ワガハイは猫じゃないよ

出井 瞑多

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35.マミヤン、ユリア、ケンシロウの共同生活の話

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マミヤンは最近、ずっと無言だ。ケンシロウは委縮していてあまりしゃべらない。その中でユリアが一人だけ場違いに明るくておしゃべりだ。レイ君とユリアはすっかり仲良くなってしまい、二人がずっとしゃべっている。
レイ君には浦尾の血が流れている。親子で女の好みも似るのかなぁ。
近隣住民は当然この共同生活を奇異に見ていた。彼らが一番、意外視したのは正妻と愛人の同居ではなく、そこに全く関係なさそうな庶民ケンシロウがいることだ。
「アイツは何なんだ?」というのがもっぱらの話題になっている。
浦尾皇帝が美人妻とド派手愛人を連れているのなら世間は納得できる。浦尾皇帝のカリスマ性、才能、財力、実績をトータルすると三号でも四号でもいいという女はいくらでもいるのだ。浦尾皇帝はそれほどまでにカッコよかった。
その後釜に庶民ケンシロウがいるのが庶民には理解できない。
まだ明るみになっていないパイナップル社の悪事に関する有力情報を持っていて、二人の美女の弱みに付け込んで食い物にしているとか、絶倫浦尾を凌駕するとんでもない性豪だとか、下品なことを噂している。
妻と愛人のパワーバランスを維持する上で緩衝剤が必要なだけなのが世間にはわからないらしい。
ケンシロウは生物学的には健康な成人男性だ。ユリアは風呂上りにタオル一枚で平気でうろうろしている。マミヤンは露骨なことはしないが、何気なく屈んだ瞬間に胸元が覗いてしまうとか、エレベーターで二人きりになり、会話がなく、かき上げた長い髪、そこから覗くうなじから色っぽさが薫り立つ。
ケンシロウは生物学的に反応を示す。しかしそれは彼の本能の問題にすぎず、しょぼい彼の本能などしょぼい彼の精神的な臆病さに圧倒されて敵わない。ケンシロウはこんな人たちに自分みたいなクズ野郎は釣り合わないと思っているようだ。
ケンシロウは時々、隠れて自慰行為をする。ユリアに対してはともかく、マミヤンに対してそんな下劣な行為は許さないと言いたい。しかしケンシロウの意図は下劣とは言い難い。
二人に対し、劣情を抱かないように己の欲望をコントロールする最短の方法で処理している。だからケンシロウは耽ることない。罪悪感に苛まれ、どこか苦しそうに「こんな卑劣な真似を」と嘆く。
明治の文学青年みたいなオジサンだなぁ。彼の思いは人間の世界では卑劣なのだろうか。僕にはよくわからない。

自慰行為とかこそこそしていながらもケンシロウは居候なのでマミヤンにもユリアにも、レイ君に対してさえもいつも恐縮している。
ユリアは意外なことに料理が得意で、いろんなおいしいものを作ってみんなに振る舞うが、ケンシロウはみんなが箸をつけた後でないと絶対に食べない。
「食いねぇ、食いねぇ」とユリアとレイ君は全然気せず、マミヤンは無言だが、ケンシロウはこのルールを絶対に破らない。もともと痩せ型の男だ。あまり食べないようだが、ここに来てからさらに痩せた気がする。その昔、マミヤンとお父さんの分を減らさないように僕ができるだけ食べないように食欲と戦っていた頃を思い出す。

目下、ケンシロウは一生懸命資格取得に向けて勉強している。
「その資格、何かいいことあるの?」とユリア。
「ボクみたいに不運なプー太郎の手伝いをしたいのや」とケンシロウ。
ケンシロウは上京し、日系電機大手の人事部で真面目に働いていた。しかし事業環境が変遷し、構造改革を繰り返す中でリストラされてしまった。厳密にはリストラするためにあれこれ施策をやっていたのだが、世話になった同僚や先輩のクビを切るのに耐え兼ね、自分で志願して退職してしまったのだ。
「ボクは何のために仕事をしとるのか、よくわからなくなってしまったのや」
ケンシロウは今、厳しい修行に明け暮れる坊さん以上に修行僧みたいに勉強している。

時々、ケンシロウを心配して姉のトキが連絡してくる。
マミヤンとユリアには絶対服従する気のケンシロウだが、なぜか姉には結構、強気だ。
「おい、お前、一体、どないなっとんねん?」とトキは甥の前では関西弁だ。
「伯母さんには関係ありまへん」とケンシロウ。
「年齢イコール彼女いない歴、四十にして童貞、リストラされてプー太郎のお前が話題の美女二人をはべらして豪勢に暮らしとる。気になって当然や」とトキ。確かに気になる。
「根拠のないことを言わんでや」とケンシロウ。
「アホか、ボクの女の勘を侮るなよ。年齢イコール彼女いない歴、四十にして童貞、リストラされてプー太郎のお前が話題の美女二人をはべらし、浦尾皇帝のマンションに住んどるっちゅうとこまでは事実やないか。どういうこっちゃ?何か弱みでもにぎっとんのか?逆ににぎられとんのか?お前は二人の奴隷にされとる囚われの身なんか?どっちやねん?」
「どっちもちゃうし」とケンシロウ。
何という見解の相違。人間とはこうも分かり合えないものなのか。
「ボクの大事な甥っ子が悪事に巻き込まれとるのではないかと心配で心配で夜も眠れん。なぜボクの愛がわからん。ボクは悲しい」とトキ。
「オバサンがオッサン相手に何言うとんねん」とケンシロウ。
「愛は盲目や。恥も外聞もあるか、ボケ」とトキ。
Drトキはこんな人なので独身だ。それで甥っ子に狂った愛を注いでいるらしい。

ユリアとケンシロウが転がり込んできてから全然しゃべらなくなったマミヤンは電気もつけないで部屋に籠っている時間が増えた。しかし僕のご飯の用意だけは欠かさない。
いつものように僕の頭を撫でて、猫缶を開けてくれる。
その昔、我が家は猫缶が買えなかった。お小遣いを貯めて、「いつか猫缶買うたるよ」と言ってくれた優しいマミヤン。今もお金に困っている。しかしタワーマンションの最上階に住んでいて貧乏などとはとてもいえない。時代は変わるものだなぁ。
僕は動かないので食欲はない。浦尾の羽振りが良かった頃の贅沢病が染みついたのか、猫缶を食べてもそんなにおいしいとは思わないが、マミヤンの心遣いがうれしい。時々、あの頃の猫マンマを思い出す。

マミヤンは僕のご飯の片づけを終えると早々に寝室に籠ってしまう。ケンシロウはひたすら勉強中。
リビングでユリアはスマホをいじくっていた。
昔は、レイ君は僕に跨ってお馬の稽古とかして遊んだものだ。しかし僕は座布団の上でうつらうつらしている。手持無沙汰のレイ君は「ちょっとそこの姉ちゃん。お話しない?」とユリアに声をかけた。
「えー、どうしよっかなー」とユリア。
「ちょっとくらいいいじゃんか」とレイ。
「じゃあ、ちょっととだけよ。あんまり絡むとあんたのママ、ブチ切れそうだしさぁ」とユリア。
レイは何を言い出すのかと思ったらすごい質問をした。
「姉ちゃんってさぁ、何なの?」とレイ。
正妻の家に居候する鉄の心臓を持つ愛人ユリアだが、さすがに答えに窮したようだ。
苦笑いしているユリアは「人間だよ」と答えた。
レイ君は合点がいったらしく、「僕も」と答えた。
「同じだね」とユリア。
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