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番外編
酔いどれと本音
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どこから手に入れたのか、レーヴェが大量の麦酒と葡萄酒を館へ持ちこんだ。
この館の住人は、使用人も含めてさほど酒を飲まない。全くというわけではないが、いつ緊急事態になるかもしれない中で楽しい酒宴などは開かれないこともあり、せいぜい飲んでも食後に少々、といったところである。
ただレーヴェは大酒のみだ。飲んでも仕事に支障のあるタイプではないので、平気で飲む。
この辺りで葡萄は収穫できないので、葡萄酒は全て輸入品だ。今回レーヴェが山ほど運びこんだのは、特級品から安いものまで種類はいろいろだった。
「あなたはまた、どこからこんなに巻き上げてきたんだか……」
フィアリスは呆れながらグラスの中の赤い液体を眺めた。
フィアリスもうわばみなので酒は水みたいなものだった。以前戯れにレーヴェと飲み比べの勝負をしてみたが、どちらも一向に潰れず、信じられないほどの酒を消費しただけで終わってしまった。
「良くないよレーヴェ、飲み過ぎは」
「俺は飲まない方が体がおかしくなるんでね」
鼻を慣らしてレーヴェは酒をあおる。フィアリスも一口飲んでみたが、なかなか上等な味だった。
「また酒盛りしてるんですか」
食堂の近くを通りかかったエヴァンが足を止めてこちらに声をかけてくる。
エヴァンも葡萄酒くらいなら飲むが、さほどの量ではない。今のところは飲める方ではなさそうなので、フィアリスもこれまであまりすすめてこなかったのだ。
「大人は、いろいろあるからな。酒でも飲まないとやってらんねーのよ」
大人は、の部分をわざと強調する。エヴァンの眉がぴくりと反応した。
「お前はあまり酒が飲めないんだったな」
「飲めないんじゃない、飲まないんだ」
言ってエヴァンは立ち去ろうとする。
「お子ちゃまは酒の旨さもわからないんだから可哀想に。いいさ、お前は部屋に戻ってあったかーい牛の乳でも飲んでいればいい」
「レーヴェ」
フィアリスはうんざりしながらレーヴェをたしなめた。時々退屈になると、こうしてレーヴェはエヴァンを煽って面白がる。
エヴァンは顔を歪めながら食堂内に足を進めて、フィアリスの横の席に勢いよく腰を下ろした。そしてフィアリスの飲みかけのグラスをひったくる。
「エヴァン、挑発に乗るのは子供だよ」
こう言えば引き下がってくれるかと思ったのだが、エヴァンは酒を飲み干した。
「もう一杯下さい」
「ダメだよ、明日の午前から仕事じゃないか」
「あなた達だって仕事です。でも、飲んでる」
「私達は平気だけど、君は……」
「フィアリスも私にミルクでも飲んでさっさと寝ろと言いたいんですね」
本音を言えばそうだ。エヴァンは酒を飲むのに慣れていない。へべれけにさせると翌日が可哀想なことになる。
まだフィアリスは「可愛いエヴァン」を引きずっているから、酒よりミルクが似合うと思ってしまう。ミルクは体にも良いし安眠できる。
「つまりあなたは、私をまだ乳臭いガキだと思っているんですね?」
「そんなこと言ってないよ」
「顔に書いてますよ!」
エヴァンは自分でグラスに酒を注ぎ始めて、一気に飲んでしまう。
とがめる視線をレーヴェに送るが、レーヴェは楽しそうににやつくばかりだ。
それからはどんなになだめても叱っても、グラスを離そうとしない。黙って酒をあおり続ける。
全く子供なんだから、という嘆きを口にしかけたが、状況が悪化しそうなのでどうにかこらえた。
レーヴェがはやし立てる。
「いいぞいいぞ、大した飲みっぷりじゃねーか、気に入った」
「あんたに気に入られるために飲んでない」
げっぷをしながら尚も飲み続けようとするエヴァンの手をフィアリスはつかんだが、振り払われてしまった。
「その辺にしておきなさい」
「まだまだ平気ですよ」
ろくに喋らずひたすら飲むだけ。初心者にしては尋常ではないペースで飲み進めている。
目の前で相当飛ばしながら飲んでいる男がいるので、むきになっているのだろう。しかし飲み比べでレーヴェに勝てるはずもない。
「もう十分じゃないかエヴァン。どうしたっていうんだ、レーヴェにからかわれてるってわからないの?」
「私らって酒を飲みたい時くらいあるんですよ!」
もはや呂律が回らなくなってきている。
そして案の定、さほど夜が更ける前にエヴァンは酔い潰れてしまった。
* * *
レーヴェが手伝ってくれないので、フィアリスは一人エヴァンを支えて部屋まで運ぶ。
これは明日が大変そうだ。フィアリスの記憶では彼がここまで酒を飲んだのは初めてのことだった。
千鳥足だがかろうじてエヴァンは足を前に運べている。
「さあ、エヴァン。君の部屋に着いたからね。とりあえず横になりなさい。水は?」
エヴァンは支えられながらうつむき、かぶりを振る。
今夜はこのまま寝かせた方が良さそうだ。
そう思った時だった。
突然エヴァンに足を払われて、寝台へと押し倒される。
「わっ……」
あっさりとフィアリスは組み敷かれてしまった。
足元もおぼつかないように見えたが、案外まだしっかりしていたようだとのんきに感心する。
「…………」
上にのしかかったまま、エヴァンはフィアリスを見下ろしていた。
しっかりしているかと思ったのだが、目は据わっている。やはりかなり酔いが回っているようだ。
「エヴァン」
「フィアリス、正直に答えて下さい」
エヴァンは怒ったような声を出した。
「私とするのと父上とするの、どちらの方が良いですか?」
突然の問いかけに、フィアリスはただ瞬きをするしかない。
「……酔ってるね、エヴァン」
酔ってでもいなければ、エヴァンがこんな問いを口にするはずがない。
「答えて下さいよ。どっちの方が感じるんですか、あなたは」
暗い部屋の中で、どこか気怠そうな緑の瞳が潤んでいるのが見えた。呼気には酒の香りが混じっている。
フィアリスが沈黙したままでいると、エヴァンは唇を噛んで顔を背けた。
「父上の方が良かったんでしょう。わかってますよ。だって父上は、あなたを……私より……よく知ってる……。父上と、あなたは……ずっと……っ」
答えにくかったから黙っていたわけではない。正直言って驚いていたのだ。酔っているからこそ聞けた本音だった。
フィアリスはエヴァンに手をのばした。触れたエヴァンの体は火照っている。
彼の中に凝固していた苦しみが、熱によって溶けだしてこぼれてきたような感じだった。本人の意思とは無関係に。それが今、フィアリスに滴り落ちてきている。
エヴァンはフィアリスとジュードのかつての関係について、ほとんど触れようとしなかった。いつだかそんなことは気にしていないと言い切っていたが、それは嘘だったのだろう。
よく考えてみれば、気にならないはずがない。気にしないように努力していたのだ。
「……ジュード様は、私の望みを聞いて下さっていたに過ぎないんだよ、エヴァン。私に哀れみをかけて下さったんだ。どうしても交わる必要があったから……」
生々しい話に、エヴァンの顔が歪む。
フィアリスには父も母もおらず、父と息子の関係というものがどんなものかは知らない。だが一般的に、それはとても複雑な感情が絡む関係性だとは聞いていたし、想像もできた。
他人ならいざ知らず、父親と肉体関係のある人間を愛したのだ。エヴァンの煩悶はどれほどのものだっただろう。
この無垢な少年は幾度も傷ついて悩み、自分を納得させてきたに違いない。
「あなた以外とは寝ない」という貞操観念の強さも、そういった悩みが原因なのかもしれない。
