彼にとって、世界を救うより大切なこと(神城結友の場合)

パンPキン

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 ビルの屋上で、望月を背負う蒼髪バニーエルフから矢が放たれた。

 ーーヒュン。

 死が急迫する。結友は瞠目するばかり。意中の人から問答無用で射掛けられた。心と空気を切り裂く一矢は、キラッと月光を照り返しつつ、まっすぐに結友のもとまで翔び来たり、そしてーー。

 結友の耳元を掠め、今にも彼の首筋に牙を食い込ませようとしていた獣の眉間をはっしと射抜いた。やじりが頭蓋を貫き、命を絶つ。

 固まっていた結友は弾かれたように背後を振り返る。そこには、狭い額に矢が突き立って息絶えた犬らしき動物が横たわっていた。大きい。体長が2メートルはある。

(でぇかッ! 野犬……!? 違う、狼だ! 日本だぞココ! いるのは動物園くらいだって! ていうか、ありえないだろっての!)

 人工島どころか日本の狼は絶滅している。そもそも狼と犬は似ており、現代っ子が一目で判別することは難しい。結友が狼と断定できたのは、単純に、見たことがある狼だったからだ。もちろん、現実ではない。あろうことか、A.W.sの中である。結友を背後から襲撃したのは、昨日のレイド戦でも現れた戦狼ウォーウルフだった。
 しかも仕留められた一体だけではない。知らぬうちに、他に3体もの戦狼が闇夜に隠れて音もなく忍び寄っていた。その事実に、全身が冷たく強張る。今は仲間をたれ、結友獲物から距離を取り、ビルの屋上の弓使いを警戒している。

 あのバニーエルフに、自分が狙われていた訳では無かった。むしろ助けてくれたと分かると、肩から力が抜けて、傷つついたと感じた自分が恥ずかしくなる。このままうずくまってしまいたい。もちろん、そんなことをすれば、せっかく助けてもらえた命を無駄にしてしまう。結友はここまでで摩耗してしまった精神に活を入れ、どうにか気力で自分の足腰を支える。

 それを援護するかのように、立て続けに飛来した矢がアスファルトに並んで突き刺さる。A.W.sの住人であるはずの戦狼たちは追い立てられ、さらに間合いが伸びた。

 そこへ、蒼髪バニーエルフが軽やかに着地した。もちろん、ビルの屋上からだ。思わず結友は彼女が飛び降りてきたビルを見上げる。人間なら無事では済むまい。冗談抜きで女神降臨キタと思った。

「お怪我はありませんか? ……ごめんなさい。矢が少し掠めましたね」

 華奢な背中を見せる蒼髪バニーエルフは、肩越しに結友を見やって、申し訳なさそうに優美なお顔立ちを曇らせる。しかしすぐに切り替えて、鋭い視線と機械仕掛け弓で、3体の戦狼たちを牽制した。

 改めて、間近で彼女を観る。蒼い髪の妖精は、まるで冗談のように、満月の似合うウサ耳を生やしていた。警戒でピンと直立している。黒のボディースーツには、胸当てや脛当てといったプロテクターがついているが、防具と呼べるほどの装備には見えない。何の素材かは不明だが、ボディースーツは肌に張り付いており、魅惑のボディーラインが浮き彫りで、とても豊かに膨らんだ胸元が、ちょっと動くだけで弾むように揺れている。目のやり場に困るーーなんてことはない。結友の目はぶるんぶるんと揺れる胸に吸い寄せられている。ガン見だ。ボディースーツは全身を覆うタイプではなく、細い肩や白い太ももが露出し、透け感のあるパレオが、くびれた腰回りを申し訳程度に隠していた。

 正直に言おう。かなり扇情的だ。より直接的に言えば、エロい。生唾を呑む。
 こんな状況にも関わらず、深窓の令嬢然とした彼女が、その清楚な気品と相反する妖艶な色香を漂わせ、免疫のない結友は参ってしまっていた。瞳孔が開ききっている。鼻息も洗い。警察が必要かもしれない。

