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第28話 話し合い
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次の日の朝。
やっぱりまひろのベッドには茶トラの子猫がいたようだ。
まひろは怪訝な表情で子猫を抱っこしながら、ダイニングにやってきた。
仕事がない朝は、まひろが起きてくるのはいつも七時を過ぎている。昨日もそうだった。
「私、今朝もミツキちゃんが出ていったことに気がつかなかったのよね……そんなに熟睡してるのかしら?」
「あー、そうなんだ」
俺はコーヒーを手にぼんやりと言った。
いや、お前が抱っこしてるその│猫《こ》がミツキちゃんなんだよ。気づかないのは当たり前なんだ、出ていってないんだから。
「あ、黒猫……」
胸の内でツッコミを入れていた俺の足元を、あの黒猫がわざわざ体をこすりつけながら通過していく。
空の月が隠れている間、ミツキちゃんは子猫の姿になるらしい。
俺も初めは信じていなかった。
だけど昨日の朝の公園で、あの怪しい黒猫がミステリアスな美女になったのを目の前で見てしまった。
もはや、突然俺に降りかかったこのファンタジーな設定を信じる他ないんだ。
俺はまひろに抱っこされている、茶トラの子猫の頭を撫でた。
「にゃーん」
可愛らしく鳴く、子猫の首輪。
そこには、金色のチャームがぶら下がっていた。
「やっぱり形が少し変わってるな」
『我々が│現在《ここ》にいられるのは、この月が新月の形になるまで……今日を入れて、あと五日だ』
昨日謎の女が言っていたことを思い出す。
「なぁに? 首輪が気になるの?」
「あ、いやなんでもないよ」
俺は子猫の首輪から視線を外して、まひろから離れた。
今朝も平和なニュースがテレビから流れている。
「まひろさん、おはようございます!」
「あ、カミさん、おはようございます」
まひろは洗面所から姿を見せた不審者に近づいていった。
その表情はどこか不満げに見える。
「カミさん、ミツキちゃんをお母さんのところに連れて行くの、早すぎですよ! 昨日買った服、今朝着てもらおうと思ってたのに!」
あぁ、なるほど、それでか。
「あっ、服! そうか、服ね!」
不審者め、愛想笑いなんかして……服のこと、すっかり忘れてただろ。俺も全然気にしてなかったけど。
「じゃあ、その服は私が母に届けますよ。この子達も連れて行きたいんで」
不審者はまひろから子猫を抱きとった。
「そうですか。じゃ、ミツキちゃんの服、準備してきますからお願いしますね」
まひろは言い、自分の部屋に向かって行った。
はぁ……なんだろうか、この気疲れは……いや、原因は俺にある。わかってるんだ。
「私はしばらく戻らないから、まひろさんとよく話し合えよ」
「……わかってるよ、言われなくても」
「お待たせしました……カミさん、これお願いします」
部屋から戻ってきたまひろが、小さい紙袋を不審者に手渡した。
「はい、了解しました」
にこりと笑って……おい、なんで俺に近づいて来るんだよ。
「いいか、はやまるなよ! 絶対に、はやまっちゃダメだぞ。私の嫁が戻ってくるかどうかがかかってるんだからな。忘れるなよ、大事だぞソコ!」
わかってるよ! けど、話し合いがどうなるかなんてわかるかよ! ていうかコソコソ耳元で叫ぶな、気持ち悪い!
「わかったから、早く行けよ」
「じゃ、行ってきますね、まひろさん! 昼には戻りますから、また家事教えてくださいね!」
不審者は、まひろに満面の笑みを残して出ていった。
あ、なんか急に緊張してきた……大丈夫だろうか、俺……
※ ※ ※
「タケル……浮気してるの?」
しんと静まりかえった空気の中での第一声が、まひろからのそれだった。
ずばり、どストレート。ど直球だ。
いかにも真面目で少し短気なまひろらしい。
「どうして、そう思ったんだ?」
浮気……馴染客の愚痴を聞いているのは、浮気と呼ぶんだろうか?
