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その童貞は返却不可につき
第3話 side.八重
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八重にとって大学は可も不可もない場所だった。
高校で出来た音楽仲間たちはその道の専門学校に通ったり、フリーターをしながら音楽活動をしてプロを目指しているが、八重は音楽はあくまで趣味として割り切っている。そのため、将来を見据えて入学しただけの学校であってそれ以上でもそれ以下でもなかった……のだが。
「澪、おはよう」
すでに教室の後方に着席している彼女を見つけて、そそくさと歩み寄る。一人でいる様子だったので遠慮なく隣に腰掛けた。
「おはよう、八重くん」
スマホをいじる手を止めて澪がこちらを向く。仄かな微笑みは正真正銘八重に向けられたもの。彼女と付き合うようになるまではけして間近で見られるものではなかった。
仲間内の一人だと認識していたはずだったのに、いつしか気になっていた涼やかな微笑。親しい友人に砕けた笑顔を向けている場面に出くわしたときには胸が高鳴りを覚えた。
飲み会の場で周囲に気を配りつつも雰囲気を壊さないように振る舞う姿勢に気付いたときにはすっかり彼女に惹かれていて、八重にとって大学は澪と自分の大切な繋がりの場所になっていた。
「可愛い」
「はいはい、八重くんも可愛いよ」
彼女の前ではゆるゆるになってしまう唇から賛辞の言葉が勝手に零れ落ちる。しかし澪は慣れた様子で適当にあしらってくる。こんなやりとりもたまらなく好きだった。
「ヒートキ、おはよっ!」
そんな甘いひとときを騒がしい声がぶち壊した。澪とは反対側の隣席に一人の女生徒が陣取る。鞄を机に下ろす音でさえもガシャンとやかましい。
「ねぇ、おはようってば」
八重の顔を覗き込むように身を寄せてくるのは馬形何とかという名前だったはず。詳しくは覚えていない。胸元の広く空いた服を着ながらも両胸を寄せて強調しているので露出の趣味があるのかもしれない。
「……名前で呼ばないで欲しいって言ったけど」
「またそれ? 最初に呼んでいいってOKくれたのはヒトキなのに」
それは八重の大きな失敗だった。
澪に童貞であることを打ち明けて初めてセックスをした日の直後。学内の親しい友人に意中の相手の気を引くにはどうするべきかを相談した。
あの日、澪を抱いたことは彼女の尊厳を考慮して黙秘しておいたが、二人が飲み会の途中で抜け出たことは知られていた。上手くいかなかったのだろうと予想した友人は八重に『もっと親しみやすい雰囲気を作れ』とアドバイスを寄越してきた。『有象無象に埋もれずにお前という存在を印象付けるところから始めろ』と。
ピンと来ない八重に『もうちょっと見た目に気を配るとかさ』と語る友人の言葉を漏れ聞いていたのが、この馬形という女だった。
なになにどうしたの、と騒々しく会話に加わったかと思えば『前髪上げた方が絶対イケてるって』と気安く八重の髪に触れて実演してみせた。それを見た友人が誉めたものだからそういうものかと受け入れることにして、度々女のアドバイスの世話になった。
そのうちに『名前で呼んでもいいでしょ』と言われて、親しみやすさを作るならまぁいいかと許諾した。その結果がこれだ。
「それは俺が悪いけど、今は彼女がいるから」
そうだ、彼女がいるのだ。
澪が彼女になったのだ。
大事な部分に殊更思いを込めて伝えてみたが、香水をプンプンと漂わせる女はどこ吹く風で会話を続ける。
「最近相談にものってくれないしさー」
「彼氏と直接話し合えばいいんじゃないの」
「その前に他の男の子の意見を聞いておきたいんだって」
澪と関係が発展した際の参考になるかと思い、馬形の恋愛相談らしきものにも付き合っていた。とは言え、童貞卒業したばかりの八重に尤もらしい助言は出来ないので愚痴を聞く程度だったのだけれど。
今となっては人の恋愛に関わっている余裕などない。
むぅと唇を尖らせる馬形を横目に反対隣を確認すると、頬杖を突いた澪がじっとこちらを静観していた。
「髪型も戻しちゃったんだね。上げてる方がカッコいいのになー」
澪に気を取られていた八重の前髪を重たそうなネイルアートを施した指が乱雑に掻き分ける。途端に視界が開けて眩しさに目を眇めた。
「ちょ、触るなよ」
「絶対こっちの方がいいって。ヒトキ、目が色っぽいもん。ね、羽島さん?」
そこで馬形が初めて彼女に話題を振る。澪がいるとわかっていながら挨拶をしなかったのかとイラッときた。かく言う自身も馬形に挨拶を返していないことを棚に上げて。
「それは宣戦布告かな?」
澪がさらりと髪を揺らして静かに尋ねた。
(宣戦布告?)
言葉の意味に首を傾げる横で馬形が応じる。
「えー、何言ってるの、羽島さん」
「わからないならいいけど。他の男の子とベタベタしてると彼氏に誤解されちゃうんじゃないかな」
そっとスマホを下ろした澪の手が八重に迫った。透け感のあるネイルジェルだけで彩られた指が乱された前髪を下ろして整え、ついでとばかりにサイドから後頭部までもをゆるゆると撫でる。
いつかの愛撫を思い出させるかのような色めいた手の動きが八重の身体をがちんと固まらせ、逆に心拍数を一気に加速させた。
「これくらい友達なら普通だと思うけどなー」
澪の動きを胡乱な目で追う馬形がつまらなさそうに言う。本来なら八重が否定すべき発言なのだが全神経が頭に集中していてそれどころではない。
しかし澪の手は最後に後頭部をポンポンと優しく叩いて離れていってしまった。
「じゃあこう言えばわかるかな。私が誤解するから止めてくれる?」
「やだー、ただの友達なのに誤解しちゃうの?」
「疑いもするし嫉妬もするよ。八重くんって女にだらしない人なんだ、彼女をほったらかして他の子といちゃつくんだ、馬形さんって貞操観念の緩い人なんだ、とかね」
(は?)
「ちょ、ちょっと待って。全然だらしなくない、いちゃついてもないっ」
「え、貞操観念緩いとかヒドくない?」
「私から見た二人はそうだけどなぁ」
ぶるぶると首を振って否定しても澪は冷静な瞳でひたと見つめ返してくる。
嫌だ。嫌だ。こんなことで嫌われたくない。
「馬形さん、本当まじで名前で呼ぶの止めて。あと必要以上に触れたり近寄らないで」
苛立ちや嫌悪を何とか押し込めて馴れ馴れしい女に言い渡す。友人の言葉を借りるならこの女こそ有象無象のうちの一人で、嫌われようがいなくなろうがどうでもいい。仲間内の集まりに呼ばれなくなろうとも澪さえいればそれでいい。
「……感じわるぅ」
馬形は澪に視線を送りながらそう言って、来たときと同じようにガチャガチャとうるさく離れた席に移動していった。
香水の残り香が漂っているものの二人だけの静けさを取り戻してほっと安堵する。しかし僅かな間も置かずに隣から宣告が落とされた。
「後で話があるから付き合って」
「……え?」
感情の読めない平坦な声。澪は再びスマホに目を落としてこちらを向いてくれない。
じわじわと黒い霧が心を覆い隠すような不安が訪れる。
(この空気で話って……)
その後の授業が上の空になってしまったのは言うまでもない。
高校で出来た音楽仲間たちはその道の専門学校に通ったり、フリーターをしながら音楽活動をしてプロを目指しているが、八重は音楽はあくまで趣味として割り切っている。そのため、将来を見据えて入学しただけの学校であってそれ以上でもそれ以下でもなかった……のだが。
「澪、おはよう」
すでに教室の後方に着席している彼女を見つけて、そそくさと歩み寄る。一人でいる様子だったので遠慮なく隣に腰掛けた。
「おはよう、八重くん」
スマホをいじる手を止めて澪がこちらを向く。仄かな微笑みは正真正銘八重に向けられたもの。彼女と付き合うようになるまではけして間近で見られるものではなかった。
仲間内の一人だと認識していたはずだったのに、いつしか気になっていた涼やかな微笑。親しい友人に砕けた笑顔を向けている場面に出くわしたときには胸が高鳴りを覚えた。
飲み会の場で周囲に気を配りつつも雰囲気を壊さないように振る舞う姿勢に気付いたときにはすっかり彼女に惹かれていて、八重にとって大学は澪と自分の大切な繋がりの場所になっていた。
「可愛い」
「はいはい、八重くんも可愛いよ」
彼女の前ではゆるゆるになってしまう唇から賛辞の言葉が勝手に零れ落ちる。しかし澪は慣れた様子で適当にあしらってくる。こんなやりとりもたまらなく好きだった。
「ヒートキ、おはよっ!」
そんな甘いひとときを騒がしい声がぶち壊した。澪とは反対側の隣席に一人の女生徒が陣取る。鞄を机に下ろす音でさえもガシャンとやかましい。
「ねぇ、おはようってば」
八重の顔を覗き込むように身を寄せてくるのは馬形何とかという名前だったはず。詳しくは覚えていない。胸元の広く空いた服を着ながらも両胸を寄せて強調しているので露出の趣味があるのかもしれない。
「……名前で呼ばないで欲しいって言ったけど」
「またそれ? 最初に呼んでいいってOKくれたのはヒトキなのに」
それは八重の大きな失敗だった。
澪に童貞であることを打ち明けて初めてセックスをした日の直後。学内の親しい友人に意中の相手の気を引くにはどうするべきかを相談した。
