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松の位のとばっちり(7)
しおりを挟むぼんやりと箸を口に運ぶ。三日ぶりにゆっくり食べる朝食なのに、頭がぼんやりして味がよくわからない。
窓のそとから見た夕那の背中。ついさっき見送ってきたばかりなのに、もうとても昔の事のような、思い出のような感覚で実感がない。
千寿の心のそこにずっと夕那が張り付いて、恨みと忘れられない思いに身を焦がしていた。それと同じ時間、夕那もずっと千寿ひとりを思い続けていたというのか。
(両者痛みわけ…とはいえない。やっぱり全部はゆるせない)
それでも。嬉しかった。あの一言が。
(撫子でなくちゃ、だめなんだよ…!)
あの小鳥のような声、うるんだ大きな瞳、柔らかくゆれる髪…記憶の中にずっと、ずっと焼きついていた夕那の姿。
だけど大人になった夕那の声は低く、表情は少しさびしげな大人のものになっていた。
それでも、彼の中身は純粋なままだ。
恐れていた彼との再開で、予想とは違う方向に心が揺れてしまった。千寿は久々に生きたいと思った。
このまま生き延びて、また夕那に会いたい。
(でも、これで終わりにしなければ)
だがその気持ち以上に強く、千寿はそう思った。
(私に会い続けていたら、彼の身が破滅してしまう)
まっさらな雪面のように純粋な彼。ここに通えばそれは踏み荒らされ、きっと心がすりへってしまう。お金だってどうやって工面したのだろう。そうそう太夫遊びができるような家ではないはずだ。ましてや、彼にはもう妻がいるのだ。
(親たちと同じ轍は、ふみたくない)
今まで以上にしっかり気を持たなくてはいけない。なぜかって…
(あれに本気になってしまったら、こっちも身の破滅だ…)
「おい、なんて怖い顔してんだよ」
「ひゃっ」
いきなり声をかけられて、千寿は箸を取り落とした。
「なーにやってんだよ」
梓がそれを拾って、隣にこしかけた。
「すみません…あれ、珍しいですね。梓さんが食堂におりてくるの」
「お前もここん所いなかったろ」
「…そうですね」
梓は悪戯っぽく目を細めて言った。
「で、どうだったよ、あのお坊ちゃんは」
「…正直、もう会いたくないですね」
「なんでよ?」
「なんでって…」
千寿は自虐的に笑った。
「あれ、実の弟なんですよ」
茶碗を持ち上げた梓の手が、止まった。
「…そりゃ、悪趣味な野郎だな」
以外にも、顔をしかめて真剣な表情だった。
「…茶化さないんですね」
「するかよ」
「…ありがとうございます」
しばし、無言で食事をする。なぜか周りのざわざわとした音、そして隣が梓にいるのが心地よかった。
「やっかいな客、しょいこんじまったな。気ぃつけろよ」
千寿の肩を叩いて梓は席を立った。
(…何かいつもと反応がちがったな)
ちょっとひっかかりつつも、千寿の気持ちはしゃっきりした。
(やっぱり、朋輩に愚痴をきいてもらう効果は、バツグンだ…)
当たり間だが皆、商売敵だ。だがこれは普通の商売ではない。体も辛いし、時には心も病みそうになる。そんな時、同じ境遇の朋輩の励ましはささいな一言でも身にしみる。
お互い辛さが手に取るようにわかっているからだ。
(鈴鹿ももういないし、これからはできるだけ梓とも仲良くしないと)
自分のためにも、と思う千寿だった。
(今はまだ序の口。あいつ、これからじわじわ落ちてくな・・・)
廊下を歩きながら、梓は気もそぞろだ。
(過去のしがらみは、だんだんゆっくり効いてきて、最後はがんじがらめになる)
「わっ」
考えながら歩いていたら、誰かにドンとぶつかった。松風だ。
「梓、何をうつけているんですか。まったく」
「あ、わりぃ」
「今日も昼見世から客がついているから、くれぐれも遅刻しないように」
梓に一べつをくれて、松風はその場をあとにした。
そのまなざしにはいろいろなものが含まれている。が、梓はもうあえてそれを読み取る気はなかった。
――血を分けた肉親の愛憎が、もっともたちが悪く、心身を蝕む。