しかし、思い当たる節はそのくらいしかない。
「私、嘘つくの苦手だから、正直に話すわ」
ダイニングテーブルの対面から、まひろの真っ直ぐな視線が飛んでくる。
ごとり、まひろのスマートフォンが俺の目の前で音をたてた。
「川上さんから、久しぶりにメッセージがきたの。あなたが女の人と一緒に居酒屋さんから出てきたところ、たまたま見かけたって」
俺はまひろのスマートフォンの暗い画面を見つめた後で、再びまひろに視線を戻した。
「サトルのその話、お前は信じるんだな」
俺の言葉に、少しだけまひろの瞳が細くなる。表情は、固いままだ。
「今の私達の関係なら、疑いたくなるのも当然だと思うけど?」
「……そうだよな」
否定はしない。まひろの言うとおりだ。
真っ直ぐなまひろの前で、俺は嘘はつけない。
「俺が一緒にいたのは、馴染客の一人だよ。浮気というのか……仕事での愚痴を聞いて欲しいみたいで、そうしてるだけなんだけど」
俺は深く息を吐いた。
「信じるか? 俺の、この説明を」
「それは……正直、難しいよ」
そうか。そうなんだな。
「俺は……俺たちがやり直す時期が来たんじゃないかと思ってる」
「やり直す?」
固かったまひろの表情がさらに強張った。
「それ……つまり、私と別れたいってこと……よね?」
自分で言い出したのに、まひろの口から聞くと心がぐらつく。
「そうなるな」
「どうしてそうなるの? 子どものこと……タケルに原因があるから、気にしてるの? それなら、もう気にしなくていいよ。私だってもうすぐ三十五歳になるんだよ、もう……子ども……出来にくい年齢なんだから」
次第に小さくなっていくまひろの声が、ぐさりと胸に刺さる。
そうだ、俺は……まひろの貴重な時間を奪っているんだ。
「ごめん……俺が、もっと早く決断できてたら……」
浅く息を吸い込む。
「でも、まだ遅くないだろ……お前はまだママになれる可能性がある。なってくれ、頼む」
「ミツキちゃんと会ったから?」
見つめる先のまひろの瞳がうっすらと光って見えた。
「私とそっくりなミツキちゃんを見たから、そう思ったの?」
「違う。ミツキちゃんのことは、きっかけに過ぎない…んだ。ちゃんとこの先のことを決めなきゃいけないって、あの子と会う前からずっと考えてた」
こうなるのが、怖くて逃げてた。
「私、昨日ミツキちゃんと買い物して……自分に娘ができたみたいで嬉しかった……私もママになりたいって思ってる、確かにそれは否定しない……だけど、タケルと別れたくないのも……タケルと二人で生きていく道を選びたいのも、私の意思なんだよ!」
ああ、強い。強すぎる。まひろの口調も丸い瞳から放たれる光も。
「俺は……無理だ」
俺は視線をテーブルに落とした。
「お医者さんは、方法があるって言ってたじゃない。もう一度、病院に行こうよ」
もう一度、病院に?
『というわけで、石山さんの場合はご主人の方に原因がありました』
あの淡々とした、医者の口調。思い出すだけで、意識が暗く淀んでいく。
どんなに忘れたくても忘れられない、暗黒の記憶。
もう一度、あの場所に行くだって? もう俺はゴメンだ!
「俺の知ってる奴だけはやめてくれ……」
「え? なに言ってるの?」
もう限界だった。
俺は立ち上がって自分の部屋に向かう。
今は、この家にいたくない。
その思いだけが、俺の狭い胸の内を占領していた。
やっぱりまひろのベッドには茶トラの子猫がいたようだ。
まひろは怪訝な表情で子猫を抱っこしながら、ダイニングにやってきた。
仕事がない朝は、まひろが起きてくるのはいつも七時を過ぎている。昨日もそうだった。
「私、今朝もミツキちゃんが出ていったことに気がつかなかったのよね……そんなに熟睡してるのかしら?」
「あー、そうなんだ」
俺はコーヒーを手にぼんやりと言った。
いや、お前が抱っこしてるその│猫《こ》がミツキちゃんなんだよ。気づかないのは当たり前なんだ、出ていってないんだから。
「あ、黒猫……」
胸の内でツッコミを入れていた俺の足元を、あの黒猫がわざわざ体をこすりつけながら通過していく。
空の月が隠れている間、ミツキちゃんは子猫の姿になるらしい。
俺も初めは信じていなかった。
だけど昨日の朝の公園で、あの怪しい黒猫がミステリアスな美女になったのを目の前で見てしまった。
もはや、突然俺に降りかかったこのファンタジーな設定を信じる他ないんだ。
俺はまひろに抱っこされている、茶トラの子猫の頭を撫でた。
「にゃーん」
可愛らしく鳴く、子猫の首輪。
そこには、金色のチャームがぶら下がっていた。
「やっぱり形が少し変わってるな」
『我々が│現在《ここ》にいられるのは、この月が新月の形になるまで……今日を入れて、あと五日だ』
昨日謎の女が言っていたことを思い出す。
「なぁに? 首輪が気になるの?」
「あ、いやなんでもないよ」
俺は子猫の首輪から視線を外して、まひろから離れた。
今朝も平和なニュースがテレビから流れている。
「まひろさん、おはようございます!」
「あ、カミさん、おはようございます」
まひろは洗面所から姿を見せた不審者に近づいていった。
その表情はどこか不満げに見える。
「カミさん、ミツキちゃんをお母さんのところに連れて行くの、早すぎですよ! 昨日買った服、今朝着てもらおうと思ってたのに!」
あぁ、なるほど、それでか。
「あっ、服! そうか、服ね!」
不審者め、愛想笑いなんかして……服のこと、すっかり忘れてただろ。俺も全然気にしてなかったけど。
「じゃあ、その服は私が母に届けますよ。この子達も連れて行きたいんで」
不審者はまひろから子猫を抱きとった。
「そうですか。じゃ、ミツキちゃんの服、準備してきますからお願いしますね」
まひろは言い、自分の部屋に向かって行った。
はぁ……なんだろうか、この気疲れは……いや、原因は俺にある。わかってるんだ。
「私はしばらく戻らないから、まひろさんとよく話し合えよ」
「……わかってるよ、言われなくても」
「お待たせしました……カミさん、これお願いします」
部屋から戻ってきたまひろが、小さい紙袋を不審者に手渡した。
「はい、了解しました」
にこりと笑って……おい、なんで俺に近づいて来るんだよ。
「いいか、はやまるなよ! 絶対に、はやまっちゃダメだぞ。私の嫁が戻ってくるかどうかがかかってるんだからな。忘れるなよ、大事だぞソコ!」
わかってるよ! けど、話し合いがどうなるかなんてわかるかよ! ていうかコソコソ耳元で叫ぶな、気持ち悪い!
