愛ターン 友ターン

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愛ターン 友ターン3

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14 

 和美に實平局長とのやり取りを―というか實平良一が一方的に喋ったのだが―その話の内容を訊かれるだろう。特に實平局長が何やら意味ありげに言った「中倉涼子」という女性名には興味を示す筈だ。 

 和美には涼子のことは話したことがない。遠い昔のことだ。隠すつもりはなかった。言う機会がなかったというのが本音だ。いや、どうだろう。果たしてそうだろうか。心の片隅で、このことは話さない方が無難だろう。和美にいらぬ疑心を持たれない方が良いのでは―そう思っていた部分が無いともいえないのではないか。 

  

 中倉涼子とは高二の初夏から付き合い始め、大学二年の春に別れた。 

 大学へ入ってからは今でいう遠距離恋愛だった。当時のそれは二人の距離を、そして心を隔絶するに十分だった。 

 今ならケイタイで繋がることが出来る。メールのやりとりが出来る。スカイプなどの機能を使えば互いに顔を見ながら話が出来る。交通機関も発達し、選択肢も増え、そのうえ安い料金での移動が可能だ。 

 今、遠距離恋愛をする二人の距離は格段に縮まっている。当時とは隔世の感がある。 

 結局、遠い距離が原因で涼子とは別れたのだった。しかし、その彼女も今はいない。 

  

 アパートのドアを開ける。鍋の匂いと温かさを感じる。夕食は和美特性の温かい鍋。この匂いだとシメはうどんか。 

 使い勝手の悪い狭いキッチンで、東京のマンション暮らしの時と変わらぬ料理を作る。その辺も和美の料理人としての腕の一部なのだ。 

 シメのうどんになって話が今日の農業委員会での出来事に移った。 

「農業委員会で實平局長が言っていたことなのだけれど」やはりきたと思った。心を引き締めた。 

 和美は私の顔を見た。「あなたと同級生なんでしょう。でもあの人―實平さんって、老けとんとちがう。最後に挨拶で頭を下げた時てっぺんが禿げていた」笑う。「でもあなた、なかなか思い出さんかったでえ。端月君、端月君って向こうは何だか馴れ馴れしそうだったけど。それほど親しくなかったん?」 

 興味はそっちだったか。てっきり開口一番「中倉涼子」って誰? と訊いてくると思っていたのだが。 

「正直言って忘れていた。いや忘れていたというよりは忘れるほどの友達でもなかった。高校時代コンタクトはほとんどなかったのだから、思い出すのに時間がかかっても当然な間柄だった。卒業アルバムを見て初めてはっきりと思い出した」 

「へー、そうなの」 

「まあ、これからも農業委員会にはお世話にならなくちゃいけないかも知れないし、思い出しておかないとね。實平さんなぜか妙に馴れ馴れしかったのは事実だが」私は言って、傍らに置いた卒業アルバムを目で示した。 

  

「實平さん、私のこと綺麗な奥さんですねって言っていたよね」にやりと笑う。 

「嬉しかったの?」私は和美の顔を見る。 

「そりゃあ、女は幾つになっても綺麗と言われて怒る人はいないわよ。でも實平さんのあの変な笑い方。ちょっと助平っぽかった」顔をしかめる。「私はね、あなたに言って貰うのが一番嬉しいんだからね」微笑む。少しはにかんだ。 

 傍らのアルバムに目をやって言う。「結婚したての頃、実家で見せてもらったわね。あなた高校の時からイケメンだったんだよね。後でまた見てみよう」 

 食後の話し合いで、もう一度司法書士の上村さんを尋ねることにした。蒲池さんへの連絡はその後で、私達の態度をはっきりとさせてからで良いだろう。和美に行ってもらうことにした。 

  

 和美には足労をかけるのだが致し方ない。和美も別段嫌がっていないし、彼女の性格として、思いつき、考え、方向が決まれば面倒は厭わず行動は迅速なのだ。 

 そして彼女にはそれらのことを自分で判断し決断する力がある。その決断は今迄だって大きく間違っていたことはない。これまで私は和美にいくら助けられただろう。 

 一番苦労をかけたのはやはりバブルの前後だろう。家に帰れない日々が続いた。 

 和美は一歳になったばかりの息子を抱え、私に心配かけまいと孤軍奮闘していたのだ。 

 急に熱を出したり、風邪をひいたり、怪我をしたりと、幼い子供には予期せぬことが起こりうる。和美はそれらに冷静に対処した。私も子供のことなので気にはした。しかし課長に昇進したばかりで、やはり仕事を優先するしかなかったのだ。 

 和美と私は社内恋愛で結ばれた。従って彼女も私の仕事の内容、社内事情などは十分わかっていた。だから私に心配かけまいと彼女なりに努力をしたのだろう。 

 幼子を抱え不安になることもあっただろう。助けが欲しいと思うこともあっただろう。 

  

 そんなことを考えると、その時も今現在も彼女には頭が上らない思いなのである。 

 それやこれやを考え合わせれば、総体的にいって和美は私にとっては出来過ぎた女房といっても過言ではない。……ちょっと言い過ぎかもしれないけれど……。 

 そりゃあ、長年夫婦をやっていれば鼻につく部分もあるし、嫌な部分、そこ直してほしいという部分だってある。でも、それはお互いさまだろう。和美にだって私に対するそういった不満が有る筈だ。 

「痘痕も靨」という言葉があるけれど、その逆「エクボもアバタ」だって、当然あるのではないだろうか。長年の夫婦生活がアバタがエクボに見える優しい心を、優しい錯覚を経年劣化させ、エクボがアバタに見える場合もある筈だ。 

しかし、和美の場合、諸々の項目を足し算、引き算しても、答えはマイナスではなくプラスになるだろう―そう、思っている。少し甘いのかもしれないが。 

だから、田舎で農業をやりたいという彼女の長年の夢は、どうしても叶えてやりたいと思うのだ。 

  

         15 

  

行政書士の伊東文男さんは九十に手が届くのではないかと思われる年齢だった。しかし矍鑠(かくしゃく)としていて、年齢よりは遥かにバイタリティに溢れた喋り方をし、自信にも溢れていた。私が事務所にお邪魔するなり彼は快活に言った。 

「端月さんって、昔酒屋さんやっとった―。あんたのお父さんには、ようお酒配達して貰いよったんでよ。お父さん亡くなって、もう何年になるかいなあ。お母さんは元気そうやなあ。うちの妻と時々、老人会なんかでご一緒させて貰(もろ)てますわ」 

 事務所の奥にある流しの脇に置いたポットから急須にお湯を注ぎながら、伊藤書士は大きな声で言う。「あんたの奥さんから昼に電話貰(もろ)うて『端月と申します』って言うもんやから、コンビニの端月さんか? って聞いたんよ。そしたらコンビニは弟で、最近郷里に帰って来た兄の方です―そう言うけん。そういやあ端月さんとこ男の子が二人おったなーって、思い出(だっ)しょんたんでわ。わしがこの事務所、親父と一緒にやり始めた頃、あんたら兄弟は幼稚園か小学生だったと思うわ。―それにしても奥さんまだかいなあ。電話では私も伺いますって言うとったけんど」 

 伊東さんがそう言った時ドアが開き、和美が雨の匂いを連れて入ってきた。 

 朝に比べると小降りにはなったものの雨はまだ残っている。午後からは気温が急激に下がり、このまま降り続けば夜半には霙か雪に変わるのかもしれない。 

  

 昼休みに和美から携帯に電話が入った。 

 午前中、上村司法書士を訪ね、農業委員会での経緯を話し、上村さんから伊東行政書士を紹介されたのだ。 

  

 和美から、實平局長が申請は個人でも出来ると言っていたという話を聞き、上村さんは言ったのだった。 

「もちろん個人でも可能ですが、餅は餅屋といいますからねえ。ここはプロに任せた方が無難だとは思います」上村さんは続ける。「五条申請になると色々と添付書類とかを用意しなくてはいけませんからね。時間をかければ素人さんでも出来ないことはないのですが、ここは書士さんに頼んだ方が―。ご紹介する伊東行政書士とは私の親父の代からの付き合いでね。私も時々コンビを組まして貰っています。齢はとっていますが超ベテランですので頼りになる人です。騙されたと思って一回会ってみてください。それに色々裏技も使えると思いますよ」上村さんは含みのある笑い方をしたそうだ。 