フィアリスにとって誰かと性交をすることは、食事をするように大した意味を持っていない。けれど、エヴァンにとっては違うのだ。
――私のせいだな。
清らかなものを愛させてやれなかった。重たい恋を背負わせた。
己の罪の重さに胸が潰れそうになるが、今は自責の念と戯れている場合ではない。自分のことはひとまず脇に置いておかなければならない。
「……あなたは……父上のことが……まだ、好きなんでしょう……?」
フィアリスの胸に額をつけて、エヴァンは呻くように言った。血が滲むような声だった。
「ああ、好きだよ」
いくらでも嘘をつくことはできたけれど、それは一時しのぎにしかならないし、誠実ではない。彼を一人前の人間として認めるなら、尚更。
「私はジュード様が大好きだよ、エヴァン。あの方を尊敬している」
嫌いになるはずがない。ジュードに対する想いは、一生変わらない。
自分を助けてくれた恩人。強くて気の毒な男。不器用だけれど、フィアリスのことを気にかけて、好きなようにさせてくれていた。
人生に初めての光をもたらしてくれた人。それがジュード・リトスロードだ。
じっと見つめるエヴァンの顔を見つめ返して、フィアリスは笑う。
「でもね、どれだけ体を重ねても、私とジュード様の間には、特別な感情はなかったんだ。私はただ安息を得ていただけで、愛なんかじゃなかった。ちっとも……」
互いにある種の愛情はあっただろう。けれど、それは恋情ではない。
フィアリスはそれに少しも気がついていなかった。本当の意味で、愛するということを知らなかったから。
今、こうして恋しい人を目の前にしているとわかるのだけれど。
「私を信じてくれる? エヴァン。私が愛しているのは、君だけなんだ。世界で一番愛しているよ」
そっと手で頬を包むと、エヴァンがきつく目を閉じて、瞼を震わせている。
「……わかってます。ごめんなさい。私は馬鹿なことを……」
酒の勢いで不安をぶちまけてしまったのを、悔やんでいるのだろう。
フィアリスは優しくエヴァンの髪を撫でた。
彼の競争者は偉大で、彼にとって畏怖の対象だった。まだ父を越えられずにいる。もどかしさや腹立たしさと日々戦っているのだろう。
そうしたこととどうにか折り合いをつけて、人は大人になっていく。
「……エヴァン、今夜は私を好きにしていいよ」
そう言うと、エヴァンは訝るような視線を向けてくる。
「いつも私のために、我慢をしてくれているんでしょう? 今日は我慢しなくていい」
エヴァンはしばらく黙っていたが、少しだけ顔を近づけた。
「そんな提案をすると、後悔することになりますよ。止められないかもしれない」
「構わないよ」
微笑んで、フィアリスは手を広げた。
「ほら、おいで」
誘われるまま、エヴァンが覆いかぶさってくる。いつも以上に熱い手が、シャツの中へと滑りこんでくる。
口づけは普段より乱暴で、エヴァンは何かを振り切るようにフィアリスの体を求めた。
* * *
曇っているせいで朝の光はさほど眩しくはない。
フィアリスがシャツのボタンを一つ一つとめて、髪を手櫛で整えていると、背後でエヴァンが身じろぎをする気配がした。
振り向くと、身を起こしたエヴァンが裸のまま、頭を押さえてうなだれている。
「どうだい、エヴァン。二日酔いは最悪だろう?」
見たところ、頭痛と吐き気に襲われているらしい。あれだけ飲めばこうなるに決まっている。
「お酒は付き合いもあるから飲めるにこしたことがないと私も思うよ。でもね、たくさん飲める方が偉いってわけじゃないんだよ。レーヴェを見本にするのはやめなさい。言ってるじゃないか、張り合うなって。あの人はおかしいんだよ、あらゆる面で」
慣れるなら飲み方というものがある。何事も少しずつ慣らしていくべきというのがフィアリスの考えだ。
エヴァンは真っ青な顔をしていたが、のろのろと口を開いた。
「昨日のことが……思い出せないんです……」
