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三話
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アイゼン帝国の朝は、窓に広がる繊細な氷の結晶から始まる。
フィオーレは、シルクのシーツに包まれたまま、ぼんやりとその幾何学模様を見つめていた。ラングリス王国では、冬でもこれほど美しい氷の花を見ることはなかった。あちらの冬はただ湿り気が多く、冷たい雨が降るばかりだったからだ。
「おはようございます、フィオーレ様。よく眠れましたか?」
部屋に入ってきたのは、侍女のテレーゼだ。彼女の手には、湯気を立てるハーブティーのカップが握られている。室内には、鼻をくすぐるレモングラスの香りが広がった。
「あ……おはようございます、テレーゼさん。はい、こんなにふわふわなベッドで眠ったのは初めてです」
「それは重畳ですわ。陛下も、あなたがゆっくり休めているか気にかけておられましたよ」
テレーゼの言葉に、フィオーレの心臓がトクンと跳ねた。
昨晩、唇に触れたヴォルフラムの指先の感触が、まだ熱を持って残っているような気がする。彼は怖い皇帝のはずなのに、思い出すのはその大きな手のひらの温もりばかりだった。
着替えを済ませ、テレーゼに案内されたのは、城の北側に位置する巨大なガラス張りの建築物――「冬の庭園」だった。
外は一面の銀世界だが、一歩足を踏み入れれば、そこには湿り気を帯びた土の匂いと、青々とした緑が広がっている。
「ここで待てと言ったはずだが。来るのが早いな」
庭園の奥、立派な東屋の影からヴォルフラムが姿を現した。
今日の彼は、動きやすそうな黒い乗馬服に身を包んでいる。腰に差した剣の鞘が歩くたびにカチリと音を立て、その威厳を際立たせていた。
「すみません。つい、珍しくて……」
「謝るな。ここは俺の庭だ。俺が許可したのだから、お前はどこへ行こうと構わん」
ヴォルフラムはフィオーレの隣に並ぶと、無言で歩き出した。
二人の靴音が、砂利の敷かれた小道にリズムを刻む。フィオーレは、ヴォルフラムの歩幅に遅れないよう、必死に短い足を動かした。
ふと、フィオーレの足が止まった。
庭園の隅、日当たりの悪い場所に置かれた一つの鉢植え。そこには、茎が茶色く変色し、葉を丸めた一輪の青いバラがあった。
「……あ」
「それはもう寿命だ。庭師にも、処分するように伝えてある」
ヴォルフラムが冷淡に言い放つ。
けれどフィオーレは、そのバラの前に膝をついた。ドレスのような上質な服が土で汚れるのも構わず、そっと指先を冷たい土に触れさせる。
(……まだ、泣いてる。喉が渇いて、少しだけ寒いのかな)
フィオーレは幼い頃から、植物の「状態」がなんとなく分かった。
ラウルたちに無視され、庭の隅で過ごすしかなかった彼にとって、花たちは唯一の友人だったのだ。彼は指先を土の中に少しだけ差し込み、根の様子を確認する。
「ヴォルフラム様。この子、まだ死んでいません」
「何?」
「水のあげすぎで、根が少し苦しがっているだけです。それに、この場所は風の通りが悪すぎて、この子には寒すぎます。もう少しだけ、向こうの陽だまりに移して、古い茎を切ってあげれば……」
フィオーレは、夢中で話し始めた。
ヴォルフラムの視線が自分に注がれていることも忘れ、テレーゼから借りた剪定用の小さなハサミを受け取る。
迷いのない動きで、枯れた部分を切り落としていく。フィオーレの白い指先が、緑の茎を優しく撫でる。その動きは、まるで傷ついた小鳥を癒やす聖者のようだった。
「……できた」
フィオーレは満足げに息を吐いた。
移動させた鉢植えに、冬の柔らかい陽光が差し込む。丸まっていた葉が、ほんの少しだけ上を向いたような気がした。
「フィオーレ、お前」
「あっ……すみません。勝手なことをしました。私はただの出来損ないなのに、陛下の庭に手を出してしまって……」
ハッと我に返り、フィオーレは慌てて立ち上がった。