 幸い伊東文男行政書士事務所は弟のコンビニに程近い国道沿いにあった。私の会社からも近い。アパートからも近い。 

 和美と示し合わせ四時過ぎにお邪魔することにし、和美が伊東さんにアポを取った。居宅兼事務所なのでいつでもどうぞとのことだった。 

 私は連日の早引けで少々心苦しかったのだが、田畑部長と部下達の寛容な言葉に甘え、四時半に仕事を切り上げ冷たい雨の中を急いだのだった。 

         16 

 和美にも湯呑を差し出しながら伊東行政書士は言った。「司法書士の上村君からも電話を貰うていますので、大体のことは承知しとんですけど」今一度、物件住所の確認をと言い、私が持参したメモを手に取る。 

 暫しの時間があった。首を捻る。ややあって言う。 

「ほんまに一か月で許可が下りるって言うてましたか」更に首を捻る。 

「はい。大丈夫だと」和美も私の言葉に合わせ頷く。「事務局長の實平さんから直接聞きました」 

「おかしいなあ。わしも齢やけん、頭が多少惚けてきとるけんど。ほだけんど、ここは……。ちょっと待ってよ。農業委員会に電話してみますわ。誰かまだ居るやろか」壁の時計に眼をやる。五時を十分ほど過ぎていた。 

 伊東書士は奥の事務机に戻り、電話機のボタンをプッシュする。暫くして話し始める。 

「伊東やけんど局長まだ居るで。もう帰ったんかいな。あんたでええけんちょっと教えて―」声が大きいのでよく聞こえる。電話の相手の返答まではわからないが。 

「ほうやろう。―うんうん。―端月さん。―そうそう、昨日の夕方行ったやろ。ほだけんど、實平局長なんでほんなこと言うたんやろか。―わしの頭の方が耄碌してしもたんかいなあと思たでよ。―うん―そうやな。―ほな、ありがとう。またよろしゅう頼むでよ。勤務時間外やのにごめんな。助かったわ」 

 受話器を置き、応接セットへ戻り、どっこいしょと腰を下ろしざま笑う。 

「ほんまに驚(おぶ)けてしもた。わしの頭が惚けたんかと思たわ。端月さんねえ、この番地ですけど五条申請したら一年かかりますよ」笑みが消え真剣な目になった。 

「えっ、ウソ―。ほんまですか。昨日、實平局長が絶対大丈夫だって。私達二回も確認したんですけど」和美が顔をしかめる。私も頷く。 

「實平君がねえ……。あの子、農業委員会に来てからもう三年になるんやけんど、なに呆(ほう)けたこと言いよんやろか。あの子ちょっと雑(ざっ)としとるけん。いま電話した委員会の若手職員もようこぼしとる。局長、早よ変わってくれんかいなあって。来年で四年目やけん、もうじき変わると思うけんど。なんせ偉そうにし過ぎ。端月さん昨日そう思わんかった?」私の顔を見る。 

「そう言われれば、偉そうというか……」口ごもる。横から和美がすかさず口を出す。 

「私は偉そうというよりは、エロそうに感じた」 

「ハッハッ。そうゆうところもある」伊東さん高笑い。「ほだけんど奥さん。今の悪口は、ここだけにしとこうな」唇の前へ人差し指を立てて持っていく。 

「しかし、なんぼなんでも實平局長これを間違えるかなあ」不思議そうに首を捻る。 

「どうゆうことなのでしょう」私は聞いた。 

「この場所―」私が持参した物件の住所を書いたメモ用紙を持ち上げ言う。「ここら辺は、いわゆる青地でね―」 

 それぞれの市町村では農業振興地域整備計画に基づき土地利用計画区分を決める。  青地とは農業振興地域の内の農用地区域をいう。それ以外の農業振興地域は白地というのだそうだ。聞いたけどよく呑み込めなかった。 

「つまりやね。市が決めた農業振興地域というのがあるとしますと、その中でも重点的にこの地域は農業だけやってくださいね。建物を建てたら駄目ですよ。―これが青地なんですわ。ごく大雑把ですけど」伊東書士は笑いながら続ける。「白地は簡単に地目変更が出来ます。約一か月位。ほだけんど、青地となると元々農業だけやってくださいね、ちゅう土地なんで、簡単にはいかんのですわ。先ず除外申請をせんといかん。これに一年かかる。それとP市では除外申請の農業委員会は年一回開いとるんですけど、確か十月だったかなあ。多分今年はもう済んどるわ。何処の市町村もそんな回数ですわ。申請の受け付けは随時やけど、今申請しても来年の十月まで待たないかん。一年かかるちゅうわけです」 

 だから青地白地というのは大事なことなのだという。一カ月と一年以上というのはえらい違いだ。 

「實平がこれを間違えたんが、よう分からんのですわ」局長を呼び捨てにする。「青地白地は農業委員会では基本中の基本やけんねえ。ほんで私も電話かけて確認取ったんです」 

「ほな一年以上待たな買えんのえ。そんなぁー」和美の声が小さくなった。 

「實平局長の言うように、五条申請でも一カ月で許可が下りるなら買ってもいいかなと思い始めていたのですが、一年以上待つとなるとちょっと躊躇します」私も声を落とす。 

  

 妻が上村司法書士を訪ねて聞いたところによると、三条申請で買うのと五条申請で買うのとでは税金面で大きな違いが出てくるのだという。 

 農地と宅地の固定資産税は少なくても百倍位の違いがあるというのだ。しかも宅地に地目変更した所に建造物を建てなければ、通常の税より高い固定資産税がかけられるのだという。 

「P市でも潰れかけの廃屋みたいな家がいっぱいあるでしょう。壊して更地にすると高い税金を払わなければならない。だから潰れかけでもそのままにしておく。市としても勧告はしているのでしょうけどね。税制上の矛盾もある。最近、税金を六倍にして、取り壊し等の強制執行権を自治体に認める法律も出来たようですが、根本的な対策になるかどうか……」上村さんは和美に言ったそうだ。 

 ただ、調査価格とか固定資産税路線価から推算すると、そんなにべらぼうな税額ではないという。「しかし、固定資産税は所有している限り払い続けなければなりませんからね」と、上村さんは言ったのだった。 

 それでも和美が望むのであれば私は構わないと思っていた。だから今もこうして伊東さんの所を訪ねたわけなのだが。 

  

「端月さん。ほんまに欲しいかどうか、よーく考えてください」伊東さんは私達を見て言った。 

「私ちょっと煙草喫うてもええやろかなあ。もちろん、あそこで喫うけんど」と、首を後ろに捻じ曲げて奥の事務机を目で示し、女王様に仕える侍従長のように和美に許しを請う。 

 和美が女王様のように鷹揚に頷くと「ほな、その間に考えといて」立ち上がる。 

「どうする。他を探す?」私は小声で和美に言う。 

「いいや」和美は首を横に振る。 

「しかし一年以上かかるというし」 

「あのお爺ちゃん見てみ」耳元に小声で囁く。目は伊東さんを見ている。「あれ、自信たっぷり違(ちゃあ)うん」私も目だけ彼の方に移した。 

 伊東さんは事務机の前の椅子に腰掛け、旨そうに煙草の煙を噴き上げている。 

 煙はわだかまり、永い滞空時間を経てやがて中空に消えていく。 

 自信たっぷりというか、我慢していた煙草にありついて満足という、ニコチン・ジャンキーの様相ではあるけれども。 

「上村司法書士がね、裏技があるかもって言うとったその裏技見せて貰いましょうよ」和美の顔に薄い笑みが浮かぶ。 

 こうなってくると女の方が度胸があるのか。それとも妻の決断力、判断力の賜物なのか。まあ、その点では彼女のそういった能力は今迄の経験からして大いに認めざるを得ない私ではあるのだが。 

  

 五分以上経っただろうか。伊東さんがニコチン吸引を終了し、満足げな顔で応接セットに復帰する。 

「ほんで、どうします」伊東さんが聞く。 

「伊東さん。何か裏技があるんと違(ちゃ)う」私が口を開く前に和美が息せき切って言う。 

伊東書士は惚けたような顔で「三条で買わんで」軽やかというか、あっけらかんというか―そう言う。 

「えっ、三条で買えるのですか?」「えっ、三条では買えんのと違うん!」私と妻の声が重なった。二人で顔を見合わせた。次に伊東さんに二人同時に視線を向けた。 

「通常は三条では買えんのですが、奥さんのいう裏技はあるんですわ。ただ一カ月でというわけにはいかん。もうちょっと時間がかかる。それとハードルは高くなる。ほだけんど農地を農地として買うことは出来る」どういうことなのか。私と妻は再び顔を見合わせた。 

