ひどい目

小達出みかん

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新人遊女(3)

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「では千寿・・・・また、な。」


 真夜中をだいぶ過ぎたころ、男はなごり惜しげに何度も何度もふり返りながら帰っていった。その姿が通りから消えるのを見届けると、千寿は笑顔をやめハァ、とため息をついた。


 一体今日、何人の相手をしたのだろう。体がくたくたに疲れきっている。早く帰ってゆっくり眠りたい。千寿は揚屋を後にしとぼとぼと胡蝶屋に帰った。






「あたっ!」


 店の玄関に入った途端、足元から声がした。うす暗い中、顔を下に向けると布が床いっぱいに広がっていた。


 その布の中から声がした。


「おはよ…誰だか知らないけど、足どけてくんない?」


 豪華な着物に埋もれるように、梓が倒れていた。千寿はあわてて一歩下がった。


「あ、梓さんじゃないですか、どうしたんですか」


「あれ、千寿だったか。まぁ気にしないで…」


「気にするなって、無理ですよ」


 いけ好かない女だが、倒れているのを放ってはおけない。千寿は手をかし、抱き起こした。


「こんなになるまで、飲まされたんですか…?禿や若い衆はどうしたんですか」


「長くなったから先返しちゃった…」


 ここでのびるなら、誰かを呼びつけて介抱させ、とっとと布団に入ればいいのに。生真面目な千寿はそう思った。


「梓さん、とりあえず寝るなら布団で」


 体を支えながら歩をふみ出した瞬間、梓が苦しげに顔をしかめた。


「だ、大丈夫ですか?」


 至近距離の梓の顔に目を向けると――その首に赤く指のあとが浮かび上がっているのが見えた。


「首、どうしたんです…?」


「…そういう趣味の客でね」


 つかれ切ったような梓だが、うっすら笑みを浮かべている。だがその笑みは、ほつれかけた布がくしゃりとしわになったような、疲れた笑みだった。


「おいおい、そんな目するなよ…」


 微笑むのをやめて、眠そうに梓が言った。こんな目にあってもヘラヘラしている梓に、千寿は少し恐怖を感じた。自分だったら、どうするだろう?もし、客に首を絞められたら…ヒヤッとした千寿はその想像を頭から追い払った。


「とにかく部屋に戻りましょう。肩を貸しますから」


「へぇ、やさしいじゃん…?」


「あんなところで倒れていれば、誰だって手を貸しますよ」


「はは・・・あんた、わかってねえな」


「はい?」


「ここに、下心なしで助けてくれるやつなんていない」






 梓のふらふらの歩みが止まった。部屋の前についのだ。

 禿たちが敷いたであろう布団に、梓があおむけに倒れこむ。


「では、お大事に…」


 そういって立ち去りかけた千寿の腕を、梓はぐいっとひっぱった。はずみがついて、千寿は梓の上に倒れこんだ。重なった衣からは、なにやら高級そうな香の良い匂いがする。その向こうの彼女の体は、以外に硬かった。


「わっ、大丈夫ですかっ」


 千寿は起き上がって彼女の心配をした。ところが梓はそれを無視し、再び千寿の手をひっぱった。とっさにその手を振り払うこともできず、千寿はされるがままにまた彼女の上に倒れた。


「一体なんですか、いい加減…っ」


 梓はくるりと体を反転させ、困惑する千寿を下に組み敷いた。先ほどまでふらふら歩いていたとは思えない鮮やかな動きだった。


「あんた、スキだらけだなぁ…」


 上から見下ろす彼女の目は、暗闇の中らんらんと光っている。ネズミをいたぶる猫の目だ。


「あ、梓さん…?」


 梓の手が、千寿の柔らかな首の皮膚を撫でた。先ほどの恐怖を思い出して声が震えた。


「な、何を…?」


 梓は口のはしをあげて笑った。花のような美しい笑みだったが、同時に冷たかった。


「そんなんじゃ、ここではやってけないよ」


 手をつかむ力が強まる。いや、女にしては、強すぎないか…?

 ここにきてやっと、千寿は何かがおかしいと気がついた。


「あ、あな、あなたは…!」


 千寿は梓をじっと見た。外見は完璧な美女だ。だけどこの人は…


「お、男…?」


 千寿は身をよじって逃れようと抵抗した。梓はそれをやすやすと押さえ込んであざけった。


「くくっ。今更気がついたの?鈍いなぁ」


「なんで男が、この見世に…っ?」


「…この見世はな、お上には内緒で陰間も置いてるんだよ」


 千寿はおどろいて目を見開いた。そのすきに梓の指が、千寿の着物の間に滑り込んできた。


「や、やめてくださいッ!」


 手足が自由にならない千寿は思いっきり梓の体に頭突きをくらわした。


「…っ!」


 梓の力が緩んだスキに、千寿は脱兎のごとくその腕から抜け出した。


「お、お前なぁ…頭突きって…」


 梓が体をさすりながら起き上がった。


「こういう時は、抵抗されつつも抱かれるもんだろ…」


 千寿は頭に血が上った。


「人が親切で助けたのにっ…!」


 だが、千寿が怒っても梓はどこ吹く風だった。


「まあいいさ。いつか抱いてやるよ」


 月光の中で、梓が口の端を上げる。男だとわかると、その笑みがとたんに妖艶に見えて千寿は思わずあとさずった。早く立ち去りたい。千寿は身震いをおさえながら、さっと部屋をあとにした。






 真夜中三時近く。春の終わりのおぼろ月がこの部屋にも光をなげかけている。

 最初から、千寿はなんとなく梓に近寄りがたく思っていた。いつもヘラヘラとして何を考えているかわからない。そのくせ瞳は油断ならない光をたたえている。


 だけど同じ遊女だから、邪険にはできない…と思って助けた自分の甘さを千寿は呪った。彼の言うとおり、そんなんじゃここではやっていけないのだろう。


 …逃れられて良かった。千寿の目から、ふいに涙がしたたり落ちた。


(あ・・・私、怖かったんだ…)


 ああ、悔しい、ばかばかしい。こんなことで泣いてしまうなんて。こんな弱い心なんて、ここでは足かせになるばかりだ。早くなくなってしまえばいいのに。


 千寿はイライラとしながら、頭をきっと上げた。


 すると、輝く月が目に入った。月はいつもと替わらず、真珠色の光を投げかけている。ふと、弱気になった頭の中に、なつかしい面影がうかぶ。


 胸のあたりがきりきり痛む。千寿の心にだって暗い闇は巣食っている。

 過去を思い出すと、その闇は容赦なく千寿を絡めとるのだ。

 だが今はそれに負けるわけにはいかない。だめだ、思い出してはいけない。


 千寿は、そこで考えるのをやめ、眠りにつくため部屋に戻った。
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