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急変
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何かいやな予感がする。
首の後ろにちりちりと火の粉がふりかかるような。
何も知らずに危険のある道を歩いているような。
その予感に突き動かされて、セレンは早く早くと帰りの道を急いだ。だがようやく辺境のかなたに白霧山脈が見えたとき、セレンは唇を噛んだ。
見ればほっとすると思ったはずなのに、逆に焦燥感が増した。
(ミリア様の身に、何も起こっていなければいいけど…)
様々な不安を胸に、セレンは馬を進めた。
やがて山脈の前にひろがる闇の森までたどりついたとき、セレンは妙なことに気が付いた。
「団長…森の入り口に、誰かいます」
何があったのだろうかと二人は顔を見合わせたのち、馬を早めた。
「団長!お帰りで!」
兵士達の顔がいつもとちがい、高揚し、殺気だっている。セレンは敏感にそれを感じとった。
(何が、起こったんだ!?)
セレンは不安に立ち止まると、兵士たちはセレンに近づきあっという間に馬からひきずり下ろした。
「何をするッ!」
トラディスは兵士達を制した。だが兵士達はそんなトラディスに言った。
「こやつはトリトニアの間諜です。最初に団長が言ったとおりでした」
「何を言う。彼女の疑いはすでに晴れたではないか」
兵士は厳しい顔で言った。
「あの后じたいが、間諜です。今は捕らえています」
その言葉をきいて、セレンの心臓は痛いほどにドクンと脈打った。思わず顔を上げて兵士を見たセレンに対して、兵は容赦なく蹴りを入れた。腹だった。鍛え上げられた兵士の足から繰り出されたそれはあまりに強く、セレンは衝撃で気が遠くなった。
(くそ、だめだ…こんなところ…で…)
「俺が留守の間、一体何があったんですか」
異様な興奮につつまれている城内へ戻って一番に、トラディスと王子はシャルリュスを訪ねて聞いた。
「王子、長旅お疲れだろう。それにトラディス、帰りを待っておったぞ」
2人を見てシャルリュスは言ったが、その目はいつもにも増して冷たく光っていた。
「2人とも疲れているだろうが、詳細を話そう。さあ、座って。
…王子たち一行が出発して数日たった日、私は城内に侵入してきたウツギを捕らえることに成功した。そやつはウツギの中でも反抗的で、我々に逆らおうと皆を扇動していた男だった。どうも団長がおらずこちらが手薄になっていると踏んで侵入してきたらしい。私はそやつを処刑しようと捕らえたが、数名のウツギが彼を救出しようとイベリス兵に挑みかかってきて小競り合いになった。そのせいで一気にウツギ者たちの反抗心に火がついてしまったらしい。私は反乱を起こさないためにも女子どもを数名捕らえて人質にした。
そんな中、私は思いもかけない人物が城を抜け出すのを見た。后のミリアネスだ。私はこっそりとあとをつけた。彼女は森で女と会っていた。2人の話から、驚きの事実がわかった。后と会っていた女はウツギを束ねる女長で、ミリアネスはその女に相談を持ちかけていた。望むならトリトニアが兵力援助をすることもできるから、ウツギはトリトニアと手を組め、大公もそう望んでいると。
それを聞いて私は理解した。彼女はウツギを横取りし、イベリスを潰すために大公から送られた駒だったということを。私はその場ですぐ后を捕らえた。ウツギの女長は逃がしてしまったが…」
話はそこで終わった。王子はきいた。
「それで、父上は?帰ってきてから姿を見ないが、今回のことをどうお考えてになっているのだ?」
シャルリュスは渋い顔で首をふった。
「后が裏切っていたことをお信じになれなくてね。だが事実だからわかっていただくより他ない。その結果、衝撃を受けて倒れてしまわれた。全く…だから私がかわりに指揮をとっているのだ」
言葉とは裏腹に、その口調はまんざらでもない様子だった。トラディスは慎重に聞いた。
「本当に后様は、間諜だったのですか?認めたのですか?」
「私も信じられない。お優しくて、妹たちにも良くしてくれた義母上だったのに…」
シャルリュスは首をふった。
「王子は、まだお若い。トラディスも、私からすればまだ若い。これを機に女というものについて覚えておくと良い。女というのは、良かれ悪かれ、常に男を騙そうとしてくるものだ。しんから信じてはいけない。その身を滅ぼすぞ」
その言葉には毒々しい気迫がこもっていた。王子も、トラディスも押し黙ってしまった。
トラディスの脳裏に、セレンの姿が浮かんだ。そうか、それなら彼女も、私をだましていたのか…。いや、そんな事、考えたくなどない。
「それで今後、どうなさるおつもりなのですか、叔父上」
感情を抑えて事務的に聞くトラディスに、彼はうなずいた。
「それを決めたくてね。だから2人の帰ってくるのを待っていたのだよ」
察しの良い王子は、うつむいてつぶやいた。
「戦に…なるのか」
「イベリスのしたことを考えれば、戦を起こす立派な理由になる。しかし…戦というのは起こせばいいというものではない、勝つ見込みがないのなら、しないほうがいい」
それは、その通りだ。今のイベリスでは、トリトニアに勝てるかわからない。トラディスは思った。
「しかし、このまま黙ってもおけない。叔父上はどうお考えですか」
その問いにシャルリュスはにやりと笑った。
「私としては、イベリスの不利益になることはしたくない。やっとここまで立ちなおったし、これからなのだ。なので現状を維持していきたい」
「…と言うと?」
「ミリアネスの兄も、若くして病気で死んだな?ミリアネスにも、そうなってもらえば良いだけのこと。病死ということにして葬儀をあげれば、トリトニアも文句はつけられまい?やつらとの関わりはこれでお終いにし、ウツギへの監視を今までより強める。これでイベリスはいつもの日常に戻る」
(っ…ここは…)
セレンは腹をおさえながら起き上がった。まぎれもなく地下牢だ。ただ、一人ではなかった。老女がセレンが起き上がるのを手伝って、背中を支えてくれていた。
「目が覚めたかい、セレン」
老女のほかにも、女や子どもが怯えた様子で座っていた。黒い髪に藍色の目。ウツギだ。
「あ、あなたたちは、なぜ捕らえられて…私がいない間、何があったのですか?アジサイは…」
「しっ、その名をここで言ってはいかん」
老女がセレンを止めて、説明をした。
「あんたらが行ってしばらくして、アサギリが村を抜け出してね。兵が少ない今がチャンスだって。結局それで捕まっちまった。何人かの男たちが、彼を助けに行こうとして、兵と戦って殺されてね…それを知ったウツギの皆は、もう我慢の限界だと武器を手にし始めた…。姉巫女様は必死に抑えておられたが、限界を感じてあんたのお后さまに助けを求めた。だが后様はイベリスのヤツにつけられていた…わしも姫巫女さまも別の方向へ逃げた…そのあとわしはつかまって、姉巫女さまがどうしているのかわからない…!つかまってしまわれたかもしれない…!」
老女はセレンにとりすがって泣き崩れた。
「たのむ…!姪のあんたが、姉巫女さまを救っておくれ…!あの方は、あの方は…ずっとわしらのために自分をすてて尽くしてきてくださったのに…それがこんな事に…」
嗚咽をあげる老婆を、セレンは抱きとめた。その体は枯れ木のように細く、軽い。
(貧しさと搾取の中で、どのくらい辛い思いをしてきたのか…)
その中の唯一の生きた希望が、アジサイだったのだ。その気持ちはセレンにも痛いほどわかった。セレンにとっては、ミリアネスがそうだったからだ。後ろの女たちも、それを聞いて涙ぐんでいた。