  

 伊東さん曰く、小作権を設定するのだという。七百五十㎡の土地を農地として買うのだから、あと二千二百五十㎡の小作権を設定すればよい。トータルでP市の下限面積である三千㎡となり農地法三条を完全にクリアする。 

 自分が所有している土地であろうが借りている土地であろうが、どちらも農地法上は耕作者となり、売買に関しても何ら問題はない。 

 農地法での小作権設定と農業経営基盤強化促進法という新しい法律があるそうで、それで賃貸契約は結べるのだという。 

「端月さんの場合、農地法での申請になるけど。ただハードルが高うなる言うたんは土地を借らないかんけんな。親戚とか知り合いに百姓しよる人おらんで? 全くの他人はなあ、たとえ荒らしとっても貸したがらんしなあ」 

「そんなものですか」私は聞く。 

「うん、田舎やけんなあ。そんなもんなんよ。荒れとう農地いっぱいあるやろ。売りたい人もようけ居るんよ。ほなけんど、売ったら売ったで近所の人が言うんよ。先祖伝来の土地売ってしもうてからに情けないのおって」伊東さんは情けない顔で、情けないのうと顔をしかめる。 

「ここいら辺でも水田が一番多いやろ。夏に植えて秋に刈り取ったら裏作はせんけんな。米作ってもやたら儲けはないんやけど―大体が兼業農家で、皆、勤めに出とんよ。米が一番楽やけんな。植えたら刈る迄、水入れとったらええけん。しょうことなしに稲植えとんよ。知り合いの若い子が言いよった。農機具が高すぎるって。トラクターは他でも使えるけんど、田植機と稲刈り機は年一回しか使えんけんな。安いものでも百万円以上するけん。米だけだったら余程、大規模に作らんと元はとれん。ほだけんど、それでも近所の目があるけんな。こんな人も居るんでよ。わしの知っとう人でな、専門の人に頼んで作って貰いようけんな。苗立てから刈り入れ乾燥までして貰(もろ)て、反当(たんとう)あたり十万円以上掛かる言うとった。米買(こ)うたほうがよっぽど安いでえ。ほんでもなあ……」伊東さんはひとり頷く。「日本の農業政策、間違っとったんかなあ。環太平洋連携協定も、トランプに変わったおかげでグダグダやし」何故か真剣な顔で言った。 

 暫しの間があり、気を取り直し私達に顔を向ける。「わしの愚痴はもうええよなあ」苦笑い。 

 伊東さんの話の区切りがついたところで和美が口を開いた。「貸してくれる人の心当たりありますか。どれ位の値段で貸してくれるんやろう」 

「大体、相場は一反辺り年間一万円位なんやけんどな。無償とか、昔の年貢みたいに収穫物で、というのも最近あるんですわ」伊東さんは和美に言う。「土地を貸そうかという人の当てはないこともないんやけんど、わしも仕事上なあ。小作紹介して行政書士の仕事したとなると………」思案顔になる。暫しの黙考。 

「こうしょうか。物件があったらうちの妻を通じてお宅の婆ちゃんに連絡する。交渉は端月さんにやって貰わんと困るけど」それでどうかと言う。ただ期待はしないで欲しい。端月さんの方で手を尽くして探して欲しい。そこら辺は努力してねと、言う。 

 それと小作の権利移転の農業委員会も毎月ではなく、年三回か四回の開催だという。多分、今度の締め切りは一月末ではないだろうか。 

「わしが開催月を聞いてもええんやけんど、端月さんが聞いて。わしも今後の仕事のこともあるし、あんまり年寄りが出しゃばっても」笑う。 

「聞く時は、わしがさっき電話かけた若い子に聞いた方がええでよ。加賀君いうてなあ、真面目で勉強家ですわ。まだ農業委員会へ移ってから一年弱やけど、何やかやよう知っとる。来訪者の対応はいつも加賀君がしよんやけんど」 

「加賀さんって、丸顔の眼鏡かけた若い人?」私が聞いた。 

「ああ、昨日最初に対応してくれたあのJ・Ⅰ・R」和美が口を挟む。 

「J・Ⅰ・R……?」私と伊東さんが揃って和美の顔を見る。 

「そう。事務椅子ライダー。略してJ・Ⅰ・R」妻はすました顔で言う。「あの人、事務椅子に乗って器用にスイスイスイスイ動いとったやろ」 

 伊東さんが破顔する。「奥さん面白いこと言うなあ。成程、加賀君いつも事務椅子乗ったまま器用に移動しとんなあ。わしもこれからJ・Ⅰ・Rって言(い)お。J・Ⅰ・ライダーがええやろか。それとも事務椅子ライダー。どっちがええ」和美に聞く。 

「それはお爺ちゃんのお好みで」おいおい、お爺ちゃんはないだろう。伊東さんに失礼だろう。私ははらはらしながら伊東書士の顔を窺う。 

「奥さんはどっちが好み」伊東さんは怒るどころかにこにこしながら和美に聞く。 

「私の好みとしてはJ・Ⅰ・ライダー」 

「ほな、それでいくわ。J・Ⅰ・ライダー。テレビのヒーローものみたいやけど」二人は声を揃えて笑う。 

 以前、玲香さんが言っていた『お義姉さん、お年寄りに人気があるのよ』というのはこれで証明されたわけだ。 

  

 私は一番気になっていたことを聞いた。「伊東さん、この裏技って違法じゃあないのですか。名義だけ借りて小作権の設定をするのでしょう。私達に三反もの百姓をする能力もないし、農機具だって持っていないですから」 

「まあ杓子定規にというか、厳密にいうと違法は違法じゃね」伊東書士はにやにや笑う。「表があるものには必ず裏もある。これは暗黙の了解ってやつですわ」言葉を切り私達の顔を見る。 

「ここら辺でも五月から六月になると田植するでしょ。その時、道路をトラクターとか田植機走り回っとる。あれも厳密にいえば道交法違反なんやけんど、警察官はそれを見てもなーんちゃ言えへん。これも表と裏―本音と建て前ですわ」 

「お爺ちゃんの言うてることよう分かる」和美が言う。いつの間にやらお爺ちゃんになっている。「農業委員会の職員も知っとるということやろ」 

「まあね。ほら知っとるよ。ほなけんど、こんな裏技がありますよ。これやったら買うことが出来ます。これでいきましょう。彼らはそんなことは立場上言えんけんな」 

「この裏技って悪代官に対する百姓の知恵というやつですよね。伊東屋お主も悪よのう」和美が時代劇みたいな台詞をはく。 

「お代官様こそ」伊東さんが素早く反応する。 

 なんなんだ。この言葉のキャッチボールは。 

 二人は水戸黄門みたいに、わっはっはと笑い声を上げる。一体どうなっているのだ、この二人。 

  

 伊東さんの所を辞し我が家へ急ぐ。気温はかなり降下しているものの、風と雨は止んでいた。 

 空を見上げる。小さな、雲の切れ間があり、何個かの星が瞬きもせず散らばっていた。 

     17 

 夕食前に蒲池さんに電話を入れた。 

 受話器を通した蒲池さんの声がだんだん沈んでいくのがはっきりと聞き取れる。 

「すぐにでも契約できるものと思っていたのですが」落胆した蒲池さんの顔が目に浮かぶ。 

「それで端月さん。その裏技を使うわけですか。借りられる土地の目途とかは―」 

「それはこれからということになります。まだ農業委員会に確認は取っていないのですが、小作の権利移転の申し込み締め切りは、書士さんの話では一月末だということです。それまでに貸してくれる農地を確保しないと」私の声も沈みがちになる。 

「うーん。暗礁に乗り上げてしまいましたね。こんなに難しいとは思わなかった」 

「そうなのですよね。しかしまあ書士さんのアドバイスもありますし、何とかこの線で前向きに考えようと思っています。当初思っていたよりプロセスがひとつ―いや、二つですね。―増えたわけなので時間はかかりますが」 

「三条申請で農地を農地として売り買いするための前段階。今はそういう時ということですな」蒲池さんは考えながら言った。 

「土地の件ですが本家の婆さんに相談してみます。ただ土地は五反以上持っておるのですがほとんど小作に出していると思いますので、端月さんに提供できるのは果たして一反あるかどうか……。すぐに当たってみます」 

