24 / 28
二十四話
しおりを挟む
アイゼン帝国の歴史上、これほどまでに「甘い混乱」に陥った一日はなかった。
フィオーレの体内に新しい命の種が宿ったという報は、瞬く間に城内を駆け巡り、街へと溢れ出した。広場では国費によって上質な蜂蜜酒が振る舞われ、人々は「聖なる花の再来だ」と踊り明かしている。
だが、その狂騒の中心であるはずの皇城の奥。
フィオーレは、目の前の「光景」に、開いた口が塞がらなくなっていた。
「……ヴォルフラム様。これ、は何ですか?」
「見て分からんか。回廊の床に敷き詰めさせた、東方産の最高級シルク絨毯だ。お前が万が一にも足を滑らせては困るからな」
ヴォルフラムは、大真面目な顔でそう言い切った。
フィオーレが温室へ向かおうとした廊下は、一日でその装いを変えていた。足を踏み出すたびに、足の甲まで埋もれるほどのふかふかな絨毯。それだけではない。壁という壁には、衝突防止のためだろうか、これまた高級なベルベットのクッションが隙間なく貼り付けられている。
「歩きにくいです……。それに、温室までたった数百メートルですよ?」
「数百メートルもあれば、転倒の危険は数千回ある。……おい、エルマー。そこの角のクッションが少し浮いているぞ。フィオーレの指が引っかかったらどうする。今すぐ貼り直せ」
ヴォルフラムに鋭く命じられた若い侍従・エルマーが、「はっ!」と悲鳴のような返事をして飛び上がった。
フィオーレは、溜息を吐きながら自分の額を押さえた。
「ヴォルフラム様、落ち着いてください。私は病気ではないんです。ヴァレリウス先生も、適度な運動は必要だとおっしゃっていました」
「ヴァレリウスの言葉など、今の俺には届かん。……ほら、フィオーレ。あまり声を出すな。喉が枯れたらどうする。これを持て」
差し出されたのは、真珠が埋め込まれた特製の水筒だった。中には、喉を潤すための希少な果実のシロップが、完璧な温度で保たれている。
フィオーレがそれを受け取ると、ヴォルフラムは満足げに目を細めた。だが、次の瞬間には、彼の視線はフィオーレの足元へと突き刺さる。
「……その靴だ。底が薄い。地面の振動が胎内の種に響いたらどうする。脱げ。俺が運ぶ」
「絶対に嫌です! さっきも、朝食の席からここまで運んでくださったじゃないですか!」
フィオーレは顔を真っ赤にして、ヴォルフラムの腕から逃げるように一歩下がった。
すると、ヴォルフラムの背後に控えていた十人の近衛兵たちが、一斉に緊張した面持ちで周囲を囲む。彼らの手には、フィオーレがいつでも座れるように、常に移動式の豪華な椅子が握られていた。
「フィオーレ。我儘を言うな。お前の体は、今や帝国で最も尊いゆりかごなのだぞ」
「ヴォルフラム様が、一番我儘です! ……私、お花たちに挨拶に行きたいだけなんです。あの子たちの声を聞かないと、逆に元気がなくなっちゃいます」
フィオーレが少しだけ眉を下げ、上目遣いで訴えた。
これには、鉄血の皇帝も弱かった。ヴォルフラムの眉間の皺が、わずかに、けれど確実に解けていく。彼は大きな溜息を吐くと、折衷案を出すようにフィオーレの腰をそっと抱き寄せた。
「……分かった。温室へ行くことは許そう。ただし、歩くのはこの俺の腕の中だけだ。地面に足をつけていいのは、温室の最上質の土の上だけだと約束しろ」
「うう……。わかりました、それで手を打ちます」
フィオーレが観念して両手を広げると、ヴォルフラムは待ってましたと言わんばかりに、彼を軽々と横抱きにした。
広い胸板に顔を埋めると、ヴォルフラムの激しい心音が伝わってくる。その鼓動の速さは、彼がいかに今の状況に、そしてフィオーレという存在に舞い上がっているかを雄弁に物語っていた。
温室に到着すると、そこにはさらに驚くべき光景が待っていた。
全ての薔薇の棘が、布で丁寧に巻かれていたのだ。老庭師のグンターが、げっそりとした顔でハサミを置く。
「……フィオーレ様。陛下から『一分以内に全ての棘を無力化せよ』と特命をいただきまして……。腰が砕けそうですわい」
「グンターさん、すみません……。あとで、とっておきの腰痛に効く湿布薬を作りますからね」
ヴォルフラムは、フィオーレを温室の中央にある、クッションを山積みにした特等席に下ろした。
フィオーレは、柔らかい座り心地に身を沈めながら、周囲の植物たちを見渡した。
不思議なことに、植物たちは以前よりもずっと活気に溢れ、フィオーレの腹部に宿った新しい命を祝福するように、一斉に葉をこちらへ向けている。
「……ヴォルフラム様。あの子たちが、ありがとうって言っています」
「そうか。……お前が笑っているなら、棘を抜かせた甲斐もあったというものだ」
ヴォルフラムは、フィオーレの隣に座ると、当然のようにその細い手を自分の掌の中に閉じ込めた。
彼はフィオーレのお腹のあたりに、慈しむような、けれどどこか畏敬の念を感じさせるような視線を送る。
「……フィオーレ。俺は、お前を拾ったあの日、ただお前の美しさに目を奪われただけだった。だが、今は違う。お前のその穏やかな呼吸が、俺の、この帝国のすべてを繋ぎ止めている」
「大げさですよ……」
「大げさなものか。……お前がこの国に連れてきた春を、俺は永遠に終わらせないと決めた」
ヴォルフラムは、フィオーレの髪を愛おしげに耳にかけ、そのこめかみに深くくちづけを落とした。
過保護すぎる皇帝の愛。
それは少しだけ息苦しくて、けれど、これまでの人生で一度も得られなかった、圧倒的な「安心」そのものだった。
フィオーレは、ヴォルフラムの肩にそっと頭を預け、温室に満ちる花の香りを深く吸い込んだ。
新しい命と共に、二人の物語は、これまでの不憫をすべて埋め尽くすほどの、鮮やかな色彩で塗り替えられていく。
フィオーレの体内に新しい命の種が宿ったという報は、瞬く間に城内を駆け巡り、街へと溢れ出した。広場では国費によって上質な蜂蜜酒が振る舞われ、人々は「聖なる花の再来だ」と踊り明かしている。
だが、その狂騒の中心であるはずの皇城の奥。
フィオーレは、目の前の「光景」に、開いた口が塞がらなくなっていた。
「……ヴォルフラム様。これ、は何ですか?」
「見て分からんか。回廊の床に敷き詰めさせた、東方産の最高級シルク絨毯だ。お前が万が一にも足を滑らせては困るからな」
ヴォルフラムは、大真面目な顔でそう言い切った。
フィオーレが温室へ向かおうとした廊下は、一日でその装いを変えていた。足を踏み出すたびに、足の甲まで埋もれるほどのふかふかな絨毯。それだけではない。壁という壁には、衝突防止のためだろうか、これまた高級なベルベットのクッションが隙間なく貼り付けられている。
「歩きにくいです……。それに、温室までたった数百メートルですよ?」
「数百メートルもあれば、転倒の危険は数千回ある。……おい、エルマー。そこの角のクッションが少し浮いているぞ。フィオーレの指が引っかかったらどうする。今すぐ貼り直せ」
ヴォルフラムに鋭く命じられた若い侍従・エルマーが、「はっ!」と悲鳴のような返事をして飛び上がった。
フィオーレは、溜息を吐きながら自分の額を押さえた。
「ヴォルフラム様、落ち着いてください。私は病気ではないんです。ヴァレリウス先生も、適度な運動は必要だとおっしゃっていました」
「ヴァレリウスの言葉など、今の俺には届かん。……ほら、フィオーレ。あまり声を出すな。喉が枯れたらどうする。これを持て」
差し出されたのは、真珠が埋め込まれた特製の水筒だった。中には、喉を潤すための希少な果実のシロップが、完璧な温度で保たれている。
フィオーレがそれを受け取ると、ヴォルフラムは満足げに目を細めた。だが、次の瞬間には、彼の視線はフィオーレの足元へと突き刺さる。
「……その靴だ。底が薄い。地面の振動が胎内の種に響いたらどうする。脱げ。俺が運ぶ」
「絶対に嫌です! さっきも、朝食の席からここまで運んでくださったじゃないですか!」
フィオーレは顔を真っ赤にして、ヴォルフラムの腕から逃げるように一歩下がった。
すると、ヴォルフラムの背後に控えていた十人の近衛兵たちが、一斉に緊張した面持ちで周囲を囲む。彼らの手には、フィオーレがいつでも座れるように、常に移動式の豪華な椅子が握られていた。
「フィオーレ。我儘を言うな。お前の体は、今や帝国で最も尊いゆりかごなのだぞ」
「ヴォルフラム様が、一番我儘です! ……私、お花たちに挨拶に行きたいだけなんです。あの子たちの声を聞かないと、逆に元気がなくなっちゃいます」
フィオーレが少しだけ眉を下げ、上目遣いで訴えた。
これには、鉄血の皇帝も弱かった。ヴォルフラムの眉間の皺が、わずかに、けれど確実に解けていく。彼は大きな溜息を吐くと、折衷案を出すようにフィオーレの腰をそっと抱き寄せた。
「……分かった。温室へ行くことは許そう。ただし、歩くのはこの俺の腕の中だけだ。地面に足をつけていいのは、温室の最上質の土の上だけだと約束しろ」
「うう……。わかりました、それで手を打ちます」
フィオーレが観念して両手を広げると、ヴォルフラムは待ってましたと言わんばかりに、彼を軽々と横抱きにした。
広い胸板に顔を埋めると、ヴォルフラムの激しい心音が伝わってくる。その鼓動の速さは、彼がいかに今の状況に、そしてフィオーレという存在に舞い上がっているかを雄弁に物語っていた。
温室に到着すると、そこにはさらに驚くべき光景が待っていた。
全ての薔薇の棘が、布で丁寧に巻かれていたのだ。老庭師のグンターが、げっそりとした顔でハサミを置く。
「……フィオーレ様。陛下から『一分以内に全ての棘を無力化せよ』と特命をいただきまして……。腰が砕けそうですわい」
「グンターさん、すみません……。あとで、とっておきの腰痛に効く湿布薬を作りますからね」
ヴォルフラムは、フィオーレを温室の中央にある、クッションを山積みにした特等席に下ろした。
フィオーレは、柔らかい座り心地に身を沈めながら、周囲の植物たちを見渡した。
不思議なことに、植物たちは以前よりもずっと活気に溢れ、フィオーレの腹部に宿った新しい命を祝福するように、一斉に葉をこちらへ向けている。
「……ヴォルフラム様。あの子たちが、ありがとうって言っています」
「そうか。……お前が笑っているなら、棘を抜かせた甲斐もあったというものだ」
ヴォルフラムは、フィオーレの隣に座ると、当然のようにその細い手を自分の掌の中に閉じ込めた。
彼はフィオーレのお腹のあたりに、慈しむような、けれどどこか畏敬の念を感じさせるような視線を送る。
「……フィオーレ。俺は、お前を拾ったあの日、ただお前の美しさに目を奪われただけだった。だが、今は違う。お前のその穏やかな呼吸が、俺の、この帝国のすべてを繋ぎ止めている」
「大げさですよ……」
「大げさなものか。……お前がこの国に連れてきた春を、俺は永遠に終わらせないと決めた」
ヴォルフラムは、フィオーレの髪を愛おしげに耳にかけ、そのこめかみに深くくちづけを落とした。
過保護すぎる皇帝の愛。
それは少しだけ息苦しくて、けれど、これまでの人生で一度も得られなかった、圧倒的な「安心」そのものだった。
フィオーレは、ヴォルフラムの肩にそっと頭を預け、温室に満ちる花の香りを深く吸い込んだ。
新しい命と共に、二人の物語は、これまでの不憫をすべて埋め尽くすほどの、鮮やかな色彩で塗り替えられていく。
0
あなたにおすすめの小説
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
君さえ笑ってくれれば最高
大根
BL
ダリオ・ジュレの悩みは1つ。「氷の貴公子」の異名を持つ婚約者、ロベルト・トンプソンがただ1度も笑顔を見せてくれないことだ。感情が顔に出やすいダリオとは対照的な彼の態度に不安を覚えたダリオは、どうにかロベルトの笑顔を引き出そうと毎週様々な作戦を仕掛けるが。
(クーデレ?溺愛美形攻め × 顔に出やすい素直平凡受け)
異世界BLです。
【16話完結】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /チャッピー
AI比較企画作品
祖国に棄てられた少年は賢者に愛される
結衣可
BL
祖国に棄てられた少年――ユリアン。
彼は王家の反逆を疑われ、追放された身だと信じていた。
その真実は、前王の庶子。王位継承権を持ち、権力争いの渦中で邪魔者として葬られようとしていたのだった。
絶望の中、彼を救ったのは、森に隠棲する冷徹な賢者ヴァルター。
誰も寄せつけない彼が、なぜかユリアンを庇護し、結界に守られた森の家で共に過ごすことになるが、王都の陰謀は止まらず、幾度も追っ手が迫る。
棄てられた少年と、孤独な賢者。
陰謀に覆われた王国の中で二人が選ぶ道は――。
【完結】第三王子、ただいま輸送中。理由は多分、大臣です
ナポ
BL
ラクス王子、目覚めたら馬車の中。
理由は不明、手紙一通とパン一個。
どうやら「王宮の空気を乱したため、左遷」だそうです。
そんな理由でいいのか!?
でもなぜか辺境での暮らしが思いのほか快適!
自由だし、食事は美味しいし、うるさい兄たちもいない!
……と思いきや、襲撃事件に巻き込まれたり、何かの教祖にされたり、ドタバタと騒がしい!!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる