ブラック企業マナー講師、異世界追放されたら魔族に爆ウケしました

ならん

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第3章 追放と孤立

37. 差し出されたパン

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 朝なのか昼なのか、もうよく分からなかった。

 空は白く霞み、太陽の位置も曖昧だ。歩いているつもりなのに、景色が進んでいる実感がない。足を前に出すたび、地面がふわりと揺れるような感覚がして、俺は何度目か分からないため息を吐いた。

(……まずいな)

 自覚はあった。空腹と疲労が限界に近い。昨日からろくに食べていないし、眠りも浅かった。外套の内側は汗と冷えで不快だが、それを気にする余裕もない。

 ふらついた拍子に、膝がかくりと折れた。

「……っ」

 とっさに手をついて踏みとどまる。だが、次の一歩が出ない。視界の端が暗くなり、耳鳴りがする。

(このまま倒れたら……)

 そんな考えが浮かんだ瞬間、遠くから車輪の音が聞こえた。

 ごと、ごと。

 一定のリズムで近づいてくる音に、俺は必死で顔を上げた。街道を進んでくる一台の荷車。布で覆われた荷台に、木箱がいくつも積まれている。

「……たす、け……」

 声にならない声が、喉から漏れた。

 次の瞬間、俺は地面に崩れ落ちていた。

 意識が戻った時、最初に感じたのは匂いだった。

 焼きたてのパンの、香ばしい匂い。

「……?」

 ゆっくり目を開けると、視界に見慣れない天井が入ってきた。荷車の幌の内側だ。揺れは小さく、誰かが近くで動く気配がする。

「お、起きたか」

 低く落ち着いた声がした。

 体を起こそうとして、めまいに襲われる。思わず唸ると、誰かが肩に手を添えてくれた。

「無理するな。水だ」

 差し出された水袋を、両手で受け取る。冷たい水が喉を通り、乾き切っていた体に染み渡った。

「……ありがとう、ございます」

 かすれた声で言うと、男は小さく笑った。

「礼なんていい。倒れてたら、そりゃ放っとけんだろ」

 男は中年で、日に焼けた顔をしていた。旅慣れた行商人、といった風貌だ。

「俺はトマス。行商をやってる」

「……正樹、です」

「正樹か。ずいぶん無理した顔してるな」

 トマスはそう言って、懐から包み紙を取り出した。中には、丸いパンが一つ。

「腹、減ってるだろ」

 有無を言わさず、俺の手に押し付けてくる。

(……え)

 一瞬、思考が止まった。

 マナーだの、順序だの、礼だの。何も言われていない。食べ方の指摘も、遠慮の確認もない。ただ、当然のように差し出されたパン。

「……いいんですか」

 情けないほど弱い声が出た。

「いいも何も、食え。死なれたら寝覚め悪い」

 それだけだった。

 俺はパンを見つめる。温かい。手のひらに、はっきりと温度が伝わってくる。

(……条件、ないんだ)

 礼儀も、作法も、正しさも求められていない。

 気づけば、涙が滲んでいた。

「……っ」

 慌てて俯く。こんなところで泣くつもりはなかった。

「おいおい、どうした」

「いえ……その……」

 言葉が続かない。胸の奥に溜まっていたものが、堰を切ったように溢れてくる。

 俺は、黙ってパンにかぶりついた。

 音を立てたかどうかなんて、分からない。ただ、必死だった。

 噛むたびに、温かさが広がる。喉を通るたびに、体の奥が少しずつ動き出す。

「……うまい」

 ぽつりと零れた。

 トマスは、満足そうに頷いた。

「だろ。朝に焼いたばかりだ」

 それ以上、何も言わない。

 俺が食べ終わるまで、ただ待ってくれた。

 パンを食べ終えた頃には、胸の苦しさが少しだけ和らいでいた。代わりに、別の感情が込み上げてくる。

「……どうして、助けてくれたんですか」

 聞かずにはいられなかった。

 トマスは肩をすくめる。

「理由が要るのか?」

「……」

 言葉に詰まる。

「困ってるやつがいた。だから手を貸した。それだけだ」

 それは、あまりにも単純で、あまりにも強い言葉だった。

 俺が今まで振り回してきた“正しさ”は、そこにはなかった。

「……ありがとうございます」

 今度は、自然に言えた。

 トマスは、にやりと笑う。

「そういうのは腹が満ちてからでいい」

 その一言に、胸の奥がじんとした。

 教えられたわけでも、評価されたわけでもない。

 ただ、人として扱われた。

 それが、今の俺には何よりも救いだった。
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