「飲み過ぎたんだよ。飲み過ぎるとそうなる」
「私は……」
エヴァンは蒼白なまま、眉間にしわを寄せて言葉を絞り出した。
「何か……しましたか、あなたに」
「何かって?」
「だからその……変なことを言いませんでしたか。あなたを困らせるようなこととか……」
もしかしたら切れ切れに記憶があるのかもしれない。だからあんなに怯えた顔をしているのだろう。
なんだか可哀想で、笑いそうになってしまった。
「別に何も言ってなかったよ」
まだボタンをとめきっていないフィアリスの胸元や首もとに自分がつけた印を見つけて、エヴァンは何を思うのかまたうなだれた。
「君は、午前の仕事は出なくていいから。私とレーヴェでやる。夜はしっかり頼むよ。それまでに体調を整えること」
グラスをエヴァンのところへ運んでやる。
「この水には、レモンとはちみつが入っているからね。これを飲んで寝てなさい。いい子だから」
余程体調が優れないのか、エヴァンは素直に頷いた。子供扱いされても反発する気配もない。
そろそろ朝食の時間だけれど、エヴァンは食べられるかわからないし、スープでも用意しておいてもらおうか。
そんなことを考えながら部屋を出る。
ドアを閉める直前、頭を抱えたエヴァンが「本当に思い出せない……!」とうめくのが聞こえて、フィアリスはとうとう我慢できずに吹き出したのだった。
この館の住人は、使用人も含めてさほど酒を飲まない。全くというわけではないが、いつ緊急事態になるかもしれない中で楽しい酒宴などは開かれないこともあり、せいぜい飲んでも食後に少々、といったところである。
ただレーヴェは大酒のみだ。飲んでも仕事に支障のあるタイプではないので、平気で飲む。
この辺りで葡萄は収穫できないので、葡萄酒は全て輸入品だ。今回レーヴェが山ほど運びこんだのは、特級品から安いものまで種類はいろいろだった。
「あなたはまた、どこからこんなに巻き上げてきたんだか……」
フィアリスは呆れながらグラスの中の赤い液体を眺めた。
フィアリスもうわばみなので酒は水みたいなものだった。以前戯れにレーヴェと飲み比べの勝負をしてみたが、どちらも一向に潰れず、信じられないほどの酒を消費しただけで終わってしまった。
「良くないよレーヴェ、飲み過ぎは」
「俺は飲まない方が体がおかしくなるんでね」
鼻を慣らしてレーヴェは酒をあおる。フィアリスも一口飲んでみたが、なかなか上等な味だった。
「また酒盛りしてるんですか」
食堂の近くを通りかかったエヴァンが足を止めてこちらに声をかけてくる。
エヴァンも葡萄酒くらいなら飲むが、さほどの量ではない。今のところは飲める方ではなさそうなので、フィアリスもこれまであまりすすめてこなかったのだ。
「大人は、いろいろあるからな。酒でも飲まないとやってらんねーのよ」
大人は、の部分をわざと強調する。エヴァンの眉がぴくりと反応した。
「お前はあまり酒が飲めないんだったな」
「飲めないんじゃない、飲まないんだ」
言ってエヴァンは立ち去ろうとする。
「お子ちゃまは酒の旨さもわからないんだから可哀想に。いいさ、お前は部屋に戻ってあったかーい牛の乳でも飲んでいればいい」
「レーヴェ」
フィアリスはうんざりしながらレーヴェをたしなめた。時々退屈になると、こうしてレーヴェはエヴァンを煽って面白がる。
エヴァンは顔を歪めながら食堂内に足を進めて、フィアリスの横の席に勢いよく腰を下ろした。そしてフィアリスの飲みかけのグラスをひったくる。
「エヴァン、挑発に乗るのは子供だよ」
こう言えば引き下がってくれるかと思ったのだが、エヴァンは酒を飲み干した。
「もう一杯下さい」
「ダメだよ、明日の午前から仕事じゃないか」
「あなた達だって仕事です。でも、飲んでる」
「私達は平気だけど、君は……」
「フィアリスも私にミルクでも飲んでさっさと寝ろと言いたいんですね」
