愛ターン 友ターン 完結

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愛ターン 友ターン 完結(ワラ

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徳島―夏
                1
床の間がある八畳間に買ったばかりの座卓を置き、夏用のいぐさカバーの座布団――これも来客用にと急遽買ってきた。
未だ完全に引っ越しは終了してはいないのだが、蒲池さんのたっての頼みということで私は場を設えた。
エアコンはまだ設置されていない。しかし東と南の窓を全開にすると水田の上を渡る風が吹き込み心地よい。
東と北と西の三方は水田に囲まれている。南側は庭園の植樹を隔て、宅地に隣接する畑だ。和美の植えた数々の野菜が芽吹き始めている。コンクリートやアスファルトに囲まれた場所に比べると格段に涼しい。
床の間を背に實平さんが恐縮したように座っている。その隣に私。対面に蒲池さん。その横に今しがたお茶を持ってきた和美。四人とも神妙な顔つきである。
蒲池さんは六月末の測量のためご夫婦で帰って来たのだが、その時から数え七日ぶりの来徳であった。今回は蒲池さんひとり。
六月末の測量立会いの後、蒲池さんから折り入って頼みがあると言われた。
市役所の實平さんとの対面をセッティングしてもらいたいと言う。私はどういうことなのかを尋ねた。蒲池さんは少しくぐもった声でとんでもないことを言った。
「實平さん、私の……、私の弟かも知れません」

お茶を飲み、やがて決心したように蒲池さんが切り出した。
「實平さん初めまして。蒲池と申します。お忙しいのにすみません。実は……」そこから言葉が続かない。時は止まる。
 開け放された窓のレースのカーテンが、敷地の東側の水田を渡る微風で揺らぐ。
 蒲池さんが顔をあげ口を開きかける。それを制するように實平さんが言う。
「私と母のことですよね」實平さんが蒲池さんを覗き込むように見る。「母とあなたのお父さんのことですよね。私の父でもある」
 蒲池さんは目を見開き、あんぐりといった表情で対面の人を見つめる。
蒲池さんの驚きの表情をスルーするかのように、一息つき實平さんはぽつりぽつりと話し始めた。
「私の父の名が蒲池であるということを母から聞いたのは、母が病に倒れ死ぬ間際でした――五十歳半ばの若死にでしたけれど――それまでは私がいくら聞いても父の名前は明かしてくれませんでした。ただ徳島県内の大きな会社の社長をしている。小さなときからそう聞かされました。成長するに従って父親のことを知りたいと切実に思うようになりました。自分の父親がどんな人なのか、自分なりに調べたのですが、しかし子供の調査能力などは高が知れています。母が常々言っていたのはバイタリティに溢れたやり手の実業家だった。母を心から愛してくれた。ハンサムではないが男らしい人だった。だから女性によくもてたそうです。何故別れたのかは言ってくれませんでした」
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實平さんの母親は豊子といった。豊子さんはある生命保険会社の外交員をしていた。今でいうセールスレディーだ。
高卒で事務員として入社したのだが、所長に見込まれ外交員に転向したそうだ。
所長の目は確かだった。時を経ず県下でも売上ナンバーワンに成長した。まだ二十歳そこそこだった。
蒲池社長と知り合ったのもその仕事の関係だった。
社長に病弱の妻がいることは知っていた。それでも二人は愛し合った。年の離れたカップルであった。しかし長くは続かなかった。二人は別れた。
別れたあとに身ごもっていることが判明した。悩んだ。でも産もうと思った。ひとりで育てようと思った。
蒲池社長から別れる時に幾ばくかのお金は貰っていたし、仕事で稼いだ蓄えもあった。子供をひとりで成人させる自信もあった。産休で休んでも当分の生活には困らないだろうと豊子さんは思った。
ある日、六十過ぎの綺麗な老婦人が豊子さんを訪ねて来た。彼女は蒲池ですと名乗った。蒲池社長の母親だった。彼女は言った。「私の家で子を産みなさい。私は一人暮らしなので何も遠慮は要らない」
豊子さんは有難い言葉だとは思ったが、その申し出をお断りした。ひとりで産みます。