ヴォルフラムの表情は、読めない。不快に思われただろうか。フィオーレはぎゅっと自分の手を握りしめ、次の言葉を待った。
だが、ヴォルフラムから発せられたのは、意外な言葉だった。
「出来損ない、か。その言葉を言った奴の首を、今すぐ撥ねたくなってきた」
「えっ?」
「そのバラは、帝国で最も腕の良い庭師たちが『もう無理だ』と匙を投げたものだ。それを、お前は一瞬で見抜いたのか」
ヴォルフラムが歩み寄り、フィオーレの顔を覗き込む。
彼の金の瞳には、怒りではなく、深い興味が宿っていた。
ヴォルフラムは、土で汚れたフィオーレの頬を、自分の指で優しく拭った。
「お前には、俺の知らない力があるようだな。……気に入った」
「気に入った、って……」
「この庭の管理を、お前に任せる。今日からお前は、この庭園の主だ」
あまりに突然の任命に、フィオーレは目を丸くした。
今まで「何もできない存在」として生きてきた自分に、役割が与えられるなんて。
「私なんかに、できるでしょうか」
「俺が命じている。お前は、このバラのように、俺の側で美しく咲いていればいい」
ヴォルフラムは、フィオーレの銀髪をそっと掬い上げ、その先端に唇を落とした。
それは挨拶というにはあまりに長く、誓いというにはあまりに熱い。
フィオーレは、顔が燃えるように熱くなるのを感じた。
心臓の音が、耳元まで響いてくる。
ヴォルフラムが見つめるのは、ただの「貢ぎ物」としての自分ではなく、一人の「フィオーレ」という人間であるような。そんな錯覚に陥ってしまう。
(……どうしよう。私、この人のことを……)
まだ「好き」とは言えない。
けれど、握られた手の熱が、自分を必要としてくれる声が。
フィオーレの心の氷を、少しずつ、少しずつ溶かし始めていた。
「さあ、戻るぞ。土いじりで体が冷えただろう。次は、ハチミツをたっぷり入れた茶を飲ませてやる」
「はい……ヴォルフラム様」
並んで歩く道、フィオーレの指先が、ほんの少しだけヴォルフラムの袖に触れた。
ヴォルフラムはそれを振り払うことなく、当然のようにその手を自分の大きな掌の中に、再び閉じ込めたのだった。
フィオーレは、シルクのシーツに包まれたまま、ぼんやりとその幾何学模様を見つめていた。ラングリス王国では、冬でもこれほど美しい氷の花を見ることはなかった。あちらの冬はただ湿り気が多く、冷たい雨が降るばかりだったからだ。
「おはようございます、フィオーレ様。よく眠れましたか?」
部屋に入ってきたのは、侍女のテレーゼだ。彼女の手には、湯気を立てるハーブティーのカップが握られている。室内には、鼻をくすぐるレモングラスの香りが広がった。
「あ……おはようございます、テレーゼさん。はい、こんなにふわふわなベッドで眠ったのは初めてです」
「それは重畳ですわ。陛下も、あなたがゆっくり休めているか気にかけておられましたよ」
テレーゼの言葉に、フィオーレの心臓がトクンと跳ねた。
昨晩、唇に触れたヴォルフラムの指先の感触が、まだ熱を持って残っているような気がする。彼は怖い皇帝のはずなのに、思い出すのはその大きな手のひらの温もりばかりだった。
着替えを済ませ、テレーゼに案内されたのは、城の北側に位置する巨大なガラス張りの建築物――「冬の庭園」だった。
外は一面の銀世界だが、一歩足を踏み入れれば、そこには湿り気を帯びた土の匂いと、青々とした緑が広がっている。
「ここで待てと言ったはずだが。来るのが早いな」
庭園の奥、立派な東屋の影からヴォルフラムが姿を現した。
今日の彼は、動きやすそうな黒い乗馬服に身を包んでいる。腰に差した剣の鞘が歩くたびにカチリと音を立て、その威厳を際立たせていた。
「すみません。つい、珍しくて……」
「謝るな。ここは俺の庭だ。俺が許可したのだから、お前はどこへ行こうと構わん」
ヴォルフラムはフィオーレの隣に並ぶと、無言で歩き出した。
二人の靴音が、砂利の敷かれた小道にリズムを刻む。フィオーレは、ヴォルフラムの歩幅に遅れないよう、必死に短い足を動かした。
ふと、フィオーレの足が止まった。
