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四話
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アイゼン帝国の冬の庭園を管理するようになってから、フィオーレの頬には、以前にはなかった柔らかな赤みが差すようになっていた。
ラングリス王国にいた頃は、常に誰かの足音に怯え、気配を消して生きていた。けれど今は、土に触れ、芽吹く命と語らう時間に没頭できる。
「……よし。これで、少しは呼吸がしやすくなったかな」
フィオーレは、根元の通気性を良くするために、丁寧に土をほぐした。指先は真っ黒に汚れていたが、心は驚くほど澄み渡っている。
そこへ、背後から重い足音が近づいてきた。
ヴォルフラムではない。もう少し、重心の低い、規則的な足音だ。
「……おい、小僧。そこで何をしている」
振り返ると、そこには深い皺を刻んだ顔に、立派な白い髭を蓄えた老人が立っていた。
手には使い古された剪定ばさみを持ち、鋭い眼光でフィオーレを射抜いている。
「あ、あの……ヴォルフラム様から、この庭の手入れを任されたフィオーレです。勝手に触って、怒らせてしまいましたか?」
フィオーレは慌てて立ち上がり、汚れた手を背中に隠した。
老人はふん、と鼻を鳴らし、フィオーレが手入れをしていた青いバラの鉢植えに歩み寄る。
「ワシはグンター。この城で五十年間、庭を預かってきた。陛下が『面白い小僧を拾った』と言うから見に来てみれば……ほう、根の始末が丁寧だな」
グンターは眼鏡をかけ直し、まじまじとバラを観察した。
先代皇帝の時代から仕えるこの頑固な老庭師は、ヴォルフラムにとっても数少ない「口うるさい小言を許す相手」だった。
「このバラは気難しくて有名だった。それが、ここまで首を上げるとは……お前さん、植物の『声』が聞こえるのか?」
「いえ、そんな大げさなものでは……。ただ、なんとなく、ここが苦しそうだなって感じるだけで」
「それが才能というものだ、小僧」
グンターは低く笑うと、腰のポーチから小さな瓶を取り出した。
中には、銀色に輝く粉末が入っている。
「これは帝国特製の栄養剤だ。水に溶かして使ってみろ。お前さんの手があれば、春にはこの庭園をバラの海にできるかもしれん」
「バラの海……素敵ですね。ヴォルフラム様にも、見せてあげたいです」
フィオーレが少し照れたように微笑むと、グンターは髭を撫でながら目を細めた。
「陛下はな、昔から感情を表に出すのが下手な御方だった。幼い頃、大切にしていた小鳥が死んだ時も、泣きもせず、ただ一日中その墓の前に座っておられた。……今、あの方がお前さんに向ける視線は、あの頃よりもずっと、人間味に溢れているように見えるわい」
ヴォルフラムの子供時代。
フィオーレは、その姿を想像してみた。きっと今よりもずっと無愛想で、けれど誰よりも真っ直ぐに何かを愛そうとしていたのではないだろうか。
その時、庭園の入り口から冷たい風が吹き込んだ。
「グンター。勝手に私の獲物に近づくなと言ったはずだ」
低い、けれどどこか楽しげな響きを孕んだ声。
ヴォルフラムが、黒いマントを翻して歩いてくる。その歩調は速く、まるで誰かに取られるのを恐れるかのようだ。
「陛下、相変わらず短気ですな。ワシはこの小僧に、庭師の心得を説いていただけで」
「心得など不要だ。フィオーレは、ただそこにいるだけで価値がある」
ヴォルフラムはフィオーレの隣に立つと、当然のようにその細い腰を引き寄せた。
フィオーレの体温が、ヴォルフラムの厚い胸板に触れて急上昇する。
「あ、あの、ヴォルフラム様! 手が、土で汚れていて……」
「構わんと言っているだろう。それよりフィオーレ、顔を上げろ。鼻の頭に土がついているぞ」
ヴォルフラムは、グイとフィオーレの顎を持ち上げた。
至近距離で合う、金の瞳。
彼は大きな親指で、フィオーレの鼻先についた汚れを優しく拭い去った。その手つきは、グンターが言う「人間味」そのもので、フィオーレの胸を締め付ける。
「グンター、こいつにあまり変な知恵を吹き込むな。ただでさえ、俺の前では萎縮しがちなのだからな」
「ほっほ、それは陛下の顔が怖すぎるからでは?」
「……黙れ」
ヴォルフラムは小さく舌打ちをしたが、その表情には微かな余裕が漂っていた。
彼はフィオーレを抱き寄せたまま、グンターに背を向けて歩き出す。
「今日は、城下から取り寄せた新しい菓子がある。フィオーレ、お前の分も用意させた。甘いものは好きだろう?」
「はい、大好きです……。あの、グンターさんも一緒にどうですか?」
「……こいつは」
ヴォルフラムは一瞬、眉を寄せたが、フィオーレの期待に満ちた碧眼に見つめられ、小さく吐息を漏らした。
「……グンター。茶の一杯くらいなら出してやる。来い」
「ははあ。これは珍しいこともあるものですな。フィオーレ様、あやからせていただきますぞ」
三人で歩く、夕暮れ時の庭園。
フィオーレの右手は、ヴォルフラムの大きな手にしっかりと包まれていた。
これまでの人生で、誰かと食卓を囲むことがこれほど楽しみだったことはない。
(捨てられたはずの私が、こんなに笑ってもいいのかな)
ふと不安がよぎるけれど、握られた手の圧倒的な熱が、それを許してくれるような気がした。
フィオーレは、自分を包む皇帝の横顔を見上げ、小さく、けれど確かにその手を握り返したのだった。
ラングリス王国にいた頃は、常に誰かの足音に怯え、気配を消して生きていた。けれど今は、土に触れ、芽吹く命と語らう時間に没頭できる。
「……よし。これで、少しは呼吸がしやすくなったかな」
フィオーレは、根元の通気性を良くするために、丁寧に土をほぐした。指先は真っ黒に汚れていたが、心は驚くほど澄み渡っている。
そこへ、背後から重い足音が近づいてきた。
ヴォルフラムではない。もう少し、重心の低い、規則的な足音だ。
「……おい、小僧。そこで何をしている」
振り返ると、そこには深い皺を刻んだ顔に、立派な白い髭を蓄えた老人が立っていた。
手には使い古された剪定ばさみを持ち、鋭い眼光でフィオーレを射抜いている。
「あ、あの……ヴォルフラム様から、この庭の手入れを任されたフィオーレです。勝手に触って、怒らせてしまいましたか?」
フィオーレは慌てて立ち上がり、汚れた手を背中に隠した。
老人はふん、と鼻を鳴らし、フィオーレが手入れをしていた青いバラの鉢植えに歩み寄る。
「ワシはグンター。この城で五十年間、庭を預かってきた。陛下が『面白い小僧を拾った』と言うから見に来てみれば……ほう、根の始末が丁寧だな」
グンターは眼鏡をかけ直し、まじまじとバラを観察した。
先代皇帝の時代から仕えるこの頑固な老庭師は、ヴォルフラムにとっても数少ない「口うるさい小言を許す相手」だった。
「このバラは気難しくて有名だった。それが、ここまで首を上げるとは……お前さん、植物の『声』が聞こえるのか?」
「いえ、そんな大げさなものでは……。ただ、なんとなく、ここが苦しそうだなって感じるだけで」
「それが才能というものだ、小僧」
グンターは低く笑うと、腰のポーチから小さな瓶を取り出した。
中には、銀色に輝く粉末が入っている。
「これは帝国特製の栄養剤だ。水に溶かして使ってみろ。お前さんの手があれば、春にはこの庭園をバラの海にできるかもしれん」
「バラの海……素敵ですね。ヴォルフラム様にも、見せてあげたいです」
フィオーレが少し照れたように微笑むと、グンターは髭を撫でながら目を細めた。
「陛下はな、昔から感情を表に出すのが下手な御方だった。幼い頃、大切にしていた小鳥が死んだ時も、泣きもせず、ただ一日中その墓の前に座っておられた。……今、あの方がお前さんに向ける視線は、あの頃よりもずっと、人間味に溢れているように見えるわい」
ヴォルフラムの子供時代。
フィオーレは、その姿を想像してみた。きっと今よりもずっと無愛想で、けれど誰よりも真っ直ぐに何かを愛そうとしていたのではないだろうか。
その時、庭園の入り口から冷たい風が吹き込んだ。
「グンター。勝手に私の獲物に近づくなと言ったはずだ」
低い、けれどどこか楽しげな響きを孕んだ声。
ヴォルフラムが、黒いマントを翻して歩いてくる。その歩調は速く、まるで誰かに取られるのを恐れるかのようだ。
「陛下、相変わらず短気ですな。ワシはこの小僧に、庭師の心得を説いていただけで」
「心得など不要だ。フィオーレは、ただそこにいるだけで価値がある」
ヴォルフラムはフィオーレの隣に立つと、当然のようにその細い腰を引き寄せた。
フィオーレの体温が、ヴォルフラムの厚い胸板に触れて急上昇する。
「あ、あの、ヴォルフラム様! 手が、土で汚れていて……」
「構わんと言っているだろう。それよりフィオーレ、顔を上げろ。鼻の頭に土がついているぞ」
ヴォルフラムは、グイとフィオーレの顎を持ち上げた。
至近距離で合う、金の瞳。
彼は大きな親指で、フィオーレの鼻先についた汚れを優しく拭い去った。その手つきは、グンターが言う「人間味」そのもので、フィオーレの胸を締め付ける。
「グンター、こいつにあまり変な知恵を吹き込むな。ただでさえ、俺の前では萎縮しがちなのだからな」
「ほっほ、それは陛下の顔が怖すぎるからでは?」
「……黙れ」
ヴォルフラムは小さく舌打ちをしたが、その表情には微かな余裕が漂っていた。
彼はフィオーレを抱き寄せたまま、グンターに背を向けて歩き出す。
「今日は、城下から取り寄せた新しい菓子がある。フィオーレ、お前の分も用意させた。甘いものは好きだろう?」
「はい、大好きです……。あの、グンターさんも一緒にどうですか?」
「……こいつは」
ヴォルフラムは一瞬、眉を寄せたが、フィオーレの期待に満ちた碧眼に見つめられ、小さく吐息を漏らした。
「……グンター。茶の一杯くらいなら出してやる。来い」
「ははあ。これは珍しいこともあるものですな。フィオーレ様、あやからせていただきますぞ」
三人で歩く、夕暮れ時の庭園。
フィオーレの右手は、ヴォルフラムの大きな手にしっかりと包まれていた。
これまでの人生で、誰かと食卓を囲むことがこれほど楽しみだったことはない。
(捨てられたはずの私が、こんなに笑ってもいいのかな)
ふと不安がよぎるけれど、握られた手の圧倒的な熱が、それを許してくれるような気がした。
フィオーレは、自分を包む皇帝の横顔を見上げ、小さく、けれど確かにその手を握り返したのだった。
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