ひどい目

小達出みかん

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一位のあの娘

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降り止まない雨の音をぼんやりと聞きながら、千寿は読み終わった絵草紙に手を伸ばした。この間バタバタと大部屋からこの小さい一人部屋に移って、初めての休みだ。


 暇だ…行事もなく、鬱陶しい雨のこの時期、客足は遠のく。だが千寿にとって、この暇は貴重だ。梅雨が明ければまた忙しくなるのだから、今のうちにできるだけだらだらしつくそう。


 そう決め込んで、ごろりと横になりパラパラと草紙の頁をめくる。行儀が悪いが、休みなのだ。せっかくの一人部屋なのだ。誰も見ていない。かまわない。


 草紙は、光る君が紫の女王を攫いだしたところで終わりになっている。もう知っている物語だけど、早く続きを読みたい。


 むくりと起き上がり、小窓から下の店通りを端から端まで眺めると、煙る雨の中、角から大きな細長い箱を背負った男が歩いてくるのが見えた。間のいいことに、貸本屋だ。


 ささっと着物を整え階段を降りると、誰が呼んだのか、すでに貸し本屋が風呂敷を広げて営業していた。暇をもてあましている遊女達が集まり、あれでもないこれでもないと本を選んでいる。


 客にはともかく、素だと愛想のない千寿はあまり朋輩の中で好かれていない。

 皆が集まっているのを見て、くるりと回れ右をしかけたが…


「あ、千寿ねえさん…」


禿のりんが千寿を見て、よく通る子どもらしい声で言った。

見つかってしまった。しょうがない。寿はあきらめてりんに声をかけた。


「りんが呼んでくれたの?貸本屋」


「すずか姉さんが頼んだんです」


 そっか、とつぶやいて千寿は貸し本屋に読み終わった絵草紙をドサリと渡した。


「返します。続きを貸してください。できればあるだけ」


「あいよ。千寿サンも、古風なのが好きだねぇ」


「…昔読んだのをを読み返してるだけ」


 千寿が貸本屋の親父に銭を手渡したその時、ぱんっと後ろから肩を叩かれた。


「よっ、三の姫」


「あっ、姉さん」


 りんがうれしそうに声を張り上げた。


「・・・・・三の姫?」


 千寿がわからずつぶやくと、ふふふっと姉さん―鈴鹿が笑った。この胡蝶屋のお職、花代第一位の遊女だ。


「野暮なこと言わないでよ、千寿。あたし、あいつ、千寿の順番じゃない」


 あいつとは、梓の事だろうか。つまり、売り上げ三番目だから三の姫、ということか。


「へぇ~。千寿はそんなの読んでんだ。あたしは古典はあんまりねぇ」

 そういって鈴鹿は今はやりの人情本を手に取った。


「こういう、一度読み出すと止まらないのが好きなんだよねえ。そうだ、千寿。」


「はい?」


「こうじめじめしてちゃうんざりするからさ、一緒に湯屋に行かない?」


「湯屋・・・?」

「内風呂じゃなんだし、外風呂でぱあーっとさ。」


 実は千寿は店の風呂しか入った事がない。湯屋というものは、どんな場所なのか…。ちょっと、気になる。

 それに…千寿は後ろに視線が集中しているのを感じ、あわてて二つ返事で了承したのだった。






 湯屋は、最近開かれたらしい。新しくて雅な建物だった。

 脱衣所で着物をばさばさ豪快に脱ぐのを見て、千寿は安心した。わかってはいたが、鈴鹿はちゃんと女だった。鈴鹿は、梓が男なのを知っているのだろうか…?


「何よ、そんなじっと見て」


鈴鹿は怪訝そうに言った。


「あっ、すみません…!」


 彼女の体を凝視していた事に気がついた千寿はあわてて目を逸らした


「私は正真正銘、女だから安心して」


 しどろもどろの千寿の内心を見透かしたように鈴鹿は言った。


「あいつ、早々に千寿に手ぇ出そうとしたんでしょ?」


 千寿は面食らった。


「な、何でそれを…っ?」


 あわてる千寿を見て、鈴鹿はぷっと吹き出した。


「かかった、かかった!やっぱりそうかぁ」


 一瞬ぽかんとした千寿だったが、担がれたとわかった。


「もう!ちがいますよっ!」


「あいつ、手ぇ早いし飽き性なとこあるから、ホント気をつけなね」


「そんな仲じゃありませんよ!」


「わかってるわかってる。ちょっとからかっただけ、ごめん!」


 その無邪気な謝罪に、千寿も力が抜けてしまった。鈴鹿は続けた。


「千寿、店じゃなかなか気楽にできないでしょ~。ほら、こないだの騒ぎ」


「こないだ…?ああ…」


 力なく千寿は笑った。「騒ぎ」は数日前のこと。千寿が胡蝶屋で三番目になったというので、大部屋から三番目の部屋に移る事になった。だが、その部屋には先客が居て…。


「菊染も、わかってるはずなのにね。ここは実力が物言う世界なんだから」


 もといた部屋を出て行くことになった菊染は、かんかんになってさんざんゴネた。最初から千寿をよく思っていなかったらしく、はいったころから大小嫌がらせを受けてはいたが、あそこまでキレるとは…。


「千寿ったら、本借りるのまでびくびくしちゃって。堂々としていいんだよ、あんたは何も悪くないんだからさ」


「はあ…」


「さっ、いこいこ」


 ためらいなく全裸になった鈴鹿が、千寿の腕を取った。






「…あんたもなんで、こんなとこに来ることになったの?」


 気楽な調子で、湯をぱしゃぱしゃもてあそびながら鈴鹿が定番の質問を口にした。脇には用意させた杯が浮いている。千寿も勧められるままに酒に口をつけた。風呂につかるだけでなく、みんな酒を飲んだり按摩をさせたりしてくつろいでいる。


「私はただ、売られて…うわ、おいしい」


 酒は甘く冷たく、さわやかな風味があった。この味は…梅だ。


「おいしいでしょ、その酒。梅酒といえば薬酒だけど、これは砂糖が入ってて飲みやすいの」


 客の座敷以外で、おいしいものを飲んだり食べたりするのは久しぶりだ。千寿の頬が自然とほころんだ。この街に、こんな楽しみがあったとは。


「売られて…か。私も親に売られてきたよ。年季明けまであと五年。」


 一般的に、遊女の年季は十年前後だ。入ったばかりの千寿の年季はほぼ十年手付かずで残っていることになる。


「私が最初入ったころは、毎日泣き暮らしてひどいもんだったよ…だけど千寿、あんたはまったく平気の顔じゃない。たまげるわ」


 鈴鹿が酒を煽りながら言った。この鈴鹿が毎日泣き暮らしていたという方が、驚きだ。


「鈴鹿さんはどうやって…今のようになったんですか」


 そういうと、鈴鹿は露骨に嫌な顔をした。


「やだやめてよ、そんな「さん」付けでよぶのは」


「ええ?でも…」


「でもじゃない。次「さん」つけたら酒取り上げるよっ」


「わ、わかりました…」


「私はよくある話でさ、家が傾いて売られちまったんだよね。商売やってたんだけど、左前になってにっちもさっちもいかなくなってさ」


 すこし悲しげに、鈴鹿は語った。


「最初は嫌だし、辛かったけど…ずっとやってると慣れるもんで、段々強くなっていったよ。今でも辛くないわけじゃないけど。鈍感になった…て感じかな」


 千寿は風呂の中で膝をかかえてじっと考えた。鈍感になる。私も早くその方法を身につけないと。


「で、千寿は?」


「へっ?」


「私ばっか喋らせてぇ」


 きょとんとした千寿を見て、鈴鹿は口をとがらせた。


「…すみません。鈴鹿の話を聞いて、考えこんじゃいました。鈍感になるにはどうすればいいのかなって」


「…最初のころはそこが辛いよねえ。でもさ、考えようによっちゃ、いいこともあるよ」


 鈴鹿は労わるように千寿を見た。


「最初はもう人生終わったって思ったけど。ここまで落ちればもう捨てるものなんてないし…いったんそう思い切れたら、だいぶ稼げるようになった。どうせやるなら、稼がないと損じゃない?」


