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二話
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アイゼン帝国の皇城は、フィオーレが育ったラングリス王国の離宮とは比べものにならないほど、重厚で温かみに満ちていた。
壁には厚手のタペストリーが飾られ、床にはふかふかの絨毯が敷き詰められている。冷え切った足先が、毛足の長い絨毯に沈み込む感覚に、フィオーレは落ち着かなくてそわそわと視線を彷徨わせた。
「……あの、ヴォルフラム様」
「座れと言っている。三度目だぞ、フィオーレ」
ヴォルフラムは、長い脚を組んで食堂の主座にどっしりと構えている。
彼の前には、湯気を立てる色とりどりの料理が並んでいた。一方、フィオーレの席にも、同じだけの――いや、それ以上に栄養価の高そうな料理がずらりと並んでいる。
「こんなにたくさん、私一人では……。ラングリスでは、パンの耳とスープだけで十分でしたから」
「……パンの耳だと?」
ヴォルフラムの金の瞳が、スッと細められた。
彼は側に控えていた侍女のテレーゼに一瞥をくれる。テレーゼは心得たように深々と頭を下げ、フィオーレの皿に丁寧に肉料理を切り分けていく。
「フィオーレ様。こちらのアイゼン牛の煮込みは、お口の中でとろけるほど柔らかいのですよ。まずは一口、いかがですか?」
「あ、ありがとうございます……」
フィオーレは恐る恐るフォークを握った。
ところが、あまりに緊張しすぎて指先に力が入らない。
カチャリ、と銀色のフォークが皿に当たって高い音を立てる。フィオーレはびくっとして肩を竦めた。
「すみません! すぐに拾います、汚してしまいました……っ」
「……落ち着け。誰も責めてはいない」
ヴォルフラムが溜息混じりに立ち上がった。
彼はフィオーレの背後に回ると、その大きな手でフィオーレの震える手を上から包み込む。
ヴォルフラムの手のひらは、驚くほど熱い。フィオーレの細い指が、彼の肌に触れるだけで熱を帯びていく。
「……いいか。食事は義務ではない。だが、お前があまりに折れそうで見苦しいから、俺が手伝ってやる」
「えっ、手伝うって……?」
フィオーレが首を傾げた瞬間、ヴォルフラムは自分のフォークで小さく切った肉を刺し、そのままフィオーレの唇の前に持ってきた。
「開けろ。これは命令だ」
「ええっ!? 陛下、そんな、ご自分で召し上がってください!」
「命令に背くのか? この国では、俺の言葉は絶対だ」
ヴォルフラムの表情はどこまでも大真面目だ。
冷徹な皇帝が、追放された王子に食事を食べさせる――。その光景の異常さに、フィオーレの頭は真っ白になった。
けれど、差し出された肉からは、鼻をくすぐる香ばしいソースの匂いが漂ってくる。お腹がぐう、と小さく鳴ってしまい、フィオーレは顔を真っ赤に染めた。
「……あ、あーん……」
観念して小さく口を開けると、ヴォルフラムは満足げに肉を口の中へ運んだ。
噛み締めた瞬間、濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。ラングリスで食べていた、水のようなスープとは比較にならない幸福感が全身を駆け抜けた。
「……おいしい、です」
「そうか。ならばもっと食え」
ヴォルフラムは、フィオーレが飲み込むのを確認してから、次々と野菜やパンを口へ運んでくる。
フィオーレはリスのように頬を膨らませて、一生懸命に咀嚼した。
その様子をじっと見つめるヴォルフラムの視線は鋭いけれど、どこか満足げに緩んでいるようにも見える。
(この人、本当に怖い人なのかな……?)
ふと、フィオーレの口角にソースが少しだけついた。
ヴォルフラムは迷うことなく、自分の親指でそれを拭い取る。
指先の腹が、フィオーレの柔らかな唇に触れた。
「ひゃっ……!」
「……ふむ。肌も白いが、唇も随分と薄いな。栄養が足りていない証拠だ」
ヴォルフラムは、指についたソースを気にする風もなく、自分のハンカチで拭った。
フィオーレは、触れられた場所が熱くて、心臓がバクバクと騒ぎ出すのを感じていた。
これまで誰かにこんなふうに触れられたことなんて、一度もなかったから。
「……あの、ヴォルフラム様。私、やっぱりこんなに歓迎される理由が分かりません。私はただの、番の印もない出来損ないの王子で……」
「何度言えばわかる。お前が何者であるかは、俺が決めることだ」
ヴォルフラムは、フィオーレの銀髪を一房手に取り、愛おしそうに指に絡めた。
それは執着というよりは、新しい宝物を見つけた子供のような、純粋な好奇心に近い手つきだった。
「お前は『偽物』などではない。その証拠に……俺の側では、こんなに美味しそうに笑うではないか」
「えっ、私、笑ってましたか?」
「ああ。少しだけな」
ヴォルフラムが、ほんの少しだけ口角を上げた。
氷の皇帝が見せた、初めての「微笑み」。
それを見た瞬間、フィオーレの胸の中に、温かな灯がポッと灯ったような気がした。
「……明日も、一緒に食べてくださいますか?」
「気が向けばな。だが、明日は自分でも食べられるようになれ。俺が甘やかしすぎると、お前は動けなくなるからな」
突き放すような言葉とは裏腹に、ヴォルフラムはフィオーレの冷えた手を、食事が終わるまでずっと握りしめて温めてくれていた。
アイゼンの雪は深い。けれど、この食堂の中だけは、春のように穏やかな時間が流れていた。
壁には厚手のタペストリーが飾られ、床にはふかふかの絨毯が敷き詰められている。冷え切った足先が、毛足の長い絨毯に沈み込む感覚に、フィオーレは落ち着かなくてそわそわと視線を彷徨わせた。
「……あの、ヴォルフラム様」
「座れと言っている。三度目だぞ、フィオーレ」
ヴォルフラムは、長い脚を組んで食堂の主座にどっしりと構えている。
彼の前には、湯気を立てる色とりどりの料理が並んでいた。一方、フィオーレの席にも、同じだけの――いや、それ以上に栄養価の高そうな料理がずらりと並んでいる。
「こんなにたくさん、私一人では……。ラングリスでは、パンの耳とスープだけで十分でしたから」
「……パンの耳だと?」
ヴォルフラムの金の瞳が、スッと細められた。
彼は側に控えていた侍女のテレーゼに一瞥をくれる。テレーゼは心得たように深々と頭を下げ、フィオーレの皿に丁寧に肉料理を切り分けていく。
「フィオーレ様。こちらのアイゼン牛の煮込みは、お口の中でとろけるほど柔らかいのですよ。まずは一口、いかがですか?」
「あ、ありがとうございます……」
フィオーレは恐る恐るフォークを握った。
ところが、あまりに緊張しすぎて指先に力が入らない。
カチャリ、と銀色のフォークが皿に当たって高い音を立てる。フィオーレはびくっとして肩を竦めた。
「すみません! すぐに拾います、汚してしまいました……っ」
「……落ち着け。誰も責めてはいない」
ヴォルフラムが溜息混じりに立ち上がった。
彼はフィオーレの背後に回ると、その大きな手でフィオーレの震える手を上から包み込む。
ヴォルフラムの手のひらは、驚くほど熱い。フィオーレの細い指が、彼の肌に触れるだけで熱を帯びていく。
「……いいか。食事は義務ではない。だが、お前があまりに折れそうで見苦しいから、俺が手伝ってやる」
「えっ、手伝うって……?」
フィオーレが首を傾げた瞬間、ヴォルフラムは自分のフォークで小さく切った肉を刺し、そのままフィオーレの唇の前に持ってきた。
「開けろ。これは命令だ」
「ええっ!? 陛下、そんな、ご自分で召し上がってください!」
「命令に背くのか? この国では、俺の言葉は絶対だ」
ヴォルフラムの表情はどこまでも大真面目だ。
冷徹な皇帝が、追放された王子に食事を食べさせる――。その光景の異常さに、フィオーレの頭は真っ白になった。
けれど、差し出された肉からは、鼻をくすぐる香ばしいソースの匂いが漂ってくる。お腹がぐう、と小さく鳴ってしまい、フィオーレは顔を真っ赤に染めた。
「……あ、あーん……」
観念して小さく口を開けると、ヴォルフラムは満足げに肉を口の中へ運んだ。
噛み締めた瞬間、濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。ラングリスで食べていた、水のようなスープとは比較にならない幸福感が全身を駆け抜けた。
「……おいしい、です」
「そうか。ならばもっと食え」
ヴォルフラムは、フィオーレが飲み込むのを確認してから、次々と野菜やパンを口へ運んでくる。
フィオーレはリスのように頬を膨らませて、一生懸命に咀嚼した。
その様子をじっと見つめるヴォルフラムの視線は鋭いけれど、どこか満足げに緩んでいるようにも見える。
(この人、本当に怖い人なのかな……?)
ふと、フィオーレの口角にソースが少しだけついた。
ヴォルフラムは迷うことなく、自分の親指でそれを拭い取る。
指先の腹が、フィオーレの柔らかな唇に触れた。
「ひゃっ……!」
「……ふむ。肌も白いが、唇も随分と薄いな。栄養が足りていない証拠だ」
ヴォルフラムは、指についたソースを気にする風もなく、自分のハンカチで拭った。
フィオーレは、触れられた場所が熱くて、心臓がバクバクと騒ぎ出すのを感じていた。
これまで誰かにこんなふうに触れられたことなんて、一度もなかったから。
「……あの、ヴォルフラム様。私、やっぱりこんなに歓迎される理由が分かりません。私はただの、番の印もない出来損ないの王子で……」
「何度言えばわかる。お前が何者であるかは、俺が決めることだ」
ヴォルフラムは、フィオーレの銀髪を一房手に取り、愛おしそうに指に絡めた。
それは執着というよりは、新しい宝物を見つけた子供のような、純粋な好奇心に近い手つきだった。
「お前は『偽物』などではない。その証拠に……俺の側では、こんなに美味しそうに笑うではないか」
「えっ、私、笑ってましたか?」
「ああ。少しだけな」
ヴォルフラムが、ほんの少しだけ口角を上げた。
氷の皇帝が見せた、初めての「微笑み」。
それを見た瞬間、フィオーレの胸の中に、温かな灯がポッと灯ったような気がした。
「……明日も、一緒に食べてくださいますか?」
「気が向けばな。だが、明日は自分でも食べられるようになれ。俺が甘やかしすぎると、お前は動けなくなるからな」
突き放すような言葉とは裏腹に、ヴォルフラムはフィオーレの冷えた手を、食事が終わるまでずっと握りしめて温めてくれていた。
アイゼンの雪は深い。けれど、この食堂の中だけは、春のように穏やかな時間が流れていた。
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