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第30話 川辺のタケル
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ずっと前からしなければと思っていた、まひろとの話し合い。
俺が別れたいと言ったら、まひろはどう答えるだろうか。
俺は、話を切り出す前までずっとそれを考えていた。
わかった、とすんなり受け入れるか。
それとも、待ってくれと引き留めるか。
本音を言えば、別れなくないと引き留めて欲しかった。
実際に、まひろがそうしてくれて嬉しかったのは事実だ。
だけど、それだとまひろはずっとママになれない。
もちろん、今の時代、選べば子を得られる術があるのは知っている。
でも俺は、それらを選びたくなかった。
俺は、俺の遺伝子を持つ子どもが欲しかったから。
あの親と兄を見返すための、石山家の血を引く可愛い子どもが。
「重い……もう、開放されたい」
まひろと別れたら、この勝ちたいという気持ちとおさらばできるだろうか?
俺が生み出した小さな声音は、目の前の川音に飲み込まれて消えていく。
隣の市にある河川敷。
まひろは、もう一度病院に行こうと言っていた。
嫌だ。
またあの病院に通うなんて、とても耐えられない。
行けばきっとその度に、お前は能無しだと蔑む親と兄の姿が浮かんでくる。
「もう、ずっと昔のことなのにな……」
俺の心は、いつまで暗い記憶にとらわれたままでいるんだろう。
結婚して、子どもができて、順風満帆な日々を過ごしていれば、俺は勝てたのに。
……本当に、勝てていただろうか?
わからない。
俺は、朝から日が暮れる今まで、ずっと目の前の水面を眺めていたが、なんの答えも出なかった。
俺は冷たくなった手を暖めようと、ポケットの中に手を入れる。
がさりと、パンとおにぎりが入っていたビニール袋が音をたてた。
「腹減ったな……」
体は正直だ。
まひろが作った、あったかいご飯が食べたい。
今浮かぶのは、それだけだった。
※ ※ ※
何気なく見たスマートフォンの画面には、一六四五という時刻を表す数字と、未読のメッセージがあることを伝えるマークがある。
メッセージはおそらく、まひろからのものだろう。
「映画がなんとか言ってたけど……とてもそんな気分じゃないや……晩飯、どっかで食うかな」
「待ち合わせは映画館に六時だぞ。まだ間に合う」
突然、隣から低い女の声がした。
この声には聞き覚えがある。あの黒猫だ。
横を見ると、いつからいたのか隣に女が腰掛けている。やっぱりだ。
艷やかなストレートの長い黒髪に、シンプルなデザインの黒のロングコート。
なんだってこんなところにいるんだ……そうか、俺を映画館に向かわせるつもりなんだな。
「俺は行かない」
「私は君に、ミツキちゃんの父親になれとは言っていない。無理だろう、それは」
黒猫女がにやりと笑って俺を見た。
いきなりその話題かよ。
「一つの命を育てる覚悟は、そう簡単にできるものではないからね」
「……そうだよ……でも、あんたたちはミツキちゃんの願いを叶えるのが目的なんだろ?」
それなのに、なんでそんな風に言うんだ?
「私たちは人の気持ちまでは変えることができない。そうなるように手助けはできてもね。私たちの目的はね、君にきっかけを与えることさ」
「きっかけ?」
「そう。ひとまず、話ができただろう? まひろさんと」
「ああ……」
「そうすることで、自分がなにを望み、それに対してパートナーであるまひろさんが、なにを望んでいるのかがわかっただろう?」
確かにわかったけれど、問題は解決しない。
「俺は……まひろと別れたいんだ。そうすれば、あいつは母親になれる」
口から漏れる軽い言葉。俺は、嘘つきだ。
「君が目を逸らしたいのは、理想から外れてしまった惨めな自分自身からだ」
はあ?
カアッと頭に血がのぼる。
「なっ……なんだと! 誰がみじ……」
体が勝手に動いて、気づけばベンチから立ち上がっていた。
「兄に負けたくないと……親に認められたいと願って生きてきたんだろう? 君が生まれ育ってきた環境上、そう思うのもわからないでもないが、そろそろその基準を捨ててもいいんじゃないかな?」
黒猫女は無表情で、そんな俺を下から見上げている。
「基準を……捨てる?」
俺は一気に熱が冷めて、ぺたりとベンチに座り込んだ。
「実の親だろうが兄だろうが、所詮は君以外の人間。つまり他人だ。仮に今、君がまひろさんと別れたとしても、肝心の基準がこれまでと変わらないのなら、この先もずっと君は劣等感を抱いたままだよ」
「そんなの……」
わかってる。
劣等感、という言葉が胸にずしりときた。
「大きなお世話だ」
俺は黒猫女を直視できずに、真っ黒な川面を見た。
お前に、俺の何がわかるっていうんだ。
「いらないものは捨てないと、ほんとうに大切なものを見失うよ。君が大切にしたいのは、親や兄に勝つことなのか。それともまひろさんと共に生きることなのか」
……そんなこと……急に言われても、よくわからない。
「俺は……どっちに転んでも、苦しいんだ」
「そうかもしれないね。しかし、同じ苦しいなら、クリアできた時にどちらがより幸せを感じるかを想像してごらん?」
「クリア……?」
まるでゲームみたいに言うな。あいつらに勝つこと、まひろとこの先を生きること、か。
どっちもクリアなんかできないだろ……俺には、勝つ為に必要な能力がないんだから。
「まずは想像するだけでいいんだよ。仮に君に子ができたとしよう、その先は? 親に認めらる為に、兄に勝つ為に、君は自身の子になにを強いるだろうね?」
「強いる? まさか、そんなこと……」
いや。しない、とは言い切れない。
「他人に勝ち負けの基準を合わせると、キリがなくなるということがわかるかな? まあ、今はよくわからないかもしれないが、これからそれをよく考えてごらん。次に、まひろさんと君が二人で子どもを育てるイメージをしてみよう」
みようって……さっきから……言うのは簡単なんだよ!