蒲池社長の母親は言った。「産まれてくる子は私にとっても孫です」とても捨て置けない。豊子さんは蒲池社長の母親の申し出を了承した。蒲池邸に移り住み、そこで子を産んだ。
蒲池社長の母親は親身になって産前産後の面倒をみてくれた。豊子さんは子供が一歳になるまで老婦人と一緒に暮らした。
「これね、母から聞いた話と私が調べたこと、それと多分に私の想像も入っています」實平さんは私達を見回し言葉を切る。
「その話聞いたことがある」和美が遠慮がちに實平さんと蒲池さんを交互に見る。最後に私に目を向ける。私が和美に代わって言う。
「私の母から聞きました。この土地を買おうか買うまいかと相談していた時なのですが。私が生まれる前後に、この蒲池邸にお婆ちゃんと一緒に若い女性が住んでいたそうです。母はお手伝いさんだったのだろうと言っていましたが――。それが實平さんのお母さんだった」
「私と端月君は同級生ですものね。端月君のお母さんの言ったことは本当です。ただし、お手伝いさんではなかった」頷く。
 私の顔に視線を置いたまま和美が實平さんに尋ねる。
「ちょっと待って實平さん。疑問があるんですけど――蒲池のおばあちゃんはあなたのお母さんが妊娠していたこと、その子供の父親が蒲池社長だということ、どうやって知ったんだろう」實平さんに視線を移す。
實平さんは暫し考える風をして、おもむろに口を開く。
「わからないんです。母からはそういったことは何も……。これは私の憶測ですが」と前置きし、言葉をつなぐ。
「母が蒲池社長と別れてからも、母の同僚は蒲池社長の会社には仕事でお邪魔していた。そこらへんから漏れ聞いたのかもしれない。社長はそのことをおばあちゃんに伝え、援助を頼んだ。そして、おばあちゃんは母に手を差し伸べた。まあ、都合のいい私自身の推測です」
實平さんは言葉を切り、微風で揺れるカーテン越しに、緑がまし始めた庭園の木々に視線をまわす。少しばかりの沈黙の時間が経過する。
ややあって言葉をつなぐ。「私、この家ね。幼い頃母に連れられて何回か訪れたことがあります。お前が産まれた家だよって言ってね。記憶は微かなのですが。でもひとつだけ今も残像が残っていてね。暑くなると記憶が鮮明に蘇えります。夏だったのだろうと思います。おばあちゃんがスイカを綺麗な形に切ってくれて――」甘いよ。さあお食べってね。
實平さんは俯き加減に机の端に目をやり、遥か昔を思い出しているのだろうか、唇の端をもたげるような彼独特の微かな笑みを浮かべる。目を上げて言う。「蒲池さんは私のことを何処でお知りになったのですか」対面に座る人に視線を注ぐ。
「前々回でしたか、端月さんとの契約に伺った時です。あなたのことを聞きましてね。珍しいお名前なので気にかかったわけです。その時、何処かで聞いたような記憶が甦りまして。でも思い出せない。どうも気になったもので、大阪へ帰って妻と一緒に考えました。」
蒲池さんは自分の齢の離れた弟かも知れない男を、どう表現して良いか分からないような表情で見る。 
「たまたま姉から電話がありましてね――。聞いたんですよ私。姉は言いました。實平豊子さんは父の女のひとりだったって。珍しい名前なのでよく覚えている。――それと、その頃、姉と殆んど齢の違わない女(ひと)だったのではっきり覚えていると。姉は父のそういうところを非常に嫌がっていましたからね。私、實平さんが端月さんと同級生ならば年齢的には合うと思ったのです」対面に座る私と實平さんを順繰りに見る。
「失礼とは思いましたが、あなたとあなたのお母さんのことを調べさせていただきました」言葉を切り實平さんに視線を注ぐ。
「お母さんの實平豊子さんと父、そして祖母との関係が分かりました」蒲池さんは私に視線を向ける。「端月さんにこの家を会談場所に提供してくださいと、前回お願いしたのはそういった事情からです。この家で私と實平さんが会うことが大切だと思いました」
「そうだったんですか」私は和美と顔を見合わせた。
 蒲池さんは視線を實平さんに移し言葉を続ける。
「實平さんの身体つきとか顔つきとか――そう思って見れば父の面影があります。私は若い頃から母親似と言われていました。あなた姉に似ています。姉は父親似ですから」
時が滞る。暫くして口を開く。
「父はあなたを認知しなかったのでしょうか」
「母が死ぬ間際に明かしてくれました。蒲池社長からは私が産まれてしばらくして認知したいとの申し出はあったそうです。母が亡くなる前にそういったことを蒲池さんの名前と共に打ち明けてくれました。私は母が亡くなった時には、結婚し、子供ができ、そして離婚をしていました」實平さんは昔を思い出すように目を天井に向ける。
「母は自分の死期が分かっていたんでしょうね。私達が離婚した原因の一端は自分にもある。良一ごめんなさいってね」
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實平さんは豊子さんが亡くなる数年前に離婚していたのだという。
結婚は三十を過ぎてからだったのだが、嫁は母の豊子さんと折り合いが悪かった。
何事もてきぱきと自分で決める豊子さんには、嫁のおっとりとした性格が優柔不断と映ったのだろう。
それと、母ひとり子ひとりの長い生活が嫁という部外者に壊されてしまうような、そんな気持ちを持ったのかも知れない。父親なしの生活が豊子さんの子に対する愛情を変形させていたのかも知れなかった。
實平さんが言う。「母は私に父の分身として愛情を注いでいたところもあったのだと思う。無論、私自身もそれが当たり前と思っていました。離婚の原因は私自身にもあったのでしょう」声が湿っていた。視線を座卓の上に落とし考えを巡らすように暫し時間をとる。
實平さんの話は自分が産まれた頃に遡る。
 仕事の上で豊子さんは非常なやり手であったのだという。
實平さんを産んで職場に復帰した豊子さんは、支社長の薦めでP市に支部を立ち上げた。若干二十数歳だったという。セールスウーマン二十数名を擁し、その外交員も自らスカウトした。
幼子は今でいうベビーシッターの女性を雇った。蒲池社長の母親が保育所に行けるようになるまで面倒をみると申し出てくれたのだが、それは丁寧にお断りした。
家を提供してくれ、そこで出産させてくれた。何くれと世話を焼いてくれた。それだけでも感謝の言葉が出ないくらい有難かった。いっそ好意に甘えるべきだろうかとも思った。しかし、その思いは断ち切るべきだと思った。
蒲池老婦人は残念そうに言った。「何時でもおいで。何か困ったことがあれば及ばずながら力にならせてもらう。時々、孫の顔を見せに来ておくれ」豊子さんは老婦人の言葉に気持ちがぐらつくのを感じながらも、これからはひとりで生きて、この子を育てようと思った。
 暫くして、蒲池老婦人からの提言もあったのだろうか、蒲池社長から子供を認知したいとの申入れがあった。豊子さんはそれを断ったのだという。
「認知の話をなぜ断ったのかを母は明かしてはくれませんでした。多分ひとりで育てる自信を持っていたのでしょう。別れた男への意地みたいなものもあったのかもしれません。母は今でいうキャリアウーマンでした。それも凄腕の――。蒲池社長と懇ろになったのも、片やばりばりの企業経営者、片ややり手のキャリアウーマン――そういう共通部分で結ばれたのではと、私は思います」
「今更言っても詮無いことですが、父は無理やりにでも豊子さんを説得してあなたを認知すべきだった」蒲池さんは絞り出すような声で言う。
「母が亡くなる前」實平さんは蒲池さんに視線を注ぐ。「一通の通帳と印鑑を渡されました。私の名義になっていました。五千万円以上の預金残高がありました」
 豊子さんは死の間際に通帳を手渡し説明した。「これはあなたの父が毎月入金してくれていたもので、生まれた年から大学卒業まで欠かさず続いた。私は一銭も手を付けなかった。このお金はあなたのものだから自由に使いなさい」
 通帳には未開封の手紙が添付されていた。蒲池社長が書いたものだった。宛名は實平良一様とあった。
           4 
この手紙をあなたがいつ読むかは私には分からない。手紙をあなたに託す時期は豊子さんに任せている。
私が唯一心配するのは、あなたに父親がいない寂しい思いをさせたのではないかということ。この件に関し悪いのは私ひとりで、母親の豊子さんは全く悪くない。私はあなたに恨まれても構わない。だが母親を恨まないでほしい。
お金で割り切れる問題ではないかもしれないが、せめてもの私の気持ちだ。
どう使ってもらっても構わない。どぶに捨てられても文句は言えない。
豊子さんにはこの金を生活の足しに、あなたの為に使ってくれとは言ってあるが、多分豊子さんは使わないだろう。
私と豊子さんの間に何があったか、どんな原因で別れたか、多分これも豊子さんはあなたには話さないだろうと思う。だから私も書き記すことは留め置くこととする。
ただ一つだけ、私と豊子さんが何故つきあうようになったかを記しておきたい。