「……あの、だいじょうぶですか?」

 結友の様子がおかしいことに気づき、狼を見つつつも、心配そうな声をよこす艶姿のバニーエルフ。……その格好でバニーってのがズルい。

「あ、えっと……大丈夫です、けど……」

 戦狼がいるこの状況で、どれだけ言葉を続けていいか分からない。何かの拍子に、戦狼が襲いかからないとも限らない。
 ただ、バニーエルフは緊張感こそあるものの、悲壮感や混乱している様子はない。少なくとも、状況を打開する力と何が起きているかの情報を持っているようだった。だとするならば、落ち着くためにも、いくつか聞いておきたいことがある。この状況で? とも思ったが、我慢できなかった。

「あの……ミヲさん、ですよね? これって何が起きてーー」
「……ごめんなさい、先にお伝えしておきますと、今は非常時です。詳しい説明をしている時間はありません。一つだけ言えることは、これは現実です。あの狼たちも、あなたに私が付けてしまった傷も……夢やゲームのようですが、少なくともあなたの頬を伝う血は本物です。難しいとは思いますが、目の前に集中して、私の傍から離れないでください」

 美貌の蒼髪バニーエルフは、弓をいつでも放てる姿勢を維持しつつ、少し硬質な声音で伝える。結友が自分の頬に触れると、ズキリと痛み、左手の甲が赤く染まった。頭の芯が急冷する。どこか浮ついた気持ち。現実を受け入れられない甘さ。その両方が失せた。代わりに、A.W.sではもちえない、体を縛り付けるナマの恐怖が頭をもたげ、そこへ、新たに圧倒的なプレッシャーが頭上から追い打ちをしかけてきて、結友は膝を屈する。

(……っ! なんだコレ。息が、ーーッ!?)

 頭を押さえつける圧に抗い、どうにか顎を上げる。見上げた先は、蒼髪バニーエルフのミヲがいたビルの屋上。そこにーー。

 世界を凍てつかせる息を吐く、紅い三ツ目の巨狼が、異端の神のごとく悠然とこちらを睥睨していた。
 その威容を目にした途端、神獣からの圧で、結友は呼吸困難に陥る。そのくせ、心臓は心拍数を上げ、血液中の酸素を加速度的に消費していく。すぐ酸欠で目がかすみだした。だが肺は凍りついてしまったかのように動かず……。

「ーー私だけを見てください!!」

 伸びてきた白い手が、結友の顔の向きを変える。視界いっぱいに、優麗なバニーエルフの美貌が広がった。鼻先がくっつきそうだ。彼女の息遣いを肌で感じる。藍色の双眸の、さらに真ん中の瞳孔から目を離すことができない。全身に熱がほとばしり、痺れている。
 結友の意識はミヲで埋め尽くされた。それはそれで心臓に悪く、完全に息の根を止めに来ている。
 だが、おかげで。巨狼からの壮絶な重圧からは解放された。肺も動き、四肢にも体温が戻る。時間にして数秒。これだけ短い間に、極度の緊張からまた別ベクトルの緊張へと連れ回され、この振れ幅に、結友の心はついていくことを放棄した。

(もう夢でも何でもいい。今はただ、もっとこの綺麗な目を見つめてたい……)

 清艶なバニーエルフにすべてを忘れてしまいそうになる寸前、彼女の綺麗なお顔がパッと消えた。ハッと夢から醒める結友。名残り惜しくて彼女の影を探す。
 ミヲはその場で屈んでいた。結友の足元。花のご尊顔が、ちょうど結友の下腹部のあたりをマジマジと見ている。センシティブな位置に、何をどうしてくれるのかと、期待に胸が膨らんでしまった。

「………ほえ?」

 直後。バニーエルフは結友の胸を踏みつけた。三角跳びの要領で後方宙返りをきめる。一方の足蹴にされた結友は、混乱に陥りながら力に負けて背中から倒れる。
 そうして、結友が見た光景は。倒れ込む自身の眼前を跳び超えていく、戦狼の白い腹部だった。ミヲの牽制がなくなり、機と見た戦狼たちが急襲を仕掛けたのである。紺碧の瞳に魅入られていた結友は全く気づけなかった。

(ぐぅっ……!!)

