ひどい目

小達出みかん

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撫子の花(千寿過去編)

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「撫子、撫子」


 誰…?私をその名で呼ぶ人は、もういないのに…


「撫子、起きて」


 違う、私の名前は撫子じゃない、私はもう…。我慢しきれなくなって目を開けると、清々しい光が目に飛び込んできた。


「あれ、朝…?」


 いつもの、部屋。お下がりの布団に、使い込んだ匂いのする畳。そして、布団の私をのぞき込む、きらきら優しい色の目。


「おはよう、撫子」


「夕那…?」


 よかった…。考えるより先に、手が動いていた。どさっと夕那が、撫子の上に倒れ込む。


「ひゃっ、なに。急に引っ張ったりして」


 ぎゅっと夕那を抱きしめる。夕那の、ほのかな香の香りがする。


「よかった、夕那・・・」


「撫子…?」


 夕那が撫子の顔をのぞき込む。撫子より長い、薄い色の髪の毛がふわふわと顔にかかる。


「くっ、くすぐったい」


「もうっ、なんだよお」


 夕那が笑いながら髪の毛をかき上げた。


「ごめん、怖い夢見ちゃって」


「どんな、夢?」


「うーん…忘れちゃったみたい」


「撫子、毎日頑張りすぎて疲れているんだよ。少し休まないと」


「十分休んだよ。さっ、支度しないと」


 そういって布団から起きあがった撫子を夕那は押しとどめた。


「ほら、ちょっと待って。僕の話を聞いてよ」


「何?」


「今日は舞の稽古は休みだって。先生が来れないみたい」


「え!」


「うふふ」


 にこにこと笑う夕那。彼はとっても嬉しそうに笑う。

 彼はいつもそうで、声を荒らげたり、怒りを顔に出すところを見たことがない。誰もが心を和ませる少年だった。撫子も、この弟と一緒に居ることが好きだった。


 だが彼の母は、夕那と撫子が仲良くする事を快く思っていない。


――二人は、腹違いの姉弟なのだった。


 撫子は、父親と妾との間の落とし子だった。母親は、元は舞姫であったが撫子を出産した際に亡くなってしまった。父親が所望しなければ、そのまま撫子も一座の舞手になっていたはずだが、忘れ形見にと引き取られ屋敷で育ったのであった。


 撫子を引き取ってまもなく、父が正式に迎えた妻との間に生まれたのが、夕那だ。乳母のもとで本当の兄弟のように一緒に育ったが、今年に入って撫子は離れの小部屋に居を移された。もちろん、夕那の母の命令だ。