この話は家族にも、もちろん豊子さんにも話したことがない。私としては誰にも言わず、あの世まで持っていくつもりだった。しかし、私も一個の弱い人間なのだろう。この手紙の中だけで告白することを許して欲しい。
豊子さんとつきあうようになった遠因は、私が戦争中、軍属として関東軍に出入りしていたことに関係する。
終戦間際のある時、私が軍に収めた物資が原因で事故が起こり、三人の兵士が亡くなった。その犠牲者の一人が豊子さんの父上だった。
むろん私自身は、一兵卒である彼らを知る由もないのだが、その当時、犠牲者の名前は聞いていた。特に「實平」という珍しい名前は私の頭に残った。
豊子さんが保険の外交員として、私の会社に出入りするようになり、しばしば話をする機会があった。
身の上話を聞くようになり、豊子さんが事故の犠牲者である、あの「實平」上等兵の娘であることがわかった。千に一つ、万に一つの偶然。いや果たして偶然だろうか。天が仕組んだ必然ではなかろうかと、私は思った。
最初は自分の娘に対するような接し方だったし、気持だった。子供に対するような愛が、男と女のそれに変わったのは何時のことだっただろう。
私は豊子さんを愛してしまった。そして豊子さんも私を愛してくれた。
私にはそれまでつきあっていた女性がいたのだが、すべて清算した。
あなたに分かって欲しいのは、私も豊子さんも真剣に愛し合ったという事実だ。この手紙をあなたが読んでいる今は、私のことを幾分知った時ではなかろうか。私の艶聞も耳に入っているかも知れない。私は耄碌しているかもしれない。あるいは既にこの世を去っているかも知れない。
ただ声を大にして言えるのは、私はあなたのお母さんを心から愛していた。
そして、あなたをも。
                    父より
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「姉から当時聞いた話ですが、父には数人のそうゆう女性がいたそうです。姉も私もそれが原因で父とは疎遠になった時期があったのです。その当時、母は入退院を繰り返していましたし――。そして私達姉弟も若かったですから」蒲池さんは当時を振り返る。「父は数多いるガールフレンドの中から豊子さん――實平さんのお母さんを選んだ。遠因が父の軍属時代にあったとしても、本当に愛し合っていたのかもしれません。しかし、その本当に愛する人とは一緒になれなかった。思えば不憫ですな。父は母にも早く死なれ、愛する豊子さんとも一緒になれなかった。私達姉弟からは一時にせよ嫌われた。あなたとは親子の対面もせず亡くなった。自業自得と言えばそうなのでしょうが」
「私ね、蒲池社長とは一回だけ会っているのです。ここで――」實平さんは開け放たれた窓に目をやり庭を見る。
蒲池さんはエッ! と、いうような顔をして、まじまじと實平さんの顔を見つめる。私と和美も顔を見合わせる。

町役場に就職した實平さんはその頃水道課に配属されていた。
ある日、蒲池社長から電話があった。彼はその頃、社長職を辞し会長をしていた。
蒲池社長は言った。「母が亡くなり暫くは空き家になっていたのだが、来月から私が住むので上水道を再開してほしい。手続きはどうすればよいのか」
蒲池の婆ちゃんが亡くなったのはその時より三年程前であった。葬儀は当地ではなく県庁所在地の徳島市の大きな葬儀場で行われた。
實平さんはひとり一般参列者に紛れ、お婆ちゃんを見送った。
豊子さんは「幼い頃可愛がってくれたお婆ちゃんだから、お前ひとりで行きなさい」今にして思えば、血を分けた祖母の見送りを實平さんひとりでさせたかったのだろう。それと、豊子さん自身は、蒲池社長と顔を会すことを避けたかったのかもしれない。

實平さんは書類を持ち蒲池邸を訪れた。七十歳を少し出たくらいの老人がいた。
實平さんは何故かその人に懐かしさを感じたのだが、それは幼い頃、母に連れられ婆ちゃんを訪ねた、懐かしいこの家のせいだろうと、その時は思ったのだった。
「私、その時は全く知らされていませんでしたのでね。対面している老人がまさか自分の父親だとは思いませんから」
 老人は實平さんの説明を聞き終え、帰り際にぽつりと言った。「大きくなったなあ」實平さんは何のことかわからず、ただ老人の顔を見たのだった。
「今にして思えば、父親は陰ながらにも私を見ていてくれた。ずっと私のことを気にかけてくれていた。そしてその証が預金通帳と手紙なのではないでしょうか。いくら離れていたとしても親子の縁は切れることはない。そしてね――私は図らずも離婚によって父親と同じことをしてしまった。子供がひとりいたのです。元妻が親権を取りました。因縁なのでしょうかねえ」自嘲気味に唇の端を持ち上げて笑う。
「今お子様は……」蒲池さんが遠慮気味に聞く。
「もう成人しました。妻は私と別れたあと暫くして再婚しました。それまで続けていた仕送りは必要ないと言ってきました。しかし私は子供が成人するまで僅かではありますが養育費を送りました。考えてみれば私、父親と同じことをしていたのです。血は争えないというか……」
 暫しの間沈黙が支配した。
両脇に引いたカーテンが揺れ、東の窓から風が吹き込み、淀んだ空気を押し出すように南の窓へ吹き抜けた。
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ややあって實平さんは話を再開した。
「母が死んで、父の名を知り、幼い記憶の中の優しいお婆ちゃんが私の祖母であったことを知り、私は悩みました。父に会うべきかどうか。でも結局会わないことにしました。会えば会ったで、父を非難するかもしれない。なぜ母を捨てた。本当に愛していたのか。その他大勢の女のひとりではなかったのか。そんな言葉が私の口から出るのではないだろうか。いっそそれなら会わずにおこう。母が生前言っていた、そして父の手紙に書いてあった『二人は心から愛しあった』その言葉を信用しようと思いました」言葉を切り、冷めたお茶を口に含む。
「蒲池社長が亡くなった時、確か顧問をやっていましたよね」實平さんが言い、蒲池さんが黙って頷く。「葬儀は社葬でしたよね。お婆ちゃんが亡くなった時同様、私は一般参列者として参列させていただきました。その時、あなたにお会いしていたかも知れませんね」蒲池さんを見る。
「そうかもしれませんな」蒲池さんが相槌を打つ。
「蒲池社長が亡くなって、この家が空き家になっているのは知っていました。でもメンテナンスはできているようだった。その頃には娘さんと息子さんがいることは承知していました。私の齢の離れた腹違いの姉兄。どちらかが帰って来るのか。それとも売りに出すのか。気にはなっていたのです。父親が残してくれたお金は手つかずでした。どうせならそのお金でこの家が買えたら――そう思ったのです。お婆ちゃんもひとりで暮していた。父親もひとりで暮していた。私もこの家を買って二人のように独り暮らしがしたいと思うようになったのです。売りに出ているとは知らなかった」首を回し私の顔を見た。
「それで、農業委員会での一連の対応ということになったのですね」私は聞く。
「最初はちょっと邪魔をすれば、端月君は直ぐに諦めると思ったのです。P市にはこのような物件は掃いて捨てるほどありますから。でも奥さんが熱心だった」和美を見る。
「實平さん。私は気にいっとったけん、そうそう簡単には諦められんかったんよ」和美が真面目な顔をする。「でも今の實平さんの話聞いたら、あんたに買うて貰ったほうが良かったかもしれん」
「いやいや、奥さんそれはいいんです。端月君に買ってもらって良かったと思っていますから」實平さんは顔の前でひらひらと手を振る。「端月君が農業委員会に来て、物件名を見た時、何かめぐりあわせというのですかね、因縁とでもいいましょうか……。驚いたのは事実です」
「でも、何年も会ってないのによく私だと分かりましたね。珍しい名前だというのに、あの時私はあなたのことをなかなか思い出せなかった。」私は疑問点を口にする。 
 實平さんは薄い笑いを口元に浮かべる。質問をした私の顔は見ず、和美に視線を移す。
「奥さんねえ。端月君は高校の時はイケメン君ビッグスリーに入っていたんです」また、にやりと笑う。和美の顔をさらに伺う。
和美は視線を實平さんに返し、すまし顔で言う。
「卒業写真見たけど、うちの旦那が断然トップワンやわ。それもダントツの」平気な顔でいけしゃあしゃあと言ってのける。
實平さんは苦笑いを禁じ得ない。困ったように言葉をつなぐ。「そ、そうですよね。だからその――トップワンのイケメン君を忘れる筈がない。ただ私にはもうひとつ忘れられない理由があってね。端月君、細川亮一覚えている?」覚えていた。確か一年生の時クラスが一緒だった。イケメン君だった記憶がある。
      7
 實平さんと細川亮一は小、中、高と同級だったのだという。
字は違うのだが同じリョウイチだった。中学校の時にはリョウイチ一号・二号と呼ばれるほど仲が良かった。勿論、一号が細川で二号が實平さんだったのだが。
そのリョウイチ一号が、中学の時と高校二年の時、同じ女の子に告白して二回とも即座に振られたのだという。
一号はイケメン君だったので余程自信があったのかも知れないが、二回の失恋に大きなショックを受けたらしい。特に二回目は中学生の時どころではなかったそうだ。その愚痴を聞いてあげたのが實平さんだった。
 これは多分、中倉涼子が絡む話だろう。そして私自身も絡んでくる。以前ライダー加賀が推理したのとは様相が違ってきた。加賀さんは振られた男の子は實平さんではなかったろうかと推理したのだ。
「端月君、これ言ってもいいのかなあ?」私を見ずに和美を見る。これって、いつぞやのパターンだ。
「實平さん言ってもいいのかなあ、と言っておいて、いつも直ぐに言うじゃないの」 
どうせ中倉涼子が絡んでくる話だ。和美の前だが心を決めた。私はゆっくり頷く。蒲池さんには関係ない話だが、ここは絶対に聞いておきたい。
 實平さんの話では、中学校で同級だった中倉涼子とは普通の友達だったという。例の剣山登山も涼子に頼んで参加したのだという。
もちろん美人の彼女に対する憧れはあったのだが、最初からムリムリと諦めていたそうだ。だがイケメンと自他ともに認める細川は違った。親友だったのでなにくれと協力は惜しまなかった。しかし一号の恋は二度とも実らなかった。
高校二年の時の落ち込みは酷かったらしい。
告白した時、涼子から言われた。「あなたとは絶対無理」冷たい声だったと言う。
リョウイチ一号は「誰か好きな子がいるのか」と執拗に聞いた。涼子は私の名前を挙げたのだという。
實平さんの言では、相手が私だということが一号のショックに輪をかけた。
涼子が好きな人がイケメン君のトップを争う私だったのだから。他の男ならそれ程の落ち込みもなかったかも知れないと言う。
もちろん私自身はイケメントップを争っているなどという意識は全くなかったし、涼子が私を好きだということはその時点では知らなかった。彼女と付き合いだしたのはもう少し後のことだった。
「じゃあ、酔っ払って加賀さんに喋ったことも……」私が聞く。
「そうです。私自身の経験でも思いでもありません。細川亮一の受け売り。申し訳ありません。酔った上での冗談――いや、端月君に対するやっかみみたいなものも多少はあったんです。この家と土地の件も、伊東書士のいわば活躍で、あなたと奥さんに有利に運んでいましたしね。酔った上での軽い憂さ晴らしのつもりだったのですが。しかし加賀君があんなに気にするとは思わなかったのです。だから翌日に聞かれた時は慌てて否定したのですが。誠に申し訳ありません」實平さんは面目ないといった態で頭を下げる。
 實平さんがそういったことを喋ったのは蒲池邸を私が諦めればとの思いだった。私に対する邪意などはなかった。蒲池邸を買い取り、そこに住みたいというその時の願望がそういった言動となって表れたのだった。
 涼子が交通事故で亡くなった時、私が殺したのだという話も、その当時、細川良一が言っていた言葉なのだという。
「中倉さんは自殺じゃないだろうかという噂は確かにありました。その噂話に細川君が脚色を加え、端月君が中倉さんを振った張本人だ。そのせいで彼女は自殺した。――そんなことを言っていたのを思い出しまして。その頃、彼も私も県内の同じ大学に通っていましたから」
話が自殺云々、殺した云々になったので私は蒲池さんの隣で黙って座る和美を見る。
彼女は別に驚いた様子もなく、ふんふんという風に頷きながら聞いている。
蒲池さんにとっても初めて聞く話だ。わけは分からないなりに興味深く聞いているようだ。
私は實平さんに顔を戻す。
「私、中倉涼子に二回振られたのは實平さんではなかったろうかという、加賀さんの推理に少しだけ傾いていたのですが、それにしては動機としては非常に弱いかなとも思っていました。私に対する高校生時代の恨みですからねえ。四十年も前の話だ。その恨みだけでこんなことをするわけがない。そんなことをしてもお互い何の得にもならないのじゃあないかと」
「まあ、そのとおりですね。でもねえ端月君。その当時、恨みというのでもなかったのですけど、端月君に対する――なんていうのかなあ――やっかみみたいなものはあったのですよ。細川君は小学生からの親友だったし、中倉さんとは中学時代から普通に話せる女友達だったし。取られたって感じはあったですね。まあ端月君ならしょうがないかって、諦めみたいな気分もあったのですけどね」實平さんは苦笑いをする。
