? もう随分走ったみたいだけど、仁科ちゃんと走れるの?」
 それを聞いて、聞き逃しかけ、ぱっと仁科は顔を上げた。
「ジャージ、忘れた」
「え?」
 塩谷がぽかんと仁科を見る。仁科は再び糸が切れたように、ぱったりと鞄の上に突っ伏した。
 すっかり失念していたが、今日は、体育の授業がある曜日だ。
「……やっぱり珍しいなぁ。仁科がこんなに疲れて学校に来るのも変だけど、授業の用意まで忘れるなんて。授業態度だけはすっごい真面目じゃん。遅刻魔だけど」
「もういい。体育って三限だろ? 俺体調不良って事で保健室行く」
「走って疲れたくらいで体調不良……いい身分だよね仁科って」
 苦笑していた塩谷は、仁科がもう自分を相手にしていないと察したのだろう。「じゃ」と軽く言って他の男子の元へ行ってしまった。
 塩谷は引き際がいい。ぼうっとしているように見えて、実は聡いのではないか。そう思う瞬間がたまにあった。だがそんな風に感心しても、昨日の侑に関する告げ口のような事態に直面すると、また考えを改めるのが仁科の常だ。
 他人の考える事は、よく分からない。統一性が無く不揃いで、不可思議で、支離滅裂だ。要約すると、「関わるのは面倒臭い」。仁科は嘆息しながら、侑の不敵な笑みを思い返す。
 今朝仁科を学校まで追い回した侑は、たった一日で仁科の脅威となっていた。
 これは、いつまで続くのだろうか。仁科には今朝を限りに、侑が自分から興味を失くすとは思えない。この窮状を客観的に見てみると、激しい頭痛に襲われた。
 ――何なのだ、この状況は。何故一介の男子中学生に過ぎない自分が、こんな目に遭っている? ストーカーって普通、女が遭う被害だろ!
 心の中で絶叫しながら、仁科は鞄から教科書類を取り出した。それらを机の中へ詰めながら、始業前にこの作業をするのが久しぶりだと気付かされた。教室に射す光も普段より淡く、白い。朝の太陽が見せる色が仁科には少し新鮮で、少し珍しく、そして少し損な気がした。
 学校に早く来た分、自分がそれだけ、どこにも行けなかった事になるからだ。
 感傷を覚えながら、仁科は数学の教科書とノートを机に並べ、筆記用具を取り出して――すっと動きを止めて、振り返った。
 女子生徒が二、三……五人。突如自分達へ向いた切れ長の瞳に、女子生徒は慌てた様子で目を逸らした。その一団の中に、仁科は昨日メモ用紙をぶつけてきた生徒の姿を見つけたが、名前はやはり忘れていた。
 この視線は、何だろう。仁科はクラスで浮いていが、今日はいつもに増して見られている。普段そんなものに頓着しない仁科がほんの少しでも気に留めて、視線を辿るほどなのだ。尋常ではない空気が、確かにそこにあった。
 昨日の塩谷の警句が、漠然と自分の中で響く。言われた内容さえも、概要くらいしか思い出せない。はっきりとした台詞は、既に仁科の中から失われていた。
 宮崎侑との関係が噂になっているから、気をつけろ。確か、そんな警句だった。
 そしてその警句通りに、仁科は注目を集めている。
 それも、仁科だけではない。
 この生ぬるい視線の半分は、宮崎侑宛てのものだ。
 それを敏感に感じ取りながら、仁科は椅子に座り直し、教科書を開いた。
 打つ手は、ない。ならば今この瞬間にできる事を、手早く済ませた方がいい。

 *

 人が出払った教室に、仁科は一人で座っていた。
 顔を上げて、黒板上の時計を見る。三限の授業開始から、既に五分が経っていた。グラウンドでは準備運動の頃合いだろうが、クラスメイトが今何をしているかなど、仁科にはどうでもいい事だった。
 仁科の目は、ただひたすらに緻密な文字列を追っていた。
 シャーペンを走らせて、一文に線を引く。しゃっ、とペン先が紙の表面を擦る音はが無人の教室にやたらと大きく聞こえるが、まるで気にならなかった。流れ作業のように己の意思とは関係なく、手が、脳が、五感が働く。
 この居残りが見つかれば、また教師に叱責される。だが今はそんな先の事まで考える余裕すらなかった。流れ作業は常に、己によって急き立てられる。仁科は問題の答えを教科書に直接書き込んだ。白い領域がみるみる黒く埋まっていく。机の中にはノートもあるが、今はまだ使わない。見るものを分けてしまえば、ただでさえ書いたものを積極的に見返さない自分は、確実に怠けてしまうだろう。最後の問題を解き終わり、手を止めた仁科は溜息をついた。
 時刻を見ると、さっきからまた五分が経っていた。
 拍子抜けする。あっさりと予習が終わってしまった。
 すぐに、次にすべき事を考えた。その他の授業も予習と復習が完了している。さらに見直すのも有りだが、そんなものをせずとも頭に入っていると断言できる程しっかりやりこんだ自信があった。
 仁科は英語の教科書を閉じると、床に放っていた鞄の中身を物色した。すぐに、一冊の本を探り当てる。最近買った文庫本だ。灰色にくすんだ表紙をしばらくの間眺めてから、仁科は黙々と、その物語を読み始めた。
 途端、視野がみるみる狭窄していき、音が周囲から消えていく感覚に呑まれた。文字から目を逸らす事さえ叶わない執着力はまるで、脅迫されているのと紙一重のようなスリルがあった。
 仁科要平の成績がいい事と、同じくらいに意外がられる事がこれだった。
 学校に置いてある小説という小説は、もう粗方読み尽くした。図書の貸し出しカードの名前には、高確率で仁科要平の名前がある。家での自由時間も専ら読書だ。中学校から急ぎ足で帰宅し、美容院で親父を手伝い、そして残った僅かな時間を捧げてもいいと思える程に、活字は仁科を魅了していた。
 そして今日も、仁科は活字の世界へ消える。
 現実世界の自分の存在を薄めて、そちらへ意識を委ねる。自分の意識がそちらにあって、どちらにあるのか分からなくなる。惹きつけられて、病み付きになる。流れるように過ぎていく時間は、風を切って走るように心地いい。それは、たったそれだけの事に過ぎないと分かっているのに、何だかとても鮮やかだった。
 だから、読書にのめり込んだ仁科は、教室に入ってきた人物にしばらく気がつかなかった。
 隣に立たれてようやく気づき、のんびりと顔を上げた。
 教師に怒られようが、構わないと思っていた。見つかった焦りも感じない。活字の世界から急に現実に引き戻されて、少しぼんやりしていただけだった。
 そして、口を薄く開けたまま、仁科は動きを止めた。
「おはよう」
 茶色い髪。赤いスカート。おはようという挨拶が今の時間帯に適しているのかを考えながら、仁科は溜息を吐いた。
 完璧にお手上げだった。無視や逃亡はここで終わり。今日はもう、仁科の負けだ。
「お前さ、俺にストーカー呼ばわりされても文句言えないって分かってる?」
 宮崎侑は微笑んでこちらを見ていたが、「ストーカー」という言葉が気に障ったらしい。声音が、ぶすっとした調子へ変わった。
「だって仁科、返事もしてくれないんだもの。挨拶されたら挨拶し返すのが常識でしょ?」
 ストーカー女子に諭される常識など仁科は知らない。鼻で笑うと、むっと侑が睨んできた。
「それに、また逃げたわね」
「また?」
「昨日逃げた」
「……そうかい」
 逃げたと、そういう風に解釈しているのか。仁科は忘れかけていた身体の怠さを思い出す。侑と話していると、やはり疲れる。
「用件はそれだけか?」
「まだよ」
 まだあるのかよ、と思ったが声には出さなかった。
「やっぱり私の事、お前って言ってる」