「イメージ……できない」
俺は自分の手を見つめながら、ボソリと言った。
「まあ、これもそうかもしれないね。自分の思い通りにならない、自我の塊のような我が子に手を焼くかもしれないね」
自我の塊、か……
俺の頭に、にこにこと笑うミツキちゃんが浮かんだ。
「未来のまひろは、ミツキちゃんを一人で育てたんだよな?」
「ああ、そうだよ。母親や│兄姉《きょうだい》に助けられながらね」
「思い通りにならない子どもを……か」
俺には歳下の兄弟がいないし、赤ん坊が大きくなっていく途中経過をよく知らない。
学校で習ったかもしれないが、何一つ記憶にないし。
だから、ほんとにイメージしかできないけど、俺だったらメンタルが崩壊しそうな気がした。
「子どもは素直な多面体だ。泣きわめき、わがままを言う事もあれば、笑い……そして、なにより成長する」
「成長……か……」
「なにもわからずに、泣く事でしか自己表現できなかった赤ん坊が、父親という存在をほしがったり、母親が隠している感情に気づいたりするようになる。そして自分なりに考え行動した結果が今だ」
「ミツキちゃんのこと、か……」
俺が知っているのは、今の六歳のミツキちゃんだけだ。
「映画、まだ間に合うぞ。そうとうぎりぎりだけどな」
「……」
あたりはもう真っ暗だ。
スマートフォンには、一七二五の数字。
黒猫女は、まだ間に合うと言っていた。
未知の世界を知るのは、怖くもある。
でも、俺は試したくなった。ミツキちゃんと関わることで、自分が変わるのかどうかを。
俺は無言のままベンチから立ち上がり、近くに停めていた自転車に向かって走りだした。
俺が別れたいと言ったら、まひろはどう答えるだろうか。
俺は、話を切り出す前までずっとそれを考えていた。
わかった、とすんなり受け入れるか。
それとも、待ってくれと引き留めるか。
本音を言えば、別れなくないと引き留めて欲しかった。
実際に、まひろがそうしてくれて嬉しかったのは事実だ。
だけど、それだとまひろはずっとママになれない。
もちろん、今の時代、選べば子を得られる術があるのは知っている。
でも俺は、それらを選びたくなかった。
俺は、俺の遺伝子を持つ子どもが欲しかったから。
あの親と兄を見返すための、石山家の血を引く可愛い子どもが。
「重い……もう、開放されたい」
まひろと別れたら、この勝ちたいという気持ちとおさらばできるだろうか?
俺が生み出した小さな声音は、目の前の川音に飲み込まれて消えていく。
隣の市にある河川敷。
まひろは、もう一度病院に行こうと言っていた。
嫌だ。
またあの病院に通うなんて、とても耐えられない。
行けばきっとその度に、お前は能無しだと蔑む親と兄の姿が浮かんでくる。
「もう、ずっと昔のことなのにな……」
俺の心は、いつまで暗い記憶にとらわれたままでいるんだろう。
結婚して、子どもができて、順風満帆な日々を過ごしていれば、俺は勝てたのに。
……本当に、勝てていただろうか?
わからない。
俺は、朝から日が暮れる今まで、ずっと目の前の水面を眺めていたが、なんの答えも出なかった。
俺は冷たくなった手を暖めようと、ポケットの中に手を入れる。
がさりと、パンとおにぎりが入っていたビニール袋が音をたてた。
「腹減ったな……」
体は正直だ。
まひろが作った、あったかいご飯が食べたい。
今浮かぶのは、それだけだった。
※ ※ ※
何気なく見たスマートフォンの画面には、一六四五という時刻を表す数字と、未読のメッセージがあることを伝えるマークがある。
メッセージはおそらく、まひろからのものだろう。
「映画がなんとか言ってたけど……とてもそんな気分じゃないや……晩飯、どっかで食うかな」
「待ち合わせは映画館に六時だぞ。まだ間に合う」
突然、隣から低い女の声がした。
この声には聞き覚えがある。あの黒猫だ。
横を見ると、いつからいたのか隣に女が腰掛けている。やっぱりだ。
艷やかなストレートの長い黒髪に、シンプルなデザインの黒のロングコート。
なんだってこんなところにいるんだ……そうか、俺を映画館に向かわせるつもりなんだな。
「俺は行かない」
「私は君に、ミツキちゃんの父親になれとは言っていない。無理だろう、それは」
黒猫女がにやりと笑って俺を見た。
いきなりその話題かよ。
「一つの命を育てる覚悟は、そう簡単にできるものではないからね」
「……そうだよ……でも、あんたたちはミツキちゃんの願いを叶えるのが目的なんだろ?」
それなのに、なんでそんな風に言うんだ?