「わかったから、早く行けよ」
「じゃ、行ってきますね、まひろさん! 昼には戻りますから、また家事教えてくださいね!」
不審者は、まひろに満面の笑みを残して出ていった。
あ、なんか急に緊張してきた……大丈夫だろうか、俺……
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「タケル……浮気してるの?」
しんと静まりかえった空気の中での第一声が、まひろからのそれだった。
ずばり、どストレート。ど直球だ。
いかにも真面目で少し短気なまひろらしい。
「どうして、そう思ったんだ?」
浮気……馴染客の愚痴を聞いているのは、浮気と呼ぶんだろうか?
しかし、思い当たる節はそのくらいしかない。
「私、嘘つくの苦手だから、正直に話すわ」
ダイニングテーブルの対面から、まひろの真っ直ぐな視線が飛んでくる。
ごとり、まひろのスマートフォンが俺の目の前で音をたてた。
「川上さんから、久しぶりにメッセージがきたの。あなたが女の人と一緒に居酒屋さんから出てきたところ、たまたま見かけたって」
俺はまひろのスマートフォンの暗い画面を見つめた後で、再びまひろに視線を戻した。
「サトルのその話、お前は信じるんだな」
俺の言葉に、少しだけまひろの瞳が細くなる。表情は、固いままだ。
「今の私達の関係なら、疑いたくなるのも当然だと思うけど?」
「……そうだよな」
否定はしない。まひろの言うとおりだ。
真っ直ぐなまひろの前で、俺は嘘はつけない。
「俺が一緒にいたのは、馴染客の一人だよ。浮気というのか……仕事での愚痴を聞いて欲しいみたいで、そうしてるだけなんだけど」
俺は深く息を吐いた。
「信じるか? 俺の、この説明を」
「それは……正直、難しいよ」
そうか。そうなんだな。
「俺は……俺たちがやり直す時期が来たんじゃないかと思ってる」
「やり直す?」
固かったまひろの表情がさらに強張った。
「それ……つまり、私と別れたいってこと……よね?」
自分で言い出したのに、まひろの口から聞くと心がぐらつく。
「そうなるな」
「どうしてそうなるの? 子どものこと……タケルに原因があるから、気にしてるの? それなら、もう気にしなくていいよ。私だってもうすぐ三十五歳になるんだよ、もう……子ども……出来にくい年齢なんだから」
次第に小さくなっていくまひろの声が、ぐさりと胸に刺さる。
そうだ、俺は……まひろの貴重な時間を奪っているんだ。
「ごめん……俺が、もっと早く決断できてたら……」
浅く息を吸い込む。
「でも、まだ遅くないだろ……お前はまだママになれる可能性がある。なってくれ、頼む」
「ミツキちゃんと会ったから?」
見つめる先のまひろの瞳がうっすらと光って見えた。
「私とそっくりなミツキちゃんを見たから、そう思ったの?」
「違う。ミツキちゃんのことは、きっかけに過ぎない…んだ。ちゃんとこの先のことを決めなきゃいけないって、あの子と会う前からずっと考えてた」
こうなるのが、怖くて逃げてた。
「私、昨日ミツキちゃんと買い物して……自分に娘ができたみたいで嬉しかった……私もママになりたいって思ってる、確かにそれは否定しない……だけど、タケルと別れたくないのも……タケルと二人で生きていく道を選びたいのも、私の意思なんだよ!」
ああ、強い。強すぎる。まひろの口調も丸い瞳から放たれる光も。
「俺は……無理だ」
俺は視線をテーブルに落とした。
「お医者さんは、方法があるって言ってたじゃない。もう一度、病院に行こうよ」
もう一度、病院に?
『というわけで、石山さんの場合はご主人の方に原因がありました』
あの淡々とした、医者の口調。思い出すだけで、意識が暗く淀んでいく。
どんなに忘れたくても忘れられない、暗黒の記憶。
もう一度、あの場所に行くだって? もう俺はゴメンだ!
「俺の知ってる奴だけはやめてくれ……」
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