 仁科はもう侑を見ず、軽く手を振ってやった。そうやってぞんざいに、侑を追い払おうとする。
「なんで俺が教室残ってるの知ってんの、とか。気になるけど、もうどうでもいいや。俺、今お前に構ってる暇ないんだ。用件がそれだけなら、自分の教室に帰ってくれ」
「こんなにも堂々とサボってる仁科にだけは言われたくない台詞ね。それに、またお前って言った」
 粘着質な態度に、仁科は段々と苛立ってきた。
「お前、すげーうるさい。俺がお前を何と呼ぼうと、俺の勝手だろ」
「私が嫌なの。私がそう思うのだって、私の勝手よ」
「……」
 仁科は顔にこそ出さなかったが、内心でかなり面食らってしまった。
 今の侑の台詞は、仁科なら到底素面では言えない。それほどに、現実的にはなかなか言い出せないものだと思ったのだ。
 小説や漫画で使い古されたような、反駁の台詞。言葉にした瞬間から、後悔と羞恥で死にたくなるような言葉。少なくとも仁科にとっては、今の侑の台詞がそうだった。だが当の侑は平然とそれを言い放ち、仁科を毅然と見下ろしている。
 こいつ、やっぱり変だ。侑を見上げながら、仁科は思う。ずっと感じていたのに言葉にならずに淀んだものが、急速に形になって収束する。こいつは、変だ。
「……なんで、俺なんかに構うわけ?」
「それなら前にも話したと思うけど?」
 侮蔑の入り混じった顔で侑が笑う。その顔に何の反応も示さずに、仁科は回想する。たっぷり十秒ほど考えてみたが、思い出せない。
「……言ってないだろ」
「まさか! ちゃんと言ったわよ。仁科と話がしてみたかった、って」
「は? それなのか?」
 言われた意味が分からなかった。一に一を足せば二になるという事を、真顔で言われたような心境だった。
 それならば、確かに侑は仁科に言った。仁科も、それを聞いている。侑と初めて会った日、急ぎ足で駆け下りた階段で。だが侑の言ったそれは、仁科の質問に沿うものではない。どこかピントがずれている。だから、仁科は言った。
「答えになってない」
 言って当然の事を言った。言われた侑は、笑っていた。
「仁科がそう思うなら、そう思ってくれて構わないわ。私は仁科と話がしていたいだけなんだから」
 鼻を鳴らした仁科は、本を開いて読む体勢を取った。強硬手段だ。相手にしなければ、そのうち仁科に飽きてどこかへ行くだろう。
 気分が悪かった。妙に落ち着かなかった。まただ、と仁科は思う。自分の中の何かを崩されていく感覚。会話を繰り返す度、馴れ馴れしい笑みを向けられる度、自分の心が脅かされている気がする。仁科はその蹂躙が不快で、気味が悪かった。
 その不快さや気味の悪さが、己の人間関係の疎さに起因している事を仁科は悟っている。もう悟らされている。だから尚のこと仁科は、侑が不気味だった。
 侑は、仁科を暴き立てる。
 仁科はそれが、気持ち悪いのだ。
「……俺と話して、何か得るものでもあるのか?」
 呟くと、窓の向こうを見ていた侑が振り返ったのが分かる。仁科は目線を本に落としたまま、続けた。
「他の奴らが俺の事をどんな風に噂してるかなんて、知らないさ。でも、どうせろくなもんじゃないだろ。遅刻魔とか不良とか。一匹狼とか、問題児とかな」
 ふっと、唇が笑みの形に歪む。自嘲から浮かんだ微笑だったが、その顔はすぐに元の無表情へ戻っていく。可笑しい事なんて、何もない。
「他の奴ら?」
 侑はとぼけているのか本当に分かっていないのか、小首を傾げた。
「同じ学年の奴らとか、その辺」
「その辺、ねえ」
 くすくすと、侑は笑った。その声は始めは小さなものだったのか、何が可笑しかったのか、やがて侑は肩を震わせて笑い始めた。怪訝に思って顔を上げると、目元の涙を拭うような仕草をした侑が言った。
「同じ学年の奴らとか、その辺、だってぇ」
「は?」
「その言い方いい。気に入ったわ」
「……俺は変人だってよく言われるけど、お前も大概だな。今の台詞のどこが可笑しいのか、俺には分かんないんだけど」
「仁科ってやっぱり面白い。この授業をサボったのは偶然だったけど、サボって正解だったわ。先生の国語よりかは価値のある言葉も聞けたし」
「……あっそ」
 侑の感性は、常人とはかけ離れた所にあるらしい。それに物真似をされるのは気分のいいものではない。仁科は本に視線を戻す。
 今度こそ、会話は終了だと思った。だが侑は仁科の言葉を覚えていて、仁科が活字の世界に戻るのを止めた。
「仁科が言うその辺の人達からね、仁科要平の事なら、たくさん聞いてきたわ」
 そう言って侑は、ぺらぺらと一人で喋り出した。
「聞いてきた、じゃないわね。聞こえてきたの。私、友達いないから。口数が少なくて、格好いい顔してるんだって。クラスの子達が騒いでるの、いつも聞こえてた。同じクラスの子だけじゃないのよ。隣のクラスの子とか、廊下ですれ違った子とか、いろんな所で仁科の名前を聞いてきたの。私はその時はまだ仁科要平を見た事なかったから、こいつら馬鹿じゃないの? って思ってた」
「人をアイドルか何かみたいに言うのはやめろ」
 思わず口を挟んだ。仁科要平とフルネームで呼ばれると、背筋のあたりがもぞもぞする。その反論に侑は不満を持ったようで、「仁科は私の事、お前って言うじゃない」と睨まれた。釈然としないものの一理あるので仁科が黙ると、侑は楽しそうにまた笑った。
「男子は男子で仁科に一目置いてるみたい。塩谷君、だっけ。仁科の友達」
「あいつ、友達か?」
「あら、違うの?」
 訊き返されるとは思わず、返答に詰まった。
「友達になりたいから近づく、っていうのとはちょっと違う感じよね。すごいって思ってるから近くにいたくなるのね。こいつはなんか皆とは違う、ってヤツ。そこが面白いから、仁科に惹かれる人は多いのね」
 言い終わると、侑は仁科の本を閉じてきた。仁科がもう一度同じページを開けようすると、侑は唇を尖らせた。
「ねーえ、仁科。ちゃんと聞いてくれてた?」
 仁科が「聞いてる」と雑な返事をすると、「へへ」と嬉しそうな声が聞こえた。
 思わず顔を上げると、何だか幸せそうな顔の侑と目が合った。
「なんだ、その顔。前言ってた愛の告白とやら、実はマジだったのか」
「まっさかぁ」
 侑は笑い飛ばした。やっぱり嘘だったんだな、と仁科は肩を竦める。
「仁科と話してたって得るものがあるとは思わないわ。仁科は教科書でも校則でも先生でもないんだし。別に何かを学びたいわけじゃないんだから、得るものなんてゼロでいいわよ」
 侑は言いながら、今度は仁科から本を取り上げた。
 あ、と思う間もなく、手中の本は侑の手に渡っていた。
「私は、何も要らないの。別に何かを欲しがってるわけじゃないもの。何もなくても、生きていけるわ。だから、何も要らないのよ。……でも」
 本のページをぱらぱらと繰りながら、侑は、遠い目つきをした。
「何にも要らないから、せめて……って。そういう切迫感って、使い古されたドラマみたい。憧れないでも、ないかもね」
 仁科は本を取り返そうと手を伸ばしかけ、何となく取り返し辛く、伸ばした手を引っ込めてしまった。
「なんでそんな台詞がさらさら出てくるんだ。痒いし、だいぶ痛い」
「でもそういうベタな話だって、面白いと思う人には面白いのかもね。私には分からない感性だけど。……ねえ。仁科」
 ページを繰る、指が止まる。
 侑が仁科へ、顔を向けた。
「シェイクスピア、好きなの?」
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