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イカサマ押しつけポーカー
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「もう……私たちの前に姿を見せないでくれるかな」
アベルはあまりに強すぎた。ゆえに、忌み嫌われた。
十数年間共に過ごした幼馴染のユキにすら突き放された。彼女の周りに立っていた者たちの嘲笑が、いまだ頭に焼きついて離れない。
勝って、勝って、勝ち続けてきた人生。たった一度も敗北を受け入れず、無数の勝利を手に入れてもなお足を緩めることをしなかった。
金を手に入れ、他人を平伏させ、アベルはなにかを失った。
「おら、受けるか降りるかさっさと選べクソガキ!!」
粗末な木製の台を蹴りつけ、唾を飛ばしながらアベルに向かって男は叫んだ。二人に群がっている観客は楽しそうに騒いでいる。
「……レイズ二十枚」
ボソリとアベルがそう呟いて手元のチップを前に押し出すと、指笛や歓声があちこちから上がった。向かいの男は呆然と立ち尽くしてから……
喉奥からカエルの潰れたような笑い声をひり出した。
「ククク……バカだ…………バカだこいつ……!! 自分から勝ちを放り出しやがった…………!!」
ここは街の外れの賭博場。朝日が昇りかけている閉店間際のこの時間に、大きな賭けが行われていた。
その内容は至ってシンプルなポーカーだ。互いのチップは五十枚で五回勝負。勝負が五回終わった時点でのチップの差一枚につき、十万ルルーの支払いまたは受け取りだ。そう、この賭けはチップ差がそのまま金になる。つまり一枚取られた時点で二枚差であるから、二十万ルルーの負けだ。
二十万ルルーもあれば二ヶ月は平気で生活できる。もし仮に五十枚奪われてしまえば、チップ差百枚で一千万ルルーの負けだ。普通なら借金漬けになる。こんな小さな賭博場で、しかも客同士がやるようなお遊びではない。
しかし、常連客であるらしい男にこの勝負を持ちかけられた少年はあっさりと受けた。それが罠だということは、賭博場に通っていれば分かるはずなのに。観客を装った男の仲間が勝負に介入すれば、まずアベルは勝てないのだ。
「分かってんのか? おい、分かってんのか!? クヒヒヒ、チップ二十枚取られたら四百万ルルーだぞ!? 負けたときに払えんのか、えぇクソガキ!?」
「今からやめるって言ったら、無かったことにしてくれるのか?」
「するわけねえだろうがぁぁ!! コールだボケ!!」
そして男はチップを派手にばらまいて台に思いっきりカードを叩きつけた。大きな音が建物内に鳴り響き、男はカードから手を離すと同時に低い声を出した。
「ジャックのスリーカードだ……悪いなクソガキィ、てめえに勝ち目はねえよ」
アベルは冷めた目で場に出ている五枚のカードを見ている。男はそれが呆然自失した姿に見えたようで、表情をゆがめて高笑いした。
「おいコラさっさと出せや!! どうせてめえの負けだろうがよ!! さっさと出して楽になれ!! ボサッとしてんじゃねえぞグズが!!」
この勝負は二回目だ。一回目、アベルは降りたため男に五枚のチップを奪われている。これで負ければさらに二十枚失うことになり、逆転はほぼ不可能になる。参加チップは五枚であるから、降り続けられると勝負すらできないのだ。
男に詰め寄られて、アベルはため息をついた。
「あのさ……あんた、イカサマしてんだろ?」
「あぁ? 負けそうだからってゴチャゴチャ言ってんじゃねえぞ!!」
事実、男はイカサマをしている。アベルの背後に立って手札をのぞき込んでいる自分の仲間が出した合図を確認して、勝負するか降りるかを決めているのだ。右肩を上げればワンペア、首をひねればストレートというように。そして今回、示されたアベルの役はブタだ。つまり役無し。レイズ二十枚もブラフだったわけである。
それが分かったから、男は自信満々に勝負を受けて高笑いしたのだ。観客もイカサマが行われているということ自体には薄々気がついている。だが、タネが分からない以上はイカサマをしているなどと指摘するのは、たとえ対戦相手だとしても滑稽だ。少なくとも、ここにいる観客はそういう考えなのである。徐々にその場に冷えた空気が流れ始め、アベルに対するヤジが飛ぶ。
しかし、アベルは右手を上げて観客をなだめてあっけなく場にカードを出した。それを見て男は鼻で笑う。その五枚のカードは、数字もマークも見事にバラバラの役無しだったからだ。
「ハッ、ブタだからって見苦し————」
そこでようやく男は気がついた。眉をしかめて目をこすり、よく確認しても出てきたカードは変わらない。
アベルが出せるはずのないカードがあった。出てきてはいけないカードがあった。
————ダイヤのジャックだ。
「おい、どうしたよ」
「へ……? え、あ…………」
「どうしたのかって聞いてんだ。説明してもらえるんだろうな? なんで場に同じカードが二枚もあるんだ」
アベルの淡々とした指摘に、男が思わず自分の出したカードを凝視する。たしかにそこにはハート、スペード、ダイヤのジャックでスリーカードができている。同じトランプの束にダイヤのジャックが二枚入っているなんてあり得ない。あってはならない。
男はブワリと冷や汗が噴き出るのを感じながら後ずさった。
「な、なんで……」
「だから、なんではこっちのセリフだっつーの。このトランプの束はお前が持ってきたんだろうが。こんなあからさまな仕込みはさすがにダメだろ」
「し、仕込んでない! 俺はやってない!! 見てただろ、俺が持ってきたのは開封前のトランプだぞ!!」
慌てる男にアベルがピシリと言い放った。
「開封前のトランプなら、なおさら俺は干渉できねえじゃねえか。俺が無理なら、お前以外の誰が仕込むんだ?」
その言葉はもっともだった。場に出ている役は男の方がいいのだ。だから……状況的に考えれば、アベルがイカサマを働いているはずがない。
アベルはこの二回目の勝負で負ければ、一回目の勝負と合わせてチップを二十五枚損失してしまう。二十五枚損失したということは、男が三回連続降りてしまえば挽回は不可能である。参加チップは一回につき五枚なのだから、五回の勝負が終わった時点でアベルの二十枚負けは確定だ。つまり二百万ルルーを支払うことになる。
だから、もしもアベルがイカサマをしているのならば、この二回目の勝負はアベルが勝たなくてはおかしいのだ。イカサマは勝つためにするものである。事前に仕込んでおいて負けようとする人間などどこにいるのか。
「なあ、いいから説明してくれよ。あんたは勝負の前に、ここの賭博場のカウンターで開封前のトランプをもらってきたと言ったな? そしてそれを俺と……ギャラリーの前で開けた」
「そ、そうだ……! イカサマなんて、できねえだろ……」
「それができるんだよ」
男の顔がどんどんと青ざめていく。周りの観客がアベルの声に耳を貸し始めたからだ。状況的にアベルは被害者である。しかも男は突然の事で混乱していて、カード自体の仕込みに覚えがなくてもうまく反論できない。
「ど、どうやって……?」
「お前はディーラーからカードを受け取るとき、そのトランプの柄を知れるからだ」
「は、はぁ? 知れるからってなんなんだよ!」
「とぼけんなって。同じトランプを二組用意して、袖にでも隠してたんだろ。そうすれば都合よくカードを持ってこられるからな」
「なっ……!! そ、そんなことやってない!! 俺は…………俺は!!」
違う違うと首を振り続ける男だが、場の雰囲気は徐々にアベルの方に傾きかけていた。ブーイングが広まっていき、閉店間際の賭博場だというのにやけに騒がしい。アベルは立ち上がり、男の胸ぐらを掴んで自分側に引き寄せた。
「イカサマは十倍払い。誓約書にもそう書いたよな?」
「違うんだって……そんなこと……俺は…………!」
涙目になってかすれた声で否定する男には、もう力が残っていなかった。
「賭け金二十枚の十倍払いは二百枚だ。これでチップ差は三百九十枚。三千九百万ルルーなんて払えるんだろうな?」
男は、賭博場にやってきた世間知らずの子供から少し金を巻き上げようと思っただけだ。なにも、一千万ルルーもぶんどるつもりはなかった。小金をせしめてバカにして、気分よく酒を飲む予定だったのだ。
それなのに。
今の状況はいったい何だ。
三千九百万ルルーなんて、一般人には到底払えない。この街にそれなりの家が一戸建つほどの額だ。
床に崩れ落ちた男を見て、アベルは言った。
「立てよ。偉そうに歳だけ食ったクソガキが、イカサマ使って勝ち馬気取りか? 立てっつってんだ裸の負け犬、まだ賭けは終わってねえぞ」
「え…………?」
体を震わせながら顔を上げた男に、それでもアベルは笑わなかった。
「誓約書には逆らえない。お前は一回目の勝ちを差し引いても、チップ百九十五枚の損失を被ってトンだ。この場で俺を殺したとしても、その事実は変わらねえ」
誓約書は、古代の賢者が作り出した術式を組み込んだものだ。ギャンブルに限らず幅広く使用されていて、そこに書かれたことに同意した人物は鎖で縛られる。体をではない。魂をだ。誓約を破った者に待っているのは死である。
イカサマをしたら十倍払いというのも、アベルが勝負の前に誓約書に書き込んだ条件だ。男はまずイカサマがバレることはないと思っていたし、少なくとも証明は不可能だと考えていたからその条件を飲んだ。ここを拒否すれば、イカサマをすると宣言しているようなものだからだ、
「お、お前の主張は言いがかりだ……俺に支払い義務なんてねえ!」
「おーおー、また元気になったな。だったら証明してくれよ」
「しょ、証明?」
「お前がイカサマをしていないっていう証明だよ。今、この場には明確にイカサマの痕跡が残っている。俺が気づかなければお前の圧倒的な勝ちのままだったし、客観的に考えて仕込むチャンスはお前にしかない。だったら、まずはお前が弁明するのが普通だろ」
「やった証拠ならまだしも、やってない証明なんて——」
「俺の後ろに立ってるこいつは、関係ないか?」
男の言葉をさえぎって、アベルは親指を背後に突きつけた。息をのむ音が二つ鳴る。もはや男の動悸は加速度的に激しくなり、その顔には諦めの表情が浮かんだ。
「一回目から気づいてたんだよ。お前の目線は俺ではなく、ずっと俺の後ろに向けられていた。手札のぞかせて合図でも出させてたんだろ」
普段ならば、そんなことを言われても二人は知らないふりだ。だいたいはその時点で取り返しのつかない大差になっているし、確固たる証拠だってない。だが、今のこの場では男にそんな余裕はなかった。
「それは……でも…………」
「でもじゃねえんだよ、お前は名無しの上にイカサマ野郎だ」
もう、二人の観客は無駄に騒いだりはしなかった。三千九百万ルルーというケタ違いの額とアベルの迫力に気圧されている。気楽に口を開くこともできず、場はアベルの思い通りだ。
「ビビってるヒマはねえぞ。言っただろ、まだ賭けは終わってねえって」
アベルはダイヤのジャックを一枚抜いて床に捨ててから、散らばったカードを整えた。手際よく束をシャッフルして、静かに台の真ん中に置く。
「一回目は俺の五枚負け。二回目はイカサマにつき、お前の二百枚負け。まだ三回残ってるぞ? 次の賭けをしようか」
男はグニャリとした視界の中に、悪魔を見た。一度も笑わず、喜びもせず、相手を追い詰めることしか考えていない悪魔を。
そして悪魔は、台に手をつき身を乗り出した。
「それで、次のチップは何枚?」
アベルはあまりに強すぎた。ゆえに、忌み嫌われた。
十数年間共に過ごした幼馴染のユキにすら突き放された。彼女の周りに立っていた者たちの嘲笑が、いまだ頭に焼きついて離れない。
勝って、勝って、勝ち続けてきた人生。たった一度も敗北を受け入れず、無数の勝利を手に入れてもなお足を緩めることをしなかった。
金を手に入れ、他人を平伏させ、アベルはなにかを失った。
「おら、受けるか降りるかさっさと選べクソガキ!!」
粗末な木製の台を蹴りつけ、唾を飛ばしながらアベルに向かって男は叫んだ。二人に群がっている観客は楽しそうに騒いでいる。
「……レイズ二十枚」
ボソリとアベルがそう呟いて手元のチップを前に押し出すと、指笛や歓声があちこちから上がった。向かいの男は呆然と立ち尽くしてから……
喉奥からカエルの潰れたような笑い声をひり出した。
「ククク……バカだ…………バカだこいつ……!! 自分から勝ちを放り出しやがった…………!!」
ここは街の外れの賭博場。朝日が昇りかけている閉店間際のこの時間に、大きな賭けが行われていた。
その内容は至ってシンプルなポーカーだ。互いのチップは五十枚で五回勝負。勝負が五回終わった時点でのチップの差一枚につき、十万ルルーの支払いまたは受け取りだ。そう、この賭けはチップ差がそのまま金になる。つまり一枚取られた時点で二枚差であるから、二十万ルルーの負けだ。
二十万ルルーもあれば二ヶ月は平気で生活できる。もし仮に五十枚奪われてしまえば、チップ差百枚で一千万ルルーの負けだ。普通なら借金漬けになる。こんな小さな賭博場で、しかも客同士がやるようなお遊びではない。
しかし、常連客であるらしい男にこの勝負を持ちかけられた少年はあっさりと受けた。それが罠だということは、賭博場に通っていれば分かるはずなのに。観客を装った男の仲間が勝負に介入すれば、まずアベルは勝てないのだ。
「分かってんのか? おい、分かってんのか!? クヒヒヒ、チップ二十枚取られたら四百万ルルーだぞ!? 負けたときに払えんのか、えぇクソガキ!?」
「今からやめるって言ったら、無かったことにしてくれるのか?」
「するわけねえだろうがぁぁ!! コールだボケ!!」
そして男はチップを派手にばらまいて台に思いっきりカードを叩きつけた。大きな音が建物内に鳴り響き、男はカードから手を離すと同時に低い声を出した。
「ジャックのスリーカードだ……悪いなクソガキィ、てめえに勝ち目はねえよ」
アベルは冷めた目で場に出ている五枚のカードを見ている。男はそれが呆然自失した姿に見えたようで、表情をゆがめて高笑いした。
「おいコラさっさと出せや!! どうせてめえの負けだろうがよ!! さっさと出して楽になれ!! ボサッとしてんじゃねえぞグズが!!」
この勝負は二回目だ。一回目、アベルは降りたため男に五枚のチップを奪われている。これで負ければさらに二十枚失うことになり、逆転はほぼ不可能になる。参加チップは五枚であるから、降り続けられると勝負すらできないのだ。
男に詰め寄られて、アベルはため息をついた。
「あのさ……あんた、イカサマしてんだろ?」
「あぁ? 負けそうだからってゴチャゴチャ言ってんじゃねえぞ!!」
事実、男はイカサマをしている。アベルの背後に立って手札をのぞき込んでいる自分の仲間が出した合図を確認して、勝負するか降りるかを決めているのだ。右肩を上げればワンペア、首をひねればストレートというように。そして今回、示されたアベルの役はブタだ。つまり役無し。レイズ二十枚もブラフだったわけである。
それが分かったから、男は自信満々に勝負を受けて高笑いしたのだ。観客もイカサマが行われているということ自体には薄々気がついている。だが、タネが分からない以上はイカサマをしているなどと指摘するのは、たとえ対戦相手だとしても滑稽だ。少なくとも、ここにいる観客はそういう考えなのである。徐々にその場に冷えた空気が流れ始め、アベルに対するヤジが飛ぶ。
しかし、アベルは右手を上げて観客をなだめてあっけなく場にカードを出した。それを見て男は鼻で笑う。その五枚のカードは、数字もマークも見事にバラバラの役無しだったからだ。
「ハッ、ブタだからって見苦し————」
そこでようやく男は気がついた。眉をしかめて目をこすり、よく確認しても出てきたカードは変わらない。
アベルが出せるはずのないカードがあった。出てきてはいけないカードがあった。
————ダイヤのジャックだ。
「おい、どうしたよ」
「へ……? え、あ…………」
「どうしたのかって聞いてんだ。説明してもらえるんだろうな? なんで場に同じカードが二枚もあるんだ」
アベルの淡々とした指摘に、男が思わず自分の出したカードを凝視する。たしかにそこにはハート、スペード、ダイヤのジャックでスリーカードができている。同じトランプの束にダイヤのジャックが二枚入っているなんてあり得ない。あってはならない。
男はブワリと冷や汗が噴き出るのを感じながら後ずさった。
「な、なんで……」
「だから、なんではこっちのセリフだっつーの。このトランプの束はお前が持ってきたんだろうが。こんなあからさまな仕込みはさすがにダメだろ」
「し、仕込んでない! 俺はやってない!! 見てただろ、俺が持ってきたのは開封前のトランプだぞ!!」
慌てる男にアベルがピシリと言い放った。
「開封前のトランプなら、なおさら俺は干渉できねえじゃねえか。俺が無理なら、お前以外の誰が仕込むんだ?」
その言葉はもっともだった。場に出ている役は男の方がいいのだ。だから……状況的に考えれば、アベルがイカサマを働いているはずがない。
アベルはこの二回目の勝負で負ければ、一回目の勝負と合わせてチップを二十五枚損失してしまう。二十五枚損失したということは、男が三回連続降りてしまえば挽回は不可能である。参加チップは一回につき五枚なのだから、五回の勝負が終わった時点でアベルの二十枚負けは確定だ。つまり二百万ルルーを支払うことになる。
だから、もしもアベルがイカサマをしているのならば、この二回目の勝負はアベルが勝たなくてはおかしいのだ。イカサマは勝つためにするものである。事前に仕込んでおいて負けようとする人間などどこにいるのか。
「なあ、いいから説明してくれよ。あんたは勝負の前に、ここの賭博場のカウンターで開封前のトランプをもらってきたと言ったな? そしてそれを俺と……ギャラリーの前で開けた」
「そ、そうだ……! イカサマなんて、できねえだろ……」
「それができるんだよ」
男の顔がどんどんと青ざめていく。周りの観客がアベルの声に耳を貸し始めたからだ。状況的にアベルは被害者である。しかも男は突然の事で混乱していて、カード自体の仕込みに覚えがなくてもうまく反論できない。
「ど、どうやって……?」
「お前はディーラーからカードを受け取るとき、そのトランプの柄を知れるからだ」
「は、はぁ? 知れるからってなんなんだよ!」
「とぼけんなって。同じトランプを二組用意して、袖にでも隠してたんだろ。そうすれば都合よくカードを持ってこられるからな」
「なっ……!! そ、そんなことやってない!! 俺は…………俺は!!」
違う違うと首を振り続ける男だが、場の雰囲気は徐々にアベルの方に傾きかけていた。ブーイングが広まっていき、閉店間際の賭博場だというのにやけに騒がしい。アベルは立ち上がり、男の胸ぐらを掴んで自分側に引き寄せた。
「イカサマは十倍払い。誓約書にもそう書いたよな?」
「違うんだって……そんなこと……俺は…………!」
