盂蘭盆会

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盂蘭盆会

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 丘のなかほどにある狭い駐車場はアスファルトで簡易舗装がされているとはいえ、経年劣化により所々に亀裂が走り、その細い隙間から夏草が窮屈そうにかおをのぞかせていた。
 駐車場を出ると七十段ほどの急な石段があり、登りきったところに墓はあった。
 石段のてっぺんに立ち下界を俯瞰すれば、まとまった家並みは国道沿いに集中していて、丘の近辺はほとんどが水田でその周りに民家がぽつりぽつりと散在する昔から変わらない田舎風景だったが、変わったところといえば最近ふえはじめた休耕地を利用した太陽光発電のパネルだった。並べられた鏡面が幾何学模様をみせ、水田の存在感を横取りするように、ほうぼうで夏の日差しを受け輝いていた。
 墓地の一画には市営の水道が引かれていて、蛇口の横に屋根と柱だけの小さな物置が設置され、何組かの手桶と柄杓のほかに、誰かが置いていったスポンジやブラシ、亀の子タワシ、手帚、塵取りといったものが置かれていて、誰でも自由に使うことができた。
 昔は水道設備などなく、ポリタンクやバケツなどで水を持参し、母と二人で互いに励まし合い、時には喧嘩をしながら長い石段を休み休み登ったものだった。
 幼い頃は急な石段を登るのが嫌で、できれば墓参りなどしたくなかったのだが、母の伊都子は無理やりにでも、春秋の彼岸、盆暮れ、父の命日の年五回の墓参りは欠かさず和香子を伴った。特に小学校も高学年になる頃からは、重い水を母と交代しながら運ばされるのが嫌だった。
 和香子がきょう持参したのは、供花の樒(しきみ)とお線香。それと、娘の瑠香が朝早くに起きて焼いてくれた出汁巻卵のお供え物を入れた遊山箱だけだった。
 瑠香も一緒に来たがっていたのだが、婚約者の明智浩輔との休みが今日しか合わないとかで、数か月後に迫った結婚式の式場に打ち合わせに行ったのだった。
 和香子は墓石の前に立ち、水鉢の横に持ってきたものを置き、墓を見上げる。
 石碑は「葛城家累代乃墓」と刻まれている。
 累代とはいっても父が亡くなった時に母の伊都子が無理をして建てたものだった。
「あの時は母さん大変だったんだよね」和香子は呟くような声でいう。
 あんたはまだ二歳で、これからのことを考えるとそりゃあどうしていいかわからなかった。実家を頼ることもできないし……。でもお墓だけは……。和香子は母の声を聴く。
 墓の裏は一メートルほどの余地を残し切り立った崖で、赤茶けた地肌には傾斜に抗うように小さなシダが垂直に緑を見せており、所々に水気と色彩を失った苔が落とされてたまるかとでもいうようにへばり付いていた。四メートルほどの高さの崖の頂上には、様々な濃度の緑が重なり名も知らぬ灌木が生い茂っていた。
 石段を登って来たとき鳴き止んでいた蝉がまたけたたましく鳴きだした。蝉の声に和香子の思考と母の声も途切れがちになる。
 町立の公営墓地なので空きがあれば申請書だけで墓所は手に入れることができた。でもお墓を建立するお金が無くて……。以前、母が笑い話のようにいっていたのを和香子は思い出していた。
 水道の蛇口を捻り手桶に水を満たす。日差しを受け桶の中で揺れる水がきらきらと光る。夏の気温で濃縮されたカルキの匂いが鼻腔を刺激する。
 春の彼岸のお参りは瑠香も一緒に来た。彼女が丁寧に掃除してくれたので墓石自体はそれほどまでに汚れてはいないが、からからに干からびた樒の葉が供物台に散っており、水鉢の周囲の三か所に小鳥の白い糞があった。
 和香子は花立てから裸になった樒の枝を抜き取り、周囲に散った葉っぱを搔き集め持参したスーパーのレジ袋に入れる。
 物置まで戻り亀の子タワシを取って来て鳥糞をとり払う。
 手桶から杓で水を汲み石碑にかける。乾ききった庵治石の墓標はまだら模様の染みをつくる。二回三回と同じ動作を繰り返す。
 花立てと水鉢にも水を注ぎ樒を活ける。
 和香子は父の顔を覚えていない。物心つくようになって母から聞いた話ではほとんど家にはいない人だったらしい。
 道楽者でね。飲む打つ買うの三拍子っていうと少し大げさだけど。特に賭け事が好きで、仕事が終わってから仲間内での賭けマージャン。休みの日には競輪とか競艇。
 お酒は強かったけど飲み過ぎると料理の味に影響するっていって控えてた。
 女のほうは……さあどうなんだろう? 無口な人だったけど、優しかったからもてたんじゃないかねえ。あたしが惚れたくらいだもの。
 そりゃあね、腕は良かったから仕事のほうは人並み以上にやっていたよ。ちゃんと家にお金は入れてくれていた。ボートレースで大負けして時たま滞ることもあったけど。
「でも母さん。そんな父さんのこと愛していたんだよね」
 惚れた弱みとでもいうのかねえ。勘当同然で父さんと一緒に実家をとび出した。結納まで交わした相手がいたというのに。
「そして徳島のこの町に流れ着いた」
 流れ着いたというか、徳島に父さんの兄弟子っていう人がいてね。その人を頼って――。
 小高い丘にある墓地は下界よりはいくぶん気温は低いものの、真夏の太陽はまだ高く、ときおり気まぐれのように吹く弱い風が墓地の周辺に茂る草木の青く甘く焼けた匂いを投げつける。
 極道者だったけど、あんたが産まれてから変わった。俺も人の子の親になった、もうヤンチャばかりやってらんねえっていってね。
「でも、それからすぐに……」
 あんたが二歳になった年の冬に亡くなった。雛祭りを楽しみにしていたというのに。
「お父さんが死んでからが大変だったんだよね」
 そりゃあそうよ。そんな調子だったからまとまった蓄えなんてある筈もなく。
 母は少しばかりの借金を元手に小料理屋を始めた。
 ほとんど家には居つかぬ父だったけれど、たまに気が向いた時に母に料理を教えたらしい。
 料理人としては誰にいわせても一流だったけど、それにも増して教え方も一流だったのだという。
 和香子が子供の頃、母が作ってくれた数々の手料理は父直伝なのだ。
 アパートの隣に住むお年寄りにあんたを預けてね。そりゃあ母さんだって頑張ったんだよ。でも苦労を苦労とは思わなかった。あんたがいたから。
 蝉はいつの間にやら鳴き止んでいる。小さな風が一陣。ぬるい空気のかたまりが和香子の頬を撫でていく。
「ごめんね母さん。母さんの苦労は分かっていたはずなのに……。でもあの時はどうしようもなかった。好きで好きでたまんなかったんだよ、あいつが。母さんはあの男はやめなさいといったのに」
 あたしだって伊達に客商売やっているわけじゃない。あんたよりは男を見る目はあった。でも、あんたはあたしの忠告なんか聞く耳持たず。まあ、あたしの血を受け継いだというか。
ウフフという母の笑い声が柔らかく和香子の頭の中に響く。
「母さんのいうとおりだった。母さんと喧嘩別れの形であいつと結婚したのに、一年もたたぬ間に浮気され、私はほっぽりだされた」
 いわないことじゃない。何をやってるんだろう馬鹿娘がと、あの時は思ったよ。
「でも、そんな私を母さんは黙って許してくれた」
 しょうがないよ。あんたはあたしとお父さんの娘なんだから。でも、その後が大変だった。
 和香子は別れた男の子供を身ごもっていた。和香子はおろしたいといった。母は反対した。授かった命を親の都合だけで簡単に始末していいものかよく考えてくれと。
 和香子が結婚するといった時あれほど反対した母は、その男の血が半分は入っている子供だというのに頑なに堕ろすことには反対したのだった。
 そりゃあ、あたしだって悩んだんだよ。あんたの一生を左右することだもの。母体も心配だった。悩みに悩んだ。お腹の子供はあんたの分身だし。それにその子はあたしとお父さんの孫でもあるし。
 でも最後に決めるのはおまえ自身なんだから、あんたの決断にあたしゃ文句はいわない。最後に母は冷たくそうい ったのだった。
 和香子は翌日、墓参りをした。あの日も今日のように暑い夏の日だった。
 父は目を閉じ手を合わせる和香子に黙って微笑んでいた。写真でしか知らない父の顔だった。
「産んでいてよかった。その娘が十月に結婚するんだよ。父さんと母さんの孫が」
 日は西に傾き、高いところに浮かんだ大きな雲の一部を茜色に染めようとしていた。
「まあいろいろあったんだけど、最終的には瑠香の結婚相手の浩輔君が葛城の姓をなのってくれることになった」
 瑠香は、祖母ちゃんが苦労して建てたお墓だよ。私が守らなきゃ誰が墓守するのよと、浩輔を半ば脅し気味に説得したらしい。明智家にお兄さんがいてくれてよかったと、彼女は笑った。
 和香子は持参した小さな遊山箱の上部に付いた金属の取っ手を持ち供物台にそっと置く。
 前面の引き上げ蓋を上にひく。側面に丸い透かし窓が施された外箱の中に、赤緑黄に彩色された三段重ねの小さなお重が収まっている。
 一番上に瑠香が焼いた出汁巻卵。真ん中の引き出しには紫のテッセンの花一輪。最後の引き出しには白い百日草の花を数輪摘んで入れてある。
 和香子は引き出しを順に取り出し墓前に供える。仄かに卵焼と二種類の花の匂いがした。
「お父さんが私のためにつくった遊山箱だよね」和香子は母に問いかける。
 家には二つの遊山箱があった。
 縦横十センチ高さ十三センチほどの小さいほうの遊山箱には赤い漆塗装が施され、前面の引き上げ蓋にはピンク色の桜の花びらが描かれていた。箱の側面には内部に収めた三段の重箱が見えるように円形の切込みが施されていた。
 もうひとつは縦十センチ横十七センチ高さ十五センチほどのやや大ぶりなもので、ひかえめな薄茶色の塗装がかけられ、外箱の側面と引揚蓋に菊水紋が描かれた杢張技術を使った檜の柾目が美しいものだった。
「小さいのは私のために、大きいのはお母さんとお父さん用だったんだよね」
 和香子は呟くような声できいてみる。
 あたしも父さんも徳島生まれじゃなかったから、子供のピクニック用の徳島独特のお弁当箱があるなんて知らなかった。母の声が頭の中でつぶやく。
 昔の子供たちは春になると、巻ずしや卵焼き、お菓子などを遊山箱に詰めて貰い、近くの野山へ出かけたのだという。
 阿波には信長、秀吉の天正年間よりはるか以前から強力な水軍が在り、蜂須賀藩政の頃には大勢の船大工を抱えていた。職人たちは船の廃材、余り木などを払い下げて貰い、家庭用の木工品や建具、家具などを造り内職としていた。そういった庶民文化の流れから子供用の弁当箱――遊山箱がうまれたといわれている。
 父さんが勤めていた料亭で遊山箱を料理の器に使えないかという話が出てね、結局その話は立ち消えになったのだけど、父さんはあんたのために、出入りしていた木工職人に頼んで造ってもらったんだよ。あんたの二歳の雛祭には俺が腕によりをかけて料理をつくる。花見にも行こう。子供の日には遊山箱ふたつ提げて三人で遊園地に行こうっていってね、そりゃあ張りきっていた。
 でも父の料理がふたつの遊山箱を満たすことはなかった。父母娘の三人でお弁当を持って出かけることはかなわなかった。
 和香子には幼い頃に遊山箱をつかった記憶がない。和香子がもの心つく頃にはプラスチック製のランチボックスとかバスケットが主流になっていたし、近所の子供たちが揃って遊山箱を携え野山で遊ぶ風習はすたれていた。
 でも母はふたつの遊山箱を大事に保管していたのだった。
 大きいほうの遊山箱は、お洒落だよねといって今では瑠香がアクセサリー入れとして使っていた。
 そして小さなほうの遊山箱は今日はじめて使う。
 瑠香の焼いた出汁巻卵を入れ、彼女の結婚報告とともに墓前に供えた。
 近くの寺でつく鐘の音が聞こえた。腕時計に目を落とす。午後六時。
 和香子は線香に火を点け墓前に手向ける。目を閉じ手を合わせる。
「私、母さんから教わった出汁巻卵、瑠香にも教えたからね。父さんから母さん、母さんから私、私から瑠香へ伝わった葛城家伝来の出汁巻卵」
 風がゆるりと流れ線香の煙が揺らいだ。
 和香子はそれがお墓の中で眠る父と母の返事だと思った。
 ――良かったね。お前も苦労したけど――母の声がきこえた。
 ――おめでとう。これからも頑張れよ――父の声がきこえた。
 今日は盂蘭盆会。あの世の魂が現世に帰って来るという日。
「でも母さん、父さん。あなたたちはいつも私の心の中にいるからね」
 和香子は声に出して墓の中の父と母に語りかけた。
 今までの人生、嬉しいこと楽しいことより悲しいこと辛いことのほうが多かったかもしれない。これが世の習いと都度ごまかし、やり過ごしてはきたものの、それとは裏腹に心の奥底には諦観しきれぬ部分も確かにあり、悲哀や辛苦の残渣は澱のように積み重なっている。これからの人生だってまだまだいろんなことがあるだろうと思う。和香子にも、瑠香にも、そして浩輔君にも――。
 だから、お父さん、お母さん。どうかそっと見守っていてください。
 宵色をのせた風にまた線香の煙が揺れた。
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