「私たちは人の気持ちまでは変えることができない。そうなるように手助けはできてもね。私たちの目的はね、君にきっかけを与えることさ」
「きっかけ?」
「そう。ひとまず、話ができただろう? まひろさんと」
「ああ……」
「そうすることで、自分がなにを望み、それに対してパートナーであるまひろさんが、なにを望んでいるのかがわかっただろう?」
確かにわかったけれど、問題は解決しない。
「俺は……まひろと別れたいんだ。そうすれば、あいつは母親になれる」
口から漏れる軽い言葉。俺は、嘘つきだ。
「君が目を逸らしたいのは、理想から外れてしまった惨めな自分自身からだ」
はあ?
カアッと頭に血がのぼる。
「なっ……なんだと! 誰がみじ……」
体が勝手に動いて、気づけばベンチから立ち上がっていた。
「兄に負けたくないと……親に認められたいと願って生きてきたんだろう? 君が生まれ育ってきた環境上、そう思うのもわからないでもないが、そろそろその基準を捨ててもいいんじゃないかな?」
黒猫女は無表情で、そんな俺を下から見上げている。
「基準を……捨てる?」
俺は一気に熱が冷めて、ぺたりとベンチに座り込んだ。
「実の親だろうが兄だろうが、所詮は君以外の人間。つまり他人だ。仮に今、君がまひろさんと別れたとしても、肝心の基準がこれまでと変わらないのなら、この先もずっと君は劣等感を抱いたままだよ」
「そんなの……」
わかってる。
劣等感、という言葉が胸にずしりときた。
「大きなお世話だ」
俺は黒猫女を直視できずに、真っ黒な川面を見た。
お前に、俺の何がわかるっていうんだ。
「いらないものは捨てないと、ほんとうに大切なものを見失うよ。君が大切にしたいのは、親や兄に勝つことなのか。それともまひろさんと共に生きることなのか」
……そんなこと……急に言われても、よくわからない。
「俺は……どっちに転んでも、苦しいんだ」
「そうかもしれないね。しかし、同じ苦しいなら、クリアできた時にどちらがより幸せを感じるかを想像してごらん?」
「クリア……?」
まるでゲームみたいに言うな。あいつらに勝つこと、まひろとこの先を生きること、か。
どっちもクリアなんかできないだろ……俺には、勝つ為に必要な能力がないんだから。
「まずは想像するだけでいいんだよ。仮に君に子ができたとしよう、その先は? 親に認めらる為に、兄に勝つ為に、君は自身の子になにを強いるだろうね?」
「強いる? まさか、そんなこと……」
いや。しない、とは言い切れない。
「他人に勝ち負けの基準を合わせると、キリがなくなるということがわかるかな? まあ、今はよくわからないかもしれないが、これからそれをよく考えてごらん。次に、まひろさんと君が二人で子どもを育てるイメージをしてみよう」
みようって……さっきから……言うのは簡単なんだよ!
「イメージ……できない」
俺は自分の手を見つめながら、ボソリと言った。
「まあ、これもそうかもしれないね。自分の思い通りにならない、自我の塊のような我が子に手を焼くかもしれないね」
自我の塊、か……
俺の頭に、にこにこと笑うミツキちゃんが浮かんだ。
「未来のまひろは、ミツキちゃんを一人で育てたんだよな?」
「ああ、そうだよ。母親や│兄姉《きょうだい》に助けられながらね」
「思い通りにならない子どもを……か」
俺には歳下の兄弟がいないし、赤ん坊が大きくなっていく途中経過をよく知らない。
学校で習ったかもしれないが、何一つ記憶にないし。
だから、ほんとにイメージしかできないけど、俺だったらメンタルが崩壊しそうな気がした。
「子どもは素直な多面体だ。泣きわめき、わがままを言う事もあれば、笑い……そして、なにより成長する」
「成長……か……」
「なにもわからずに、泣く事でしか自己表現できなかった赤ん坊が、父親という存在をほしがったり、母親が隠している感情に気づいたりするようになる。そして自分なりに考え行動した結果が今だ」
「ミツキちゃんのこと、か……」
俺が知っているのは、今の六歳のミツキちゃんだけだ。
「映画、まだ間に合うぞ。そうとうぎりぎりだけどな」
「……」
あたりはもう真っ暗だ。
スマートフォンには、一七二五の数字。
黒猫女は、まだ間に合うと言っていた。
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でも、俺は試したくなった。ミツキちゃんと関わることで、自分が変わるのかどうかを。
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