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八話
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昨夜の「星見の塔」での出来事は、フィオーレにとって夢か現か判然としないほど、甘く、痺れるような記憶だった。
額に残った柔らかな感触を思い出すたび、フィオーレは顔を赤らめ、朝食のスープを口に運ぶ手さえ止まってしまう。
「フィオーレ様? お顔が赤いようですが、お熱でもございますか?」
心配そうに覗き込んできたのは、侍女のテレーゼだ。フィオーレは慌ててスプーンを動かし、勢いよく首を横に振った。
「い、いえ! なんでもありません。……ただ、昨日いただいたお菓子が美味しかったなって」
「あらあら、まあ。陛下もきっとお喜びになりますわ」
テレーゼの穏やかな微笑みに包まれながら、フィオーレは胸の内でそっと安堵の息を吐く。
だが、その穏やかな朝の空気とは裏腹に、皇帝の執務室では一通の「書簡」が火花を散らしていた。
「……身勝手な。どの口がそれを言うのか」
ヴォルフラムは、目の前のデスクに置かれたラングリス王国からの親書を、黄金の瞳で冷徹に射抜いていた。
送り主は、フィオーレを「出来損ない」と罵り、この国へ放り出した義兄・ラウルだ。
書面には、フィオーレが北部の農地を救ったという噂をどこからか聞きつけ、『我が国の至宝を一時的に預けただけだ。速やかに返還を求める』という、厚顔無恥な要求が綴られていた。
ヴォルフラムは無言で手を伸ばすと、その紙を握りつぶした。
乾いた紙の音が静かな室内に響く。彼は迷うことなく、その紙屑を暖炉の炎へと投げ入れた。
青白い炎がラウルの欲望を焼き尽くす様子を、彼は感情の失せた目で見つめる。
「……私のフィオーレに、指一本触れさせはしない」
ヴォルフラムは、立ち込める焦げた匂いを振り払うように窓を開けた。
眼下の庭園では、フィオーレがテレーゼに何かを楽しそうに話している。その銀髪が冬の淡い光を反射して、まるで繊細な絹糸のように輝いていた。
ヴォルフラムの口元に、自然と柔らかな弧が浮かぶ。
彼は呼び鈴を鳴らし、側近のクラウスを呼び寄せた。
「例の準備を急がせろ。今夜、フィオーレを連れていく」
その日の夕刻。
フィオーレは、ヴォルフラムに連れられて、城の西側に新しく増築された一角へと足を運んでいた。
そこは高い壁に囲まれた秘密のエリアで、フィオーレも一度も入ったことがない場所だ。
「ヴォルフラム様、ここは……?」
「お前のための、『宝石箱』だ」
ヴォルフラムが重厚な観音開きの扉を押し開ける。
その瞬間、フィオーレの視界は鮮やかな「色」と「香り」に埋め尽くされた。
「……っ!?」
そこは、天井まで届く巨大なガラス張りの温室だった。
それだけではない。内部は魔法具によって常に一定の温度と湿度が保たれ、冬の最中だというのに、南国の色鮮やかな花々や、ラングリス王国でしか見られないはずの珍しいハーブが、所狭しと咲き乱れている。
中央には小さな池があり、透き通った水が静かに音を立てていた。
「これ、全部……」
「お前が北部の領地を救った礼だ。これからは、凍える庭で土を弄る必要はない。ここなら、いつでもお前の好きな花を育てられる」
フィオーレはおずおずと中へ足を踏み入れた。
温かな空気が肌を包み込み、花の香りが肺を潤す。
一番奥の棚には、フィオーレが大切にしていた「あの青いバラ」の鉢植えが、より立派な特等席に置かれていた。
「私の……私の居場所を、作ってくださったんですか」
フィオーレの声が、小さく震える。
振り返ると、ヴォルフラムが腕を組んで、壁に背を預けて立っていた。
相変わらず険しい顔をしているが、その視線はフィオーレを追って離さない。
「居場所ではない。ここがお前の『城』だ。……フィオーレ、ラングリスの連中がお前に何を言おうと、お前をここに繋ぎ止めているのは、他ならぬ俺の意志だ。それを忘れるな」
ヴォルフラムは歩み寄り、立ち尽くすフィオーレの細い肩を抱き寄せた。
フィオーレは、ヴォルフラムの胸に額を預けた。そこから伝わる重厚な心音は、何よりも確かな「安全」を約束してくれている。
ラウルへの恐怖や、いつか追い出されるのではないかという不安が、この花の香りと共に溶けていく。
「……私、一生懸命育てます。この国を、もっと、もっと花いっぱいにしたいです。ヴォルフラム様のために」
「ああ。……だが、まずはここでお前が幸せそうにしている姿を、俺に見せろ。それが最大の対価だ」
ヴォルフラムは、フィオーレの顎を優しく持ち上げた。
ガラスの屋根越しに、冬の夕陽が二人をオレンジ色に染め上げる。
ヴォルフラムは、フィオーレの濡れた目尻を親指の腹でなぞり、ゆっくりと顔を近づけた。
重なる、吐息。
今度は額ではなく、唇に。
羽毛が触れるような短いくちづけが、静かな温室の中で交わされた。
「……甘いな」
離れ際、ヴォルフラムが低く、愉しげに笑う。
フィオーレは顔を真っ赤にし、逃げるように近くのランの花に顔を埋めた。
ラングリスから届いた棘だらけの手紙のことなど、今のフィオーレは知る由もない。