 受け身も取れず、歩道のアスファルトに背中を打ち付ける。ちょうど結友を跳び超えた戦狼も、距離を置いて着地した。即座に振り返る戦狼。その狭い眉間に、はっしとカーボン製の矢が突き刺さる。戦狼は少し痙攣し、やがてゆっくりと横ざまに倒れ伏した。

 射手は、無論、蒼髪バニーエルフ。結友を壁にした宙返りで、戦狼のバックアタックを華麗に躱すや、そのまま地面に降り立つより先に、流れるような動きで弓を射た。神業と言える技量である。そも、人間離れした身体能力だ。
 あまりの見事さに結友が口を開けてエルフを見ていると、着地したばかりの彼女に、狡猾な戦狼が二頭で殺到する。結友は脅威にならないと判断しての挟撃だった。A.W.sでの戦狼は仲間意識が強いモンスターだ。眼の前にいる戦狼の実際は知らないが、激情で目を真っ赤に染め、牙を剥き出している。

 着地したばかりのエルフに、続けて回避する余裕はない……代わりに、エルフはそのエルフたる所以を遺憾無く発揮した。
 すなわち、魔術で迎撃したのである。ミヲが両手で足元のアスファルトに触れると、歩道に円陣の魔術式が光の線で描かれた。寸暇を置かず、その円陣系術式サークレットから水の槍が飛び出した。
 全力で跳び込んだ2頭の戦狼に回避する術は残されていなかった。胸部を冰槍ひそうに貫かれて息絶えた。
 事も無げに三頭もの大型狼を掃討した蒼髪バニーエルフは、平静さを崩さずに、摩天楼に現れた氷の巨狼王を見上げる。
 
「まさかフェンリルまで顕現してしまうなんて……それに一般人の迷い込み。異世界の混入コンタミが進んでしまっている……やはり早すぎたのです、叔父様」

 バニーエルフの整った横顔に苦悩が見え隠れする。それでも結友の視線に気づくと、すぐに切り替えた。
 
「さぞや混乱されているでしょうが、他の何処でもない、何時でもない、で私とあなたは出会った。……運命なのでしょう。これが幸運なのか、それとも運の尽きなのか。それは分かりません。ですが私とあなたはすでに運命共同体。言いたいことはあるでしょうが、ここはもう戦場いくさば。生きるか死ぬかです。ご覚悟を……」

 儚げで優美な面立ちの碧眼が、まっすぐに、視線で結友をつらぬく。心のどこかで「なんとかなるかもしれない」と考え始めていた結友に、その透徹した蒼い双眸は、現実を突きつけるモノだった。顔が強張るのを自覚する。けれど続けて、バニーエルフは緊張を和らげるためか、優美な面立ちに、少し悪戯っぽい微笑みを浮かべて、

「どうした訳か、運命共同体となりましたので、これからどうなっても私は一緒です。よろしくお願いしますね? ……ふふ、なんだか結婚式の誓いの言葉みたいですね。まさか出会ったばかりの方に言ってしまうなんて。人生、何が起きるか分かりませんね」

 だから最後まで諦めないで。バニーエルフはそう言外に伝えてくれた。
 同世代の少女に、ここまで言わせておいて、気を遣わせておいて、ひとつの微笑みすら浮かべられない男に、結友はなりたくなかった。このバニーでエルフな少女に、少しでも、見合う男になりたいと心の底から願った。結友は微笑み返す。どうしようもなく、恐怖で引きつってしまう微笑みを。

「こちらこそ。……なぁに、俺は昔からツイてるんです。こんなに綺麗な人に、どこまでも一緒ですって言われて、男として、こんなにツイてることはありません。別に何かした訳でもないんですよ? ただいただけ。だから、ぜったい、なんとかなりますよ」
「ふふ、そうですね。なんとかなります」

 バニーエルフが浮かべた微笑みは、今度は、自然な柔らかいモノだった。
 話し終えると、ふたりは揃って、我が物顔で摩天楼に座す巨躯の氷魔狼を見上げる。凶悪ながらも知性を感じさせる巨狼は、仲間が討たれても無関心で、事の成り行きをまさしく高みの見物をしていた。結友がバニーエルフと話をしている間も、小さな人間を見定めるかのように三ツ目で睥睨していた。
 そのままこちらへの興味を失い、どこかへ行ってはくれまいか。そう期待する結友だったが、三ツ目の氷魔狼は特に大きな額の目を細めると、ビルから跳び下りた。結友は地面の揺れに備えたが、巨狼の着地はウソのように静音だった。巻き起こった風が、ふたりの髪を揺らすのみ。

 当たり前だが、高低差のあった時とない時とでは、受ける重圧に隔絶した差があった。先程までアレだけ離れていても膝を屈してしまうほどだったのに、バスや大型トラック並の体格を持つ魔獣がたった十数メートル先にいるだけで、気が触れてしまいそうになる。牛や馬くらいなら平気で丸呑みするだろう顎も、鋭い獣の牙が並んでいた。無意識に、前に立つバニーエルフの華奢な背中に身を隠してしまう。自分でそれに気が付かないほど、結友は圧倒されていた。

 氷魔狼の威容を間近で観ることになる。全身を覆う青黒い体毛は不吉な色味で、幾重にも積み重ねた死の気配を漂わせている。四足の先に付いた真紅の獣爪じゅうそうは、発熱しているのか、触れているアスファルトを紙のように裂いてしまっている。逆に、剥き出しの牙を濡らす唾液は、液体窒素にも勝る超低温で、滴った先を白く凍てつかせていた。恐怖を与える大顎からは吐息が漏れ、常に周囲を冷却し、夏なのにすでに側溝を流れる水を凍らせている。冷凍室にでも入ったかのようだ。一際異様なのが、額でぎょろぎょろ動く第三の目である。血の色をしたソレがこちらを捉えると、執拗かつ冷徹な殺意を滝のごとく叩きつけられるようだった。

 気が触れそうになる重苦しい威圧プレッシャー。唾を飲み込むのだって、やっとのこと。心が紙くずのように潰されそうだ。カチカチと小刻みに聞こえる音。それが自分の顎が鳴らしているとすぐに気付けなかった。
 さっきの自分の発言をひるがえすつもりはない。だが体の震えを止められない。内側から湧く強烈な寒気に吐きそうだった。ただ、側のバニーエルフへの思慕と釣り合いたいという心願だけで、結友は紙一重に理性を繋ぎ止めている。理性これを手放したら、結友だけでなく彼女も命を落とす。嬉しいことに、一蓮托生なのだから……。

(すぅー……、はぁー……)

 心身一如。心を整えるには、まず呼吸と姿勢から。肩は脱力を心がけ、力は丹田に。胸を軽く開き、腰骨を立て、肛門は締める。息は吐くほうを丁寧に、深く、ゆっくりと。これらは完全にできなくたっていい。心がけるだけで十分だ。
 
(こいつも、昨晩のレイド戦のボスにそっくりだ。三ツ目じゃなかったけど……)

 体格差からこちらを睥睨する巨狼は、ほんの小一時間前、A.W.sに登場したフェンリルに酷似している。あのフェンリルはこの巨狼をモチーフにしたと言われても納得できた。

「ーーーッ!?」

 何の前触れもなく、そして何事でもないように、三ツ目の氷魔狼は、まるでロウソクの火を吹き消すが如く、大地を凍てつかせる吐息ブレスを噴きかけた。たったそれだけのことで、アスファルトが白く凍り、ヒビ割れ、その絶対零度は小さな人とエルフの命を容赦なく刈り取りに襲いかかる。急な命の危機に、結友は身をすくませるだけ。大きな存在や災害を前に、人間はあまりにちっぽけだ。

 極限の世界で、全てがスローモーションに映るなか、バニーエルフが素早く動いた。

 処女雪のように白い細腕を突き出し、唇が呪文を唱える。聞き取れない高速詠唱。妖精の後背に六花の紋章が顕現した。3対の翼にも見えるソレらは、神聖な気配を漂わせる蒼白い光に輝く。蒼髪バニーエルフは天使にもなれた。頭に輪っかでなく、ウサ耳をつけた天使の腕の先に術式が展開。蒼い魔術陣が描かれ、まさに今、絶対零度の突風ブレスを防ぐ光の大盾となる。大気中の水分を凍らせて、白い風と化した氷のブレスは、岩に激突した急流のごとく荒々しく暴れ狂う! 廃墟じみた真夜中のビル街で、まばゆい白亜の閃光が炸裂。一瞬で夜が掻き消えた。白い風と蒼の聖楯せいじゅんが衝突した余波だけでビル群の窓ガラスが破砕する。アスファルトの路面には亀裂が走った。暴力の嵐が周囲を破壊していく。

 尋常ならざる力のぶつかり合いに、結友は悲鳴を上げるも、自分の声が聞こえない。轟音が激流のごとく逆巻いていた。
 それでも。パキン! と何か硬質なモノが割れる音が耳朶を打つ。胸元を締め付ける、強烈に冷たい予感。悲鳴すら呑み込んで、音源を探ると……、命綱の聖楯に亀裂が生じていた。いよいよ後がない。呼吸が止まる。

 ふたりを守る蒼い魔術陣の術式に乱れが生じている。バニーエルフは欠けたり崩れたりする術式を随時書き直し、魔力も体中から捻出して、聖楯の維持に懸命になる。
 麗しい美貌が苦痛に歪んでいる。相当に苦しいのだろう。それでも、結友は見ていることしかできない。状況に翻弄されるばかりで、抗うことすら許されない。結友の前に立ち、魔術だけでなく自分の体でも、楯の亀裂から侵入する白い風から結友を守るエルフの玉の肌に、重度の凍傷が広がっていく……。

 好いた女が、自分を守るため傷ついていく。好いた女のために何かをしたい。だが下手に何かすれば、好いた女の懸命な努力が全て水泡に帰してしまう。

 ーー理解している! 自分にできることは、ただこうして見ているだけだ! だからいっそ、この意識を手放したくなるッ!

 だが、それすら好いた女のためにならない。自分だけの命ではなくなっていた。ならば守るなとでも言おうか。今更だ。それに、それだけは言ってはならない気がした。
 唇を噛む。血が滲む。痛みは感じない。結友は自分のこころを、千々ちぢに乱してはつくろい、また千々に乱しては繕うという呻吟しんぎんに耐えねばならなかった。

 白い風と蒼い魔術障壁がせめぎ合った時間は10秒もなかった。それでも、術式が刻まれた魔術陣はヒビだらけで、指で触れたら砕けそうだった。全力を振り絞り、精魂尽き果てたバニーエルフが、一瞬、気を失ってふらつくも、危ういところで持ち直す。
 優しい美貌の横顔が、実に弱々しくて病的に儚げだった。生気のない色白さで、呼吸も浅い。立っているのがやっとに見える。

「はぁ……はぁ……ふふ、ちょっと、力負けしてしまいました」
「ーーーッ!」

 自分の方が圧倒的に苦しいだろうに、結友に微笑みかける。少しでも精神的不安を和らげるために。たとえソレが、一時的なモノだったとしても。……なんと強くて気高い、優しい心根だろうか。

 告白しよう。懸命に守ろうとしてくれる彼女を心配したのも事実だが、心のどこかで「絶対に助けてくれ!」「まだ死にたくない!」「もっと頑張ってくれ!」といった願望があったのも事実だ。それらを否定はしない。どれだけ切実だったかは、自分が良く分かっている。必死に神に祈っていた。今もそれは消えていない。
 だが、バニーエルフの微笑みを見て、自分の小ささを思い知らされた。胸のうちを掻きむしるような、言葉にならない苦みのある熱に結友はうつむいてしまう。

「ありがとうございます。支えて頂いて……もう大丈夫です。……その、苦しいので」
「はい? ………ッ?! ごめんなさい!」

 結友はバニーエルフに後ろから抱きついていた。両腕を細腰に回し、自分でも驚くほど強く抱きしめている。極限状態に置かれ、軽い錯乱状態に陥り、無意識に、頼りのエルフを抱き寄せてしまったのだろう。決して、下心があったわけではない。

「あ、いえ、構いません。むしろ、錯乱しないでいてくれて良かったです。信じてくれたのですよね?」
「す、スイマセン。そう言ってもらえると助かります(……待てよ? じゃあまた同じ状況になったら大手を振って抱きつける?)」
「……何をお考えですか?」
 気品ある清楚な笑顔が実に怖い。
「な、なんでもありません……」

 顔から火が出そうだ。いくら怖かったからとて、好きな少女に後ろから抱きつくとか、これが日常なら警察が来てしまう。事情が事情ゆえ、蒼髪バニーエルフは不問としてくれるようだが、もう高校生となった男が泣き叫んで抱きつくなど、情けなくて泣けてくる。
 だが、最後だけは、バニーエルフの柔らかさと繊細さ、そしてぬくもりと髪のイイ匂いを、体のあちこちが覚えており「よくやった自分!」と褒める自分も確かにいた。我ながら逞しいモノだと感心する。目前には、圧倒的な死の気配を放つ、巨躯の氷魔狼がいるというのに……。感覚がマヒしてしまったか。

「ふぅ………」

 白く、やや肉付きの良い太もものホルスターから試験管を取り出し、あおって飲み込んだ。何かの薬品らしい。バニーエルフの顔色が少し良くなるも、強い疲労感を隠しきれていない。

 一方の紅い三ツ目の氷魔狼は健在だ。今のブレスで氷像とならなかった小さき生命たちを興味深そうに観察している。圧倒的強者だからこそ産まれる興味であった。
 第三の紅い目に見つめられて、結友は足の先から頭のてっぺんまで、白く霜が降りていくのを感じた。胸が圧し潰されて、息が吸えない。膝も顎も凍りついて、震えることすらできない。丹田に力を込めようとしても、意識が紅い目に縫い付けられてしまう。摩耗して、千々に千切れて、それでもどうにか繕ったこころが、息絶えていくのが分かる。自分の足で立てていることが奇跡だ。

 ……どうやら、ここまでらしい。

 生への執着も、切実な願いも、圧倒的な暴力によって断ち切られた。四方よもも塞がり、逃げ場はない。どん詰まりだ。
 そうして絶望の淵に立たされたとき、ふっと、結友の胸の奥で灯った言葉があった。

 ーー人間じんかん五十年 下天けてんのうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度ひとたび生をけ 滅せぬもののあるべきか ーー 

 戦国時代の風雲児、織田信長が桶狭間に出陣する際に舞った幸若舞、敦盛の一節。かつて時代を駆け抜けた猛将。その研ぎ澄まされた心境を理解できるとは到底言えないが、それでも、結友は今この一節が強く響いた。一度は死んだ感情が息を吹き返す。

 あの信長でさえ、決戦に臨む際に死を感じ、それでも、やむにやまれれぬからと断行したのだ。戦地に向かって駆けたのだ。それも約4000人という他人を引き連れて……。どのような気持ちだったのだろう。

 ともかく、ここは結友にとって逃れようのない死地である。信長にとっては本能寺か。であれば、信長が本能寺でも敦盛を舞ったという説を結友は信じてイイと思う。
 武士道とは死ぬことと見つけたり。如何に死すべきかを人生で体現するのが武士道の精髄なのだろうから。

 とは言え、結友は武士ではない。その道を体現する必要などないと言われれば、まさしくその通り。だが日本男児だ。それも神道の系譜である。そしてその人生は結友だけのもの。誰にどうこう言われる筋合いはない。
 だから。どうせ死ぬのなら、せめて……身を挺して守ってくれたこの美しいバニーでエルフな少女のために死のう。優しく、気高く、誇り高い、清廉なこの少女のために。それが粋……快男児のあり方ではあるまいか。

 もちろん、そうしたからとて、三ツ目のこの厄災から彼女を守り切るなど、出来ようはずがない。そんなことは理解している。されど、何をしても結果が変わらぬのであれば、その過程に意義を見出すほかあるまいて。仏法に言う「不惜身命ふしゃくしんみょう但惜身命たんじゃくしんみょう」。ここが、たった一つの命の使い所。

 ーー結友はこころを決めた。これから彼女のために死ぬが、彼女のためではない。そうしたいと願った自分のために、そうあるのである。なにより、現実的には、意味のないことだ。誰にも知られず、何者をも守れない。ちっぽけな少年の、単なる意地である。これに何の意味があるのかと、小馬鹿にする幻の声が脳裏に聞こえる。結友は笑った。

さかしらなだけの連中には分かるまい! 嗤いたければ嗤うがいいッ! 俺の人生は、俺が決める! 自分を認められればそれでいいんだ! 神城結友の人生は、俺のためにあるんだから! 天地あめつちまします八百万の神々よ、ご笑覧あれ! これからお見せしますは、我が一世一代の大快事なり!)

 腹が据わり、結友の顔つきが変わる。鬼の形相? ーー否。春の日差しのような、穏やかであたたかい、うららかな微笑みである。
 間近でそれを観た蒼髪バニーエルフは息を呑む。この死地において、一般的な男子高校生にできる表情ではない。たとえ戰場の経験がある同僚でさえ、浮かべられる笑顔ではなかった。エルフ特有の耳に、彼の明るくて穏やかな声音が届く。

「守ってくれてありがとう。なぁに、その時はその時ですよ……是非もなしってね。ああ、そうだ。伝えておかないと……とてもキレイですよ、ミヲさん。あなたに一目惚れしました。大好きです………たはは、言っちまった。でも言っとかねぇと後悔するしな、ウン」
「……………」

 顔を赤らめる結友の唐突な告白に、細い肩を震わせて瞠目するバニーエルフ。頭のウサ耳もピンと直立した。マジマジと結友を見ている。怜悧さを失わない美麗な顔立ちが、ちょっと間抜けに呆けていた。
 わずか数秒の沈黙を置いて、蒼髪バニーエルフは我に返る。自身に伸し掛かっていた疲労感や魔術の過剰行使による痛苦を忘れ、小さく噴き出してしまう。
 実を言うと、蒼髪バニーエルフはその類稀な美貌から、告白されたことは一度や二度ではない。だがこのような状況で、それも出会ったばかりという時期に、という経験はなかった。新鮮だ。あまりに手が早い。彼女も状況を忘れ、笑ってしまう。とりわけ、記憶に残る電撃的な告白だった。

「ーーあなたになら、懸けられます。いえ、ぜひ私の……私たちの全てを懸けさせて下さい。よろしいですよね? お祖父様。彼になら、例え全てを失うことになってしまったとしても、地獄の底で笑えますから」
「………?」

 俯いた蒼髪バニーエルフが何事か言うと、これまた何かを決意したかのように、優美な面立ちを凛とさせた。どこか自己犠牲すら厭わぬ悲壮感の漂うソレではない。深い藍色の双眸には、未来を切り開かんとする希望の灯が煌々と燃えていた。その顔に「我に策あり」と書いてある。相手はこの巨大な氷魔狼だぞ? 面白い。乗った。そう目で伝える。言葉はすでに必要なかった。「分が悪い賭けですよ?」と花の顔が尋ねる。「構いません」と結友は頷いた。

「GRRRrrrr……」

 魔物は魔物でも、王を戴く氷魔狼。まるで話は済んだかと小さく唸った。もちろん、本当のところは分からない。澪と話した時間は、それこそ2、3分程度。これだけ近い間合いでは長い時間だが、単に結友とエルフを観察していたとも思える。観察する妥当な理由までは分からないが。単なる気まぐれの可能性も高い。

 なんにせよ。氷魔狼にはある程度の知性が備わっているようだ。融和な知性であれば言うことはなかった。
 氷魔狼からの重圧が瀑布のように押し寄せ、結友は心臓を冷たい獣爪に鷲掴みにされた心地になる。息苦しく、手足が冷たい。だが、すでに死を見据えた身。怖くて怖くてたまらないが、芯をぶらすこともしない。隣の美少女エルフのために死ぬ。それだけが、結友が依って立つ理由だった。

 蒼髪バニーエルフが尖った耳の付け根あたりに手を添えた。そこにはイヤリングに見せた通信機があった。

「こちら月島。緊急事態発生。個体名<フェンリル>と思しき魔獣に遭遇。8割程度の実体化を確認しました」
『なんだって?! マジっすか!? だとしたらすぐ逃げて下さい! いくら澪さんでも無理筋ッス!』

 通信機から届く音声が、側にいた結友にも聞こえる。若い男性だ。ちょっとジェラシー。そんな場合でもないのに。
 蒼髪バニーエルフーー月島澪は返答せず、情報だけを淡々と伝える。

「当方の損耗甚だしく、逃走不可と判断。これより<緊急転位>を決行。転位後の救援を要請します。通信終了」
『な、チョッ! 聞こえないんスか澪さん?! インカムの故障か!? くそっ、この状況での緊急転位は自殺行為だッ! 止してくれ!』

 オペレーターの必死な呼びかけが漏れ聞こえる。澪は無視してイヤリングを外し、地面に捨ててしまった。結友は何も言わず黙って隣にいた。彼女の好きなようにさせたかった。妙なことに、結友のことに一つも言及しなかった。何か考えがあるのだろう。

 通信を漏れ聞いたところで、結友にはどこかへ転〝移〟ワープするらしいとしか分からなかった。行き先も不明。確かに理解できたことは、これから澪がやろうとしている転移は二者択一ということ。つまり、座して死を待つか、危険を冒して死に挑むか。かなりの危険を伴うであろうことは、オペレーターの焦り具合からして察せられた。それでも、聡明な澪が導き出した、この死地を切り抜ける唯一の方法である。蒼髪でバニーでエルフな月島澪が、結友へ穏やかに微笑みかける。

「……うふ。不束者ですが、この私と一緒に死んで頂けますか?」
「ええ、あなたとなら、喜んで」

 彼女につられて結友も微笑み返すと、蒼髪バニーエルフの笑顔が満足そうに深まる。

「GRARARARARA!」

 そこで、時間切れだった。ふたりを見て微動だにしていなかった氷魔狼が、後方へ跳んでそれなりに距離を取った。そしてドラゴンよろしく、胸が膨らむほどに大気を吸い込む。大破壊をもたらすブレスが来ると結友にも分かった。

 澪も動く。いつの間にか、右手で神秘的な蒼の長杖を掲げ、澄み切った声で呪文を紡ぐ。不思議な聞こえ方だった。まるで二人の同一人物が声を揃え、別々の言語で合唱したように聞こえる。

いと蒼き神樹に希うルー・ラ・エーテル 我らを彼の地へ誘い給へウィー・タ・ソムラベル
 
 巨躯の狼王が胸に溜めた青白い焔を吐き出した。蒼炎は極低温で、世界を白い氷に閉じ込めながら激流のごとく押し寄せる。溶岩と同じで、触れずとも生物なら絶命させるだろう。この自然の極みに対して、結友と澪は――。 

 澪の詠唱が終わるや、ふたりを光の帯が幾重にも囲った。そのどれもに、見たこともない文字らしき象が浮かんでは消え、何かの計算式も高速で数字を動かし、光帯それ自体も上下に振れながら高速回転している。結友の目には、次第に、世界が乱視のごとくブレて見え始めた。結友が理性を繋ぎ止められたのは、ここまでだった。

 蒼炎による極低温の冷気に全身の肌が焼かれ、大脳が焦げ付く痛みに支配された。立っているのか、倒れているのかすら分からない。呼吸しようにも、気管に侵入した冷気が肺腑を凍てつかせ、筆舌にし難い痛苦が、まともな思考を微塵に千切ってしまう。「痛い」「苦しい」「熱い」だけが精神を駆け巡り、自意識をズタズタにしてしまう。もはやどうしてこうなっているのか、大好きなバニーエルフのことや、果ては自分がなんなのかすら極低温の焔に焼け落ちた。


 世界を凍てつかせるフェンリルの蒼炎がふたりを容易に呑み込んで爆発した。近傍のビルが衝撃に耐えきれず倒壊する。
 やがて蒼炎が消えゆくと、そこには人の形はおろか、アスファルトの路面でさえ原型を留めてはおらず、氷魔狼が紅い月に向かて、遠吠えを投げるのみだった。
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