梓はそのことを誰よりもよく知っていた。
(ああ、またきやがった)
腹をおさえる。梓はずっと腹痛に悩まされていた。心のどす黒い思いを押し殺すたびに、そこはぎりぎりと痛む。
この体は、そうなってしまった。あの時から。
一番最初の記憶は、松風に手をひかれ歩く雑踏の、ほこりっぽい景色。
その前の記憶はあいまいで、母の顔も覚えていない。当たり前だろう、生後まもなく別れたのだから。ただ、物心ついたころから松風はそばにいた。
その日はよく晴れた日だった。多くの人がゆきかう道はほこりっぽく、梓は何度か咳き込んだ。そんな梓の手を引いて、松風は知らない家の前で足を止めた。
売り飛ばされてしまうのかもしれない。門前で怯える梓に松風は言い放った。
「お前は文も書けないだろ。礼儀作法もなってない。まずはここの先生に教えてもらいなさい」
まだ幼い子どもだった梓は松風の言うことはなんでも素直に従った。うまくできれば松風は喜んだ。だんだん梓はそれが嬉しくなってきた。梓も、小さいころはそれなりに純粋だったのだ。
松風が何のために俺を育てているのか。そんな知る由もなくただ毎日いっしょに暮らしていた。冷たいところも多いが、松風は親のように育ててくれている…梓は愚かにもそう思っていた。
あの日々が、自分にとって一番たのしい時代だったかもしれない。
そして年月がたち、松風は梓にかけた費用を「回収」し始めた。そのころすでに梓は松風に心を寄せるようになっていた。だから松風のために働いて、お金を渡すのはむしろ嬉しかった。
そう、あのことが起こるまでは。
その年はちょうど、全国的な不作だった。食い詰めた農村や、落ちぶれた武家、貴族の家から子供たちがたくさん売られてきていた。
子供たちはみんな疲れて、無口で、ぼうっと一点を見つめるかしくしく泣いているかどちらかだった。
その中に口を真一文字に結んで、きっと野次馬たちを睨み返す少年がいた。
(ありゃあ、これから大変だろうな…)
ここで平和に暮らしてうまい飯にありつくには、何よりあきらめが肝心だ。逆らったり、我を通すことなど不可能。力をもつ者になびかないと生きてはいけない。
(まあ、俺には関係ないか)
すでに売れっ子の自分が、この中の誰かとかかわる事もないだろう。そうおもった梓はその場を後にした。
その数日後。
いやな客の相手で疲れきっていた梓は、客を見送ったその足で風呂へ向かった。ああ、やっと開放された、ゆっくり休もうと思いながら。
だが、風呂はまだ掃除中のようであった。いつもならもう入れる時間なのにと梓はイライラした。
「すみません、もうすぐ終わるんで」
ひょっと顔を出したのはあの少年だった。一瞬、梓に目を向けて少し頭を下げた。この場所に似合わない、さっぱりした表情だった。
(気に食わねぇ)
梓はそう思いながらずるりと帯を解き、風呂支度にかかった。かまわない。俺は今風呂に入りたいんだから入ってやる。一刻もはやく客につけられた汚れを落としたい。
すると少年はあわてて梓に背を向けた。
(…ははあ、あいつ俺を女と勘違いしてるな)
無理もなかった。そのころの梓の見た目はなよやかな少女そのものだった。少しからかってやろうという気持ちになり、梓は色っぽい流し目を少年におくった。
「……!」
当たり。背中を向けていたくせに、目はしっかりとこっちを見ていた。二人の視線がぶつかる。少年はしまった!とばかりにあわてて目を背けた。その頬が赤くなっている。
梓は内心、大笑いだ。
(ちょろい、ちょろい。あはははは)
それには、意地悪な気持ちもまざっていた。さんざん客にいたぶられている分、自分もだれかをいたぶってうっぷんを晴らしたかった。うってつけの相手だ。
「ねえ、まだかかりそう…?」
色気たっぷりに襟を抜いたすがたで、梓は少年にちかよって手をのばした。
「ちょ、ちょっと待ってって」
少年は後ずさりしたが、梓のてのひらに目を止めて、ふと手を取った。
「あんた、手、どうしたん?」
「・・・・っ」
梓はおどろいて手をひっこめた。先ほどの客は猟奇的なヤツで、手だけでなく全身いろんなところをかまれた。