あの日、澪を抱いたことは彼女の尊厳を考慮して黙秘しておいたが、二人が飲み会の途中で抜け出たことは知られていた。上手くいかなかったのだろうと予想した友人は八重に『もっと親しみやすい雰囲気を作れ』とアドバイスを寄越してきた。『有象無象に埋もれずにお前という存在を印象付けるところから始めろ』と。
ピンと来ない八重に『もうちょっと見た目に気を配るとかさ』と語る友人の言葉を漏れ聞いていたのが、この馬形という女だった。
なになにどうしたの、と騒々しく会話に加わったかと思えば『前髪上げた方が絶対イケてるって』と気安く八重の髪に触れて実演してみせた。それを見た友人が誉めたものだからそういうものかと受け入れることにして、度々女のアドバイスの世話になった。
そのうちに『名前で呼んでもいいでしょ』と言われて、親しみやすさを作るならまぁいいかと許諾した。その結果がこれだ。
「それは俺が悪いけど、今は彼女がいるから」
そうだ、彼女がいるのだ。
澪が彼女になったのだ。
大事な部分に殊更思いを込めて伝えてみたが、香水をプンプンと漂わせる女はどこ吹く風で会話を続ける。
「最近相談にものってくれないしさー」
「彼氏と直接話し合えばいいんじゃないの」
「その前に他の男の子の意見を聞いておきたいんだって」
澪と関係が発展した際の参考になるかと思い、馬形の恋愛相談らしきものにも付き合っていた。とは言え、童貞卒業したばかりの八重に尤もらしい助言は出来ないので愚痴を聞く程度だったのだけれど。
今となっては人の恋愛に関わっている余裕などない。
むぅと唇を尖らせる馬形を横目に反対隣を確認すると、頬杖を突いた澪がじっとこちらを静観していた。
「髪型も戻しちゃったんだね。上げてる方がカッコいいのになー」
澪に気を取られていた八重の前髪を重たそうなネイルアートを施した指が乱雑に掻き分ける。途端に視界が開けて眩しさに目を眇めた。
「ちょ、触るなよ」
「絶対こっちの方がいいって。ヒトキ、目が色っぽいもん。ね、羽島さん?」
そこで馬形が初めて彼女に話題を振る。澪がいるとわかっていながら挨拶をしなかったのかとイラッときた。かく言う自身も馬形に挨拶を返していないことを棚に上げて。
「それは宣戦布告かな?」
澪がさらりと髪を揺らして静かに尋ねた。
(宣戦布告?)
言葉の意味に首を傾げる横で馬形が応じる。
「えー、何言ってるの、羽島さん」
「わからないならいいけど。他の男の子とベタベタしてると彼氏に誤解されちゃうんじゃないかな」
そっとスマホを下ろした澪の手が八重に迫った。透け感のあるネイルジェルだけで彩られた指が乱された前髪を下ろして整え、ついでとばかりにサイドから後頭部までもをゆるゆると撫でる。
いつかの愛撫を思い出させるかのような色めいた手の動きが八重の身体をがちんと固まらせ、逆に心拍数を一気に加速させた。
「これくらい友達なら普通だと思うけどなー」
澪の動きを胡乱な目で追う馬形がつまらなさそうに言う。本来なら八重が否定すべき発言なのだが全神経が頭に集中していてそれどころではない。
しかし澪の手は最後に後頭部をポンポンと優しく叩いて離れていってしまった。
「じゃあこう言えばわかるかな。私が誤解するから止めてくれる?」
「やだー、ただの友達なのに誤解しちゃうの?」
「疑いもするし嫉妬もするよ。八重くんって女にだらしない人なんだ、彼女をほったらかして他の子といちゃつくんだ、馬形さんって貞操観念の緩い人なんだ、とかね」
(は?)
「ちょ、ちょっと待って。全然だらしなくない、いちゃついてもないっ」
「え、貞操観念緩いとかヒドくない?」
「私から見た二人はそうだけどなぁ」
ぶるぶると首を振って否定しても澪は冷静な瞳でひたと見つめ返してくる。
嫌だ。嫌だ。こんなことで嫌われたくない。
「馬形さん、本当まじで名前で呼ぶの止めて。あと必要以上に触れたり近寄らないで」
苛立ちや嫌悪を何とか押し込めて馴れ馴れしい女に言い渡す。友人の言葉を借りるならこの女こそ有象無象のうちの一人で、嫌われようがいなくなろうがどうでもいい。仲間内の集まりに呼ばれなくなろうとも澪さえいればそれでいい。
「……感じわるぅ」
馬形は澪に視線を送りながらそう言って、来たときと同じようにガチャガチャとうるさく離れた席に移動していった。
香水の残り香が漂っているものの二人だけの静けさを取り戻してほっと安堵する。しかし僅かな間も置かずに隣から宣告が落とされた。
「後で話があるから付き合って」
「……え?」
感情の読めない平坦な声。澪は再びスマホに目を落としてこちらを向いてくれない。
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