庭園の隅、日当たりの悪い場所に置かれた一つの鉢植え。そこには、茎が茶色く変色し、葉を丸めた一輪の青いバラがあった。
「……あ」
「それはもう寿命だ。庭師にも、処分するように伝えてある」
ヴォルフラムが冷淡に言い放つ。
けれどフィオーレは、そのバラの前に膝をついた。ドレスのような上質な服が土で汚れるのも構わず、そっと指先を冷たい土に触れさせる。
(……まだ、泣いてる。喉が渇いて、少しだけ寒いのかな)
フィオーレは幼い頃から、植物の「状態」がなんとなく分かった。
ラウルたちに無視され、庭の隅で過ごすしかなかった彼にとって、花たちは唯一の友人だったのだ。彼は指先を土の中に少しだけ差し込み、根の様子を確認する。
「ヴォルフラム様。この子、まだ死んでいません」
「何?」
「水のあげすぎで、根が少し苦しがっているだけです。それに、この場所は風の通りが悪すぎて、この子には寒すぎます。もう少しだけ、向こうの陽だまりに移して、古い茎を切ってあげれば……」
フィオーレは、夢中で話し始めた。
ヴォルフラムの視線が自分に注がれていることも忘れ、テレーゼから借りた剪定用の小さなハサミを受け取る。
迷いのない動きで、枯れた部分を切り落としていく。フィオーレの白い指先が、緑の茎を優しく撫でる。その動きは、まるで傷ついた小鳥を癒やす聖者のようだった。
「……できた」
フィオーレは満足げに息を吐いた。
移動させた鉢植えに、冬の柔らかい陽光が差し込む。丸まっていた葉が、ほんの少しだけ上を向いたような気がした。
「フィオーレ、お前」
「あっ……すみません。勝手なことをしました。私はただの出来損ないなのに、陛下の庭に手を出してしまって……」
ハッと我に返り、フィオーレは慌てて立ち上がった。
ヴォルフラムの表情は、読めない。不快に思われただろうか。フィオーレはぎゅっと自分の手を握りしめ、次の言葉を待った。
だが、ヴォルフラムから発せられたのは、意外な言葉だった。
「出来損ない、か。その言葉を言った奴の首を、今すぐ撥ねたくなってきた」
「えっ?」
「そのバラは、帝国で最も腕の良い庭師たちが『もう無理だ』と匙を投げたものだ。それを、お前は一瞬で見抜いたのか」
ヴォルフラムが歩み寄り、フィオーレの顔を覗き込む。
彼の金の瞳には、怒りではなく、深い興味が宿っていた。
ヴォルフラムは、土で汚れたフィオーレの頬を、自分の指で優しく拭った。
「お前には、俺の知らない力があるようだな。……気に入った」
「気に入った、って……」
「この庭の管理を、お前に任せる。今日からお前は、この庭園の主だ」
あまりに突然の任命に、フィオーレは目を丸くした。
今まで「何もできない存在」として生きてきた自分に、役割が与えられるなんて。
「私なんかに、できるでしょうか」
「俺が命じている。お前は、このバラのように、俺の側で美しく咲いていればいい」
ヴォルフラムは、フィオーレの銀髪をそっと掬い上げ、その先端に唇を落とした。
それは挨拶というにはあまりに長く、誓いというにはあまりに熱い。
フィオーレは、顔が燃えるように熱くなるのを感じた。
心臓の音が、耳元まで響いてくる。
ヴォルフラムが見つめるのは、ただの「貢ぎ物」としての自分ではなく、一人の「フィオーレ」という人間であるような。そんな錯覚に陥ってしまう。
(……どうしよう。私、この人のことを……)
まだ「好き」とは言えない。
けれど、握られた手の熱が、自分を必要としてくれる声が。
フィオーレの心の氷を、少しずつ、少しずつ溶かし始めていた。
「さあ、戻るぞ。土いじりで体が冷えただろう。次は、ハチミツをたっぷり入れた茶を飲ませてやる」
「はい……ヴォルフラム様」
並んで歩く道、フィオーレの指先が、ほんの少しだけヴォルフラムの袖に触れた。
ヴォルフラムはそれを振り払うことなく、当然のようにその手を自分の大きな掌の中に、再び閉じ込めたのだった。
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