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十話
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建国記念祭の当夜、アイゼン帝国の皇城は、数千の魔石灯に照らされて宝石箱のように輝いていた。
フィオーレは、鏡の中に映る自分の姿を、まるで見知らぬ誰かを見るような心地で見つめていた。
ヴォルフラムから贈られた正装は、月の光を織り込んだような純白の絹地に、銀糸で繊細な雪結晶の刺繍が施されている。首元には、彼の瞳と同じ金色のブローチが鈍く光を放っていた。
「……こんなに立派な服、本当に私が着てもいいのでしょうか」
控えめに問いかけると、背後でフィオーレの髪を整えていたテレーゼが、目を細めて頷いた。
「もちろんでございます。これほどまでに白が似合う方を、私は他に知りませんわ。さあ、陛下がお待ちです。自信を持って行ってらっしゃいませ」
大広間へ続く廊下を歩くたび、新調したエナメルの靴がコツ、コツと硬い音を立てる。
扉が開かれた瞬間、フィオーレの鼻をくすぐったのは、自ら活けた冬の花々の芳香と、高級な香油、そして着飾った人々が放つ熱気だった。
装飾された大広間は、フィオーレの狙い通り、華やかでありながらどこか森の中にいるような安らぎを湛えている。
「――来たか」
列席した貴族たちの視線が、一斉にフィオーレに注がれた。
会場の中央で待っていたのは、漆黒の礼装に身を包んだヴォルフラムだ。彼はグラスを側近に預けると、大股でフィオーレに歩み寄った。
その視線はあまりに真っ直ぐで、射抜くような強さを持っている。フィオーレは喉の奥がキュッと締まるのを感じ、指先を強く握りしめた。
「ヴォルフラム様……。あの、おかしくありませんか?」
「おかしいはずがないだろう。……完璧だ。俺が想像していたよりも、ずっと。このまま奥深くに隠してしまいたくなるほどにな」
ヴォルフラムは、フィオーレの震える手を取り、その手の甲に深く唇を落とした。
周囲から溜息とも驚きともつかない声が漏れる。冷徹皇帝が、これほどまでに公の場で親密な態度を見せることなど、かつてなかったからだ。
しかし、そんな高揚感の中で「アクシデント」は起きた。
二人が会場の注目を集める中、ヴォルフラムがフィオーレをエスコートして歩き出そうとした瞬間、フィオーレの首元で、カチリと乾いた音がした。
「あ……」
慣れない装飾品だったせいか、あるいは緊張で体が強張っていたせいか。首元を飾るスカーフを留めていたブローチの留め具が外れ、緩んだ布地がフィオーレの鎖骨を露わにさせた。
フィオーレは慌てて押さえようとしたが、それよりも早く、ヴォルフラムの大きな手が伸びてきた。
「動くな」
ヴォルフラムの声が、至近距離で響く。
彼はフィオーレの前に立ちはだかり、周囲の視線を遮るようにして顔を近づけた。
ヴォルフラムの金の瞳が、目前に迫る。
彼の指先が、フィオーレの剥き出しになった肌をかすめ、緩んだ布を整えていく。
(……近い。心臓が、止まりそう)
フィオーレは、ヴォルフラムが纏うサンダルウッドの落ち着いた香りと、彼自身の持つ体温をダイレクトに感じていた。吐息が首筋にかかり、そこから火がついたように熱が広がっていく。
ヴォルフラムの指は、驚くほど丁寧に、壊れ物を扱うようにブローチを留め直した。
けれど、最後の一仕上げとして、彼はブローチではなく、フィオーレの剥き出しの鎖骨に親指をそっと滑らせた。
「……っ」
小さな生理反応が、フィオーレの体を駆け抜けた。呼吸が浅くなり、視界がチカチカと火花を散らす。
ヴォルフラムはわざと時間をかけるようにして指を離すと、満足げに微笑んだ。
「よし、直ったぞ。……お前の肌は、この絹よりも滑らかだな」
「そ、そんな、皆さん見ています……っ」
「見ていればいい。俺がお前を慈しんでいることを、この国の全員に知らせる良い機会だ」
ちょうどその時、オーケストラが優雅なワルツの旋律を奏で始めた。
ヴォルフラムはフィオーレの腰に手を添え、強引すぎない、けれど拒絶を許さない力加減で彼をダンスフロアへと促した。
「ヴォルフラム様、私、まともにダンスなんて習ったことがありません」
「俺に合わせろ。お前を導くことくらい、造作もない」
一歩、踏み出す。
ヴォルフラムの掌がフィオーレの腰に密着し、もう片方の手は指を絡めるようにして繋がれる。
最初はぎこちなかったフィオーレの足取りも、ヴォルフラムの安定したリードに身を任せるうちに、不思議と軽やかになっていった。
三拍子のリズムに合わせて、二人の影が重なり、離れ、また吸い寄せられる。
舞踏会の喧騒は遠のき、フィオーレの意識は、目の前の大きな存在だけに集中していった。
揺れる光、翻るマント、そして自分を離さない力強い腕。
「フィオーレ。俺を見ろ」
促されるまま顔を上げると、そこにはかつて見たことのないほど情熱を孕んだ、黄金の双眸があった。
ヴォルフラムは、踊るリズムに乗せて、フィオーレを自分の方へとさらに引き寄せる。
二人の胸板が触れ合い、互いの心音が重なり合う。
「ラングリスで、お前は自分を『偽物』だと言われていたそうだな」
「……はい。何の力もない、出来損ないだと」
「ならば、俺が教え込んでやろう。お前が持つ『真実』の輝きをな。お前が流す涙も、その震える指先も、すべてが俺にとって唯一無二の価値だ」
ヴォルフラムの言葉は、呪縛を解く魔法のように、フィオーレの心に深く染み渡った。
フィオーレは、自分からヴォルフラムの肩に、ぎゅっと手を回した。
繋いだ手から伝わってくる熱が、何よりも心地よかった。
曲が終わる頃、フィオーレの瞳からは、不安の影が消えていた。
彼は大勢の貴族たちの前で、自分を「拾ってくれた」男の胸に、静かに頭を預けた。
それは、捨てられた王子が、新しい国で初めて自分の「王」を見つけた瞬間だった。
「……ヴォルフラム様。私、このまま時間が止まればいいのにって、思ってしまいました」
「止める必要はない。時間はこれからもたっぷりあるのだからな。……さあ、次はテラスへ行こう。火照った体を冷ましてやる」
ヴォルフラムの大きな手が、フィオーレの腰を抱き寄せる。
その温もりがある限り、どんな冬も越えていけると、フィオーレは確信していた。
フィオーレは、鏡の中に映る自分の姿を、まるで見知らぬ誰かを見るような心地で見つめていた。
ヴォルフラムから贈られた正装は、月の光を織り込んだような純白の絹地に、銀糸で繊細な雪結晶の刺繍が施されている。首元には、彼の瞳と同じ金色のブローチが鈍く光を放っていた。
「……こんなに立派な服、本当に私が着てもいいのでしょうか」
控えめに問いかけると、背後でフィオーレの髪を整えていたテレーゼが、目を細めて頷いた。
「もちろんでございます。これほどまでに白が似合う方を、私は他に知りませんわ。さあ、陛下がお待ちです。自信を持って行ってらっしゃいませ」
大広間へ続く廊下を歩くたび、新調したエナメルの靴がコツ、コツと硬い音を立てる。
扉が開かれた瞬間、フィオーレの鼻をくすぐったのは、自ら活けた冬の花々の芳香と、高級な香油、そして着飾った人々が放つ熱気だった。
装飾された大広間は、フィオーレの狙い通り、華やかでありながらどこか森の中にいるような安らぎを湛えている。
「――来たか」
列席した貴族たちの視線が、一斉にフィオーレに注がれた。
会場の中央で待っていたのは、漆黒の礼装に身を包んだヴォルフラムだ。彼はグラスを側近に預けると、大股でフィオーレに歩み寄った。
その視線はあまりに真っ直ぐで、射抜くような強さを持っている。フィオーレは喉の奥がキュッと締まるのを感じ、指先を強く握りしめた。
「ヴォルフラム様……。あの、おかしくありませんか?」
「おかしいはずがないだろう。……完璧だ。俺が想像していたよりも、ずっと。このまま奥深くに隠してしまいたくなるほどにな」
ヴォルフラムは、フィオーレの震える手を取り、その手の甲に深く唇を落とした。
周囲から溜息とも驚きともつかない声が漏れる。冷徹皇帝が、これほどまでに公の場で親密な態度を見せることなど、かつてなかったからだ。
しかし、そんな高揚感の中で「アクシデント」は起きた。