「これは痛いな、ちょっとかして」
少年は桶に水を汲み、その中に梓の手を浸してあざの部分をこすった。
「こうして冷やして揉めば、少しはマシになるから」
少年は、一生懸命手をさすっている。梓はその顔をそっと盗み見た。同い年くらいだろうか。日に焼けていて肌は黒いが、りりしい少年らしい顔立ちだ。
・・・こうやって誰かに手あてしてもらうなんて、いつぶりだろう。いつも傷やあざは放っておいていた。どうせ手あてしたって、すぐまたつくから。
「こんなもんかな」
少年は梓の手を放した。確かに痛みはマシになり、あざも薄くなっていた。だがここで素直に礼を言う梓ではない。
「ふん。頼んでもないのにご苦労なこった」
少年は梓の言葉に気を悪くした様子もなく、てきぱきとお湯を沸かして出て行った。
「じゃ、お大事にな」
「ちょ、ちょっと待てよ」
「ん?」
少年はふりかえった。まっすぐな瞳だった。
「お前、新入りなの?名前は?」
「俺は渚。おとついからここにいるよ」
「渚か。俺は・・・」
「梓、だろ。知ってるよ」
梓は面食らった。なら最初から男とばれていたのか。
「あんたの事は初日に親方からきかされたよ。手本にしろってさ」
渚はしげしげと梓を見た。梓はバツが悪かった。
「でも無理だよなあ。あんたとは土台がちがうってもんだ」
自分の顔を指差して、渚は屈託なく笑った。
梓はふっと肩の力が抜けた。
いま思えばあの時。自分は渚を好きになったのだ。彼のばか正直で、困っている人を放っておけないお人よしな所。
そして、まっすぐな心。それは今まで梓のまわりになかったものだった。どんどん彼に惹かれていった。
渚は、梓とちがい外の世界を知っていた。この花街から抜け出すことを夢見ていた。彼と接しているうちに、梓も外の世界に憧れるようになった。
そして気がついた。自分と松風の関係がおかしいことも。
(俺も、自分の稼いだぶんは自分で貯めて、外の世界に出たい。渚と一緒に・・・)
そう思い始めた矢先の事だった。
夜更けに渚と、数人の少年がこそこそと行灯部屋に入っていくのを梓は見かけた。行灯部屋は陰気な場所にありめったに人は入らない。だから秘め事にはうってつけの場所だった。
梓はそっとあとをつけ、襖に耳をあてた。
・・・ひそひそと何事かを話し合っている声がする。色めいたことではなさそうだ。梓はピンときた。
(足抜けの相談だな)
いてもたってもいられなくなり、梓は部屋に足をふみいれた。額をつきあわせていた少年たちはぎょっとして梓を見た。
「あ、梓か。」
そこにいたのは渚と、同じ陰間の桂と弥彦だった。桂と弥彦は梓をじっと睨めつけた。告げ口するのではないかと疑っているのがありありとわかった。
「皆、足抜けの相談だろ」
その一言で、場の緊張感が高まった。一触即発だ。
「おい、告げ口する気ならー」
「ちがう、俺もまぜてくれ」
「へ?」
「梓・・・本気か?」
渚が言った。心配している口調だ。
「・・・本気だ。俺も外にいきたい」
梓はまっすぐ渚だけを見て言った。
「わかった。じゃあ梓も・・・」
言いかけた渚を、2人がさえぎった。
「おい渚、危ないぜ。ヤツにはお目付けがびったりついてる。仲間に加えたらおいらたちも捕まっちまうよ」
「弥彦の言うとおりだよ。俺たちとは比べ物にならないくらい売れっ子だ。死にもの狂いで追っ手がかかる」
渚はやれやれという感じで首をふった。
「じゃあ梓、そういう事だからお前はあきらめて、俺たちの事はだまっててくれよな・・・なんて通用すると思うか?」
とニヤリと笑って梓のほうを見た。
「んなわけねえだろ」
梓も笑って答えた。
「だよな。ここに集まっているのを梓に気づかれた俺たちの手落ちだ。しょうがねえ。腹をくくろう」
渚は人をまとめあげるのがうまい。加えて頼りがいもある。2人もしぶしぶうなずいた。
「よし、じゃあ梓にも計画を説明しよう」
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