遠くのあなたを掴みたい

鹿嶋 雲丹

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第39話 穏やかな日常を守りたい校長

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 妻から殴られるかもしれない。
『なんだ、今日も行かないのか』
 あの日の夜、そう思いながらも口を開かずにはいられなかった。
 三上と妻との逢瀬は、もう五年以上続いている。
 特定の相手とそんなに長く付き合って、よくもまあ、飽きないものだ。
 三上の狙いは、妻の実家の資産なのだろう。
 幸恵の実家は、とある地方の大地主で、金もあるし土地も別荘も持っている。
 そんないいとこ育ちの箱入り娘である幸恵は、もちろん金品が目的で三上なんかと付き合ってはいないだろう。
 彼女が欲しているのは、たぶん男女が抱く愛情だ。
 二人の娘が結婚を機に家を出ると、幸恵から漂う孤独感はさらに強くなった。
 幸恵が纏う、寂しげな空気。
 そんなもの、大抵の者が抱く感情ではないのか。特に母親という生き物は。
 だから母親友達とつるんで、買い物やおしゃべりを楽しむのだろう。
 幸恵は……そうしていたのか、いなかったのか、私は幸恵本人から聞いたことがなかった。
 わかっていたのは、私がますます妻から興味が失せたことだけだった。
 もう、女として……魅力ある異性として幸恵を見られなかった。
 それでも彼女は、毎日家の中をきれいに整え、栄養バランスのとれた食事を私の為に作る。
 まったく、どこまでお人好しなのか。
 私は保護者の母親や、他の女と遊んでいるというのに。
『私も好きなようにしているんだ、お前も好きにしたらいい』
 あの言葉に、嘘偽りはない。
 離婚さえ望まなければ、あとはどうでも良かったのだ。
 しかし、彼女が離婚を口にしない理由はなんだろう?
 今さら実家には戻れない、という安っぽいプライドのせいなのか?
 もちろん、私からその道は選ばない。
 資産は大事だ。できるだけ多く手元にあったほうが安心できる。
 しかし、どんなに沢山のモノがあっても埋まらないのが心なのだ。
 妻とはなんだ? 夫とは? 夫婦とは?
 私にとっては、そんな名ばかりの立場を一途に貫くより、自分好みの恋愛に心をときめかせる方が大事だった。
 恋愛は、刹那に輝く花火のようなものが美しい。
 保護者の母親と、一度だけと約束をして交わす、禁断の時間。
 三上は賭け事にスリルを見出しているようだが、私と母親がしていることだって、十分スリルがある。
 お互いに利益があるから、成り立つ関係性。
 けして執着されない、心地よい関係性。
 そう、約四年前のあの女だけが例外だったのだ。

 約四年前のあの日、夕立が降る中を松田智子はやってきた。
 彼女とは、その一週間前に関係を持ち、その時点で話は終わったはずだった。
 八月の中旬過ぎの校内に、人の気配はない。
 私は保健室で、彼女と向かい合っていた。
 外は暗く、激しい雨が降っていた……時刻は、夕方の六時。
 なぜここに来たのか問う私に、松田智子はすがるような視線を向けて言った。
「お恥ずかしい話なんですが……私、長い間……主人から女扱いされていなくて……だから、あの……この間のことが……忘れられないというのか……」
 私の体の中を、嫌悪感という電流が走り抜けた。
「それは、そちらの夫婦間の問題ですよね?」
 松田智子は、私からの問に黙り込んだ。 
 私の好みは、すらりとした印象の……長い髪が美しく、品がある艶やかな女だ。
 残念ながら松田智子は、私の好みの容姿ではなかった。
 一度関係を結んだ時も、さほど印象に残るものはなかった。
 そんな女から迫られても、こちらは困るだけなのだ。
「大変申し訳無いのですが、その話はもう終わったことですので」
 私がやんわり断ると、彼女はボイスレコーダーをバッグから取り出し、私に突きつけた。
「脅すつもりですか……」
 私は内心、まずいことになったと焦り始めていた。
 彼女が本気なのは、間違いなかった。
 その目が放つ狂気じみた強烈な光が、なによりそれを物語っていた。
 これは、まずいぞ。
 そう思った瞬間、彼女の後ろに人が立った。
 三上だ。
「暴れ馬は手綱をつけるのも難しい……もう処分するしかありませんな」
 意識を失って倒れ込んだ松田智子の体を、三上が支える。
「うまくやれよ」
「もちろん……私の大事な金づるの為ですからな」
 バサリ、ドサリ。
 彼女のウィッグとハンドバッグが床に落ちる。
 あらわになったのは、白髪がぽつぽつと混じったショートカットだった。
 その後、三上が彼女をどうしたのかは知らない。
 私は行方不明者となった松田智子を探す手伝いをした。
 もちろん、三上もだ。
 絶対に見つからないと、わかっていながら。
 私は必死に道行く人々にビラを配る家族の姿に、少しだけ哀れみを感じていた。

 その変装グッズが我が家のクローゼットにあることを知ったのは、三上から幸恵にそれを渡したと知らせが来たからだった。
「こんなもの、さっさと燃やしてしまえば良かったのに、なぜそうしなかった?」
「まあ、いざって時の為の保険ですよ」
 私の問に返ってきた、含み笑いのある三上の言葉。
 なるほど……この先、幸恵から金が搾り取れなくなった時に、これで私をゆするつもりか。
 私の中になんとなく存在していた、一蓮托生という文字が崩れ去った。
 そうだ……三上が私の為に動くのは、すべて金の為だった。
 ふと、脳裏に幸恵の姿が浮かぶ。
 私も幸恵も、三上の金づるだ。
 金と引き換えに、幸恵は偽りの愛を得、私は自分の手を汚さずに済んでいる。
 この歪な関係は、いつまで続くのだろうか。
 私は微かに感じた疲労感に蓋をし、いつもの日常をこなす。
 穏やかに流れる川の水面は、なだらかで美しい。
 それは、絶対に乱されてはならないのだ。
 仮にそこに小石が投げ込まれようものなら、全力で投げ込もうとする者を排除する。
 あの東條真由美のように。
 私は、そう固く心に決めていた。
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