光速文芸部

きうり

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第十五章 音速文芸部

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   十五
 後で聞いた話だ。
 同じ頃、倉持くんは図書室にいた。閲覧用の椅子に座り、例の冊子を読んでいた。
『21th century flight』は、光速の速読法の指南書だった。一方『20th century flight』はそれに比べれば不完全で、実現されるのはせいぜい音速程度だった。
 ここで彼は、生身の人間が音速に達すればどうなるのか、身をもって知ることになる。
 最初にぶつかったのは空気の壁だった。高速でページをめくるうち、ある段階から腕に重圧を感じたのだ。まるでなにかに押さえ込まれているようだった。
 それを彼はどうしたかというと、奇妙な話だが「精神力で」なんとかしたのだった。彼もまた、冊子のページをめくるごとに恍惚に呑まれつつあった。空気の壁があろうがなかろうが、その読書をやめるつもりはなかった。
 しかし、不完全な『20th century flight』は、彼の心を完全に呑み込むには至らなかった。彼は途中で怖くなった。音速を越えた時点で、これはただのハウツー本ではないと気付いたのだ。
 少し休憩しよう。そう思って席を立った。
 だが音速の領域にいた彼は、またしても空気の壁に遭遇した。立ったその瞬間にガンと頭を押さえ付けられたのだ。
 慌てたが、またしても「精神力でなんとか」した。全身で空気の壁を破るのは想像を絶する難しさだった。
 速度を落とさなければと考えたが、それはできない。この時彼は、すでに身も心も音速の世界に突入していたのだ。
 恐怖した。助けを求めなければ――。
 だが一体誰に? 考えられる相手はただ一人、高柳錦司だ。
 彼は精神力でもって歩き出した。文芸部へ行かなければ。
 だが問題は山ほどあった。なにせ音速である。ドアの手前で立ち止まるなどという微調整はできず、図書室の出入り口を突き破った。その次のドアでは首尾よく止まれても、取っ手を音速で握るものだから砕け散った。仕方がないので押し開けようとすれば、マッハの掌底でぶち破る結果になった。どうしようもない。
 それでもなんとか廊下に出た。
 彼が通り抜けた後ではあらゆる掲示物が吹き飛び、女子生徒とすれ違えば例外なくスカートがめくれたというからお笑いである。
 渡り廊下から外に出ると、なんと雨が降っていた。
 その状況の意味するところなど、考える余裕もなかった。文芸部の部室はこの先の部室棟にある。雨が降ろうが槍が降ろうが突破しなければならない。
 だが音速で移動する彼にとって、雨はまさしく槍だった。無数の水滴は、まるでマシンガンの弾のように彼の体を攻撃した。
「いて、いて、いてて」
 間抜けな悲鳴を上げながら、それでも彼は前進する。
 その悲鳴が問題だった。口を開いたはずみに、運悪く雨粒がひとつ入ったのだ。それは音速で体内に進入し、音速でもって気管に突入した。
 彼はむせた。
 その咳き込みは、衝撃波となって口から放たれた。
 破裂音と共に、砂と土が舞い上がる。木々は傾いで枝葉が吹き飛び、建物のガラスは一枚残らず粉砕された。
 彼は驚いた。そして、驚きながらもう一度咳き込むと、今度は樹木がなぎ倒され、校舎の壁には巨大なひび割れが刻まれた。 
 なんだ、なんだこれは! そこで三度目の咳が出そうになり、とっさに彼は上空へ顔を向ける。最後の衝撃波が上空へ発せられると、雨粒はことごとく飛散した。雨雲にも届いたらしく、雲が散って晴れ間が覗いた。
 気がつくと、周囲はまるで爆弾を落とされた後のような有様だ。彼は戦慄し、泣きそうに顔を引きつらせて周囲を見回した。誰もいない。
 それから自分の体を抱きしめて、その場にくずおれた。恐ろしくて一歩も動けなかった。
 その時彼が思い出したのは、ずっと昔に読んだ神話である。触れるもの全てを黄金に変える能力を得たがため、食べ物も、愛する者も、全てが黄金と化してしまうあの物語だ。
 今の彼と同じである。欲望のために、触れるもの全てをかえって無価値に貶めるこの力。快楽主義のなれの果て、強欲への神罰。
 ――会えない。
 なぜか、そこで思い出したのは片桐優実のことだった。彼は気付いたのだ。こんな自分ではもう彼女には会えない。触れたものを破壊せずにはおれないこの身体で、どうして会うことなどできるだろう。 
 彼は絶望する。だがその時、急に奇妙な気配を感じた。
 気配というよりも、それは力だった。引力なのか重力なのかも分からない、強く惹きつける力である。
 光?
 次の瞬間、それは部室棟からやってきた。力を持つ光が、とてつもないスピードでやってきた。音速の存在となった彼でさえ目を見張るその速度は、まさしく光速だった。
 それはまっすぐに駆け抜けた。あっという間もなく、彼の傍らを目にも止まらない速さで走り過ぎていった。
 だがその一瞬、彼は確かにそのものの姿を捉えていた。それは制服の少女だった。
「優実ちゃん……」
 後ろ姿を目で追った時には、彼女はすでに一光年の彼方にいた。
 彼はようやく気付いた。すべてはこんなに美しかったのかと。俺が認めようが認めまいが、人はあんなに輝いているものなのかと。そして、本当に好きな女というのは、こんな風に駆け抜けていってしまうものなのか――と。
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