40 / 50
第3章 追放と孤立
40. 思いやりという名のマナー
しおりを挟む
朝の光が、障子代わりの薄布を通して部屋に差し込んできた。
目を覚ますと、昨夜までの重苦しさが少しだけ和らいでいるのが分かった。体はまだだるく、喉も完全には戻っていない。それでも、頭の中は驚くほど静かだった。
(……生きてるな、俺)
そんな当たり前の事実を、噛みしめるように実感する。
ゆっくりと体を起こすと、軋む音を立てて床が鳴った。その音に反応して、隣の部屋から足音が近づいてくる。
「お、起きたか」
顔を出したのはトマスだった。相変わらずの気の抜けた声だが、手には湯気の立つ器がある。
「今日は座れるか?」
「……はい。昨日よりは」
そう答えると、トマスは満足そうに頷いた。
「無理はするな。歩けるようになってから考えりゃいい」
器を受け取り、口をつける。昨日と同じ、薄味の粥だ。それでも、不思議と美味く感じた。
(……何も言われない)
食べ方も、姿勢も、音も。誰も気にしない。誰も指摘しない。
その事実が、じわじわと胸に沁みてくる。
しばらくして、村の人たちが様子を見に来てくれた。年配の女性、木こり風の男、子供を連れた母親。
「調子はどうだい?」
「水は飲めてる?」
「無理したらだめだよ」
次々とかけられる言葉は、どれも短くて、柔らかい。
「……ありがとうございます」
何度目か分からないその言葉を口にしながら、胸の奥がじんと熱くなった。
(俺、今……何もしてないのに)
役に立っていない。教えてもいない。正しさも示していない。
それでも、ここにいることを許されている。
村人たちが去った後、俺は布団の上で天井を見つめた。
(マナーって……何だったんだろうな)
異世界に来てからも、俺はずっと考えていた。どうすれば正しいか。どう振る舞えば恥をかかないか。どうすれば評価されるか。
でも、この村で、誰一人として俺の所作を見ていない。
見ているのは、俺の顔色と、呼吸と、生きているかどうかだけだ。
(……違うな)
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
午後、体調が少し落ち着いた頃、俺は外に出た。家の前には小さな畑があり、子供たちが土遊びをしている。
「おじちゃん、もう大丈夫?」
昨日、額に手を当ててくれた女性の孫らしい。
「……まだ完全じゃないけどな」
「ふーん」
それだけ言って、また土に夢中になる。その距離感が、やけに心地よかった。
俺は、子供の横に腰を下ろす。
「なぁ」
「なに?」
「ここじゃ、挨拶ってどうしてるんだ?」
聞きながら、自分でも少し驚いた。教えるためじゃない。直すためでもない。ただ、知りたかった。
「んー……会ったら言う! 会わなかったら言わない!」
即答だった。
「……それで、いいのか?」
「うん!」
迷いのない返事。
思わず笑ってしまう。
(ああ、そうか)
この村には、この村のやり方がある。
夕方、トマスと並んで家の縁側に座った。空は茜色に染まり、風が涼しい。
「顔、変わったな」
不意に、トマスが言った。
「え?」
「前は、もっと力入ってた。今は……少し抜けてる」
それは、褒め言葉のように聞こえた。
「……俺、ずっと勘違いしてたんだと思います」
「ほう」
「マナーって、形を揃えることだと思ってました。でも……」
言葉を探し、少し間を置く。
「相手が何を感じてるかを考えることの方が、よっぽど大事なんですね」
トマスは、黙って頷いた。
「思いやり、ってやつだな」
その一言が、胸にすとんと落ちた。
「……はい」
思いやり。
相手の文化を尊重すること。相手の状態を慮ること。自分の正しさを押し付けないこと。
それは、どんな作法よりも難しくて、どんな規則よりも大切なものだった。
「俺……もう一度、旅に出ようと思います」
自然と、そんな言葉が口をついた。
「今度は、教えるためじゃなくて……知るために」
トマスは、にやりと笑う。
「それでいい。人はな、教え合う前に、生き合わなきゃいけねぇ」
夕焼けの中で、その言葉を噛みしめる。
孤独な放浪は、確かに俺を追い詰めた。
けれど、その果てで俺はようやく気づいた。
マナーとは、誰かを縛るためのものじゃない。
誰かと一緒に、生きるためのものだ。
その思いを胸に、俺は静かに、次の一歩を思い描いていた。
目を覚ますと、昨夜までの重苦しさが少しだけ和らいでいるのが分かった。体はまだだるく、喉も完全には戻っていない。それでも、頭の中は驚くほど静かだった。
(……生きてるな、俺)
そんな当たり前の事実を、噛みしめるように実感する。
ゆっくりと体を起こすと、軋む音を立てて床が鳴った。その音に反応して、隣の部屋から足音が近づいてくる。
「お、起きたか」
顔を出したのはトマスだった。相変わらずの気の抜けた声だが、手には湯気の立つ器がある。
「今日は座れるか?」
「……はい。昨日よりは」
そう答えると、トマスは満足そうに頷いた。
「無理はするな。歩けるようになってから考えりゃいい」
器を受け取り、口をつける。昨日と同じ、薄味の粥だ。それでも、不思議と美味く感じた。
(……何も言われない)
食べ方も、姿勢も、音も。誰も気にしない。誰も指摘しない。
その事実が、じわじわと胸に沁みてくる。
しばらくして、村の人たちが様子を見に来てくれた。年配の女性、木こり風の男、子供を連れた母親。
「調子はどうだい?」
「水は飲めてる?」
「無理したらだめだよ」
次々とかけられる言葉は、どれも短くて、柔らかい。
「……ありがとうございます」
何度目か分からないその言葉を口にしながら、胸の奥がじんと熱くなった。
(俺、今……何もしてないのに)
役に立っていない。教えてもいない。正しさも示していない。
それでも、ここにいることを許されている。
村人たちが去った後、俺は布団の上で天井を見つめた。
(マナーって……何だったんだろうな)
異世界に来てからも、俺はずっと考えていた。どうすれば正しいか。どう振る舞えば恥をかかないか。どうすれば評価されるか。
でも、この村で、誰一人として俺の所作を見ていない。
見ているのは、俺の顔色と、呼吸と、生きているかどうかだけだ。
(……違うな)
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
午後、体調が少し落ち着いた頃、俺は外に出た。家の前には小さな畑があり、子供たちが土遊びをしている。
「おじちゃん、もう大丈夫?」
昨日、額に手を当ててくれた女性の孫らしい。
「……まだ完全じゃないけどな」
「ふーん」
それだけ言って、また土に夢中になる。その距離感が、やけに心地よかった。
俺は、子供の横に腰を下ろす。
「なぁ」
「なに?」
「ここじゃ、挨拶ってどうしてるんだ?」
聞きながら、自分でも少し驚いた。教えるためじゃない。直すためでもない。ただ、知りたかった。
「んー……会ったら言う! 会わなかったら言わない!」
即答だった。
「……それで、いいのか?」
「うん!」
迷いのない返事。
思わず笑ってしまう。
(ああ、そうか)
この村には、この村のやり方がある。
夕方、トマスと並んで家の縁側に座った。空は茜色に染まり、風が涼しい。
「顔、変わったな」
不意に、トマスが言った。
「え?」
「前は、もっと力入ってた。今は……少し抜けてる」
それは、褒め言葉のように聞こえた。
「……俺、ずっと勘違いしてたんだと思います」
「ほう」
「マナーって、形を揃えることだと思ってました。でも……」
言葉を探し、少し間を置く。
「相手が何を感じてるかを考えることの方が、よっぽど大事なんですね」
トマスは、黙って頷いた。
「思いやり、ってやつだな」
その一言が、胸にすとんと落ちた。
「……はい」
思いやり。
相手の文化を尊重すること。相手の状態を慮ること。自分の正しさを押し付けないこと。
それは、どんな作法よりも難しくて、どんな規則よりも大切なものだった。
「俺……もう一度、旅に出ようと思います」
自然と、そんな言葉が口をついた。
「今度は、教えるためじゃなくて……知るために」
トマスは、にやりと笑う。
「それでいい。人はな、教え合う前に、生き合わなきゃいけねぇ」
夕焼けの中で、その言葉を噛みしめる。
孤独な放浪は、確かに俺を追い詰めた。
けれど、その果てで俺はようやく気づいた。
マナーとは、誰かを縛るためのものじゃない。
誰かと一緒に、生きるためのものだ。
その思いを胸に、俺は静かに、次の一歩を思い描いていた。
0
あなたにおすすめの小説
極限効率の掃除屋 ――レベル15、物理だけで理を解体する――
銀雪 華音
ファンタジー
「レベル15か? ゴミだな」
世界は男を笑い、男は世界を「解体」した。
魔力も才能も持たず、万年レベル15で停滞する掃除屋、トワ。
彼が十年の歳月を費やして辿り着いたのは、魔法という神秘を物理現象へと引きずり下ろす、狂気的なまでの**『極限効率』**だった。
一万回の反復が生み出す、予備動作ゼロの打撃。
構造の隙間を分子レベルで突く、不可視の解体。
彼にとって、レベル100超えの魔物も、神の加護を受けた聖騎士も、ただの「非効率な肉の塊」に過ぎない。
「レベルは恩恵じゃない……。人類を飼い慣らすための『制限(リミッター)』だ」
暴かれる世界の嘘。動き出すシステムの簒奪者。
管理者が定めた数値(レベル)という鎖を、たった一振りのナイフで叩き切る。
これは、最弱の掃除屋が「論理」という名の剣で、世界の理(バグ)を修正する物語。気になる方は読んでみてください。
※アルファポリスで先行で公開されます。
【超速爆速レベルアップ】~俺だけ入れるダンジョンはゴールドメタルスライムの狩り場でした~
シオヤマ琴@『最強最速』発売中
ファンタジー
ダンジョンが出現し20年。
木崎賢吾、22歳は子どもの頃からダンジョンに憧れていた。
しかし、ダンジョンは最初に足を踏み入れた者の所有物となるため、もうこの世界にはどこを探しても未発見のダンジョンなどないと思われていた。
そんな矢先、バイト帰りに彼が目にしたものは――。
【自分だけのダンジョンを夢見ていた青年のレベリング冒険譚が今幕を開ける!】
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
異世界転生目立ちたく無いから冒険者を目指します
桂崇
ファンタジー
小さな町で酒場の手伝いをする母親と2人で住む少年イールスに転生覚醒する、チートする方法も無く、母親の死により、実の父親の家に引き取られる。イールスは、冒険者になろうと目指すが、周囲はその才能を惜しんでいる
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
出来損ない貴族の三男は、謎スキル【サブスク】で世界最強へと成り上がる〜今日も僕は、無能を演じながら能力を徴収する〜
シマセイ
ファンタジー
実力至上主義の貴族家に転生したものの、何の才能も持たない三男のルキウスは、「出来損ない」として優秀な兄たちから虐げられる日々を送っていた。
起死回生を願った五歳の「スキルの儀」で彼が授かったのは、【サブスクリプション】という誰も聞いたことのない謎のスキル。
その結果、彼の立場はさらに悪化。完全な「クズ」の烙印を押され、家族から存在しない者として扱われるようになってしまう。
絶望の淵で彼に寄り添うのは、心優しき専属メイドただ一人。
役立たずと蔑まれたこの謎のスキルが、やがて少年の運命を、そして世界を静かに揺るがしていくことを、まだ誰も知らない。
平凡なサラリーマンが異世界に行ったら魔術師になりました~科学者に投資したら異世界への扉が開発されたので、スローライフを満喫しようと思います~
金色のクレヨン@釣りするWeb作家
ファンタジー
夏井カナタはどこにでもいるような平凡なサラリーマン。
そんな彼が資金援助した研究者が異世界に通じる装置=扉の開発に成功して、援助の見返りとして異世界に行けることになった。
カナタは準備のために会社を辞めて、異世界の言語を学んだりして準備を進める。
やがて、扉を通過して異世界に着いたカナタは魔術学校に興味をもって入学する。
魔術の適性があったカナタはエルフに弟子入りして、魔術師として成長を遂げる。
これは文化も風習も違う異世界で戦ったり、旅をしたりする男の物語。
エルフやドワーフが出てきたり、国同士の争いやモンスターとの戦いがあったりします。
第二章からシリアスな展開、やや残酷な描写が増えていきます。
旅と冒険、バトル、成長などの要素がメインです。
ノベルピア、カクヨム、小説家になろうにも掲載
スーパーの店長・結城偉介 〜異世界でスーパーの売れ残りを在庫処分〜
かの
ファンタジー
世界一周旅行を夢見てコツコツ貯金してきたスーパーの店長、結城偉介32歳。
スーパーのバックヤードで、うたた寝をしていた偉介は、何故か異世界に転移してしまう。
偉介が転移したのは、スーパーでバイトするハル君こと、青柳ハル26歳が書いたファンタジー小説の世界の中。
スーパーの過剰商品(売れ残り)を捌きながら、微妙にズレた世界線で、偉介の異世界一周旅行が始まる!
冒険者じゃない! 勇者じゃない! 俺は商人だーーー! だからハル君、お願い! 俺を戦わせないでください!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる