13 / 28
十三話
しおりを挟む
温室のガラスを叩く雪の音が、どこか遠い世界の出来事のように聞こえる。
フィオーレは、瑞々しい緑に囲まれた小さな作業机で、何かに没頭していた。その手元にあるのは、使い慣れた剪定ばさみではなく、不釣り合いなほど細い縫い針と、深い紺色の端切れだ。
「……いたっ」
チクリとした感触に、フィオーレは思わず指を引っ込めた。
指先に、ぷつりと小さな紅い真珠が浮かぶ。彼はそれを布に付けないよう慌てて口に含み、少しだけ困ったように眉を下げた。
「フィオーレ様。やはり、私がお手伝いしましょうか?」
側に控えていたテレーゼが、クスクスと微笑みながら声をかける。彼女の手元には、フィオーレが温室で丁寧に乾燥させたハーブの山があった。ラベンダーに似た安眠を誘う花、そしてフィオーレが「元気が出るように」と選んだ柑橘系の葉。
「ううん、テレーゼさん。これは、私が全部やりたいんだ。……ヴォルフラム様は、いつも素敵なものばかり私にくれるから。私にしか作れないものを、あげたくて」
フィオーレは再び針を手に取り、慣れない手つきで布の端を縫い合わせていく。
彼が作っているのは、小さな匂い袋――サシェだ。
中には、フィオーレが「ヴォルフラム様が少しでもゆっくり眠れるように」と調合した、特別なハーブが詰められる予定だった。
針を通すたび、銀色の髪がさらさらと揺れる。
ラングリス王国にいた頃、フィオーレは針仕事などさせてもらえなかった。「王族の汚点」である彼が、繊細な手仕事に関わることさえ禁じられていたからだ。
けれど今のフィオーレの指には、土を弄ることで得た、確かで優しい感覚が宿っている。
「……よし。あとは、この紐を通して……」
作業に没頭するあまり、フィオーレは背後に近づく影に気づかなかった。
「何をしている、フィオーレ。テレーゼが止めるのも聞かず、昼食も摂らずに籠もっていると聞いたが」
低く、どこか楽しげな響きを含んだ声。
フィオーレは肩を大きく跳ねさせ、慌てて手元のものを隠そうとした。
「ヴォ、ヴォルフラム様! お仕事は……?」
「一段落した。お前の顔を見に来てみれば、この有様だ」
ヴォルフラムは、作業机の上に散らばった布の切れ端や乾燥したハーブ、そしてフィオーレの少し赤くなった指先を、鋭い金の瞳で見つめた。
彼は無言で歩み寄り、フィオーレの椅子を引くと、その細い手を自分の大きな掌で包み込んだ。
「……指を怪我したのか。見せてみろ」
「なんでもありません、これくらい! すぐに治りますから」
「黙っていろ。お前の体は、爪の先まで俺の管理下にある」
ヴォルフラムは、フィオーレの指先をそっと自分の唇に寄せた。
熱い吐息が触れ、続いて柔らかな感触が傷跡を塞ぐように重なる。
フィオーレの心臓は、温室の中よりもずっと激しく、ドクドクと音を立て始めた。顔が燃えるように熱い。
「……もう大丈夫だ。それで、これは何だ。俺に隠さなければならないほど、いかがわしいものでもあるまい?」
ヴォルフラムが、フィオーレが隠しきれていなかった紺色の小さな袋を指さす。
フィオーレは観念して、恥ずかしさに俯きながら、それを両手で差し出した。
「……あの。お礼、なんです。いつも、守ってくださって、居場所をくださって……ありがとうございます。ヴォルフラム様、お忙しくてあまり眠れていないみたいだったから。枕元に置くと、少しだけ、ぐっすり眠れる魔法をかけました」
「魔法?」
「はい。この温室で、私が一番大切に育てたハーブです」
ヴォルフラムは、受け取った小さなサシェを鼻先に近づけた。
そこには、フィオーレそのものを思わせる、清涼でありながらどこか甘く、深い安らぎを与える香りが閉じ込められていた。
ヴォルフラムの表情から、いつもの冷徹さが消えていく。
彼はサシェを愛おしげに握りしめると、反対の腕でフィオーレをぐいと自分の方へ引き寄せた。
「……魔法、か。確かに、かかったようだな」
「えっ、もうですか?」
「ああ。この香りを嗅ぐだけで、お前のことが四六時中、頭から離れなくなりそうだ。これは安眠どころか、逆効果かもしれん」
ヴォルフラムはクスクスと低く笑い、フィオーレの額に自分の額をこつんと当てた。
至近距離で見つめ合う、金と碧。
フィオーレは、ヴォルフラムの瞳の中に、夜空に輝く星よりも強い情熱が宿っているのを見て、思わず目を逸らした。
「……気に入って、いただけましたか?」
「ああ。この世のどんな至宝よりも。……フィオーレ、もう一度言う。お前は俺の元へ来て、正解だった」
ヴォルフラムの手が、フィオーレの腰を優しく、けれど離さないという確固たる意志を持って抱きしめる。
フィオーレは、彼が着ている上等なシャツの裾を、ぎゅっと握りしめた。
「私も……そう、思います」
小さく、消え入りそうな声。
けれど、その言葉はヴォルフラムの心の一番深い場所に届いた。
ヴォルフラムは、フィオーレのうなじを愛おしげに撫でると、そのままゆっくりと顔を近づけ、重なる。
今度のくちづけは、これまでのどれよりも甘く、そして長く、二人の時間を止めてしまった。
温室のハーブたちが、二人の幸せを祝うように、いっそう強く香りを放つ。
不憫だった過去は、もうこの温かな香りの中に溶けて、消えていった。
「さあ、作業は終わりだ。冷えた体を温めるために、今日は俺の部屋で茶を飲むぞ。この匂い袋の効果を、今すぐ試してやらねばな」
「あ……待ってください、まだ片付けが……っ」
「テレーゼに任せろ。お前は俺だけを見ていればいい」
ヴォルフラムはフィオーレの手を引き、意気揚々と温室を後にした。
後に残されたテレーゼは、ハーブの香りに包まれながら、「お熱いことですわ」と楽しそうに独り言をこぼしていた。
フィオーレは、瑞々しい緑に囲まれた小さな作業机で、何かに没頭していた。その手元にあるのは、使い慣れた剪定ばさみではなく、不釣り合いなほど細い縫い針と、深い紺色の端切れだ。
「……いたっ」
チクリとした感触に、フィオーレは思わず指を引っ込めた。
指先に、ぷつりと小さな紅い真珠が浮かぶ。彼はそれを布に付けないよう慌てて口に含み、少しだけ困ったように眉を下げた。
「フィオーレ様。やはり、私がお手伝いしましょうか?」
側に控えていたテレーゼが、クスクスと微笑みながら声をかける。彼女の手元には、フィオーレが温室で丁寧に乾燥させたハーブの山があった。ラベンダーに似た安眠を誘う花、そしてフィオーレが「元気が出るように」と選んだ柑橘系の葉。
「ううん、テレーゼさん。これは、私が全部やりたいんだ。……ヴォルフラム様は、いつも素敵なものばかり私にくれるから。私にしか作れないものを、あげたくて」
フィオーレは再び針を手に取り、慣れない手つきで布の端を縫い合わせていく。
彼が作っているのは、小さな匂い袋――サシェだ。
中には、フィオーレが「ヴォルフラム様が少しでもゆっくり眠れるように」と調合した、特別なハーブが詰められる予定だった。
針を通すたび、銀色の髪がさらさらと揺れる。
ラングリス王国にいた頃、フィオーレは針仕事などさせてもらえなかった。「王族の汚点」である彼が、繊細な手仕事に関わることさえ禁じられていたからだ。
けれど今のフィオーレの指には、土を弄ることで得た、確かで優しい感覚が宿っている。
「……よし。あとは、この紐を通して……」
作業に没頭するあまり、フィオーレは背後に近づく影に気づかなかった。
「何をしている、フィオーレ。テレーゼが止めるのも聞かず、昼食も摂らずに籠もっていると聞いたが」
低く、どこか楽しげな響きを含んだ声。
フィオーレは肩を大きく跳ねさせ、慌てて手元のものを隠そうとした。
「ヴォ、ヴォルフラム様! お仕事は……?」
「一段落した。お前の顔を見に来てみれば、この有様だ」
ヴォルフラムは、作業机の上に散らばった布の切れ端や乾燥したハーブ、そしてフィオーレの少し赤くなった指先を、鋭い金の瞳で見つめた。
彼は無言で歩み寄り、フィオーレの椅子を引くと、その細い手を自分の大きな掌で包み込んだ。
「……指を怪我したのか。見せてみろ」
「なんでもありません、これくらい! すぐに治りますから」
「黙っていろ。お前の体は、爪の先まで俺の管理下にある」
ヴォルフラムは、フィオーレの指先をそっと自分の唇に寄せた。
熱い吐息が触れ、続いて柔らかな感触が傷跡を塞ぐように重なる。
フィオーレの心臓は、温室の中よりもずっと激しく、ドクドクと音を立て始めた。顔が燃えるように熱い。
「……もう大丈夫だ。それで、これは何だ。俺に隠さなければならないほど、いかがわしいものでもあるまい?」
ヴォルフラムが、フィオーレが隠しきれていなかった紺色の小さな袋を指さす。
フィオーレは観念して、恥ずかしさに俯きながら、それを両手で差し出した。