 そのあっけらかんとした表情に、千寿は鈴鹿の強さを見た気がした。どうせやるなら。ここまで身をおとしたなら。その辛かった分を金に替えてやる…と。


「まっ、そのおかげでこうして贅沢もできるわけだし」


「…そっか…」


 その考え方に、ちょっと気持ちが晴れた気がした。

 とりとめもないことをしばらく話すうちに、二人はすっかり酔ってしまった。


「ところで千寿は、情人はいないの~?」


「ははっ、いませんよ~。男は客だけでもう十分…!」


「何いってんの、情人と客はまるっきりちがうんだから!」


「じゃあ鈴鹿には情人が…?」


「まっさか!…時々、誰かいれば気持ちが楽なのかなって思うけど、のめり込むと後が大変だし、第一そんないい男もいないし」


「ほんと、そうですよねぇ…」


 一人の男にのめりこむのは辛い。ただでさえ辛い毎日なのだからそんなのはごめんだ。千寿は心からうなずいた。


「むっ、その言いよう…さては過去になにかあったな?」


 鈴鹿が千寿の頬をつついた。


「はは、鋭いですねぇ…」


 へへっと千寿は笑った。体も頭ものぼせて、今ならどんな事でも笑い飛ばせそうな気がしていた。


「恋愛沙汰とかではなく…私は川に落ちちゃって~…それで売られちゃったんですよ~」


「なに?川…それ冗談なの?笑える~!」


 今が盛りの遊女、胡蝶屋の鈴鹿と千寿の笑い声が、風呂屋一杯に響いた。









 そして、2人はふらつく足で風呂屋を後にした。


「うぅ・・・飲みすぎた…」


 案の定、千寿は自室の布団の上でうずくまるはめになった。


「ごめんよ千寿、そんな強くなかったんだね」


 すでに酔いのさめた鈴鹿が、千寿を介抱していた。


「飲みやすいのでつい、いつもより…」


「にしても、千寿が酔うとあんなんなるなんてっ」


 鈴鹿は思い出し笑いをした。うずくまったまま、千寿は鈴鹿を睨んだ。


「ザルの鈴鹿につきあったからですよっ。鈴鹿のせいですっ」


 鈴鹿は千寿をとっくり眺めた後、聞いた。


「ねえ、川に落ちたって本当?」


 その目には、からかいや好奇心の表情なはい。真剣に、聞いてくれているようだった。酒にわれを忘れている今なら、痛みを伴わずにあの事を口に出せるかもしれない。千寿は言った。


「…本当です。わけあって、旅をしていて。連れ合いがいたのですが、そこではぐれてそれっきり」


「その連れ合いって…?」


「情人とかじゃないですよ、舞の師匠です」


「…なんだ、色気のない話だったか」


 はいはいと返事をし、鈴鹿が水を並々と杯に注いで持ち帰ってくるころには、千寿はすでに布団の上で夢の中だった。


「…以外に天真爛漫なんだから…水、置いとくからね」


 売れっ子なのに、朋輩のなかでひとりぼっちの千寿に以前から興味はあったが、ここまで距離が近まるとは思っていなかった。鈴鹿よりいくらか年下の寝顔はまるで子どものようだ。意外な発見に、鈴鹿はふっと微笑んだ。


 障子から、橙の明かりが差した。雨がやんだらしい。夏の夕方の、どこか親密な風が奥まった千寿の座敷にも吹き込む。


 鈴鹿はそっと座敷を後にした。
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