ただ、このガラスに守られた宝石箱の中で、彼は初めて、心から「明日」が来るのを待ち遠しいと感じていた。
額に残った柔らかな感触を思い出すたび、フィオーレは顔を赤らめ、朝食のスープを口に運ぶ手さえ止まってしまう。
「フィオーレ様? お顔が赤いようですが、お熱でもございますか?」
心配そうに覗き込んできたのは、侍女のテレーゼだ。フィオーレは慌ててスプーンを動かし、勢いよく首を横に振った。
「い、いえ! なんでもありません。……ただ、昨日いただいたお菓子が美味しかったなって」
「あらあら、まあ。陛下もきっとお喜びになりますわ」
テレーゼの穏やかな微笑みに包まれながら、フィオーレは胸の内でそっと安堵の息を吐く。
だが、その穏やかな朝の空気とは裏腹に、皇帝の執務室では一通の「書簡」が火花を散らしていた。
「……身勝手な。どの口がそれを言うのか」
ヴォルフラムは、目の前のデスクに置かれたラングリス王国からの親書を、黄金の瞳で冷徹に射抜いていた。
送り主は、フィオーレを「出来損ない」と罵り、この国へ放り出した義兄・ラウルだ。
書面には、フィオーレが北部の農地を救ったという噂をどこからか聞きつけ、『我が国の至宝を一時的に預けただけだ。速やかに返還を求める』という、厚顔無恥な要求が綴られていた。
ヴォルフラムは無言で手を伸ばすと、その紙を握りつぶした。
乾いた紙の音が静かな室内に響く。彼は迷うことなく、その紙屑を暖炉の炎へと投げ入れた。
青白い炎がラウルの欲望を焼き尽くす様子を、彼は感情の失せた目で見つめる。
「……私のフィオーレに、指一本触れさせはしない」
ヴォルフラムは、立ち込める焦げた匂いを振り払うように窓を開けた。
眼下の庭園では、フィオーレがテレーゼに何かを楽しそうに話している。その銀髪が冬の淡い光を反射して、まるで繊細な絹糸のように輝いていた。
ヴォルフラムの口元に、自然と柔らかな弧が浮かぶ。
彼は呼び鈴を鳴らし、側近のクラウスを呼び寄せた。
「例の準備を急がせろ。今夜、フィオーレを連れていく」
その日の夕刻。
フィオーレは、ヴォルフラムに連れられて、城の西側に新しく増築された一角へと足を運んでいた。
そこは高い壁に囲まれた秘密のエリアで、フィオーレも一度も入ったことがない場所だ。
「ヴォルフラム様、ここは……?」
「お前のための、『宝石箱』だ」
ヴォルフラムが重厚な観音開きの扉を押し開ける。
その瞬間、フィオーレの視界は鮮やかな「色」と「香り」に埋め尽くされた。
「……っ!?」
そこは、天井まで届く巨大なガラス張りの温室だった。
それだけではない。内部は魔法具によって常に一定の温度と湿度が保たれ、冬の最中だというのに、南国の色鮮やかな花々や、ラングリス王国でしか見られないはずの珍しいハーブが、所狭しと咲き乱れている。
中央には小さな池があり、透き通った水が静かに音を立てていた。
「これ、全部……」
「お前が北部の領地を救った礼だ。これからは、凍える庭で土を弄る必要はない。ここなら、いつでもお前の好きな花を育てられる」
フィオーレはおずおずと中へ足を踏み入れた。
温かな空気が肌を包み込み、花の香りが肺を潤す。
一番奥の棚には、フィオーレが大切にしていた「あの青いバラ」の鉢植えが、より立派な特等席に置かれていた。
「私の……私の居場所を、作ってくださったんですか」
フィオーレの声が、小さく震える。
振り返ると、ヴォルフラムが腕を組んで、壁に背を預けて立っていた。
相変わらず険しい顔をしているが、その視線はフィオーレを追って離さない。
「居場所ではない。ここがお前の『城』だ。……フィオーレ、ラングリスの連中がお前に何を言おうと、お前をここに繋ぎ止めているのは、他ならぬ俺の意志だ。それを忘れるな」
ヴォルフラムは歩み寄り、立ち尽くすフィオーレの細い肩を抱き寄せた。
フィオーレは、ヴォルフラムの胸に額を預けた。そこから伝わる重厚な心音は、何よりも確かな「安全」を約束してくれている。
ラウルへの恐怖や、いつか追い出されるのではないかという不安が、この花の香りと共に溶けていく。
「……私、一生懸命育てます。この国を、もっと、もっと花いっぱいにしたいです。ヴォルフラム様のために」
「ああ。……だが、まずはここでお前が幸せそうにしている姿を、俺に見せろ。それが最大の対価だ」
ヴォルフラムは、フィオーレの顎を優しく持ち上げた。
ガラスの屋根越しに、冬の夕陽が二人をオレンジ色に染め上げる。
ヴォルフラムは、フィオーレの濡れた目尻を親指の腹でなぞり、ゆっくりと顔を近づけた。
重なる、吐息。
今度は額ではなく、唇に。
羽毛が触れるような短いくちづけが、静かな温室の中で交わされた。
「……甘いな」
離れ際、ヴォルフラムが低く、愉しげに笑う。
フィオーレは顔を真っ赤にし、逃げるように近くのランの花に顔を埋めた。
ラングリスから届いた棘だらけの手紙のことなど、今のフィオーレは知る由もない。
ただ、このガラスに守られた宝石箱の中で、彼は初めて、心から「明日」が来るのを待ち遠しいと感じていた。
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