ひどい目

小達出みかん

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松の位のとばっちり(4)

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千寿は部屋に戻って風呂の支度をした。まだ体は痛い。だが、もう今夜には客をとらないといけないだろう。

 そして夕那が、今この瞬間にも私を待っている。遊女になった私を。そう思うと千寿の背筋は寒くなった。


(ああぁ~~~イヤだな)


 湯気がゆらゆらたちのぼる。風呂は気持ち良い。うだうだ考えているのがイヤになってくる。


(イヤだけど、逆らえない。だって、仕事だもの)


 その瞬間、ぱちんと千寿の中で気持ちが切り替わった。


(そうだ、仕事だからしょうがない)


 彼に今更会いたくなんてないけど、これ以上松風を怒らせたくはない。梓にも貸しを作ってしまった。なによりお金のため。自分のためだ。


(よし、なら完璧に「仕事」してやろう)


 千寿は暑い湯の中で決意を固めた。




 思えば不思議だ。あんなにもう一度会いたい、一目みたいと身を焦がしていた相手が目の前にいるのに。私の心は冷え冷えと静まり返って、冷静だ。


(とうとう女心をなくしたのかな、私)


 だとしたらもう悩むこともなくなって、便利だ。そう思うとちょっとおかしくなって思わず笑みが浮かんだ。


「何がおかしいの、撫子…」


「そのお名前でお呼びになるのはやめてくださいったら…」


 千寿は唇に笑みを浮かべたまましずしずと酒を杯に注いだ。


「私の舞はいかがでししたか?気に入っていただけましたか?」


「うん、もちろん…だけど撫子…」


「ですから、その女はもう死んだのです。月並みな言い方ですが、旦那様」


 そう、ここいるのは遊女の千寿。撫子などではないのだ。そのことをはっきりわかってもらわないと。

 それぞれ違う思いを胸に見つめあう二人の上に、月が柔らかい光を投げかけていた。




(月が高い場所まで上がっている…もう真夜中すぎだ)


 千寿は胸の中で算段した。そろそろ床に入らないと。


「旦那さま、こちらに参りましょう」


 千寿は夕那の手を取って座敷を出た。彼はされるがままについてくる。隣の狭い部屋には、すでに床の用意がしてある。いつものように。


…そう、いつもと同じ。いつも男たちにやってきたこと。何も考えてはいけない。ただ体を動かして仕事にかかるんだ。


 いまから行うのは、ただの「作業」。目の潤みも唇の笑みも恥らう仕草も、頭のてっぺんからつまさきまで制御して、男に夢を見せる。


「旦那さま…」


 きっと彼の目には潤んだ瞳の千寿が映っているはずだ。

 そう、そのまま唇を重ねればいい。いつもしているように。始まればあっというまに、終わる…。本当の自分を封じ込め、千寿は目を閉じて夕那に迫った。


「や、やめてっ!」


 そのとたん、夕那に押し返されて千寿は面食らった。


「そういうつもりじゃなかったのに…ごめ…ごめんなさい、撫子…」


 だからその名前を、と言いそうになったが夕那が泣き出したので、やめた。


「謝ることなんてないですよ…私がお相手では、お嫌ですか?私に任せてもらえれば、きっと楽しく…」


「そんなんじゃないよ…っ!撫子は…撫子はいつもそうだ。本当はどう思っているか言わないんだ。うそをついて、平気なフリをして…!」


「だから撫子は死んだんですってば。旦那様」


「ひどいよ、僕が、僕がどんな気持ちで…!」


 そこまで言われてさすがの千寿もつくり笑いも、消えた。


「……怒る相手が違うんじゃありませんか」


 その言葉に、夕那ははっとして唇をかんだ。


「ごめん…撫子にひどいことしたのは、僕たちのほうなのに…」


「じゃ、その呼び方をおやめになって、千寿と呼んでくださいな、旦那様」


 千寿はすぐさま笑顔にきりかえた。さあ、とっととはじめなければ。千寿は夕那の頬に手をかけて、再び…


「やめてっ、さわらないで…!」


「え…?」


 その言い草に、さすがの千寿も面食らった。


「旦那様…お言葉ですが、ここはそういう場所…ですよ?」


「そういう事したくて来たわけじゃ、ないもん」


「…私が相手では嫌って事ですか?」


 夕那はがっくりうなだれた。


「ちがうよ…そういうんじゃなくて…」


「じゃあどうします?」


 やらないんなら接客終了して店に戻りたい。でものこり1日分のお金はもらってるわけで…千寿はせこく胸算用しつつ夕那の答えを待った。


「…一緒にいて」


「一緒に?ここ?」


「うん。千寿の隣で寝る」


「寝るって、寝るだけ?スースーと寝る、あれ?」


「うん、そう」


「そうですか…」


 まあいいや。じゃあ寝よう。千寿は面倒になって考えるのをやめた。明日のことは明日考えればいい。


「じゃあ遠慮なく。隣に失礼しますね…」


 千寿は布団にもぐりこんだ。ここの布団は広めに作ってあるので、二人で寝ても狭くは感じない。すると、千寿の体に夕那の手がまわされた。


「ねえ、撫子」


 ろうそくもおぼろな暗闇のなか、深刻な切り出し方に千寿は身構えた。何だ。なんの要求だ。


「…明日ね、二人で歩きたい」


「……は?」


「僕こんなところくるのはじめてだから、いろいろ見てみたい」


 千寿は拍子抜けした。


「はあ…たいした場所でもないんですけれど、そうおっしゃるなら」


「やったあ。うれしいな。僕、名物のあんこ餅が食べてみたい!あと、お寺にも…」


「最中の月ですか。じゃあ明日、一緒に食べにいきましょう…」


「…ありがとう、撫子」


 だからその呼び方はやめてって。そう思いつつ、千寿は眠りについた。





「ねえ撫子、あっちのお店にもいってみたい!」


「その名前はやめてくださいったら…」  


 道ゆく私たちはさぞ目立つだろう。これでは客と太夫に見えない。どうみても逢い引きしている遊女と情人だ。夕那のはしゃぎっぷりときたら。


(ああ、もう、調子狂う…)


「ねえ、ねえ、これって撫子なの??」


「だから、私の名前は…」


 夕那がふり返って、通りの店に大きく張り出してある絵を指差した。


「ああ、それにはまだ私はのってませんよ、昨日今日太夫になったばかりですから」


 その絵は大店のお職たちを浮世絵師が描いたものだ。胡蝶屋の顔ぶれはもちろん…


「こちらの遊女が前、うちの店の太夫だった鈴鹿というひとです。で、こっちの遊女…うーん…」


千寿が言葉に詰まったその先を、夕那が続けた。


「梓、だね」


「そうです…いかがでしたか?」


「うん、綺麗な顔をしていたねえ。撫子は…あの子のこと好き?」


「ど、どうでしょう。商売敵ですからね。仲はそう良くないですよ」


 まさか男だと気づいたわけでもなかろうが、夕那の口調に少し翳りを感じ千寿は、ドキッとした。


「あの子は、撫子のこと…好きみたいだったよ」


「え…?」


 一体昨夜どんな話をしたのか知らないけど、それは夕那の思い込みだ。梓は私の事なんかいじりがいのある人形くらいにしか思っていない。

…と、千寿は思っている。


「旦那様、なぜそんなことおっしゃるんです。昨夜何を吹き込まれたんですか?」


「だって…あの子は魅力的だし。きっと男も女も関係ないんだろうなって…」


 それを聞いて千寿は思わずうなってしまった。あの短時間で、何も知らない夕那にここまで言わせるとは…さすが、腐っても梓。

 きっと客の前では相当色気たっぷりの豪華な猫をかぶっているのだろう。


「あのですね…梓には悪いですが。あの人が魅力的なのは、お客に対してだけです。つまり商売用の分厚い面の皮で、客以外にはひどいもんですよ。ちゃらんぽらんなやつです」


 今まで愚痴りあっていた鈴鹿もいない今、つい悪口が冴えてしまう千寿であった。


「自分の人気を鼻にかけるわけではありませんが、とにかく気まぐれな人ですよ。ひどく突き放したと思ったら助けたり、突然優しくなったり冷たくなったり…周りは振り回されっぱなしです」


「それって、撫子に対して?」


 そう言われて、はっと気がついた。梓はゆきや、禿たちに対しては面倒見が良い。辛らつな所はあるが松風や鈴鹿ともうまくつきあっていた。それに。


(私だって昨日、助けられたんだった)


 それを忘れて客に愚痴るとは。千寿は反省した。


(またちゃんとお礼をしなきゃな)


「ねえ撫子、どうしたの?」


「はっ…いやいや、何でもありません。この話はもうやめにしましょう。他の朋輩の話なんて景気が悪いですし…あっ、そうだ。最中の月を食べに行きましょう!あっちです」


 少し不機嫌になってしまった夕那を、千寿は強引に連れて行った。


 ああ、前もこんなことがあったっけ。


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