               8
 開け放ったはきだし窓から網戸を通して風が吹き込む。風にはわずかな熱気と水田の水の匂いが乗っかっている。レースのカーテンを揺らし南の窓へ吹き抜ける。庭園の伸び始めた枝垂れ梅の柔らかい青葉がはらりと揺れる。
「今日あなたのお話が聞けて納得しました」私は實平さんの顔を見て言う。「あなたの言動には、もっと深い、あなたの出生やあなたの両親、この家に住んでいたおばあちゃん。そして蒲池さん。遠い昔の物語が深く絡んでいたのですね」
 私の言葉に實平さんは頷き、目を閉じる。遥か昔を回想しているのだろう、頷きながら唇の端に薄い笑みが浮かび上がる。
私は蒲池さんに顔を向ける。「それにしても―蒲池さんと實平さんがご兄弟だったとは……」
 蒲池さんも黙って頷く。實平さんが異母兄弟だと確定したことで、思いを馳せる諸々のことが胸に去来するのだろう。
和美が蒲池さんと實平さんを交互に見る。「今日の實平さんの話、前に聞いていたら私、實平さんにこの家譲ったかも」
「いえいえ、それはもういいんです。私は小っちゃい、いじけた男なのでしょうね。父も母もそしてお婆ちゃんも、素敵な人ばっかりだったのに、私はこんな……」實平さんの声が沈む。
「いや。私に歳の離れた弟がいることが分かって良かったと思います。たとえ腹違いでも兄弟は兄弟です。實平さんありがとうございました。そして端月さんと奥さん、私の無理を聞いていただきこの場を提供下さって感謝申し上げます。私と實平さんにとって、この家の中で話せたということに意義があります」蒲池さんは深々と頭を下げる。それに呼応するかのように實平さんも頭を下げた。 
「落ち着いたら、蒲池さんも實平さんもご兄弟揃って遊びに来てください。私の育てた野菜で手料理ご馳走するけん。美味しいんじょ」和美が笑う。
二人はどこか恥ずかしげな、少しぎこちない笑顔を投げ合っていた。
          9
私が和美に聞く。「今日の話聞いて、びっくりしなかったね」和美の顔を見る。
「なんでー。メチャびっくりしたわよ。だって蒲池さんと實平さんが異母兄弟だったなんて、メガトン級のびっくりと違(ちゃあ)うん」またそっちかい。私は實平さんが語った中倉涼子のことを聞いたつもりだったのだが。
「こんな偶然ってあるんやろか。話が出来過ぎって感じやわ。ほんま私びっくりしたけん。前回、蒲池さんから弟かもって聞いていたけど、まさかって思うとったもん。あなたと實平さんが同級生で、しかも私達が買おうとした土地家屋が蒲池さんのもので、實平さんと蒲池さん二人が異母兄弟だったなんて。實平さんは丁度、農業委員会の局長だったし」
「天の配剤というやつかなあ。少し違うか。でも三人ともこのP市に係わりがあった。小さな街だから、可能性としては……」
「まあ、そうかも知れんねえ。ところであなたが聞きたかったんて、中倉涼子さんのことと違うん?」すました顔で私を見る。
「そ、そうなんだ。あのう……今日聞いていて全然驚かなかったじゃあないか」
「あなたと中倉涼子さんの恋愛話(こいばな)は知っとうけん」平然と言う。こちらがうろたえてしまう。
「ええっ、誰に聞いたの! 加賀さん、それとも伊東さん」
「違(ちゃ)う、違う。もっと前から知っとった」すまし顔。「昔、新婚当初、実家へ二人そろって帰省したやろ。その時に忠孝さんから」
「弟から……?」
「そう。私と忠孝さんとであなたの卒業アルバム見てたんよね。その時誰が一番のイケメンかって話になって……。当然あなたが一番だった。他にも二、三人イケメン君がいたけど、あなたがダントツだった。その中に今日、實平さんが言っていた細川さんもいたのだろうけどね。それから話の流れで、じゃあ一番の美人はってことになったわけ。中倉涼子さんが群を抜いた美人だと思った。他にも可愛い子は三、四人いた。でも中倉さんは女の私が見てもすごく魅力的だった。私がすごく褒めたからかなあ、忠孝さん自慢顔で自分のことのように言ったのよね。『涼子ちゃん、兄貴の彼女だったんだよ』って。その後『しまったー』って顔になった。口が滑ったのね。『兄貴には言わんといて、俺、義姉さんに告げ口したようになる。兄貴に殺されるかもわからん。マジで』忠孝さん、そう言って私に懇願したのよ。だから、あなたに言わないことを条件に涼子さんのことを色々教えて貰った」
「忠孝の失言を捉えて交渉するなんて、君もなかなかじゃないか」私は言う。
「そうなんよ。こう見えても、昔から私はデキル女なんよ」したり顔。 
私は吹き出しそうになるのをこらえて言う。「で、彼女と私の話を聞いてその時どう思った」
「そりゃあ、ショックだったわよ。でもその後、その中倉さんが交通事故で亡くなったと聞いて、違った意味でのショックがあった。そっちのショックの方が大きかったかも。あなたがその時どんなに悲しんだかと思って。そして忠孝さんそれに追い打ちをかけるように言ったのよね。『兄貴、涼子ちゃんに振られちゃったんだよ』って。なんか、あなた凄い恋をしたんだなーと思って。振られた後、中倉さんが亡くなったことも含め、その時若かったのだから、あなたの心の中を思うと……。多分私だったら耐えられなかっただろうなあって……」自分の身に置き換えて、しんみりとした声になる。
「知っていて、そのことを今までひと言も聞かなかったよね。気にならなかった?」
「忠孝さんとの約束もあったしね。気にならなかったわけじゃないのよ。でも、心にしまっておきたいことって、誰にでもあるのじゃあないかなーと思って。過去のことだしね。それに言うじゃない。『死んだ人には適わない』って。私ね、涼子さんが私に似ていたらあなたを追求したかもしれない。でも写真で見た限り、それと忠孝さんから聞いた彼女の性格なんかも考えあわせると、私とは全く違った人みたいだったから。涼子さんの面影があなたの心に生きていて、私の中に涼子さんを見て私を好きになったのだったら許さなかったかもしれない。あなたを追求したかも。でもね、あなたは涼子さんの身代わりじゃなく、私を私として好きになってくれた。それだけで十分だった。それと……」考えを巡らせるような目をする。「中倉さんて高校一の美人だったんだよね。そんな人に惚れられたあなたを素敵だと思ったの」 
「当時、私も彼女のことが好きだった」私は当時を思い出しぽつりと言う。
「それ、なんていうの……昔のことわざで。よく玲香さんが言っている。ええっと……相思相愛涙(なだ)そうそう―」あのなあ! それはことわざではない。四文字熟語だ。それに「涙そうそう」を付け加えたら、玲香さんのいつものギャグになってしまう。
「別れてすぐに亡くなったと聞いた。あなたの心に多少なりとも傷が残っているのじゃないかと思った。あなた優しい人だから」言葉を切る。静寂が流れる。コーヒーでも淹れようか? 立ち上がる。
 コーヒーの芳香が漂う。ブラックで一口飲む。和美はいつもミルクを入れたシュガーレス。話が再開する。和美が口を開く。「まあね、若い頃の恋愛なんて誰にでも十や二十くらいあるわよ。こう見えても私にだって‥‥」十も二十もあるのか! お前は寅さんか。
「涼子さんには適わないけど、私も若い頃は美人の誉高々だったのよ」自分で言うな。それに「誉高々」って、それ何なのだ。
「振ったこともあるし、振られたこともある。でも、そういう若い時の経験が心を大きく豊かなものにする。心を強くする」
和美は若い頃どんな恋をしたのだろう。聞きたい気はするがそれはまあいい。言わぬが花、聞かぬが花という言葉もある。
和美が微笑みを満タンにした顔で言う。「イケメン君とか美人さんとかいうけどね、人は見た目じゃないからね。見た目に心が備わらなくちゃ。私ね、今日の實平さんの話の中で、中倉さんが細川君ってイケメンを二回振ったって話があったよね。その細川君って心がないイケメン君だったんだよ、キット。中倉さんはそのことを分かっていた。だから心を持っているあなたを好きになった。昔、忠孝さんから聞いた話だけれどね。中倉涼子さんって、昼間の太陽のような面と、夜の月のようなところを合わせ持った不思議な魅力を持っていたって。こうも言っていた。大空のように青くて何処までも広い。かと思うと、山奥の誰も知らない、小さくて小さくて深い深い湖。――そんな人だったって。そんな素敵な中倉さんが好きになってくれたんだから、結果的には振られたとはいえ、あなた日本一の幸せ者よ。それに加え、私みたいな素晴らしい伴侶を得たんだからね。あなたは世界一の幸せ者」今日のところはそういうことにしておこう。
蒲池邸――いや、端月邸の夜は更けていく。
明日には引っ越しが完了する。そして私と妻の新しい田舎暮らしが始まる。
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