「……あの。お礼、なんです。いつも、守ってくださって、居場所をくださって……ありがとうございます。ヴォルフラム様、お忙しくてあまり眠れていないみたいだったから。枕元に置くと、少しだけ、ぐっすり眠れる魔法をかけました」
「魔法?」
「はい。この温室で、私が一番大切に育てたハーブです」
ヴォルフラムは、受け取った小さなサシェを鼻先に近づけた。
そこには、フィオーレそのものを思わせる、清涼でありながらどこか甘く、深い安らぎを与える香りが閉じ込められていた。
ヴォルフラムの表情から、いつもの冷徹さが消えていく。
彼はサシェを愛おしげに握りしめると、反対の腕でフィオーレをぐいと自分の方へ引き寄せた。
「……魔法、か。確かに、かかったようだな」
「えっ、もうですか?」
「ああ。この香りを嗅ぐだけで、お前のことが四六時中、頭から離れなくなりそうだ。これは安眠どころか、逆効果かもしれん」
ヴォルフラムはクスクスと低く笑い、フィオーレの額に自分の額をこつんと当てた。
至近距離で見つめ合う、金と碧。
フィオーレは、ヴォルフラムの瞳の中に、夜空に輝く星よりも強い情熱が宿っているのを見て、思わず目を逸らした。
「……気に入って、いただけましたか?」
「ああ。この世のどんな至宝よりも。……フィオーレ、もう一度言う。お前は俺の元へ来て、正解だった」
ヴォルフラムの手が、フィオーレの腰を優しく、けれど離さないという確固たる意志を持って抱きしめる。
フィオーレは、彼が着ている上等なシャツの裾を、ぎゅっと握りしめた。
「私も……そう、思います」
小さく、消え入りそうな声。
けれど、その言葉はヴォルフラムの心の一番深い場所に届いた。
ヴォルフラムは、フィオーレのうなじを愛おしげに撫でると、そのままゆっくりと顔を近づけ、重なる。
今度のくちづけは、これまでのどれよりも甘く、そして長く、二人の時間を止めてしまった。
温室のハーブたちが、二人の幸せを祝うように、いっそう強く香りを放つ。
不憫だった過去は、もうこの温かな香りの中に溶けて、消えていった。
「さあ、作業は終わりだ。冷えた体を温めるために、今日は俺の部屋で茶を飲むぞ。この匂い袋の効果を、今すぐ試してやらねばな」
「あ……待ってください、まだ片付けが……っ」
「テレーゼに任せろ。お前は俺だけを見ていればいい」
ヴォルフラムはフィオーレの手を引き、意気揚々と温室を後にした。
後に残されたテレーゼは、ハーブの香りに包まれながら、「お熱いことですわ」と楽しそうに独り言をこぼしていた。
0
あなたにおすすめの小説
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
君さえ笑ってくれれば最高
大根
BL
ダリオ・ジュレの悩みは1つ。「氷の貴公子」の異名を持つ婚約者、ロベルト・トンプソンがただ1度も笑顔を見せてくれないことだ。感情が顔に出やすいダリオとは対照的な彼の態度に不安を覚えたダリオは、どうにかロベルトの笑顔を引き出そうと毎週様々な作戦を仕掛けるが。
(クーデレ?溺愛美形攻め × 顔に出やすい素直平凡受け)
異世界BLです。
【16話完結】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /チャッピー
AI比較企画作品
祖国に棄てられた少年は賢者に愛される
結衣可
BL
祖国に棄てられた少年――ユリアン。
彼は王家の反逆を疑われ、追放された身だと信じていた。
その真実は、前王の庶子。王位継承権を持ち、権力争いの渦中で邪魔者として葬られようとしていたのだった。
絶望の中、彼を救ったのは、森に隠棲する冷徹な賢者ヴァルター。
誰も寄せつけない彼が、なぜかユリアンを庇護し、結界に守られた森の家で共に過ごすことになるが、王都の陰謀は止まらず、幾度も追っ手が迫る。
棄てられた少年と、孤独な賢者。
陰謀に覆われた王国の中で二人が選ぶ道は――。
【完結】第三王子、ただいま輸送中。理由は多分、大臣です
ナポ
BL
ラクス王子、目覚めたら馬車の中。
理由は不明、手紙一通とパン一個。
どうやら「王宮の空気を乱したため、左遷」だそうです。
そんな理由でいいのか!?
でもなぜか辺境での暮らしが思いのほか快適!
自由だし、食事は美味しいし、うるさい兄たちもいない!
……と思いきや、襲撃事件に巻き込まれたり、何かの教祖にされたり、ドタバタと騒がしい!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる