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聖職者の聲
しおりを挟む大きな街の繁華街の狭い筋を抜けるとそこは生活困窮者の集合エリアだった。親の代から貧しい者達の他に、キャバレーの踊り子が肩を寄せあって住まっていたり、中には銀幕デビューを夢見て街へ出てきたが花開かず浮浪者となった者、故郷を追われた者など、皆、様々な理由を抱えていた。
「何回同じ事を言わせりゃ気が済むんだテメェは!」
野太い怒鳴り声の後、ばちぃん!と弾力のある破裂音が響いた。露天商を営む者や通りすがる若い女はちら、と騒ぎを尻目に関わらず。
「このッ!クソガキがッ!役立たずッ!」
巨漢の中年が額から耳まで真っ赤にし、でっぷりと横に広がった鼻を膨らませ息を上げながら何かを蹴り飛ばし踏みつける行為を繰り返していた。
「クソガキ!穀潰しが!ろくすっぽ働けねぇクソガキが!ちったぁ役に立ちやがれ!」
中年は唾を吐き散らしながら丸太のような足を振り下ろす。
「うるさいのよ!寝れりゃあしない!」
現場の向かいにある小さな家から若い女が現れた。細く剃られた眉を吊り上げ中年を睨みつける。ぱさぱさに乾燥した金髪は指通りが悪いらしく、手櫛を何度も止められてはその度にチッ!と舌打ちをしながらぶちぶちと絡まりを引きちぎっていた。
「おお、フォーリィ起きたか」
ふぅふぅと汗まみれの中年が女を見てニタッと笑う。
「起こされたのよ」
女はドアにもたれかかると細長い煙草に火を付けながら言った。
中年は短い足を地面に打ち付ける芸を止め女に近寄ると、真新しい煙草を差し出す。
「煙草、もう切れてただろ?買っておいたぞ」
ニタニタと目尻を下げて女に笑いかける。女は受け取るとすぐに箱の側面に記載された数字を確認し、見る見るうちに涙目になった。
「こんな苦いのいらないわよ!いつものと違うじゃない!昔の女と同じもの吸わせようっての!?やめてよ!やめてやめて!!キイイイイヤアアアアアアアアア!!!!」
女は眉を一段と吊り上げ、奇声を発して泣きわめいた。中年の男は女を抱きしめようとするがでっぷりと突き出た腹と芋虫のような腕では叶わず、代わりに横に並ぶと肩を組んで女を落ち着かせようと必死に弁明した。
「そんなまさか!俺はフォーリィ以外の女にこれっぽっちも興味なんてねぇ!これは、あそこでくたばってるクソガキが間違えて買ってきたんだ。クソガキ!いつまで寝てんだ起きろ!母さんに謝れ!」
中年は再び現場に向かうと、くちゃくちゃにくたびれた塊を掴み水溜りの中に勢いよく叩き落とした。二秒ほどで引き上げると、ドアの前でしつこく泣きじゃくる女の元へ叩きつけた。塊が「うっ」と声を上げた気がした。よく見ると人間の子どもの姿をしていた。中年が子どもの頭を掴み無理に顔を上げさせ唾を吐いた。子どもは目を開けていた。その瞳はぼんやりと動かず、ただただ紫色を携えていた。生まれてこの方一度も髪を整えたことがありません、と、ぐしゃぐしゃの長髪が訴えていた。
「謝れってんだろ!聞こえねぇか!」
中年が涎を吹きこぼしながら怒鳴り散らす。女は侮蔑の表情で子どもを見る。
「ご、えんな、さい」
随分へしゃげた発音で子どもが謝罪した。中年は忌々しそうに手を離す。子どもは額を地面に打ち付けた。さ、中に入ろう。今日は一段と冷えるなぁ。中年は猫なで声で女に言い、玄関までの至極短い距離をエスコートする。ばたん!と大きな開閉音の後、がちゃ!と鍵が掛かる音がした。体に合わないシャツを一枚肩からぶら下げた子どもは異常なまでに細い腕で体を持ち上げると、ずるずると這って家の軒下に入った。ここが子どもの寝場所だった。
がつんがつんと家の中を歩き回る音で子どもは目を覚ました。がつがつがつ、がちゃ、ばたん。かつかつかつかつ。母親が仕事に行ったのだなと察した。安い香水と安い化粧品の油が混ざった、鼻をつく匂い。これがこの子どもにとって「母さんの匂い」だった。
「四番!四番!」
子どもは慌てて軒下から飛び出す。何か気に入らないことがあると、必ず意味も無く呼び出され憂さ晴らしの人形にされる。子どもはそれを分かっていた。
「遅い!」
がん、と頭を拳でぶたれる。子どもにとってこのくらいのことは日常茶飯事で慣れてしまっていた。子どもには名前が無かった。ただこの家の四番目の子どもだから四番と呼ばれていた。中年と若い女は再婚で、若い女が四番を胎内に孕んだ時にこの家に転がり込んだ。四番は中年と女の間に出来た子どもではなく、女が前の同居者との間に作った子どもだった。中年は若い女を盲目的に愛していたが、元同居者の面影を強く残す四番のことは微塵も愛せず、四番に対し憎しみを抱いていた。女も、男に媚びる顔は得ていても我が子への母性だの愛情だのという母親としての顔は全く持ち合わせていなかった。
しこたま殴られた後、今日はここへ帰ってくるなと言われたので仕方なく通りをふらふらと歩いた。どこへ行きたいのか、など分からないが、とにかく家から遠く離れなければと四番は思った。しかし栄養失調の上、暴力によりすり減らされた体力は歩き出して長くは持たず、ぱさ、と音を立てて崩れ落ちた。
ふわふわとした意識の中で四番は思った。
やわらかい、あったかい、いいにおい。
「気がついたかい」
聞き慣れない声にはっと目を開けた。
必要以上の脂肪の無い小奇麗な身なりの、三十代半ばの男性が四番に声を掛けた。四番は自分がベッドの中に居ることを知る。
「心配しなくていいよ、ここは教会さ」
きょう、かい?
「教会だよ。ミサに参加したことくらいあるだろう?」
みさ?さん?か?
「これは……驚いたな。ここは、教会。神様にお祈りを捧げるところ。そして私はここで神父というお仕事をしている。みんなに神様のお話をしたり、君のような子どもにお勉強を教えたりしているよ」
へえ……。
「君の事は、あの地域の方々から聞いたよ。……とても辛かったと思う。けれど、もう大丈夫だからね。私が親御さんと話をしたし、ここでは誰も君を傷つけたり暴力で支配したりしない」
神父は四番の頭を撫でようと手を伸ばした。四番は咄嗟に身構える。その様子を見て神父は手を頭には伸ばさず、四番の小さな手にそっと自分の大きな手を乗せた。四番はそろそろと目線を上げて神父の顔色を窺う。
神父が質問をした。
「君の名前を教えて?」
世界で一番易しい問いかけだった。
「わからない」
「え」
世界で一番易しい問いかけをしたつもりの神父はがくっと膝を抜かした。しかし当の本人はふざけた様子などなく真っ直ぐ目を見て言った。わからない、と。
「もしかして、名前が、まだ、ない?」
ゆっくり聞く。
そして、はっきり答える。
「よんばんめだから、よんばん」
「そう……か」
無戸籍なのだろうか。いやそんなことよりこの子に名前をあげなければ。神父は天を仰いだ。名前の無い子どもも神父を見て同じように真似をした。
思いついた!と明るい笑顔で子どもを見る。子どもの手を握り、こう言った。
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