本音を言えばそうだ。エヴァンは酒を飲むのに慣れていない。へべれけにさせると翌日が可哀想なことになる。
まだフィアリスは「可愛いエヴァン」を引きずっているから、酒よりミルクが似合うと思ってしまう。ミルクは体にも良いし安眠できる。
「つまりあなたは、私をまだ乳臭いガキだと思っているんですね?」
「そんなこと言ってないよ」
「顔に書いてますよ!」
エヴァンは自分でグラスに酒を注ぎ始めて、一気に飲んでしまう。
とがめる視線をレーヴェに送るが、レーヴェは楽しそうににやつくばかりだ。
それからはどんなになだめても叱っても、グラスを離そうとしない。黙って酒をあおり続ける。
全く子供なんだから、という嘆きを口にしかけたが、状況が悪化しそうなのでどうにかこらえた。
レーヴェがはやし立てる。
「いいぞいいぞ、大した飲みっぷりじゃねーか、気に入った」
「あんたに気に入られるために飲んでない」
げっぷをしながら尚も飲み続けようとするエヴァンの手をフィアリスはつかんだが、振り払われてしまった。
「その辺にしておきなさい」
「まだまだ平気ですよ」
ろくに喋らずひたすら飲むだけ。初心者にしては尋常ではないペースで飲み進めている。
目の前で相当飛ばしながら飲んでいる男がいるので、むきになっているのだろう。しかし飲み比べでレーヴェに勝てるはずもない。
「もう十分じゃないかエヴァン。どうしたっていうんだ、レーヴェにからかわれてるってわからないの?」
「私らって酒を飲みたい時くらいあるんですよ!」
もはや呂律が回らなくなってきている。
そして案の定、さほど夜が更ける前にエヴァンは酔い潰れてしまった。
* * *
レーヴェが手伝ってくれないので、フィアリスは一人エヴァンを支えて部屋まで運ぶ。
これは明日が大変そうだ。フィアリスの記憶では彼がここまで酒を飲んだのは初めてのことだった。
千鳥足だがかろうじてエヴァンは足を前に運べている。
「さあ、エヴァン。君の部屋に着いたからね。とりあえず横になりなさい。水は?」
エヴァンは支えられながらうつむき、かぶりを振る。
今夜はこのまま寝かせた方が良さそうだ。
そう思った時だった。
突然エヴァンに足を払われて、寝台へと押し倒される。
「わっ……」
あっさりとフィアリスは組み敷かれてしまった。
足元もおぼつかないように見えたが、案外まだしっかりしていたようだとのんきに感心する。
「…………」
上にのしかかったまま、エヴァンはフィアリスを見下ろしていた。
しっかりしているかと思ったのだが、目は据わっている。やはりかなり酔いが回っているようだ。
「エヴァン」
「フィアリス、正直に答えて下さい」
エヴァンは怒ったような声を出した。
「私とするのと父上とするの、どちらの方が良いですか?」
突然の問いかけに、フィアリスはただ瞬きをするしかない。
「……酔ってるね、エヴァン」
酔ってでもいなければ、エヴァンがこんな問いを口にするはずがない。
「答えて下さいよ。どっちの方が感じるんですか、あなたは」
暗い部屋の中で、どこか気怠そうな緑の瞳が潤んでいるのが見えた。呼気には酒の香りが混じっている。
フィアリスが沈黙したままでいると、エヴァンは唇を噛んで顔を背けた。
「父上の方が良かったんでしょう。わかってますよ。だって父上は、あなたを……私より……よく知ってる……。父上と、あなたは……ずっと……っ」
答えにくかったから黙っていたわけではない。正直言って驚いていたのだ。酔っているからこそ聞けた本音だった。
フィアリスはエヴァンに手をのばした。触れたエヴァンの体は火照っている。
彼の中に凝固していた苦しみが、熱によって溶けだしてこぼれてきたような感じだった。本人の意思とは無関係に。それが今、フィアリスに滴り落ちてきている。
エヴァンはフィアリスとジュードのかつての関係について、ほとんど触れようとしなかった。いつだかそんなことは気にしていないと言い切っていたが、それは嘘だったのだろう。
よく考えてみれば、気にならないはずがない。気にしないように努力していたのだ。
「……ジュード様は、私の望みを聞いて下さっていたに過ぎないんだよ、エヴァン。私に哀れみをかけて下さったんだ。どうしても交わる必要があったから……」
生々しい話に、エヴァンの顔が歪む。
フィアリスには父も母もおらず、父と息子の関係というものがどんなものかは知らない。だが一般的に、それはとても複雑な感情が絡む関係性だとは聞いていたし、想像もできた。
他人ならいざ知らず、父親と肉体関係のある人間を愛したのだ。エヴァンの煩悶はどれほどのものだっただろう。
この無垢な少年は幾度も傷ついて悩み、自分を納得させてきたに違いない。
「あなた以外とは寝ない」という貞操観念の強さも、そういった悩みが原因なのかもしれない。
フィアリスにとって誰かと性交をすることは、食事をするように大した意味を持っていない。けれど、エヴァンにとっては違うのだ。
――私のせいだな。
清らかなものを愛させてやれなかった。重たい恋を背負わせた。
己の罪の重さに胸が潰れそうになるが、今は自責の念と戯れている場合ではない。自分のことはひとまず脇に置いておかなければならない。
「……あなたは……父上のことが……まだ、好きなんでしょう……?」
フィアリスの胸に額をつけて、エヴァンは呻くように言った。血が滲むような声だった。
「ああ、好きだよ」
いくらでも嘘をつくことはできたけれど、それは一時しのぎにしかならないし、誠実ではない。彼を一人前の人間として認めるなら、尚更。
「私はジュード様が大好きだよ、エヴァン。あの方を尊敬している」
嫌いになるはずがない。ジュードに対する想いは、一生変わらない。
自分を助けてくれた恩人。強くて気の毒な男。不器用だけれど、フィアリスのことを気にかけて、好きなようにさせてくれていた。
人生に初めての光をもたらしてくれた人。それがジュード・リトスロードだ。
じっと見つめるエヴァンの顔を見つめ返して、フィアリスは笑う。
「でもね、どれだけ体を重ねても、私とジュード様の間には、特別な感情はなかったんだ。私はただ安息を得ていただけで、愛なんかじゃなかった。ちっとも……」
互いにある種の愛情はあっただろう。けれど、それは恋情ではない。
フィアリスはそれに少しも気がついていなかった。本当の意味で、愛するということを知らなかったから。
今、こうして恋しい人を目の前にしているとわかるのだけれど。
「私を信じてくれる? エヴァン。私が愛しているのは、君だけなんだ。世界で一番愛しているよ」
そっと手で頬を包むと、エヴァンがきつく目を閉じて、瞼を震わせている。
「……わかってます。ごめんなさい。私は馬鹿なことを……」
酒の勢いで不安をぶちまけてしまったのを、悔やんでいるのだろう。
フィアリスは優しくエヴァンの髪を撫でた。
彼の競争者は偉大で、彼にとって畏怖の対象だった。まだ父を越えられずにいる。もどかしさや腹立たしさと日々戦っているのだろう。
そうしたこととどうにか折り合いをつけて、人は大人になっていく。
「……エヴァン、今夜は私を好きにしていいよ」
そう言うと、エヴァンは訝るような視線を向けてくる。
「いつも私のために、我慢をしてくれているんでしょう? 今日は我慢しなくていい」
エヴァンはしばらく黙っていたが、少しだけ顔を近づけた。
「そんな提案をすると、後悔することになりますよ。止められないかもしれない」
「構わないよ」
微笑んで、フィアリスは手を広げた。
「ほら、おいで」
誘われるまま、エヴァンが覆いかぶさってくる。いつも以上に熱い手が、シャツの中へと滑りこんでくる。
口づけは普段より乱暴で、エヴァンは何かを振り切るようにフィアリスの体を求めた。
* * *
曇っているせいで朝の光はさほど眩しくはない。
フィアリスがシャツのボタンを一つ一つとめて、髪を手櫛で整えていると、背後でエヴァンが身じろぎをする気配がした。
振り向くと、身を起こしたエヴァンが裸のまま、頭を押さえてうなだれている。
「どうだい、エヴァン。二日酔いは最悪だろう?」
見たところ、頭痛と吐き気に襲われているらしい。あれだけ飲めばこうなるに決まっている。
「お酒は付き合いもあるから飲めるにこしたことがないと私も思うよ。でもね、たくさん飲める方が偉いってわけじゃないんだよ。レーヴェを見本にするのはやめなさい。言ってるじゃないか、張り合うなって。あの人はおかしいんだよ、あらゆる面で」
慣れるなら飲み方というものがある。何事も少しずつ慣らしていくべきというのがフィアリスの考えだ。
エヴァンは真っ青な顔をしていたが、のろのろと口を開いた。
「昨日のことが……思い出せないんです……」
「飲み過ぎたんだよ。飲み過ぎるとそうなる」
「私は……」
エヴァンは蒼白なまま、眉間にしわを寄せて言葉を絞り出した。
「何か……しましたか、あなたに」
「何かって?」
「だからその……変なことを言いませんでしたか。あなたを困らせるようなこととか……」
もしかしたら切れ切れに記憶があるのかもしれない。だからあんなに怯えた顔をしているのだろう。
なんだか可哀想で、笑いそうになってしまった。
「別に何も言ってなかったよ」
まだボタンをとめきっていないフィアリスの胸元や首もとに自分がつけた印を見つけて、エヴァンは何を思うのかまたうなだれた。
「君は、午前の仕事は出なくていいから。私とレーヴェでやる。夜はしっかり頼むよ。それまでに体調を整えること」
グラスをエヴァンのところへ運んでやる。
「この水には、レモンとはちみつが入っているからね。これを飲んで寝てなさい。いい子だから」
余程体調が優れないのか、エヴァンは素直に頷いた。子供扱いされても反発する気配もない。
そろそろ朝食の時間だけれど、エヴァンは食べられるかわからないし、スープでも用意しておいてもらおうか。
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使用後には、加筆・修正を加えています。
利用規約、出力した文章の著作権に関しては以下のURLをご参照ください。
■GPT
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■Claude
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■Grok Bate
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こぶじ
BL
前世の記憶を持っている孤児のトマスは、特待生として入学した魔法術の学院で、前世の恋人の生まれ変わりであるジェラード王子殿下と出会う。お互い惹かれ合い相思相愛となるが、トマスの前世にそっくりな少女ガブリエルと知り合ったジェラードは、トマスを邪険にしてガブリエルと始終過ごすようになり…
【現世】凛々しく頑強なドス黒ヤンデレ第一王子ジェラード✕健気で前向きな戦争孤児トマス
(ジェラードは前世と容姿と外面は同じだが、執着拗らせヤンデレ攻め)
【前世】凛々しく頑強なお人好し王弟ミラード✕人心掌握に長けた美貌の神官エゼキエル
(ミラードはひたすら一途で献身的溺愛攻め)
※前世の話が、話の前半で合間合間に挟まります
※前世は死に別れます
※前世も現世も、受け攻め共に徹頭徹尾一途です
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