遠くのあなたを掴みたい

鹿嶋 雲丹

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第38話 決意を固める校長の奥さん

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 今夜も、三上さんの車が家の前に停まっている。
 時刻はいつもと同じ、深夜一時。
 もう、今夜で三週目だ。
 私はカーテンの隙間から、一向に動く気配のないセダンを覗き見て、そっとため息を吐いた。
 あと何回、彼は私が出ていくのを待つのだろうか?
 どんなに待っても、私はもう二度とあなたと二人では会わないというのに。
『もうあなたとは会いません。今までありがとうございました』
 三上さんに別れのメッセージを送ったのは、もう三週間以上も前のことだ。
『なぜですか、私はあなたになにか不快な思いをさせましたか?』
 私が送ったメッセージに、すぐさま返ってきた三上さんからの言葉だ。
 不快、の文字に心がちくりと痛んだ。
 いいえ……私が決意したのは、あなたのせいじゃないの……私が抱え続けてきた、罪悪感の結果なのよ。
 約四年前に三上さんから受け取った、あの黒いビニール袋。
 その中身が私はその当時から知っていた。
 行方がわからなくなり探していた、夫が校長を勤めるA高校の生徒の母親……松田智子さん。
 黒いビニール袋の中身の一部は、彼女が住むマンションの監視カメラに映っていた、その時にしか通り過ぎていない女性の特徴にピタリと当てはまっていた。
『理由は聞かないで欲しい……あなたの御主人も、巻き込んでしまいますから』
 三上さんは、私に黒いビニール袋を渡しながらそう言っていた。
 私は、なぜそうしてしまったのかも、彼女をどうしてしまったのかも、三上さんに聞くことができなかった。
 三上さんから受け取ったビニール袋を抱え、なにかに取り憑かれたかのように無我夢中でクローゼットの奥にそれを押し込んだ。
『知らない……私は……何も……見ていない……』
 捨てようと思っていたガラクタで、自分の目から黒いビニール袋を覆い隠した。
 知らない……私は、何も見ていない……
 私は自分にそう言い続け、以来再び触ることも見ることもしなかった。
 でも、この間久しぶりに見た娘さん……さくらさんの姿を見て、もう限界だと思った。
 母親の智子さんが作ったという、少し不格好なペンギンのキーホルダー。
 さくらさんは、それを大事にしていた。
 つまりそれは、智子さんが娘のさくらさんを大事にしていたということだ。
 そうでなければ、お母さんの思い出でもある、あのキーホルダーを大切に持ち歩いたりしないだろう。
 今まで見てこなかった現実を、約四年ぶりに目の前にして、私の中でなにかが崩れ去った。
 墓場まで持っていこうとしていた、あの黒いビニール袋。
 三上さんの為にと。
 子どもたちに迷惑がかからないようにと。
 でも、約四年間抱えてきたその気持ちより、今はさくらさんに知ってほしかった。
 今、お母さんがどうしているのかを。
 生きていても、そうじゃなくても、お母さんにもう一度会ってほしかった。
 私はベッドに腰掛け、手で顔を覆った。

「なんだ、今日も行かないのか」
 不意に隣のベッドから声が聞こえ、私は驚き、それまで考えていたことを中断した。
 声は、寝ていると思っていた夫のものだった。
「喧嘩でもしたのか、三上と」
 私が黙っていると、再び夫の声がした。
 知っていたの? 私が三上さんと二人で会っていることを? そんな……いつから……
「知っていたの……私と三上さんのこと……」
「あぁ……だいぶ前から知っていたよ」
 淡々と響く静かな夫の声に、私は目を見開いた。
 体の奥から、燃えるような熱がどっと湧き出てくる。
 それは怒りか羞恥心か。
「なぜ……どうして、あなたは私を咎めなかったの⁉」
 私は夫の背中に向かって叫んだ。
「別に……どうでも良かったから……私も好きなようにしているんだ、お前も好きにしたらいい」
 湧き出た熱いなにかが、ざあっと音を立ててひいていく。
 どうでもいい。
 私が一番恐れていた……薄々そうだろうと思ってはいたけれど、夫の口からは絶対に聞きたくなかった言葉。
 私は枕元にあった陶器の花瓶を握りしめた。
「私たち……いったい……なんなんでしょうね……」
「夫婦だろ……体裁だけの」
 体裁だけの……
 そう……体裁……大事よね、あなたにとっては……ううん、私にとっても大事だった……
 殴りたい。
 もう、すべてをめちゃくちゃにして、人生をやり直したい。
 でも、こうなってしまったのは、私が選んできた道の結果でもあるのだ。
 夫一人の、ましてや三上さんのせいばかりじゃない。
 私は花瓶から手を離した。
「少し……頭を冷やしてくるわ」
 私はぽつりと呟いて、階下の居間に向かった。
 居間の明かりを点け、キャビネットの引き出しを開ける。
 そこには、下の娘と孫の写真、先日東條先生が置いていった名刺があった。
 もう、見て見ぬふりはたくさん。私は、もっと気楽に生きたい。
「ごめんね」
 私は娘二人に謝って、東條先生の名刺を手に取った。
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