二人が会場の注目を集める中、ヴォルフラムがフィオーレをエスコートして歩き出そうとした瞬間、フィオーレの首元で、カチリと乾いた音がした。
「あ……」
慣れない装飾品だったせいか、あるいは緊張で体が強張っていたせいか。首元を飾るスカーフを留めていたブローチの留め具が外れ、緩んだ布地がフィオーレの鎖骨を露わにさせた。
フィオーレは慌てて押さえようとしたが、それよりも早く、ヴォルフラムの大きな手が伸びてきた。
「動くな」
ヴォルフラムの声が、至近距離で響く。
彼はフィオーレの前に立ちはだかり、周囲の視線を遮るようにして顔を近づけた。
ヴォルフラムの金の瞳が、目前に迫る。
彼の指先が、フィオーレの剥き出しになった肌をかすめ、緩んだ布を整えていく。
(……近い。心臓が、止まりそう)
フィオーレは、ヴォルフラムが纏うサンダルウッドの落ち着いた香りと、彼自身の持つ体温をダイレクトに感じていた。吐息が首筋にかかり、そこから火がついたように熱が広がっていく。
ヴォルフラムの指は、驚くほど丁寧に、壊れ物を扱うようにブローチを留め直した。
けれど、最後の一仕上げとして、彼はブローチではなく、フィオーレの剥き出しの鎖骨に親指をそっと滑らせた。
「……っ」
小さな生理反応が、フィオーレの体を駆け抜けた。呼吸が浅くなり、視界がチカチカと火花を散らす。
ヴォルフラムはわざと時間をかけるようにして指を離すと、満足げに微笑んだ。
「よし、直ったぞ。……お前の肌は、この絹よりも滑らかだな」
「そ、そんな、皆さん見ています……っ」
「見ていればいい。俺がお前を慈しんでいることを、この国の全員に知らせる良い機会だ」
ちょうどその時、オーケストラが優雅なワルツの旋律を奏で始めた。
ヴォルフラムはフィオーレの腰に手を添え、強引すぎない、けれど拒絶を許さない力加減で彼をダンスフロアへと促した。
「ヴォルフラム様、私、まともにダンスなんて習ったことがありません」
「俺に合わせろ。お前を導くことくらい、造作もない」
一歩、踏み出す。
ヴォルフラムの掌がフィオーレの腰に密着し、もう片方の手は指を絡めるようにして繋がれる。
最初はぎこちなかったフィオーレの足取りも、ヴォルフラムの安定したリードに身を任せるうちに、不思議と軽やかになっていった。
三拍子のリズムに合わせて、二人の影が重なり、離れ、また吸い寄せられる。
舞踏会の喧騒は遠のき、フィオーレの意識は、目の前の大きな存在だけに集中していった。
揺れる光、翻るマント、そして自分を離さない力強い腕。
「フィオーレ。俺を見ろ」
促されるまま顔を上げると、そこにはかつて見たことのないほど情熱を孕んだ、黄金の双眸があった。
ヴォルフラムは、踊るリズムに乗せて、フィオーレを自分の方へとさらに引き寄せる。
二人の胸板が触れ合い、互いの心音が重なり合う。
「ラングリスで、お前は自分を『偽物』だと言われていたそうだな」
「……はい。何の力もない、出来損ないだと」
「ならば、俺が教え込んでやろう。お前が持つ『真実』の輝きをな。お前が流す涙も、その震える指先も、すべてが俺にとって唯一無二の価値だ」
ヴォルフラムの言葉は、呪縛を解く魔法のように、フィオーレの心に深く染み渡った。
フィオーレは、自分からヴォルフラムの肩に、ぎゅっと手を回した。
繋いだ手から伝わってくる熱が、何よりも心地よかった。
曲が終わる頃、フィオーレの瞳からは、不安の影が消えていた。
彼は大勢の貴族たちの前で、自分を「拾ってくれた」男の胸に、静かに頭を預けた。
それは、捨てられた王子が、新しい国で初めて自分の「王」を見つけた瞬間だった。
「……ヴォルフラム様。私、このまま時間が止まればいいのにって、思ってしまいました」
「止める必要はない。時間はこれからもたっぷりあるのだからな。……さあ、次はテラスへ行こう。火照った体を冷ましてやる」
ヴォルフラムの大きな手が、フィオーレの腰を抱き寄せる。
その温もりがある限り、どんな冬も越えていけると、フィオーレは確信していた。
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