「…どうか諦めないでください。私は絶対に諦めません、彼女のことも、ミリア様のことも」
老婆はセレンの胸から顔を上げて言った。
「ああ、なんだろうね。あんたに触れて、少し元気が出たよ。姉巫女さまとはちがうが…不思議な子だ。あんた、もしかして」
するとその時、ガチャンと牢のドアが開いて、兵士が入ってきた。彼らは老女からセレンを引き離し、荒々しくセレンを引き立てていった。
その背を、女たちは悲痛な、だがどこか希望を持ったまなざしで見つめていた。
連れてこられたのは、あの宰相の館の一室だった。セレンは柱に縛り付けられていた。
「トラディスの言ったとおり、お前はとんだ間諜だったな」
毒毒しい笑いを浮かべて、彼はそういった。
「さて、一つききたいことがある。ウツギの親玉の女は、どこにいる?」
セレンは内心、喜んだ。アジサイはイベリスの手から逃れることができたのだ。
「知りません。私は先ほどやっとイベリスの帰ってきたんですから」
「しらばっくれても無駄だぞ。お前の主が、どうなってもいいのか?」
セレンは唇を噛んだ。卑劣な男だ。おそらくアジサイは洞窟の中だろう。だが死んでもそれは言わない。特にこの男には。
「知らないものはいえません」
「ふん。今の所、お前の主を生かしておいてはいるが、それも状況次第だぞ?お前が情報をはけば、彼女の身の安全は約束するがな」
猫なで声でシャルリュスは言った。だが見え透いた嘘だ。
(この男が、弱い立場の私との約束を守るはずがない。アジサイの居場所を教えたら最後、私も、アジサイも、そしてミリア様も殺すつもりだ)
どうすれば、彼を出し抜けるだろう。セレンは必死に考えた。きつく縛られた縄が手足にくいこみ、焦りが募った。
「…私はともかく、ミリア様に手を出せば大公が黙っていませんよ。トリトニアと戦争する気ですか」
「殺せばそうだな。だが出産というのは命がけのもの。そのせいで命を落とすのは、仕方がないことだ」
セレンの身に戦慄が走った。そんな彼女を見て、シャルリュスは鞭を手にした。
「言わぬのであれば、これの力を借りるしかあるまいな。だがお前は痛みに強そうだ。打つより刺すほうが良いかもしれぬなぁ」
思案顔でシャルリュスはテーブルの上から箱を持ち上げ、セレンに中身を見せた。
「これが私の道具だ。少し前も、これである女の爪をはがしてやった。これは歯を抜く用、これは返しの付いたナイフ…いちど刺されば、肉をえぐりとるしか抜く方法はない。お前はどれが気に入るかな?」
セレンは恐怖よりも、熱い怒りを感じた。リンドウの姿が脳裏に浮かんだ。
「それでリンドウを殺したわけですね。リンドウは言っていましたよ、あんたを騙すのは簡単だったって!この事件がおこらなければ、あんたは一生リンドウに騙されつづけて、利用されてたんでしょうね!」
その発言に、シャルリュスの余裕の笑みが消えた。彼は無表情で、セレンの髪をつかんだ。
「バカな小娘め。ここで私を怒らせるとどうなるのかも、わからないのか」
髪を引き上げられながらも、セレンは相手をにらみつけた。
「怒るってことは、図星だからだ!分をわきまえずリンドウに手をだしたからだ、醜い老いぼれが!」
が、シャルリュスはその言葉を受け取めることはしなかった。
「決めたぞ。これを使おう。お前のように生意気な女にはこれがぴったりだ」
そういって鋭いとげが無数についている鞭を取り出した。
「お前の肉を切り裂き、生きながら骨まで砕いてやる。先ほどのふざけた言葉、後悔するといい。まずは顔からだ」
シャルリュスは鞭を持った手をふりかぶった。避けようのないセレンはとっさに目をつぶった…その時。なまあたたかい液体が、セレンの体に降り注いだ。
(何!?)
セレンは目を開けた。目の前に立つシャルリュスの胸から、大きな剣が突き出て、血しぶきが飛び散っていた。彼の背後から顔を出したのは――
「ハ…ハエ?」
彼はシャルリュスの体から剣を引き抜いた。どさりと体が床に倒れた。
「お…お前…は…」
シャルリュスはそう言ってハエを見上げようとした。虫の息だ。それを見てハエは笑った。いつものように無邪気に。
「あんたの悪事もこれまでだね、父さん」
「バカな…わしに息子など…」
「あれ?ひどいなぁ。忘れちゃったの?あんたが殺せと命じた赤ん坊のこと」
シャルリュスが目を見開いた。黒目が限界まで開いたその顔は、まがまがしい。
「…おのれ…リンドウめ…最後まで…この、私を…」
裏切っていたのか。そう言う前に、シャルリュスは息絶えた。
(父さん?リンドウ?どういうことなの)
混乱するセレンの手の縄を、ハエはすばやく切った。
「早く、窓から逃げるよ!時間がない」
「ではお大事に、陛下…」
トラディスは思い気持ちで、陛下の寝室をあとにした。彼の声も、王子の声も、横たわる陛下の耳には届いていなかった。
(なんてことだ。留守の間に、ここまで状況が悪くなってしまうとは)
陛下も倒れ、トラディスと王子が留守にしていたこの数日に、シャルリュスはすばやく動いて物事の対処にあたった。もはや彼が実権を握っているといってよかった。
(彼がすべてを指揮している…王子を差し置いて。だが経験、力ともに彼のほうが上だ。いまは頼るより他ない…)
トラディスは悔しさに唇をかんだ。このままの状況が続けば、シャルリュスが玉座に座ってしまうかもしれない。
セレンの裏切りが露見したことも、トラディスには悔しかった。考えたくもないほどの痛手だった。彼女が裏切っているなどと、思いたくない。旅の間、彼女はずっと親切にしてくれたではないか。2人の距離は縮まったではないか。そしてあの目に浮かんでいた苦しみは、裏切りの罪悪感によるものではなかったか?しかし、そう思ってしまうのは…
(俺の…願望か)
倒れて意識不明になった陛下の気持ちが、トラディスにもよくわかった。だが、自分は倒れるわけにはいかない。この非常時に、王子を助けられる人間がいなくなる。それに…
(おれはちゃんと、あいつに聞きたい。あいつと話がしたい)
トラディスは牢へと足を向けた。そこへ兵士が駆け寄って告げた。
「団長、大変です!侍女の女が、宰相殿を殺して逃げました!」
首の後ろにちりちりと火の粉がふりかかるような。
何も知らずに危険のある道を歩いているような。
その予感に突き動かされて、セレンは早く早くと帰りの道を急いだ。だがようやく辺境のかなたに白霧山脈が見えたとき、セレンは唇を噛んだ。
見ればほっとすると思ったはずなのに、逆に焦燥感が増した。
(ミリア様の身に、何も起こっていなければいいけど…)
様々な不安を胸に、セレンは馬を進めた。
やがて山脈の前にひろがる闇の森までたどりついたとき、セレンは妙なことに気が付いた。
「団長…森の入り口に、誰かいます」
何があったのだろうかと二人は顔を見合わせたのち、馬を早めた。
「団長!お帰りで!」
兵士達の顔がいつもとちがい、高揚し、殺気だっている。セレンは敏感にそれを感じとった。
(何が、起こったんだ!?)
セレンは不安に立ち止まると、兵士たちはセレンに近づきあっという間に馬からひきずり下ろした。
「何をするッ!」
トラディスは兵士達を制した。だが兵士達はそんなトラディスに言った。
「こやつはトリトニアの間諜です。最初に団長が言ったとおりでした」
「何を言う。彼女の疑いはすでに晴れたではないか」
兵士は厳しい顔で言った。
「あの后じたいが、間諜です。今は捕らえています」
その言葉をきいて、セレンの心臓は痛いほどにドクンと脈打った。思わず顔を上げて兵士を見たセレンに対して、兵は容赦なく蹴りを入れた。腹だった。鍛え上げられた兵士の足から繰り出されたそれはあまりに強く、セレンは衝撃で気が遠くなった。
(くそ、だめだ…こんなところ…で…)
「俺が留守の間、一体何があったんですか」
異様な興奮につつまれている城内へ戻って一番に、トラディスと王子はシャルリュスを訪ねて聞いた。
「王子、長旅お疲れだろう。それにトラディス、帰りを待っておったぞ」
2人を見てシャルリュスは言ったが、その目はいつもにも増して冷たく光っていた。
「2人とも疲れているだろうが、詳細を話そう。さあ、座って。
…王子たち一行が出発して数日たった日、私は城内に侵入してきたウツギを捕らえることに成功した。そやつはウツギの中でも反抗的で、我々に逆らおうと皆を扇動していた男だった。どうも団長がおらずこちらが手薄になっていると踏んで侵入してきたらしい。私はそやつを処刑しようと捕らえたが、数名のウツギが彼を救出しようとイベリス兵に挑みかかってきて小競り合いになった。そのせいで一気にウツギ者たちの反抗心に火がついてしまったらしい。私は反乱を起こさないためにも女子どもを数名捕らえて人質にした。
そんな中、私は思いもかけない人物が城を抜け出すのを見た。后のミリアネスだ。私はこっそりとあとをつけた。彼女は森で女と会っていた。2人の話から、驚きの事実がわかった。后と会っていた女はウツギを束ねる女長で、ミリアネスはその女に相談を持ちかけていた。望むならトリトニアが兵力援助をすることもできるから、ウツギはトリトニアと手を組め、大公もそう望んでいると。
それを聞いて私は理解した。彼女はウツギを横取りし、イベリスを潰すために大公から送られた駒だったということを。私はその場ですぐ后を捕らえた。ウツギの女長は逃がしてしまったが…」
話はそこで終わった。王子はきいた。
「それで、父上は?帰ってきてから姿を見ないが、今回のことをどうお考えてになっているのだ?」
シャルリュスは渋い顔で首をふった。
「后が裏切っていたことをお信じになれなくてね。だが事実だからわかっていただくより他ない。その結果、衝撃を受けて倒れてしまわれた。全く…だから私がかわりに指揮をとっているのだ」
言葉とは裏腹に、その口調はまんざらでもない様子だった。トラディスは慎重に聞いた。
「本当に后様は、間諜だったのですか?認めたのですか?」
「私も信じられない。お優しくて、妹たちにも良くしてくれた義母上だったのに…」
シャルリュスは首をふった。
「王子は、まだお若い。トラディスも、私からすればまだ若い。これを機に女というものについて覚えておくと良い。女というのは、良かれ悪かれ、常に男を騙そうとしてくるものだ。しんから信じてはいけない。その身を滅ぼすぞ」
その言葉には毒々しい気迫がこもっていた。王子も、トラディスも押し黙ってしまった。
トラディスの脳裏に、セレンの姿が浮かんだ。そうか、それなら彼女も、私をだましていたのか…。いや、そんな事、考えたくなどない。
「それで今後、どうなさるおつもりなのですか、叔父上」
感情を抑えて事務的に聞くトラディスに、彼はうなずいた。
「それを決めたくてね。だから2人の帰ってくるのを待っていたのだよ」
察しの良い王子は、うつむいてつぶやいた。
「戦に…なるのか」
「イベリスのしたことを考えれば、戦を起こす立派な理由になる。しかし…戦というのは起こせばいいというものではない、勝つ見込みがないのなら、しないほうがいい」
それは、その通りだ。今のイベリスでは、トリトニアに勝てるかわからない。トラディスは思った。
「しかし、このまま黙ってもおけない。叔父上はどうお考えですか」
その問いにシャルリュスはにやりと笑った。
「私としては、イベリスの不利益になることはしたくない。やっとここまで立ちなおったし、これからなのだ。なので現状を維持していきたい」
「…と言うと?」
「ミリアネスの兄も、若くして病気で死んだな?ミリアネスにも、そうなってもらえば良いだけのこと。病死ということにして葬儀をあげれば、トリトニアも文句はつけられまい?やつらとの関わりはこれでお終いにし、ウツギへの監視を今までより強める。これでイベリスはいつもの日常に戻る」
(っ…ここは…)
セレンは腹をおさえながら起き上がった。まぎれもなく地下牢だ。ただ、一人ではなかった。老女がセレンが起き上がるのを手伝って、背中を支えてくれていた。
「目が覚めたかい、セレン」
老女のほかにも、女や子どもが怯えた様子で座っていた。黒い髪に藍色の目。ウツギだ。
「あ、あなたたちは、なぜ捕らえられて…私がいない間、何があったのですか?アジサイは…」
「しっ、その名をここで言ってはいかん」
老女がセレンを止めて、説明をした。
「あんたらが行ってしばらくして、アサギリが村を抜け出してね。兵が少ない今がチャンスだって。結局それで捕まっちまった。何人かの男たちが、彼を助けに行こうとして、兵と戦って殺されてね…それを知ったウツギの皆は、もう我慢の限界だと武器を手にし始めた…。姉巫女様は必死に抑えておられたが、限界を感じてあんたのお后さまに助けを求めた。だが后様はイベリスのヤツにつけられていた…わしも姫巫女さまも別の方向へ逃げた…そのあとわしはつかまって、姉巫女さまがどうしているのかわからない…!つかまってしまわれたかもしれない…!」
老女はセレンにとりすがって泣き崩れた。
「たのむ…!姪のあんたが、姉巫女さまを救っておくれ…!あの方は、あの方は…ずっとわしらのために自分をすてて尽くしてきてくださったのに…それがこんな事に…」
嗚咽をあげる老婆を、セレンは抱きとめた。その体は枯れ木のように細く、軽い。
(貧しさと搾取の中で、どのくらい辛い思いをしてきたのか…)
その中の唯一の生きた希望が、アジサイだったのだ。その気持ちはセレンにも痛いほどわかった。セレンにとっては、ミリアネスがそうだったからだ。後ろの女たちも、それを聞いて涙ぐんでいた。
「…どうか諦めないでください。私は絶対に諦めません、彼女のことも、ミリア様のことも」
老婆はセレンの胸から顔を上げて言った。
「ああ、なんだろうね。あんたに触れて、少し元気が出たよ。姉巫女さまとはちがうが…不思議な子だ。あんた、もしかして」
するとその時、ガチャンと牢のドアが開いて、兵士が入ってきた。彼らは老女からセレンを引き離し、荒々しくセレンを引き立てていった。
その背を、女たちは悲痛な、だがどこか希望を持ったまなざしで見つめていた。
連れてこられたのは、あの宰相の館の一室だった。セレンは柱に縛り付けられていた。
「トラディスの言ったとおり、お前はとんだ間諜だったな」
毒毒しい笑いを浮かべて、彼はそういった。
「さて、一つききたいことがある。ウツギの親玉の女は、どこにいる?」
セレンは内心、喜んだ。アジサイはイベリスの手から逃れることができたのだ。
「知りません。私は先ほどやっとイベリスの帰ってきたんですから」
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セレンは唇を噛んだ。卑劣な男だ。おそらくアジサイは洞窟の中だろう。だが死んでもそれは言わない。特にこの男には。
「知らないものはいえません」
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セレンの身に戦慄が走った。そんな彼女を見て、シャルリュスは鞭を手にした。
「言わぬのであれば、これの力を借りるしかあるまいな。だがお前は痛みに強そうだ。打つより刺すほうが良いかもしれぬなぁ」
思案顔でシャルリュスはテーブルの上から箱を持ち上げ、セレンに中身を見せた。
「これが私の道具だ。少し前も、これである女の爪をはがしてやった。これは歯を抜く用、これは返しの付いたナイフ…いちど刺されば、肉をえぐりとるしか抜く方法はない。お前はどれが気に入るかな?」
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その発言に、シャルリュスの余裕の笑みが消えた。彼は無表情で、セレンの髪をつかんだ。
「バカな小娘め。ここで私を怒らせるとどうなるのかも、わからないのか」
髪を引き上げられながらも、セレンは相手をにらみつけた。
「怒るってことは、図星だからだ!分をわきまえずリンドウに手をだしたからだ、醜い老いぼれが!」
が、シャルリュスはその言葉を受け取めることはしなかった。
「決めたぞ。これを使おう。お前のように生意気な女にはこれがぴったりだ」
そういって鋭いとげが無数についている鞭を取り出した。
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(何!?)
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「ハ…ハエ?」
彼はシャルリュスの体から剣を引き抜いた。どさりと体が床に倒れた。
「お…お前…は…」
シャルリュスはそう言ってハエを見上げようとした。虫の息だ。それを見てハエは笑った。いつものように無邪気に。
「あんたの悪事もこれまでだね、父さん」
「バカな…わしに息子など…」
「あれ?ひどいなぁ。忘れちゃったの?あんたが殺せと命じた赤ん坊のこと」
シャルリュスが目を見開いた。黒目が限界まで開いたその顔は、まがまがしい。
「…おのれ…リンドウめ…最後まで…この、私を…」
裏切っていたのか。そう言う前に、シャルリュスは息絶えた。
(父さん?リンドウ?どういうことなの)
混乱するセレンの手の縄を、ハエはすばやく切った。
「早く、窓から逃げるよ!時間がない」
「ではお大事に、陛下…」
トラディスは思い気持ちで、陛下の寝室をあとにした。彼の声も、王子の声も、横たわる陛下の耳には届いていなかった。
(なんてことだ。留守の間に、ここまで状況が悪くなってしまうとは)
陛下も倒れ、トラディスと王子が留守にしていたこの数日に、シャルリュスはすばやく動いて物事の対処にあたった。もはや彼が実権を握っているといってよかった。
(彼がすべてを指揮している…王子を差し置いて。だが経験、力ともに彼のほうが上だ。いまは頼るより他ない…)
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まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
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