 義母の思惑は、撫子も察しがついていた。夕那もあと何年かすれば年頃だ。もし居候の落とし子と何か有れば、将来に差し障る…。


 その母の思いに、夕那は気がついているのだろうか。


「ねぇ撫子」


 夕那の目線に八ッとする撫子。


「な、何」


「今日は舞の稽古も休みだし、母様も出かけてていないんだ」


 目をきらきらさせながら夕那は話す。


「久しぶりに原っぱまで行って見ようよ。ね、お願い」


「師匠が来なくても、練習はしないと。悪いけど私は…」


「練習は外でもできるよ!きっと風に吹かれて舞うのも気持ちいいよ」


「うーん…」


 見つかったら…と思ったが、夕那のキラキラした瞳に負けてうなずいてしまう撫子であった。


 初夏の原っぱは、風が心地よく夏草を揺らし、立っているだけで心の中まで清々しくなるようだった。

 夕那の言うとおりかもしれない。外で舞うのもいいものだ。


 夏の匂いを胸いっぱいに吸い込んでから、撫子は無地の扇を手に、舞った。空が、とても近くに感じられる。袖が空を舞うたびに、光と陰が揺れる。


 そして、すぐそばで夕那が、私を見ている。そう思うと手に汗がにじみ、からだが熱くなった。

 そのくせいつもよりも手のふりも足の踏みも軽く、いくらでも舞えそうだった。今までにない喜びを、撫子は感じていた。


――ずっと、こうして舞っていられれば・・・・・・・。


 そんな撫子を、まぶしく夕那は見つめていた。





「撫子の舞は、本当にきれいだね」


 練習を終え汗を拭う撫子に、夕那がぽつんとつぶやいた。


「ふふっ。夕那は私しか見たことがないからそう思うんだよ」


 師匠を思い浮かべて撫子は笑った。自分なんて、まだまだだ。


「そんな事ないよ。撫子よりきれいに舞う人なんて、きっといない」


 それでも夕那は、まっすぐ撫子の目を見てそういう。撫子は、ふいにくすぐったいような、嬉しいような変な気持ちになった。


「ありがとう、夕那」


 でも、こんな事で喜んじゃいけない。もっと上達しなければ。千寿は心の中でそう思っていた。

 そんな撫子を、すこし不安な目で夕那は見る。


「ねぇ撫子、なんでそんなに頑張るの?」


「そりゃあ、頑張ればもっと上手に…」


 いや、ちがう。夕那の目をみて撫子は気がついた。彼はそんな事を聞いているのではない。


「頑張って、それで撫子はどうするの。撫子がどこか遠くに行っちゃうみたいで、僕は…怖いよ」


 そんな事はない、と千寿は言い切れなかった。はっきりと何か、目標があるわけではない。けれど撫子にはある予感があった。このままこの屋敷にはずっと居られないという予感が。


 自分は、その不安を紛らわせるために、がむしゃらに舞いに打ち込んでいるのかもしれない。自分がこれからどんな運命をたどるのか…。


「わからない」


 撫子のつぶやきに、夕那がぽかんと声を漏らす。


「え?」


 でも、できることなら、夕那と一緒にいたい。この平穏な生活が終わるのをぎりぎりまで先延ばしにしたい。


「さ。夕那」


 撫子は夕那の手にある虫籠をひったくった。


「この中いっぱいにするまで、帰らないよ!」


 みっちり収穫がつまった虫籠を手に屋敷へ帰りつくころには、もう夕日が空を照らしていた。


「怒られちゃうかなあ。でも、バッタもカマキリもいっぱいだよ、うふふ」


 夕那はにこにこしながら虫籠を揺すった。


「兎もいたね」


 さすがに捕まえられなかったが。


「かわいかったね。茶色い兎だったね。連れて帰れたらなあ…」


 バッタを捕まえようと慎重に動きを止めていたら、カサッと草むらの中から音がして、バッタは飛んで行ってしまった。何かと思って振り向いたら、兎が通りすぎたのだった。茶色い夏毛の、目がくるっとした…。しだいに兎と夕那の面影が重なり、無意識に撫子は微笑んだ。


「どうしたの、撫子?」


「なんでもない。それより夕那、牛車が」


 撫子は見える屋敷の庭の一角を指さした。


「え?」


「止まってない。ということは母様はまだ帰ってない」


「ほんとだ!」


 というわけで二人は大手を振って屋敷の門をくぐったのであった。









「まったくもうっ」


 乳母の近江がぶつぶつ言いながら盥にお湯をそそぎ込んだ。


「私もくどくど言いませんけど、こんな遅くまで体中泥だらけにして外で遊んでるなんてっ。姫様のする事じゃございません、まったくっ」


「ごめん」


「心配したんですよ、行き先も知らせないでいきなりお行きになるですからっ。もし奥方様が先にお帰り
になって…!」


 母はいなかったものの、近江はおかんむりだった。無理もない。二人をべつべつに過ごさせるよう、最近母にきつく言い渡されたのだから。


 撫子はごしごしと体をこすりながら反省した。近江の言うとおりだ。もし母に見つかったら、近江は母に叱られるというのに…軽率だった。


「夕那様もでございますっ」


 衝立を隔てた隣で湯浴みをしている夕那も、近江のこの心配ぶりに反省しているようだった。


「ごめん・・・次から気をつけるね」


「よしてください、もうっ。「次」だなんて。お二人とももう一緒に遊ぶ年じゃないんですよ。こんな事

はこれきりにしてもらわないとっ」


「はぁい…」


 と、言いつつも、近江は夕餉の膳を二つ、並んで出してくれた。

 娘時代から奥方に使え、その苦しみを身近に見てきた近江からすると、奥方が二人の間を遠ざけようとする気持ちもわからないではない…。だが、子どもに罪はない。内心では、夕那と撫子を引きはがすことを良しと思っていないのだった。


 そんな近江の親心に、湯浴みを終えた二人は神妙な顔で膳の前に座った。


「ごめんね撫子、僕のせいで…」


「ううん、夕那は悪くないよ」


「うん…でも、久々に撫子と一緒で、たのしかった」


 ぽつりとつぶやかれたその言葉を、撫子は流した。


「今日は母様、遅くなるみたいでよかったね」


「うん…」


 二人はたがいに顔を見合わせた。こらえていたが、夕那の顔をみるとつい、笑みがこぼれてしまう。


「・・・食べよっか」


 久々に二人一緒に食べる夕食は、撫子にはとても美味しく感じられたのであった。

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