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撫子の花(2)
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「ありがとうございました。」
半日にも及ぶ今日の稽古が終了した。撫子は師匠に頭を下げた。
「姫、前回と何か・・・すこし舞が変わったね。一体どんな練習をしたのかい?」
師匠が横目で撫子を見つめながら問いかけた。
切れ長の妖艶な目元は、ちらっと視線を投げかけるだけでも色気がある。この目に見つめられると、夕那に見つめられるのとは違った意味でどきどきしてしまう撫子であった。
「少し、外で練習をしてみたのです」
「へぇ、なるほどねえ。それがいい影響になったみたいだね。でも…それだけかな?」
師匠の瞳がいたずらっぽくきらりと光った。
昨日の夕那との練習は、久々に千寿の気持ちを晴れやかにしてくれた。それが舞に現れているのを見逃す師匠ではない。すべて見透かされたようで、千寿はちょっと恥ずかしかった。
「ま、深くは追求しないけれど…ね」
師匠は物腰柔らかに、襖に手をかけた。
「今日は見送りはいいよ。ちょっとあなたのお父上とお話してから帰るから」
「はい。ありがとうございました」
撫子は真っ赤なまま、再び頭を下げた。
「撫子が、恋…?」
爭琴の言葉を、父の義成は笑い飛ばした。
「まだほんの子供だぞ」
「いいえ、姫様はもう恋するお年頃です」
義成の杯に酒を注ぎながら、爭琴はきっぱりと言った。
「おそらく自分でもまだ気がついてはいないでしょう。お互いに。でもこのままいけば遠からず…」
義成はとたんに不機嫌に酒を煽った。
「ふん。あれが騒ぎ立てるから儂の耳にも入ってきたわ。そう気をもむことでもなかろう、二人ともまだ子供じゃ」
「そう怒りなさるな。筒井筒の仲…と申すではありませんか。いずれは通る道ですよ」
爭琴が優しく言い添えると、義成は顔を曇らせた。
「しかし…時の流れは早いものだな・・・もう残された時間も長くない。あれがきちんとした嫁ぎ先に片づくまで、生きておれれば良いのだが」
「義成様らしくない。そんなお言葉は。常夏を一座から奪った頃の勢いはどうなされました」
「常夏か…」
撫子の母親、常夏を思い出す義成の表情はとても苦しげだった。10年以上経った今でも、常夏の死の悲しみが未だ癒えていない事を、爭琴は知っていた。
「撫子の舞には、常夏と同じ匂いがいたします。不思議なもので…」
「そうか…。そういえば、撫子の舞をまだ見た事がなかったな」
「稽古を初めて十年。そろそろ何か舞台を与えても良いかもしれませぬ」
「そうか、撫子の初舞台か…」
常夏の舞を思い出してしまいそうで、撫子の舞を見ることを避けていたが、そろそろ時期なのかもしれない。手遅れになる前に撫子に機会を与えてやらねば。
義成の頭に、ふと良い考えが浮かんだ。それを告げると、爭琴も笑ってうなずいた。
爭琴の牛車の去る音を聞きながら、今夜は久々によく眠れそうだ、と義成は安堵するのであった。
次の日の朝、撫子に告げられた父からの命令は、寝耳に水の吉報となった。
それはたった一言
「正月の宴の舞姫を勤めよ」
というものだった。
撫子は流れる汗を手で払い、ふっと息をついた。
すでに日は傾いている。稽古場の空気は冷えこんで、吸い込む息が凍水のように冷たい。
「姫、今日はもうこのくらいで、やめにしよう」
師匠の凛とした声が、撫子の動きを止めた。たしかにこれ以上はやりすぎだ。だが。撫子は唇を噛んだ。
年が明けて数日。宴まで一週間を切っている。撫子は父の期待に応えようと、ここ数日根を詰めて練習していた。
「もう十分に舞は完成しているのだから、むしろ体を休める事を考えなさい」
と師匠は言うが、じっとしていると緊張でどうにかなりそうだ。
なにしろ、道楽者の父が開く宴というのはとても盛大で、上流の宮様から商家の大旦那までさまざまな人々を招待し、もてなす宴だからだ。
撫子は、何とかして父の期待に答えたかった。だが逆に、何かしくじれば父の顔に泥を塗ることにもなる。
――些細な失敗も、許されない。
そしてもう一つ、気がかりがあった。夕那だ。近江が聞いたところによると、夕那に、縁談話が出ているらしい。いつかこんな日が来るだろうと覚悟はしていたが、それでとまどいが消えるわけではなかった。
それに加え、撫子が宴の舞の練習に打ち込むようになってから、なぜか夕那は別人のように撫子を避けるようになったのだった。今まで心の支えにもしてきた夕那のその態度は、撫子を打ちのめすには十分だった。
