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猿との死闘

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 愛生《あい》は確かめるように、被害者が握っていた髪の毛を手に取る。それを何度か撫でてから、窓の外をもう一度見た。間違いない。

 この事件の下敷きになっているのは、最初の推理小説と呼ばれる、「モルグ街の殺人」 そして犯人は人ではなく──獣。

「はい?」

 それを聞いた龍《りゅう》は、心底理解できないといった顔をした。

「詳しく説明してください。そんなものが小説になるんですか?」
「……まあ、今発表したら荒れるかもしれないが。本当にある小説だよ。無惨に殺された男女が発見されたのに、動機も逃亡方法もわからない。人間にできるとは思えない犯行だったが、実はそれは避雷針を辿ってきた大きな猿によるものだった──って筋書きだ」

 龍はまだ呆れ顔だが、一応背筋を伸ばし、話を聞く体勢になった。

「話は分かりましたが、なぜ今回もそうだと思うのですか?」
「さっき、外を見てみた。ベランダばかり見ていた時は気づかなかったが、壁にべったり血のついた手形がついてる」

 龍は緊張した面持ちのまま、ベランダの外に出て戻ってきた。

「確かに。建物の角まで、血の手形が続いています。そしてそれは徐々に上に上がっていっている……しかしそれでも、猿と断言するのは早いのでは?」
「この毛を触ってみろ」

 愛生が差し出した毛を、龍は手に取る。そして小さくつぶやいた。

「手触りが……なんというか、ごわっとしていますね」
「人間の髪は太くて、キューティクルが複数あるからつやつやしている。これは明らかに、髪の毛じゃないな。──獣の体毛だ」

 龍はそこで反論をやめた様子だった。彼女から、感心したような気配が漂ってくる。

「……それで正式の回答、ということですね。フェムトに話しかけてみますか?」
「どうせこっちの話は筒抜けだろう」

 天井からかすかに機械音がしたが、それ以外は何も起こらない。フェムトがこちらの様子をうかがっていると思っていたのに、違ったのか。

「回答してみたが、外れだったか……?」

 いきなり、誰かが窓を激しく叩く。愛生と龍は、同時にはっとした表情になってその方角を見つめた。

 次の瞬間、爆発でも起こったかのような勢いで硝子が飛び散った。愛生たちはとっさに腕で体をかばう。硝子の破片が、壁に突き刺さるのをまじまじと見た。

 獰猛な声をあげ、破壊者は部屋の中に腕を伸ばしてきた。それはびっしり毛が生えており、一目で人間のものではないとわかる。

「ファーレ」

 そのわずかな間に、愛生は大きな衝立を作った。龍と二人、その陰に隠れる。

 窓から入ってきたのは、大きな猿だった。ざっと見積もっても体高は五メートルはある。顔だけがつるつるとした茶色い肌、残りの体は全て金色の毛で覆われた猿。手足が極端に長く、指先の爪はぎざぎざに割れ、そこから血が垂れていた。いや、指だけではない。猿の体にも血液が付着していて、愛生にもすぐわかった。あの惨劇の原因は、こいつなのだと。

 思わず、愛生の身がすくんだ。自分の鼓動の音が大きくなって相手に聞こえはしないかと、馬鹿げた心配が頭をもたげてくる。

 猿はあまりに軽々と、窓枠をへし折った。握った木片を、まるで小石のように投げてくる。まだ愛生たちを視認していないため、木片は明後日の方角の壁に突き刺さった。

「お客様、警察はもうしばらくで来ると──」

 愛生の背中に、戦慄が走る。一瞬、時間が止まったように感じた。さっきのベルボーイが戻ってきたのだ。

「早く逃げろ!」

 しかしベルボーイは悲鳴をあげることもできず、腰を抜かしてしまった。

 とっさに愛生は震えそうな足をなだめ、廊下へ走り出た。肺に酸素が足りなくなり、一瞬息が苦しくなる。角を曲がるその一瞬、ちらりと金色の光が見える。

 窓硝子に映っていたものを見て、愛生は声をあげそうになった。喜びに震える表情。獲物を見つけた捕食者の顔が、そこにあった。

 活路を見いだせ。とりあえず、体勢を立て直す時間だけあればいい。

 防御のことは考えず、愛生は反射的に猿が伸ばしてきた手を蹴っていた。一瞬、猿の足元が揺らぎ、舌打ちのような鳴き声が聞こえてきた。

 愛生はホテルの奥へ奥へと逃げこんだ。しかし、長かった廊下もそろそろ限界、移動するための階段も周囲にはない。

 龍がとっさに背後の部屋の扉を開ける音がする。愛生たちはその部屋に押し入った。室内から抗議の声はない。広いダンスホールだったが、人影はなかった。

 猿は廊下の破壊を終えるや否や、耳に響く声をあげ、ダンスホールの扉を破壊して入ってきた。

 龍がこちらへ走ってくる。愛生と猿の間に入った。

 殴るように、黄金猿の血にまみれた腕が動く。龍はすんでのところでかわした。そのまま宙返りし、広い部屋、猿の対角線にあたるところまで一気に移動する。

 思いの外リーチが長い。龍が長めに跳んでいなかったら、確実に彼女の胴体をとらえていた。一瞬の読み間違いが死を招く。

 猿が唸り、跳躍のためにかがみこむ。わずかな隙に、反対側に陣取った龍が何度か銃を撃った。しかし、猿の毛皮は銃弾をたやすくはね返す。力負けは明らかだった。

 龍が少し考える仕草をした。彼女がフェムトを組み直そうと、一瞬動きを止めたところで──

 猿が振り向いた。視線が龍を射貫き、室内にあった椅子を投げる。龍はとっさにしゃがんで避けた。

 逃げようとしても、しゃがんでいた龍の足元はおぼつかない。猿の速さとリーチに、敵うはずもなかった。龍は部屋の隅に追い詰められた格好になる。

 猿が凶暴な叫び声をあげ、まっすぐに龍めがけて進む。長い爪が、龍の顔面をかきむしろうとしたその時。

「協力してあげたんだから、勝ってくださいね?」
「ああ」

 愛生は一気に加速し、少し傾斜のついた猿の背中を駆け上がる。猿が愛生に気づいて唸りだした。

 もうこの手は使えない、一回で決めなければ龍がやられる。

 付け焼き刃の生成武器では太刀打ちできない。となれば、二十数年使いこなしてきた、己の肉体に頼るしかなかった。

 跳ぶ。虚をつかれた猿が、視線を彷徨わせた。

 愛生は、猿の背骨のところ──重要な神経が集中しているところを、思い切り力をこめて蹴った。

「終わりだ!!」

 踵がめり込む。肉と骨を砕く感覚があった。さっきまであったものとは違う、鼻腔の奥に刺さるような猛烈な血の匂いがした。

 致命的な鉄槌となった一撃。猿の動きが止まった。

 愛生が荒い息を吐く中、猿は悲鳴すらあげず、床に崩れ落ちた。舞い散る埃のその奥に、龍の顔が見える。彼女は、まだ油断していない。身構え、左手で盾を作りつつ、猿にさらなる追撃を加えるために反対側の手で大型銃を組み立てていた。

 しかし猿は倒れ伏したまま動かない……さっきまでの戦いが嘘のような、呆れるくらいあっけない幕切れだ。

「良かったな。即席のチームにしてはうまくいった」
「……あなたは知らないでしょうが、今回の話が来てからずっと……考えていました。近接攻撃が強いあなたを、どう生かしたら勝てるか」

 愛生はまじまじと龍を見つめた。彼女がいったいどんな気持ちだったのか、完全に推し量ることはできない。それでも素直に、こう思う。

「俺は幸せ者だな。こんな妻は、今後いくら頑張っても得られそうにない」
「あら、知らなかったんですか」

 龍が微笑むと同時に、頭上からチャイムのような音が鳴った。風や木のたてる音ではなく、明らかに人工的な効果音だ。

 愛生が怪訝な顔をしていると、部屋の天井が不意に一筋、ハサミで切ったように割れる。そこから、一枚だけ紙が落ちてきた。

 愛生は落ちてきた紙を拾う。広げてみると、そこには書き殴ったような汚い文字で「勝利、おめでとう」と書いてあった。ありがたく受け取れ、ということらしい。紙はすぐに細かい塵となって消えた。

「はっ」

 愛生は思わずため息をつく。わずかにあった達成感が霧散した。つられて覗きこんだ龍も、皮肉のこもった笑みを浮かべていた。

「自分を捕らえた相手に褒められても……ね」
「上から目線もはなはだしい。勝利の余韻が台無しだ」

 釈然としない様子の龍と、意見の一致をみた。──それに、愛生にはまだ気になることがあった。

「それに、どうしても引っかかることがあるんだが……」

 愛生がそう言いかけたとき、部屋に誰かが入ってきた。どやどやと入ってきたのは、黒い学生服のような揃いの衣装をまとった警察官たち。警察官の中には、剣と盾を身につけている者もいた。

 次いで、黒髪で小柄な男。彼だけ腕も足も細く、なんとなく場にそぐわない。

「誰でしょう……」

 いぶかしむ龍をよそに、真っ先に声をかけてきたのは小柄な男だった。

「もしかして状況をご存じですか? 教えてくださいよ」
「あんたは?」

 視線を向けた愛生に、男は作り物めいた笑顔を向けた。

「トロア中央新聞の記者、ルイです。普段はここらへんでぶらぶらしたり、女の子に声を掛けたり、カフェを楽しんでます」
「暇なのか」
「たった今、暇じゃなくなりましたよお。国から国へと渡り歩き、不正を暴き悪を許さぬ。正義の記者ルイくんとは僕のことです」

 記者はふざけた口調で言った。室内の状況を見たら、笑ってもいられなくなるだろうと思ったが、彼は淡々と写真を撮っている。思ったより度胸がある男らしい。

「どうしてここに?」
「偶然、警察の動きを見張ってましてね。尋常じゃない顔で皆さんが出て行くので、事件かと思いまして……つけさせてもらいました」

 ルイはとても友好的で、愛生たちの写真が欲しいとしつこくねだってきた。しかし、警官たちはそうではなかった。

 中でも、一番体格のよい若い警官は、今にも噛みつきそうな面持ちで愛生たちににじり寄ってくる。彼に十数人の警官が続き、円陣を組んだ。せっかく警察が来たのに、とても安心できる雰囲気ではない。

「動くな。余計な真似をするなよ」

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