涙目になってかすれた声で否定する男には、もう力が残っていなかった。
「賭け金二十枚の十倍払いは二百枚だ。これでチップ差は三百九十枚。三千九百万ルルーなんて払えるんだろうな?」
男は、賭博場にやってきた世間知らずの子供から少し金を巻き上げようと思っただけだ。なにも、一千万ルルーもぶんどるつもりはなかった。小金をせしめてバカにして、気分よく酒を飲む予定だったのだ。
それなのに。
今の状況はいったい何だ。
三千九百万ルルーなんて、一般人には到底払えない。この街にそれなりの家が一戸建つほどの額だ。
床に崩れ落ちた男を見て、アベルは言った。
「立てよ。偉そうに歳だけ食ったクソガキが、イカサマ使って勝ち馬気取りか? 立てっつってんだ裸の負け犬、まだ賭けは終わってねえぞ」
「え…………?」
体を震わせながら顔を上げた男に、それでもアベルは笑わなかった。
「誓約書には逆らえない。お前は一回目の勝ちを差し引いても、チップ百九十五枚の損失を被ってトンだ。この場で俺を殺したとしても、その事実は変わらねえ」
誓約書は、古代の賢者が作り出した術式を組み込んだものだ。ギャンブルに限らず幅広く使用されていて、そこに書かれたことに同意した人物は鎖で縛られる。体をではない。魂をだ。誓約を破った者に待っているのは死である。
イカサマをしたら十倍払いというのも、アベルが勝負の前に誓約書に書き込んだ条件だ。男はまずイカサマがバレることはないと思っていたし、少なくとも証明は不可能だと考えていたからその条件を飲んだ。ここを拒否すれば、イカサマをすると宣言しているようなものだからだ、
「お、お前の主張は言いがかりだ……俺に支払い義務なんてねえ!」
「おーおー、また元気になったな。だったら証明してくれよ」
「しょ、証明?」
「お前がイカサマをしていないっていう証明だよ。今、この場には明確にイカサマの痕跡が残っている。俺が気づかなければお前の圧倒的な勝ちのままだったし、客観的に考えて仕込むチャンスはお前にしかない。だったら、まずはお前が弁明するのが普通だろ」
「やった証拠ならまだしも、やってない証明なんて——」
「俺の後ろに立ってるこいつは、関係ないか?」
男の言葉をさえぎって、アベルは親指を背後に突きつけた。息をのむ音が二つ鳴る。もはや男の動悸は加速度的に激しくなり、その顔には諦めの表情が浮かんだ。
「一回目から気づいてたんだよ。お前の目線は俺ではなく、ずっと俺の後ろに向けられていた。手札のぞかせて合図でも出させてたんだろ」
普段ならば、そんなことを言われても二人は知らないふりだ。だいたいはその時点で取り返しのつかない大差になっているし、確固たる証拠だってない。だが、今のこの場では男にそんな余裕はなかった。
「それは……でも…………」
「でもじゃねえんだよ、お前は名無しの上にイカサマ野郎だ」
もう、二人の観客は無駄に騒いだりはしなかった。三千九百万ルルーというケタ違いの額とアベルの迫力に気圧されている。気楽に口を開くこともできず、場はアベルの思い通りだ。
「ビビってるヒマはねえぞ。言っただろ、まだ賭けは終わってねえって」
アベルはダイヤのジャックを一枚抜いて床に捨ててから、散らばったカードを整えた。手際よく束をシャッフルして、静かに台の真ん中に置く。
「一回目は俺の五枚負け。二回目はイカサマにつき、お前の二百枚負け。まだ三回残ってるぞ? 次の賭けをしようか」
男はグニャリとした視界の中に、悪魔を見た。一度も笑わず、喜びもせず、相手を追い詰めることしか考えていない悪魔を。
そして悪魔は、台に手をつき身を乗り出した。
「それで、次のチップは何枚?」
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