光速文芸部

きうり

文字の大きさ
上 下
14 / 17

第十四章 光束文芸部

しおりを挟む
   十四
「考えたことがあるの」
 昇降口から部室へ向かう道中、私は語りかけた。
「時間は、並べられた欲望だと思う」
「うん」
 彼は私をちらりと見て、頷いた。
 人間が時間を気にするのは、様々なことを望むからだ。欲望でも願望でも希望でもいい、未来とは何かが実現する、欲望の着地点のことだ。
「だから欲望を捨てることができれば――」
「時間を乗り越えるのとは、それは少し違うと思う」
 即答だった。
「そうかしら」
「望みとか願いは、捨てようとして捨てられるものでもないよ。それの否定というのは、実は肯定と同義だと思う」
「悟り、かしら」
 結局は時間も丸ごと肯定せざるを得ないということか。では確かに時間は乗り越えられまい。
 知らず、私たちは早足になっていた。短い時間で雨は勢いを増している。私は制服と、眼鏡が濡れるのが気になる。
「僕は悟ったことはないけれど」
 歩きながら、彼は続けた。
「片桐さんにとって、時間はとても内的なものなんだね」
「いけない?」
「いけなくはない。だけどもう少し人間の力を信じてもいいと思う」
「意味が分からないわ」
「時間に対する、人間の関わり方だよ。確かに僕らは時間に振り回されているけれど、意外と時間を支配してもいると思う。何より僕らには光がある」
「光?」
「そう、時間を止める唯一のものだ。僕たちはいつも光の中で生きている。光が飛び交う世界だ。本当はここでは、時間はいつも止まっている」
「そんな、まやかしよ。それじゃあ私が感じているこれはなに」
 欲望と苦しみの連鎖。どこまでも続く不甲斐なさと恥ずかしさの一本道。紛れもなく存在するこれこそが、時間ではないのか。
「それこそまやかしだ」
 彼は断じた。
 部室にはすぐに着いた。

   ☆

「鍵をかけ忘れたかな、昨日は」
 ドアに手をかけながら、彼が呟く。言われて私も気付いた。昨日は帰りに施錠した記憶がない。
「やだ。中は無事?」
 慌てて部室を覗く。一番の貴重品であるワープロが無事なのでほっとした。
 彼は本棚を見つめて目を細めている。
「どうしたの」
「誰か来たのかも知れない」
 なぜ分かるのだろう。だがそれ以上はなにも言わず、彼はまあいいかと呟いていつもの椅子に座った。
「これだ。昨日書き上げたんだ」
 彼は、テーブルの本と本の間から原稿用紙の束を取り出した。まるでそこに隠していたかのようだ。
 受け取ると、ずしりと重かった。気付かないうちにこれほどの枚数を書いていたのか。
 眼鏡をふき、改めてその紙の束に目線を落とした。原稿はきちんと揃えられ、ダブルクリップで留めてある。一番上には白紙が添えられ、その中央には、タイトルなのか『21th century flight』とあった。
「21世紀飛行?」
 ハウツー本らしからぬタイトルだ。
「ただの記号だよ。前回は20世紀だった。それだけだ」
「あらそう」
 まるで歌の歌詞ね。そうつぶやきながら原稿をめくる。
 気がつくと、私の胸は躍っていた。完璧な読書は神にしかできないと彼は言った。ならば読書をする者はより神に近いだろう。彼の書く読書ハウツー本とはどんな内容なのか。
 文字を追ってみた。
 そこに示されているものを読み解き、紐解いていく――。
 最初の数行を読んでいくうちに、世界が変わった。

   ☆

 それが起きたのは、読み始めてからほんの数秒後のことだった。
 その事態をどう言い表わすのがもっとも適切なのか、私にはよく分からない。だがありのままに書き記すならこうだ――そこに書かれている文章が、私の頭の中に飛び込んできた、と。
 多くの場合、文章というのは頭の中で声に出しながら読む。これを音読という。巷にはびこる多くの速読術は、まずこれを否定するところから始まる。そして「視る」読書、即ち視読から始めよという。
 本の内容について言えば、高柳くんの読書ハウツーもそれが出発点だった。だがそれはただの「出発」ではなかった。彼の文章を読んだだけで、私の脳は音読から視読へと切り替わっていたのだ。彼の文章そのものが、読まずとも、視るだけで理解できる、そんな文章だったのである。
 つまり極めて読みやすい文章なのだ。論理展開、句読点の打ち方、言葉の選択に至るまで、「視た」だけで内容が分かる。まるでオーダーメイドの服のように、私の脳の認知態勢に、そして思考回路に、彼の文章はぴったりと当てはまった。
 それだけではない。読めば読むほど、その速度は増していくのだった。決して斜め読みとか飛ばし読みなどではない、そんな読み方で済むような幼稚な文章では決してない。むしろハウツー本としては難解な部類だろう。それなのに読み進めれば進めただけ、私の脳は回転が速まった。文字を追う目の動きまでもが猛烈に加速した。
 そしてさらに分かったことがあった。文字の配置だ。彼が原稿用紙に刻み込んだ単語や記号は、読者の目線を絡め取るように、あるいは巻き込んでいくように、巧みに配置されていたのだ。
 違う太さの線で構成された図形が、ぐにゃぐにゃと動いているように見えることがある。錯視だ。それと同じである。単語の配置が読者の目線を誘導する文様になっている。幻惑的だった。
 なんなのこれ。そう叫びそうになる。彼に直接問いかけたい。しかしできなかった。私が読んでいるこの文章は、途中で手を止めることを許さないのだった。
 読んでいるのは私のはずなのに、いつしか私は、本から読まれているような気分に陥る。もっとはっきり言えば、本から操られているかのようだった。気がつけば、もはやそこになにが書かれているのかもよく分からないまま、単語の配置に呑み込まれていく。読み続けろ。姿勢を保て。ページをめくり続けろ。そんな声に従って原稿用紙をめくるだけの存在に、いつしか私はなっていた。
 紙をめくる指の動きも、信じられないくらいスピードアップしている。これも全部彼の文章のせいだ。単語を構成する線の太さと強弱、インクのにじみ具合までもが呪術的なしるしとなって脳を刺激している。なにかとてつもない物質が分泌されている。それが神経と筋肉を活性化させている。
 なにを馬鹿なと言われそうだ。だがそうとしか考えられないのである。終わりのないギアチェンジの果てに、私の器官の全てが何段階も加速している。
 見たことも聞いたこともない速読術だった。読むだけで身につき、視るだけで覚醒する。それなのに決して自分を見失わず、なにもかもがはっきりと明瞭になる、こんな速読術はありえない。
 どうせ無間地獄ならもっと速く駆け抜けたいと、かつて私はそう言った。まさか、それがこんな凄まじい形で実現するなんて思ってもみなかった。
 速い。速い。速い。
 ページを操る音もますます鋭く、大きくなっていく。指先で角をつまんでめくるだけの動作なのに、私の手は、弾き飛ばすような勢いで次へ次へと進んでいた。
 風が巻き起こる。ページをめくる時の風圧で周囲の書類が飛び散ったが、そちらに目を向ける余裕はない。私の視界には、原稿用紙とそこに配置された文字しか写っていない。
 まだだ。まだ加速できる。
 最初は怖かった。だが原稿用紙に導かれるように読み進めるうち、いつしか私は、この先を見たいという気持ちになっていた。
 このまま加速し続けたらどうなるのか。期待が湧く。止まらない加速に恍惚を感じ、自分は神に近付いていると思った。
 やがて音が聞こえなくなった。
 全ての音がかき消えたのだ。
 厳密に言えば、それは聴覚が音を引き離したのだった。音が追い付かなくなったのだ。
 それを異常とは思わなかった。ごく当たり前のように、やっと音速を越えたのかと考えただけだった。思ったより遅いな、と。
 予感がする。まだこの先がある、この先に見えてくる世界がある……。そこではもう、音速など取るに足らない速度であることだろう。
 私は、どうなるのだろう。
 不意に湧いたその問いの答えは明らかだ。生まれ変わるのである。何に?
(鳥のようになるしかない)
 彼のあの言葉を思い出した。今やその意味は明らかだ。なんという聞き間違いだろう、彼はそんなことを口にしてはいなかった。あの時彼は本当はこう言っていたのだ。トリノのようになるしかない、と。
 おお、今や全ての謎は解けた。まさしくそうだ、なるしかない。ニュートリノになるしかない!
 あまりにもちっぽけで、他の一切と結び付かないあの物質。そしてそれゆえに一人ぼっちで、何もかもをすり抜けるあの物質。あれはまさに今の私にぴったりだった。
 ほどなく、周囲の世界が消えていった。
 私の身体も消えていった。原稿用紙は、ぱらぱら漫画の何倍ともつかない速度でめくり続けられ、白く輝く渦になる。黒い文字の残像が、さざ波のように浮かび上がっては消えていく。私はそこに導かれ呑み込まれていく。いな、私は渦そのものとなる。きらめく渦そのもの。きらめきそのもの。ひかり――。
 光の速さで、私は飛行した。
しおりを挟む

処理中です...