――そんな不安な思いを抱え込みながら、狂ったように稽古に励んでいる撫子であった。
「夕那、夕那や、」
ひたひたと後ろから近づく足音に、夕那ははっとふりむいた。
「なんです、母上」
すらりと伸び、筋肉がついた手足。結われた薄茶の髪。この一年で驚くほど成長した息子を、葛野はほれぼれと眺めた。
「そう恨を詰めては、体を壊してしまうよ。外は寒い、部屋にお入り」
「いえ、母上、すこし遠乗りしてから戻ります」
そして夕那は厩へ向かった。ため息をつき屋敷に戻る母を横目で見て、夕那の心は穏やかではなかった。
――去年の初秋に母が父と話し合っていた、縁談の話。
「おまえ様。そろそろ夕那のこと、真剣に考えて下さいまし」
「まあ、そう急くな。いくらか話は来ておる。ほれ」
かさかさと紙をやりとりする音が響き、しばらくして母は嬉しそうな声を上げた。
「まあ、こちらの姫なら、年頃も家柄もちょうど釣りあうし…あの子にはぴったりですわね」
「まぁなにも、今すぐというわけではない。向こうも今約束しておいてゆくゆくは、というつもりじゃか
らな」
「でも早めに越したことはありませんわ。悪い虫がついてからでは、なにかと面倒ですもの…」
その話を襖ごしに聞いてしまった瞬間、頭には撫子の姿が浮かんだ。
(撫子…)
いままで一緒に暮らし、遊び、育った姉。彼女と一緒に居られる日々は、期間限定となったのだ。いや、それに今まで気がつかなかったのだ。
(そうか…だから)
撫子の、必死に舞に打ち込む表情…なぜ彼女が遠くに行ってしまいそうに、思えたのか。彼女がいきなり自分を置いて大人になってしまったと嘆いたが、夕那も今、その理由を理解したのだ。
(僕も今、しっかりしなければ)
がむしゃらに竹刀をふり、馬を乗りこなしているうちに、体は厚みを増していった。勉強にも打ち込み、今まで以上に父の仕事に同行するようになった。
馬の背の上で、風を切る。凍てついた風が頬を殴る。夕那の目に、今までになかった決意が光っていた。
父が、自分を一人前と認めてくれれば。
(撫子とずっと一緒にいる事だって、できるはずだ)
遠乗りを終え、門の前で鞍から飛び降りた瞬間、門の内側に撫子が立っている事に気がついた。
「っ…!」
不意の事に驚いて、足を滑らせてしまった。
「夕那、大丈夫?」
尻餅をついた夕那に、反射的に撫子は手を差し出した。
「…平気」
俯きがちにつぶやき、夕那は差し出された手を無視して立ち上がった。あの日以来、撫子と一緒にいると決意したくせに、彼女を目の前にするとなぜか顔をそらしてしまうのだった。
「夕那…一体どうしたの」
困りきった撫子の声。そんな声にも、どう応えればいいのかわからない。内心あせりながらも、夕那はその場を立ち去った。
「なんで無視、するの…」
撫子はその背を見つめ、泣きそうになりながらひとりつぶやいた。
(ああ、どうしよう。また撫子にあんな態度をとってしまった)
後悔のあまり、夕餉もろくに喉をとおらず、夕那は布団の中で一人鬱々としていた。
(なんで撫子の顔をみると、あんなに緊張してしまうんだろう。今までは、何ともなかったのに…)
こんな状態では、彼女と一緒に居ることなんてできないではないか。だが、あの決意をした時から、怖くてたまらない。そうだ、自分は、撫子を必要としている。
ーーでも撫子が、もし、自分を必要としていないとしたら・・・。
必要と、していなかったら・・・・・。
一方、撫子も、鬱々としていた。
夕那に何があったのだろう。何をするにでも一緒で、ひきはなされてからも目を盗んでは遊んでいたのに。ここ最近、めっきりよそよそしくなってしまった夕那。
(私が、何かしちゃったかな…)
真剣に考えてみても、何も思い浮かばない。そう、夏の終わりから、ずっと二人の関係は膠着状態だった。何かたずねてもなしのつぶて。じっくり話し合うような隙もない。最初はおろおろしていた撫子だったが、今日はとうとう堪忍袋の尾が切れた。
(もう、怒られたっていい)
明日、本人に直談判にしにいってやろうじゃないか。
次の日の夕刻。
遠乗りを終え、馬をつなごうと厩に入った瞬間、夕那は隣にある人影に気がついた。
「夕那」
はっと顔を上げると、撫子がいた。
「話をしよう、夕那」
撫子の、握りしめた拳からバキバキ音が鳴っている。
――まずい、これは相当怒っている。思わず夕那は後ずさりした。
「最近のその態度、一体どういう事?聞かせてもらいたいんだけど」
元々男勝りな撫子だ。こうなったら絶対あとには引かないだろう。わかっていても、口元がふるえて、頭の中は真っ白で、なにも答えられない。
――もし、撫子が自分を必要としていなかったら…?
夕那の目から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。それを見て、撫子の表情が変わった。
「泣くほど…私がいやなの…?」
明白に傷ついた表情。ちがう、と言いたいのに、嗚咽で喉が詰まって声が上手く出せない。その様子を見て、撫子の表情はますます沈んだ。俯いて、かすかにつぶやいた。
「…ごめん」
そして撫子は、逃げるように厩からでていった。
(ちがう、ちがうよ撫子。謝らなきゃいけないのは僕のほうだ・・・)
泣きながら、夕那は自分を責めた。撫子の傷ついた声、表情。それを見た瞬間に、まずなによりも安堵してしまった自分を…。
撫子は、夕餉もとらず、小部屋の畳の上に身を投げ出していた。
――夕那に、いつのまにか嫌われていたなんて。
そうか、そうだったのか。流れる涙を隠すように腕で顔を覆うと、こんな状況なのにくつくつと笑いがこみ上げてきた。
ああ、バカみたいだ。
最初っから、夕那は天の上の存在だったのに。いつのまに錯覚していたんだろう。子供同士だったから大人たちにも大目にみられ、一緒にいられた。
(だけど彼には、もう私なんて必要ないのだ)
そう思うと、腹の底からつめたいものがさあっと広がった。虚無感が撫子を襲った。もう彼が撫子の舞を褒めてくれることもない。親しく話すことも、二人の合言葉も思い出も、もう全部…
(全部、なくなるんだ……)
いや、わかっていた。いつかこうなることは、わかっていたはずなのに。なぜ自分はこんなにまで衝撃を受けているのだろう?撫子は冷え冷えとした体を抱きしめながら自問自答した。
そして初めて、どのくらい夕那が自分の心を占めていたのか理解した。
(ほぼ全部、じゃないか…)
流れ落ちる涙は、明け方になっても乾かなかった。
半日にも及ぶ今日の稽古が終了した。撫子は師匠に頭を下げた。
「姫、前回と何か・・・すこし舞が変わったね。一体どんな練習をしたのかい?」
師匠が横目で撫子を見つめながら問いかけた。
切れ長の妖艶な目元は、ちらっと視線を投げかけるだけでも色気がある。この目に見つめられると、夕那に見つめられるのとは違った意味でどきどきしてしまう撫子であった。
「少し、外で練習をしてみたのです」
「へぇ、なるほどねえ。それがいい影響になったみたいだね。でも…それだけかな?」
師匠の瞳がいたずらっぽくきらりと光った。
昨日の夕那との練習は、久々に千寿の気持ちを晴れやかにしてくれた。それが舞に現れているのを見逃す師匠ではない。すべて見透かされたようで、千寿はちょっと恥ずかしかった。
「ま、深くは追求しないけれど…ね」
師匠は物腰柔らかに、襖に手をかけた。
「今日は見送りはいいよ。ちょっとあなたのお父上とお話してから帰るから」
「はい。ありがとうございました」
撫子は真っ赤なまま、再び頭を下げた。
「撫子が、恋…?」
爭琴の言葉を、父の義成は笑い飛ばした。
「まだほんの子供だぞ」
「いいえ、姫様はもう恋するお年頃です」
義成の杯に酒を注ぎながら、爭琴はきっぱりと言った。
「おそらく自分でもまだ気がついてはいないでしょう。お互いに。でもこのままいけば遠からず…」
義成はとたんに不機嫌に酒を煽った。
「ふん。あれが騒ぎ立てるから儂の耳にも入ってきたわ。そう気をもむことでもなかろう、二人ともまだ子供じゃ」
「そう怒りなさるな。筒井筒の仲…と申すではありませんか。いずれは通る道ですよ」
爭琴が優しく言い添えると、義成は顔を曇らせた。
「しかし…時の流れは早いものだな・・・もう残された時間も長くない。あれがきちんとした嫁ぎ先に片づくまで、生きておれれば良いのだが」
「義成様らしくない。そんなお言葉は。常夏を一座から奪った頃の勢いはどうなされました」
「常夏か…」
撫子の母親、常夏を思い出す義成の表情はとても苦しげだった。10年以上経った今でも、常夏の死の悲しみが未だ癒えていない事を、爭琴は知っていた。
「撫子の舞には、常夏と同じ匂いがいたします。不思議なもので…」
「そうか…。そういえば、撫子の舞をまだ見た事がなかったな」
「稽古を初めて十年。そろそろ何か舞台を与えても良いかもしれませぬ」
「そうか、撫子の初舞台か…」
常夏の舞を思い出してしまいそうで、撫子の舞を見ることを避けていたが、そろそろ時期なのかもしれない。手遅れになる前に撫子に機会を与えてやらねば。
義成の頭に、ふと良い考えが浮かんだ。それを告げると、爭琴も笑ってうなずいた。
爭琴の牛車の去る音を聞きながら、今夜は久々によく眠れそうだ、と義成は安堵するのであった。
次の日の朝、撫子に告げられた父からの命令は、寝耳に水の吉報となった。
それはたった一言
「正月の宴の舞姫を勤めよ」
というものだった。
撫子は流れる汗を手で払い、ふっと息をついた。
すでに日は傾いている。稽古場の空気は冷えこんで、吸い込む息が凍水のように冷たい。
「姫、今日はもうこのくらいで、やめにしよう」
師匠の凛とした声が、撫子の動きを止めた。たしかにこれ以上はやりすぎだ。だが。撫子は唇を噛んだ。
年が明けて数日。宴まで一週間を切っている。撫子は父の期待に応えようと、ここ数日根を詰めて練習していた。
「もう十分に舞は完成しているのだから、むしろ体を休める事を考えなさい」
と師匠は言うが、じっとしていると緊張でどうにかなりそうだ。
なにしろ、道楽者の父が開く宴というのはとても盛大で、上流の宮様から商家の大旦那までさまざまな人々を招待し、もてなす宴だからだ。
撫子は、何とかして父の期待に答えたかった。だが逆に、何かしくじれば父の顔に泥を塗ることにもなる。
――些細な失敗も、許されない。
そしてもう一つ、気がかりがあった。夕那だ。近江が聞いたところによると、夕那に、縁談話が出ているらしい。いつかこんな日が来るだろうと覚悟はしていたが、それでとまどいが消えるわけではなかった。
それに加え、撫子が宴の舞の練習に打ち込むようになってから、なぜか夕那は別人のように撫子を避けるようになったのだった。今まで心の支えにもしてきた夕那のその態度は、撫子を打ちのめすには十分だった。
――そんな不安な思いを抱え込みながら、狂ったように稽古に励んでいる撫子であった。
「夕那、夕那や、」
ひたひたと後ろから近づく足音に、夕那ははっとふりむいた。
「なんです、母上」
すらりと伸び、筋肉がついた手足。結われた薄茶の髪。この一年で驚くほど成長した息子を、葛野はほれぼれと眺めた。
「そう恨を詰めては、体を壊してしまうよ。外は寒い、部屋にお入り」
「いえ、母上、すこし遠乗りしてから戻ります」
そして夕那は厩へ向かった。ため息をつき屋敷に戻る母を横目で見て、夕那の心は穏やかではなかった。
――去年の初秋に母が父と話し合っていた、縁談の話。
「おまえ様。そろそろ夕那のこと、真剣に考えて下さいまし」
「まあ、そう急くな。いくらか話は来ておる。ほれ」
かさかさと紙をやりとりする音が響き、しばらくして母は嬉しそうな声を上げた。
「まあ、こちらの姫なら、年頃も家柄もちょうど釣りあうし…あの子にはぴったりですわね」
「まぁなにも、今すぐというわけではない。向こうも今約束しておいてゆくゆくは、というつもりじゃか
らな」
「でも早めに越したことはありませんわ。悪い虫がついてからでは、なにかと面倒ですもの…」
その話を襖ごしに聞いてしまった瞬間、頭には撫子の姿が浮かんだ。
(撫子…)
いままで一緒に暮らし、遊び、育った姉。彼女と一緒に居られる日々は、期間限定となったのだ。いや、それに今まで気がつかなかったのだ。
(そうか…だから)
撫子の、必死に舞に打ち込む表情…なぜ彼女が遠くに行ってしまいそうに、思えたのか。彼女がいきなり自分を置いて大人になってしまったと嘆いたが、夕那も今、その理由を理解したのだ。
(僕も今、しっかりしなければ)
がむしゃらに竹刀をふり、馬を乗りこなしているうちに、体は厚みを増していった。勉強にも打ち込み、今まで以上に父の仕事に同行するようになった。
馬の背の上で、風を切る。凍てついた風が頬を殴る。夕那の目に、今までになかった決意が光っていた。
父が、自分を一人前と認めてくれれば。
(撫子とずっと一緒にいる事だって、できるはずだ)
遠乗りを終え、門の前で鞍から飛び降りた瞬間、門の内側に撫子が立っている事に気がついた。
「っ…!」
不意の事に驚いて、足を滑らせてしまった。
「夕那、大丈夫?」
尻餅をついた夕那に、反射的に撫子は手を差し出した。
「…平気」
俯きがちにつぶやき、夕那は差し出された手を無視して立ち上がった。あの日以来、撫子と一緒にいると決意したくせに、彼女を目の前にするとなぜか顔をそらしてしまうのだった。
「夕那…一体どうしたの」
困りきった撫子の声。そんな声にも、どう応えればいいのかわからない。内心あせりながらも、夕那はその場を立ち去った。
「なんで無視、するの…」
撫子はその背を見つめ、泣きそうになりながらひとりつぶやいた。
(ああ、どうしよう。また撫子にあんな態度をとってしまった)
後悔のあまり、夕餉もろくに喉をとおらず、夕那は布団の中で一人鬱々としていた。
(なんで撫子の顔をみると、あんなに緊張してしまうんだろう。今までは、何ともなかったのに…)
こんな状態では、彼女と一緒に居ることなんてできないではないか。だが、あの決意をした時から、怖くてたまらない。そうだ、自分は、撫子を必要としている。
ーーでも撫子が、もし、自分を必要としていないとしたら・・・。
必要と、していなかったら・・・・・。
一方、撫子も、鬱々としていた。
夕那に何があったのだろう。何をするにでも一緒で、ひきはなされてからも目を盗んでは遊んでいたのに。ここ最近、めっきりよそよそしくなってしまった夕那。
(私が、何かしちゃったかな…)
真剣に考えてみても、何も思い浮かばない。そう、夏の終わりから、ずっと二人の関係は膠着状態だった。何かたずねてもなしのつぶて。じっくり話し合うような隙もない。最初はおろおろしていた撫子だったが、今日はとうとう堪忍袋の尾が切れた。
(もう、怒られたっていい)
明日、本人に直談判にしにいってやろうじゃないか。
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遠乗りを終え、馬をつなごうと厩に入った瞬間、夕那は隣にある人影に気がついた。
「夕那」
はっと顔を上げると、撫子がいた。
「話をしよう、夕那」
撫子の、握りしめた拳からバキバキ音が鳴っている。
――まずい、これは相当怒っている。思わず夕那は後ずさりした。
「最近のその態度、一体どういう事?聞かせてもらいたいんだけど」
元々男勝りな撫子だ。こうなったら絶対あとには引かないだろう。わかっていても、口元がふるえて、頭の中は真っ白で、なにも答えられない。
――もし、撫子が自分を必要としていなかったら…?
夕那の目から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。それを見て、撫子の表情が変わった。
「泣くほど…私がいやなの…?」
明白に傷ついた表情。ちがう、と言いたいのに、嗚咽で喉が詰まって声が上手く出せない。その様子を見て、撫子の表情はますます沈んだ。俯いて、かすかにつぶやいた。
「…ごめん」
そして撫子は、逃げるように厩からでていった。
(ちがう、ちがうよ撫子。謝らなきゃいけないのは僕のほうだ・・・)
泣きながら、夕那は自分を責めた。撫子の傷ついた声、表情。それを見た瞬間に、まずなによりも安堵してしまった自分を…。
撫子は、夕餉もとらず、小部屋の畳の上に身を投げ出していた。
――夕那に、いつのまにか嫌われていたなんて。
そうか、そうだったのか。流れる涙を隠すように腕で顔を覆うと、こんな状況なのにくつくつと笑いがこみ上げてきた。
ああ、バカみたいだ。
最初っから、夕那は天の上の存在だったのに。いつのまに錯覚していたんだろう。子供同士だったから大人たちにも大目にみられ、一緒にいられた。
(だけど彼には、もう私なんて必要ないのだ)
そう思うと、腹の底からつめたいものがさあっと広がった。虚無感が撫子を襲った。もう彼が撫子の舞を褒めてくれることもない。親しく話すことも、二人の合言葉も思い出も、もう全部…
(全部、なくなるんだ……)
いや、わかっていた。いつかこうなることは、わかっていたはずなのに。なぜ自分はこんなにまで衝撃を受けているのだろう?撫子は冷え冷えとした体を抱きしめながら自問自答した。
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