「助かります。私も実家や会社の人たちに当たるつもりです」 

「農地を地目変更していなかった私の責任ですよね。売れる状態ではなかったということですから」蒲池さんの声がだんだん小さくなる。 

「いや、蒲池さんそれはお互い様ですよ。私も勉強不足で、すぐに買えるものと考えていたのですから。今は前向きに行動するのみですよ」とは言ったものの、矢張り声は沈みがちとなる。 

「そうですなあ……」受話器から溜息が漏れる。 

 これから先に対する少しばかりの期待と、大きな不安を残し二人の会話は終了した。 

  

徳島―冬 

1 

 年越し蕎麦は私が打った。 

 私も料理はする。和美のように手の込んだものは出来ないし、普通の味なのだが。 

 大学時代には時々自炊をしていたので、簡単なもの―たとえばカレーとか炒飯。冬なら鍋とか。それと簡単な酒のつまみ等はそこそこ得意なのだ。 

 ただ和美の料理がプロ級、そして健康に気を使ったメニューなので、普段は彼女に任せきりになってしまっているのだが。 

  

 蕎麦粉は、以前、山の土地と家を紹介してくれた、製造部の三郷課長から頂いた。自分の土地で採れた蕎麦だという。 

 私が讃岐うどんは東京でも何回か打ったことがあると言ったのを聞いていて「ほな、いけますわ。うどんの打ち方とはちょっと違うけど打ってみたら。うちの蕎麦粉、わしが石臼で挽いたけん旨いでよ」ただ真っ白い更級、緑のやぶ蕎麦のようなものではなく、三番粉という皮の混ざったものを使う黒い田舎蕎麦だという。 

 麺は太く切れやすいが、蕎麦本来の甘味とか香り、口の中で多少ざらつくような野性味が感じられる。徳島県では祖谷蕎麦が有名だ。 

  

 実家のキッチンを借り、私が蕎麦を打ち和美が出汁と具材、薬味などを段取りした。 

 弟夫婦の次女の智ちゃんが二十九日に帰省しているので、量は六人分プラスアルファ。 

 初めてにしては我ながら上手くいった。これも何回か打ったことのある讃岐うどんの技が生かされたのだと思う。 

 東京時代、同じ会社に香川県出身の同僚がいて、打ち方は彼に教えて貰った。その頃は讃岐うどん自体、今ほどポピュラーなものではなかったし、専門店も東京にはなかったと思う。讃岐出身の彼は香川の小麦粉、香川の塩、香川の水を使用しなければ本当の意味での讃岐うどんではない。などと言いつつ、これは、いわば似非讃岐うどんですけど、などと言いながら教えてくれたのだった。 

 讃岐うどんの場合かなり塩を使う。他の地域のうどんの三倍量を使うのだが、これが旨さを、コシを生み出しているそうだ。むろんコシとねばりを出すために行う足踏みとか、使う小麦粉にもよるそうだが。 

 何回か打って和美にも食べさせた。彼女は言ったものだ。「美味しい。あなたもなかなかやるじゃない。でも塩分取り過ぎにならないようにね。過剰摂取は健康には良くないよ」でも美味しい。時々作ってよね―そう言った。 

  

 蕎麦はやはり打ちたてが美味しい。 

 和美、私の母、帰省中の智ちゃんとコンビニをちょっと抜け出してきた玲香さん。  四人分の麺をたっぷりと湯を張った大きめの鍋で湯がく。温めた丼に湯切りをした麺を放り込み、和美がこさえた海老の天麩羅と薬味の刻み葱を載せたっぷりと出し汁を注ぐ。 

 薬味と具材は和美が数種類用意している。焼いた角餅、野菜の天麩羅、甘く煮た油揚げ、鴨肉の代わりの下味をつけた鶏肉。下ろし大根、とろろ芋、わさび、しょうがのおろし汁、七味唐辛子などはお好みでというわけだ。 

「美味しいね。叔父さんすごいじゃない」智ちゃんは大絶賛で笑顔を私に向ける。 

「和美叔母さんの料理上手は前から分かっていたけど叔父さんもやるね」智ちゃんはリビングに置いた大型TVに目を向けながら大満足な笑顔で言う。紅白歌合戦が始まったばかりだった。 

 彼女は横に座る母親の玲香さんに似て大柄な美人である。大阪へ嫁に行った姉の礼ちゃんも同じく美人である。 

 智ちゃんは、中学、高校時代は美人姉妹として有名だったのよと、いつも自分で言っている。だってしょうがないじゃん。誰も言ってくれないんだもん。ここんとこは自分でアピールしとかなきゃあね。礼姉ちゃんはお嫁に行って旦那がいるけれど、私はまだこれからだから―そう言う。明るい性格は智ちゃんの方が母親によく似ているようだ。 

「余分に作っているからお代わりどうぞ」私は褒め言葉に気を良くして言う。 

「―後で。小腹が空いたら自分で作るから。それにしても今年の大晦日は叔父さん達がいてくれて賑やかでいい」例年は私と婆ちゃんとで、テレビ見ながらコンビニのお蕎麦だったからね。母親と祖母に目をやって笑う。 

「ほんま因果な商売やわ。まあ客商売はそんなもんやけどなあ」母は「ご馳走さま」と箸を置き、和美が淹れた湯呑に手を伸ばす。 

「大晦日と元旦はいつもより忙しいのよね」玲香さんも湯呑を持ち上げる。 

 紅白も終わり除夜の鐘が鳴りだしたら、車で初詣に出かける客がひっきりなしに訪れる。国道沿いなのでその数も多い。 

 このあたりでも鳴門の大麻比古神社を、お四国遍路一番札所霊山寺を、もう少し足を延ばして日和佐の薬王寺などを参拝する人は多いのだ。東京で言えば明治神宮や浅草寺のようなものだろう。 

「じゃあ私、お腹空かしているやろから忠孝さんと交代するわ」お茶を飲み終えた和美が玲香さんに言った。「短時間しか交代でけへんけど大晦日くらい夫婦水入らずで―」と、笑う。 

 私もいるし智ちゃんも婆ちゃんもいるのだから夫婦水入らずとは言わないのだろうが。 

 玲香さんがお義姉さんに悪いから私が―と、言うのを顔の前で手をひらひらさせて制し、大丈夫、玲香さん少し休んだらと店へ出ていった。 

 私は忠孝と自分の蕎麦を作るためガスに点火する。暫くして忠孝が制服のままダイニングに入って来た。 

「旨い! 兄貴にこんな腕があるとは知らなんだわ。出汁もようでとる」蕎麦をすすりながら「皆で年越し蕎麦を食べるんは、何年ぶりやろう」と、言う。 

「出汁と具材と薬味は和美が―。私は蕎麦を打っただけだよ」私は具材の鴨もどき鶏肉を取り蕎麦の上に載せる。 

 自分で言うのも何なのだが確かに美味しかった。東京ではやはり更級、藪蕎麦が主流で、こういう田舎蕎麦は珍しい。懐かしい味ではあるのだ。 

 東京時代、池波部長と通った新橋の居酒屋「阿波屋」でよく食した蕎麦米汁を思い出した。 

 蕎麦米雑炊というのが一般的名称らしいのだが、私も池波さんも蕎麦米汁と呼んでいた。母や弟夫婦もそう言う。徳島県祖谷地方の郷土料理である。 

 蕎麦米は蕎麦の実を塩茹でし、殻を剥いて乾燥したもので、蕎麦を粉にせずに食べるのは世界的にも珍しいという。 

 細かく切った鶏肉、人参、大根、椎茸、竹輪などの具材と蕎麦米を茹で、出汁は淡口醤油、酒などで味を調える。蕎麦米の出汁も出てあっさりと頂ける。 

蕎麦粉を貰った山の課長に聞いてみよう。蕎麦米が手に入るようであれば、一回作って和美に食べさせたいと思った。 

  

 忠孝は蕎麦を食べ終え、具材の天麩羅を小皿に取りながら私に目を向ける。 

「ところで兄貴、小作の件やけど二反はできたって義姉さん言うとったけど」 

 売主の蒲池さんの本家の畑と、行政書士の伊東さんの仲介で、トータル二反強の目途がついたのは年の瀬も押し迫った先週のことだった。 

 蒲池さんの本家の土地は早々に決まったので、申請書類に印は貰ってある。伊東さんの紹介分は年明けにも印を頂くことが決まっていた。 

 我が家も我が家の親類にも田畑を所有している者はいない。 

 ひとりだけ玲香さんの遠い親戚筋に協力しても良いという人はいたのだが、P市からは遠く離れた県西部だった。和美が「伊東のお爺ちゃんに相談する」と、喜び勇んで出かけたのだがそれは空振りに終わった。 

 伊東書士が言うには、申請は同じ市町村の田畑が有利なのだという。二つの自治体が絡めば手続きが煩雑になるし、耕作者の住む場所と畑が遠く離れた場合、遠隔地に付き耕作不可能との裁定が下りる確率が高い。 

「許可が下りる可能性もあるけんど、ちょっと遠すぎる。六十キロ以上あるんと違(ちゃ)う」 

 そんな距離を毎日ではないにしても、頻繁に農作業のため往復するのは現実的には無理だし非効率過ぎる。現に農地法にはそういう規定があるのだそうだ。 

「それであとどれくらい必要なの」玲香さんが口を出す。 

「買おうとしている畑が七百五十㎡だから、あと二百㎡程足りないのだが……」 

「それで申請の締め切りは?」忠孝が尋ねる。 

「農業委員会へ問い合わせたら、伊東書士が言っていたように締め切りは一月三十一日。来月いっぱいがリミットということになる」 

「それきついなあ」居間に移動して、智ちゃんと二人でテレビを見ていた母がこちらに首を向け大きな声を上げる。耳はよく聞こえるのだ。だから悪口などはめったなことでは言えないのだけれども。 

「私もな、老人会とか近所の知り合いとかに当たったんやけんど、なかなかなあ。畑持っとう人もおるけんど、今は息子夫婦に任しとうけんとか―。まあ、この頃田舎でもなあ、ほんま世知辛うなってなあ。皆、へらこうなってしもてからに」すまなそうに言う。 

「いやいや。お袋にまで心配かけて悪い。これは昨日のことなので和美にしかまだ言っていなかったのだが、会社の忘年会で―ひょっとしたら貸してくれるかもしれない可能性が出て来た。年明けにははっきりすると思うけど……」私はあやふやに言う。 

  

           2 

  昨日の三十日は仕事納めで、朝から掃除をし昼前に仕事は終わった。 

 午後六時から設計部の忘年会が計画されていた。会社では部あるいは課ごとに忘年会を行うらしく、既に忘年会を終えた部署も幾つかあった。設計部は毎年、仕事納めの日に行うのだという。 

  二十六名いる部員のほとんどが参加していた。不参加者の中には正月休暇を利用して海外に出かける若い人。嫁の実家へ家族そろって里帰りの者などがいた。 

 田畑設計部長の言によると例年と変わらぬ人数だそうだ。 

「まあお酒の嫌いな人もいますのでね」私のグラスにビールを注ぎながら言う。そういえば、九月の末に私の為に開いてくれた歓迎会もこんなものだったと思う。 

  田畑部長と仕事の話に花を咲かせていると、ひとりの若い女性がビール瓶を手にお酌に来た。設計部第一課、通称―承認図課の明石真理奈。みんなは真理ちゃんと呼んでいる。 部には六人の女性がいるのだが、その中でも一番の若手だと思う。 

 先ず田畑部長に注ぎ、二言三言言葉を交わし、隣の私にも「次長どうぞ」と言って右手に持ったビール瓶に左手を添える。 

 本日の女性参加者は真理ちゃんを含めて五名。真理ちゃんは高校卒業後専門学校へ行き入社したと聞いている。二十歳過ぎだろう。 

 どちらかというと控えめなおとなしいタイプの娘で、目立つのを嫌がっているようなところがあるが、前回の私の歓迎会にも参加していたし、その時もごく控えめに全員にお酌をしていたのを覚えている。今回も部長をスタートラインに、次に課長、係長と順番にお酌をしていくつもりなのだろう。 

 私のグラスにビールを注ぎながら「次長の奥さんお若いですね」言って、真理ちゃんは恥ずかしそうな笑みを浮かべる。 

「えっ、何で知っているの?」私が不思議そうな顔をすると「この前コンビニで。綺麗だし、若いし」控えめに笑う。 

「若いといっても五十は過ぎている」 

「でも明るいですよね。私こんなだから―。次長の奥さんみたいな大人の女性に憧れるんです」言って下を向く。 

 確かに真理ちゃんは控えめで大人しい。それはその通りなのだが「私こんなだから」と卑下したような言い方をするが、私に言わせれば自分をちゃんと持っている娘だ。 

 九月に入社してまだ三カ月ばかりだけれど、私も部下達を見てきた。仕事ぶりを見てきた。 

 彼女の仕事はそつがなく、そして素早い。そのうえ言われたことだけをこなしているわけでもない。そうではなく、仕事のやり方に他人に対する控えめな気遣いが感じられる。 彼女は性格的に人より前に出ることを好まないだけなのだ。しかし、自分を持っている。現にこうやって誰に言われたわけでもないのに上司から順番にお酒の酌をする。その行為には媚などは全く感じられず、自然体で動いていることが分かるのだ。 

「君は君で素晴らしいと思うよ。うちの妻の齢になると自然とああなるのだ。君のつつましさは貴重だと思う」私はビールのグラスを持ち上げる。「でもコンビニで会って、私の妻だとよく分かったね」疑問点を口に出す。 

「この前、買い物に寄って初めてお会いしたのですけど、私の制服を見て、端月です。主人が何時もお世話になっています。そう挨拶されました」 

 真理ちゃんは車で五分くらいの近所に家があるのだが、マイカー通勤をしている。だから制服のままで出勤し退社する。モスグリーンの制服の胸の部分に「八幡金属」と、濃い黄色で会社名が刺繍されているのだ。 

「奥さん、見かけた会社の人みんなに、宜しくって挨拶しているみたいです」これも内助の功というやつだろうか。和美ならぬ「一豊の妻」なのか。 

「私も次長の奥さんみたいに明るく朗らかになるよう努力しなきゃ。こんなだから、いまだに彼氏のひとりも出来ないんですよね」自嘲気味に、そして控えめに笑う。 

「そんなことないと思う。今に素晴らしい彼がきっとできるさ。真理ちゃんは結婚すれば素敵な奥さんになる。私が保証するよ」私がそう言うと「そう言ってくれるの次長だけです」照れる。照れ方もこの娘は控えめなのだ。 

 二杯目のビールを注ぎながら言う。「次長、今日の二次会参加されるのですか。幹事さんがカラオケスナック段取りしているって言っていましたが」 

 私は東京時代から二次会までは出来る限り参加するようにしている。三次会はいつもご辞退申し上げているのだが。 

「じゃあ、今日は私も参加してみようかな。少しは積極的にならないと」真理ちゃんは頬をうっすらと染めた。 

 私と和美にとっての吉報―と、いえるかどうかはまだ定かではないのだが―は真理ちゃんからもたらされた。 

               3 

 田畑部長、私、既婚者の女性社員、真理ちゃんの順に四人はスナックのカウンター席に座っている。 

 総勢十一名。その他の二次会参加者はテーブル席に陣取りカラオケに興じていた。 

 先程から田畑さんと私は例の土地付き家屋の件について話していたのだ。主に田畑さんの私に対する質問で占められ、ときおり既婚の女性社員が口を挟む。真理ちゃんは私達の話を黙って聞いている。 

「ほな、あれですか。小作権設定にはもうちょっと足らんと?」田畑さんが言う。 

「そうなんですよね。あと少しなんですけど」 

「ほんま難しいんやなあ、農地が絡むと」田畑部長は首を振る。 

「いやあ、私も勉強不足でした。売主さんもそんなことは全く念頭になかったわけです」 

「ちょっと次長」私の隣に席を占めた既婚の女性社員が口を挟む。                    

 この人、部内では嫌味女王と呼ばれている。勿論、陰の声なのだが。しかし陰の声だけど本人はそれを当然知っている。それを利用しつつ、日々、嫌味を言っているようなところもある。 

 ただこの人の嫌味には正当性があり、しかも言葉はあっけらかんとしているので、対象相手を追い詰めようとか、言った本人が自己満足をするというところもない。要するに正義の嫌味女王様なのだ。 

 部員から得た情報を継ぎ足すと、学生時代は槍投げの選手で、何でもユニバーシアード代表にもなったことがあるそうだ。しかし、次はオリンピックへとステップアップを決意した時に、故障した。 

 随分と悩んだが、スポーツへの道は自ら閉ざし、全く違ったことで生きていこうと思ったそうだ。 

「小さい頃から建物の図面を見るのが好きだった。親は変わった子供だと思っていたらしいけど―でも図面を見ていると立体的な映像が頭に浮かんで来るのよね。そりゃー全くの畑違いだったから、言うに言われぬ苦労はしましたよ」何時だったか本人からそんなことを笑い話にして聞かされた。 

 中学生の娘がひとりいて、旦那は高校の体育の教師をしている。大学時代に知り合ったそうだ。 

 この齢なので嫌味女王を含め六名いる女子社員のお局様になってもおかしくはないのだが、そうはなっていない。 

 長いアスリート生活で培われた、いわば体育会系の精神が残っていて、あっさりとした性格を形成している。だから若い女子社員はもちろんのこと、若手の男子社員にも人望がある。時々「私は若い頃から旦那一筋だから恋愛経験豊富じゃないんだけど」などと言いながら女子社員の恋愛相談にのっている。 

 その嫌味女王様が言う。「その小作権の申請って一月末が締め切りですよね。それ逃したらどうなるのです」 

「一月末が締め切りで三月に農業委員会の審査がある。それが通ったら四月から権利が発生すると聞いている。これを逃すと次の八月の委員会開催まで待たなきゃあならない。小作権移転の審査は年三回しかやってないのだよね」 

「私のとこに畑でもあればすぐにでも貸してあげられるのに。残念。知り合いに当たってみるわ」本当に残念そうな顔をする。 

「おいおい。女王様」私の隣、一番右端に座っている田畑部長が首を捻り、私の頭越しに彼女を見て言う。「今日はえらい端月さんに肩入れするじゃないか。端月さんねえ―」今度は私の顔を見る。「女王様はねえ、あんたが入社した時ぼろくそに嫌味言うとったんでよ」田畑さんかなり酔いが回ってきているようだ。 

  女王様は直ぐに反撃する。 

「部長こそ大企業から次長職で端月さんが入って来るって聞いて、自分の立場はどうなるのって戦々恐々としてたじゃない」容赦がない。「そりゃそうでしょう。東京の大企業をクビになって、田舎の中小へ入って来たんだもん。警戒するわ。そのうえ背はすらりと高いし、渋い映画俳優みたいなイケメンでしょう。部長全てで負けている」無茶苦茶だ。田畑さんが気の毒になる。「おまけに東京弁使うし。私、標準語って嫌いなのよね。なんか冷たい感じがして」褒めているのかけなしているのかわからない。彼女も酔っている。それとひとこと付け加えれば決してクビではないのだが。 

「うちの部の若い娘ばかりじゃなく、他の部署の女の子もカッコイイかっこいいって騒いでいた。この色男が!」右掌でバシッと私の肩口を叩く。 

 女王様、背はさほど高くはないのだが、がっしりとしたガタイをしている。力はかなり強い。 

「特にね、次長。真理奈がねー。ぞっこんですようー。ねえー」一番左に座った真理ちゃんに笑いかける。 

「そんな……」真理ちゃんは恥ずかしそうに顔の前で掌をひらひらさせる。お酒のせいではなく、顔が真っ赤になった。 

 女王様は言葉を継ぐ。「真理奈は小さい時お父さんを交通事故で亡くしていてね。そのせいかどうかファザコンのところがある。それにこの子引っ込み思案だから、若い男の子に自分から声をかけられないし。私ももう少し積極的にとは言っているのだけれど。まあ、このおしとやかさが真理奈の良いところでもあるんですけどね。あんた設計部の大和撫子だよ」 

「私ももう少し積極性を持ちたいなと思っているんです。言いたいことがないから言わないんじゃなくて、言いたいことがあるのに言えない。そこのところは直していかなくちゃあって」真理ちゃんは遠慮がちに言う。 

「大和撫子七変化」女王様が真理ちゃんに言う。 

「……?」真理ちゃんははてな顔だ。 

「小泉今日子が昔歌った歌」 

「えーっ、小泉今日子ってあの『あまちゃん』のお母さん役の? 歌手だったんですか」真理ちゃんは、何年か前のNHKの朝ドラのタイトルを口にする。 

「そう。キョンキョンといってね。アイドル歌手だった」女王様が言う。「そのキョンキョンのヒット曲が『大和撫子七変化』。あんたうちの会社の大和撫子なんだからさあ。七変化までしなくていいから三変化くらいしな」 

 女王様の意見に頷き真理ちゃんは言う。「そうですよね。私この前、端月次長の奥さんにお会いして、明るいしはきはきしているなあって思ったんです。あんな大人になりたいなあって」 

「ああ次長の奥さん。あの人いいねえ。明るいし積極的だわ。次長がクールなので丁度いい」女王様が頷く。 

「君もうちの奥さん知っているの」和美は八幡金属の社員何人に挨拶を済ましているのだろう。 

    4 

  テーブル席に陣取った若手の歌のボリュウムが一段と高くなり、笑い声と手拍子がそれに呼応するように響く。 

 真理ちゃんは唄を聴きつつ、少し考える風に下を向き、やがて思い切ったような顔になり、カシスオレンジを一口飲む。そして遠慮がちに口を開く。 

「次長。さっきの土地の話なのですけど―一反って約千㎡ですよね。うち、あるんです。そのくらい」 

 父親が亡くなってからは叔父に頼んで耕作して貰っているのだという。夏は稲を作り、冬場は家庭用に少しだけ野菜を育てている。 

 母と叔父に頼んでみますと言う。「次長のお役に立てれば私―」語尾はカラオケのへたくそな歌声に消された。 

「真理奈それいいね。私んちに土地があれば、即イケメンの次長様に捧げるんだけれど。生憎ねえ、うちは何もないし。あんた憧れの端月次長に身も心も捧げなよ」ガハハと男のように笑う。 

 真理ちゃんは益々顔を赤くする。 

「母は年末とお正月は忙しいので、結果は年明けになるとは思いますが……」真理ちゃんは伏し目がちに私を見る。 

 真理ちゃんの母親は活花の師匠をしていて、年末年始は色々なイベント会場での活花の飾り付けを請け負っているそうだ。 

 私が恐縮しながらお願いしますと真理ちゃんに頭を下げた時、テーブル席から本日の幹事役がやって来た。 

「みなさーん。歌ってくださーい。小鳥のように止まり木に止まっていないで―」酔いが回っているのか呂律が怪しい。幹事君、若いのに「止まり木」などという古い言葉を知っている。そういえば先程から懐かしい昭和演歌ばかりを歌っていたようだ。その幹事君が続ける。「失礼しましたあー。小鳥じゃなくて大きな鳥が一羽いましたあーっ」と、女王様の背中をどやしつける。 

「私そんなに大きくないだろう」女王様は怒ったふりをする。 

「態度がめっちゃデカイでえーす!」笑いながらまたどやす。 

  カラオケの歌声とともに晦日の夜は更けていく。 

  

          5 

 小作権の申請書類はA4サイズ二枚の簡単なものであった。 

 一枚目が「利用権設定等申出書」と、タイトルがあり、宛先は市長殿となっている。 

 利用権の設定を受ける者(借受人)―つまり私の住所、氏名、生年月日、電話番号を記入する欄がある。その下に利用権の設定をする者(貸付人)―これは私に土地を貸してくださる人なのだが、同じく氏名等を書くようになっている。勿論、氏名の後ろには捺印をする。 

 その下部に聴取確認欄という項目がある。通作距離とか権利の種類とか権利移転の理由とか、八項目の欄が並んでいる。 

 貸受人分類とか、貸付人分類とか、権利の種類等という、どういう意味か解らない項目があるのでそれは和美が伊東書士に聞いてきた。 

 この部分で記入が必要なのは通作距離と権利の設定移転の事由のみだそうだ。 

 通作距離とは、借受人―つまり私の家から借りた土地までの距離。 

 権利の設定移転の事由というのは、農地を貸したい理由だそうで、高齢化による経営縮小とか、病気等で労力不足、農業廃止などの理由が並んでいて該当するものに○を点けるようになっている。 

 二枚目の書類は「農用地利用集積計画書」と、タイトルがある。 

 一枚目の申請書と同様、一番上に借人、貸人の署名捺印、住所を書く欄がある。 

 次に借りる土地の住所。現在の地目―つまり田か、畑地か、牧草地か、果樹園か、など。 

  面積。そして何を作るのか作物名の記入欄。契約の開始時期と終了時期。 

 どうゆう条件で賃貸借を結ぶのか―これは現金で賃貸するのか、それとも物納―以前、伊東行政書士が言っていた江戸時代の年貢のように採れた作物で賃貸料を支払う。 無償という項目もある。つまりただで賃貸契約を結ぶことも出来るらしいのだ。 

 書類の下半分には土地を借る者の農業経営の状況という項目があり、家族の何人が農業に従事できるか。主たる従事者の農業作業日数。所有している農機具を書き入れる欄がある。 

 これらの記入方法も和美が伊東さんに聞いてきた。従事者の農業作業日数は百五十日以上と書き、主として農業をする人を一人。従として従事する人を一人と書いておけばいいらしい。 

「端月さんとこ、奥さんと旦那の家族二人やけんなあ。奥さんが主として農業をする人になって、旦那さんを従にしといたらええわ。農機具はトラクターとか耕耘機あたりを適当に書いといて、全てレンタルにしたらええけん。ほんで多分通ると思うわ。ほなけんど、奥さん良かったなあ。おまはんの夢ももうじき叶うでえ」 

 和美の話では、伊東さんは我がことのように喜んでくれたのだという。 

        

 申請書を農業委員会に持ち込んだのは一月の第二週だった。 

 貸付人は三人で、蒲池さんの本家のお婆ちゃん。伊東さんが紹介してくれた近所のお爺ちゃん。最後に真理ちゃんのお母さん。 

  

 正月休み最後の日の夜、携帯に真理ちゃんから連絡が入った。忘年会の二次会の席で番号交換を行っていた。 

 新年の挨拶の後、真理ちゃんは新春の陽ざしのような清々しい声で言った。「次長、喜んでください。土地の件、母と叔父がオーケーですって」言葉が弾んでいた。 

 明日の出勤時に必要書類をお持ちください。いったん家に持ち帰り、必要事項を書き入れてきます。なんだか楽しそうな声が携帯の受話口から響いた。 

「母に言われました。あなたが自分から積極的に行動を起こすなんて珍しい。きっとその次長さん素敵な人なのね。―そう言われました」頬を染めた真理ちゃんの顔が頭に浮かぶ。「私、新年の誓いをたてました。今年こそ変わろうと思います」言葉の端に真理ちゃんの決意がのっていた。 

「いいことだよ。でも無理しないで。自分に出来る範囲で徐々にね。頑張らないで頑張ればいいから」私の言葉にくすりと笑った。奥様に宜しくと言って電話は切れた。 

  

            6 

 申請書は和美が持って行った。対応に出たのはJ・Ⅰライダーこと加賀さんだったそうだが、和美が彼と話しているのを目ざとく見つけ、またまた實平局長がやって来たのだという。 

 当然、和美は昨年末の實平局長が明言した「五条申請は一カ月で許可が下ります」との言葉を追求したそうだ。すると實平さんはにやにや笑いながら「私そんなこと言いました?なーんちゃ言うとらんでよ」と、言い残し自席へそそくさと戻ったのだった。 

「あの局長ちょっとおかしいわ。腹にいち物もっとんとちゃうやろか」言葉に局長に対する嫌悪感と皮肉を含ませて言う。 

「そんなこと言った覚えはありませんは、ないのと違う。非は非として素直に認めて、ちゃんと謝るべきやろ。今日も偉そうとエロそうの二本立てだったし。あなたの高校の同級生だというから私も我慢していたけど」憤懣やるかたないの態である。 

「後でJ・Ⅰライダーがすまなそうに謝ってくれたけど。あの子はなかなか真面目で親切やわ。説明も分かりやすいしアドバイスも的確だった」 

 J・Ⅰライダーの加賀さんが指摘した訂正箇所が一カ所あった。それは契約の開始時期と終了時期に関するもので、私は契約期間を一年と書いていたのだが、短すぎると言う。 

「最低でも三年にして頂かないと。農業委員さんのほとんどがプロの農家ですから、一年だけ借りてどんな百姓が出来るんだ。素人が一年ぐらいで百姓出来るわけがない。―そんなことを言われないとも限りません。端月さんの事情は分かっているつもりなので、この書類を通すために」すまなそうに言う。 

 和美はその場で三人の持ち主に電話を入れた。三人が三人とも快諾してくれた。 

 三月二十五日に農業委員会が開かれ即日決定する。少なくとも三月いっぱいまでに許可証が届くそうだ。 

  

          東京―春 

  半年ぶりの東京。懐かしさと同時に人の多さに辟易する自分がいて、六カ月の間に随分と田舎生活が染みついたものだと自分自身で半ば呆れる。 

 四月に入って、池上さんから新年度の挨拶回りに同道して欲しいとのメールが入った。これも私が転職した時の池上さんから課された条件のひとつであった。 

 私が以前勤めていた会社をメインに回るのだという。一泊二日での日程を組んで下さいとのことだった。 

 私が以前勤めていた会社では、私が退職した昨年の夏に中規模な移動があったのだが、新年度を迎えかなり大々的な移動が実施された。二月に以前の部下から電話を貰って、そのことは池上さんへは事前情報として知らせていた。 

 朝一番のANA便で徳島を発ち、浜松町で池上さんと落ち合い、午後四時過ぎまでに数件の訪問をこなした。 

 少し早かったのだが新橋の「阿波屋」に入り、ビールと簡単な料理で腹ごしらえをし、静かな所へ行きましょうと言う池上さんの案内で東銀座まで徒歩で移動した。 

  

 十人程座れるL字型のカウンター席のみの小さなバーであった。 

 物静かな年寄りのバーテンと、もうひとりは二十歳を少し出たぐらいだろうか、にこやかな顔の若者が応対していた。 

 私と池上さん以外には、カウンター席の一番奥に三人の若い女性が陣取っていた。店内には、私には曲名など分からないのだが、古いジャズがひかえめなボリュウムで流れていた。 

 池上さんがオーダーしたシングルモルトのオンザロックで乾杯をした。 

「静かでいいところでしょう」グラスを口に運びながら池上さんが言う。「端月先輩と一緒に飲むのもかれこれ半年ぶりになりますね」 

 池上さんは役員会の為に本社には三月に一回のペースで帰ってきているのだが、いつも日帰りだった。会社近くの国道沿いのファミリーレストランで二回昼食を共にしたのだが、こうやってお酒を飲むのは久し振りであった。 

「田舎暮らしが板についてきたみたいですね」私の顔を見る。 

「何だか人に酔った気分ですよ。やはり東京は人が多い」 

「そりゃあね。徳島県の人口って、八十万人切っていましたよね」確か七十五万ぐらいだったと思う。 

「東京だと世田谷区だけで九十万人近くいますから。それに昼間は近郊から人が流れ込んで来るわけです。人口密度が更に高くなる」池上さんが笑う。「どちらが良いですか。東京と徳島と」 

 私は考え考え言葉を継ぐ。「そうですねえ。利便性ではやはり都会ですね。池上さんが気を利かして会社の近くのアパートを借りてくれたので、通勤には何の支障もないわけですが、やはり―」買物とかが大変でしょうと、池上さんが私の言葉を引き取る。 

「雨の日なんかは大変です。妻はJRやバスは利用せずに自転車で買い物に行っているのですが、やはり天気が悪い時は」いつか池上さんが言っていた、田舎では車がなければ非常に不便という言葉が思い出された。 

  

 八幡金属の社員のほとんどがマイカー通勤なのだが、比較的近い距離の人でも車を使っている。徒歩通勤は私ひとり。自転車やバイクの人が十人ほど―その人達も雨などが降れば自動車を使う。 

「―で、奥さん、へこたれていません?」心配顔で聞く。「奥さん、都会の人だから大丈夫かなあと思っていたのです」 

「その点は心配ありません。彼女、田舎と相性が良いのか、憧れだった暮らしを満喫しています。それに自転車でJRの四駅間位なら平気で往復していますし。あんなに足腰が強いと思いませんでしたよ」 

「意外にね―」池上さんが笑う。「都会暮らしの人の方が強いんじゃないでしょうか。田舎より都会の人の方がよく歩く。田舎は車だから其処からそこへ行くのも車。歩こうとはしない。私は都会暮らしのお年寄りの方が、そういった体力面では勝っているのじゃあないかと思います」 

「そうかも知れませんね。設計部の若い男の子が言っていたんですけど、車に慣れてしまうと徒歩とか自転車は敬遠してしまうって。どうしてって聞いたら、車の方が絶対楽ですからねって。端月次長、毎日徒歩通勤で大変でしょうって言われました」 

「人間、一度楽をすると敢えて苦労はしませんよね」 

「私、通勤は徒歩でも平気なんですが、それと妻も自転車で平気みたいなのですが、これから齢をとる訳ですよね。はたして、その時今まで通りで大丈夫なのかと考えてしまうわけです。以前池上さんが言っていたように、やはり田舎では自家用車が必需品ではないだろうかと思えてくるんです。よく言いますよね。田舎生活はエコだって。しかし、よくよく考えると、車が手放せない生活がはたしてエコなのか、環境に優しいのか、経済的なのかよくわからないんですよね」 

「そう考えれば、田舎暮らしのほうが都会よりエネルギーは余計に消費しているかもわかりませんよね。もちろん個人ベースで考えてという意味ですが」 

 年配のバーテンが空になった二人のグラスを目で示し「お代わりはいかがでしょう?」と、静かに聞いた。 

「端月さんこの店マティーニが美味しいんです。ジンは大丈夫ですよね」私は頷く。二種類のジンをブレンドしている。更にジンとベルモットの割合が独自なのだという。 

「私ね、六か月間故郷で暮してみて思ったんです。昔、田舎でエコな暮らしをしよう。―みたいなキャッチコピーがあったでしょう。あれって嘘だよなって」 

 田舎の暮らしがエコだなんて誰が言いだしたのだろう。 

 近くに店がないのでちょっと買い物に行くにも自動車を使わざるを得ない。そして車で移動することに慣れきっているので、五百メートル先の自動販売機でジュースを買うにも車を出してしまう。 

 通勤にしたってそうだ。公共交通機関の便が悪いのでマイカー通勤しかない。一台にひとりしか乗っていない。勤務時間中は駐車場に置きっぱなし。これのどこがエコなのか。 

 田舎なんぞで暮したことがないピカピカの都会人が夢想の中で作った、現実味の全くない謳い文句ではなかろうか。 

「それとね、徳島県でもここ何年か前から、Uターン、Iターン者に有利な施策を各自治体がこぞってだしているようでしてね。例えば空き家になった民家を安い料金で、あるいは無料で貸出するとか、移住してきた夫婦に子供が出来れば出産祝い金を出すとか、保育園費をタダにするとか、まあ、いろいろやっているようなんです。でもねえ、これってどうなんだろうなあって思うんですよね」 

「まあ、徳島の人口減をくいとめるための苦肉の策というか。でも、金を出せば良いというわけじゃないですよね。もっと、他に方法はあるはずですよね」 

「所詮、政治家や公務員の考えることって、そこんとこ止まりなんですよね。じゃあ、お前何か知恵があるのかとつっこまれても、私に素晴らしいアイデアがあるわけもないのですが。昨年、こんなことがあったんですよね。P市の山間部に都会から三十代前半の夫婦がIターンしたんです」以前、山の家と土地を紹介してくれた三郷課長の部落よりもっと奥に入った所だった。 

「地元新聞では特集記事でその若夫婦をとりあげ、P市の施策の成果を褒めたたえていました。なんでも、その若い夫婦は山でしか出来ない農業をやりたいといって移住してきたらしいんですけどね。土地も市から無償で提供を受けたらしいんですけど。池波さん、その夫婦、山の中で何をつくっていたかわかります?」 

「うーん。……わからないけど……。日本では非常に珍しい植物とか、何かびっくりするようなもの?」池波さんはグラスを持ち上げる。 

「まさに、珍しいし、びっくりするようなもの。何とその夫婦、借りた土地で大麻を大量に栽培していたそうです」私も一息つき、グラスを口に運ぶ。 

「そりゃあ、街中で大麻の栽培は無理だ。人目の少ない山の中でしかつくれない」 

「そうなんです。まさに山の中でしか出来ない農業なんです。しかも近所のお爺さん二人が、山での農業は都会人には大変だろうといって、いろいろと親切に世話を焼いていたらしいんです」 

「なんか、笑い話にもならないですね」池波さんは苦笑して、言葉をつなぐ。「端月さん、今日は田舎暮らしについて、なぜか愚痴っぽいですね。私もあなたをスカウトした責任があるのですが。私ね、田舎暮らしが素晴らしいと思えるかどうかはその人次第だろうと思います。端月さんはUターン、奥さんはIターン。奥さんは田舎で農業をしたいという目的があり、あなたは奥さんのその望みを叶えてあげたいという志がある訳です。今、端月さん夫婦はまさにエコな田舎暮らしをしているわけじゃあないですか。まさか田舎暮らしが嫌になってきたとか」 

「いやいや! とんでもない。和美の長年の夢を叶えるのが今の私の夢ですから」私は顔の前で掌を振る。 

「やっと畑付きの家が買えるそうですね」池上さんは笑顔で私の目を覗き込む。 

「三月の末に農業委員会が通りましてね、四月から小作権ができました。農地を農地として買うことが出来る権利を得たというわけです」 

「苦労しましたね」 

「全くです」こんなに時間がかかるとは思わなかった。でも、ここまでこぎつけられたのも家族は勿論のこと周りの皆さんのおかげなのだ。 

「そのあたりが田舎の良いところなんでしょうねえ」 

「いろんな人にお力添え頂き、声をかけて貰いました」私は今迄のことを頭の中で反芻していた。 

「おかげさまで、今月二十五日に行政書士さんを通じて書類を提出する運びとなっています」 

 今週の土曜日に現地の農地部分の写真を撮影する手筈になっている。伊東さんの話では添付資料として必要なのだという。 

 撮影は伊東書士が行い、私達夫婦と蒲池さんが立ち会うことになっていた。今回は蒲池さんひとりの帰省だとの連絡を受けていた。 

「それでは奥さんとあなたの田舎暮らしに乾杯しましょう」池上さんはバーテンダーに二杯目のマティーニを注文し、グラスを上げた。 

 今度はウオッカベースの強めのものだった。 

  

徳島―春 

1 

 菜の花の黄色が目に鮮やかだ。蒲池さんの畑の半分は緑と黄色で埋まっていた。 

 菜の花以外の場所には春野菜―エンドウ、そら豆、玉葱、ジャガイモ、春キャベツ、リーフレタスなどが一畝ずつ作付されている。 

 気の早い紋白蝶がつがいで、球状に巻き始めたキャベツの上をひらひらとダンスでもするかのように舞っている。 

 一昨日は三日間降った雨のため気温は低かったのだが、昨日から天気は回復し本日はほぼ快晴。午後一時を過ぎた今、気温は既に二十度を超えているのではないかと思われる。 

 空を見上げると、ひとつだけ小山のような丸い形の雲が浮かんでいて、雲の頂点は春の日差しを受け純白に輝いている。頂点の真っ白から徐々に下に向かい、白から青に移行するグラデーションを見せ、雲の下部は春の青空に溶け込んでいる。 

 菜の花に目を戻す。花は既に盛りを過ぎ、一部は散りかけ一部は小さなサヤをつけている。 

 菜の花は草押さえの為に作付され、菜種の実が入る前に引き倒し有機肥料にするのだそうだ。 

 蒲池さんの本家の婆ちゃんの所へ小作申請書類に印を頂きに行った時、婆ちゃんは説明してくれた。 

「何も作ってないと、冬場というてもやっぱり草が生えやすいけんなあ」草を生やしてしまったら隣の土地にも迷惑やけんと言う。「菜の花はなあ、蕾の内に収穫たらええけんな。料理に使ったらええわ。おひたしにしても美味しいし。勝手に採ってもかんまんけんな」 

 お言葉に甘え蕾が膨らむ頃に数回頂いた。和美は春を感じる菜の花の料理を作った。 

  

 私と和美、蒲池さん、伊東行政書士の四人は、蒲池さんが大阪から乗って帰ったハイブリット車と伊東さんが乗って来た軽自動車が止まった畑横の駐車場に、春の日差しを受けながら立っていた。 

「昨日下調べに来て見せて貰うたんやけど、ちょっと問題が」伊東さんが齢に似合わぬでかい声で言う。 

「この駐車場お父さんが作ったんじゃわねえ」蒲池さんに聞く。 

「そうです。父が引退してここに住むようになった時に作ったのだと思うのですが」蒲池さんが不安げな顔をする。私と和美も顔を見合わす。 

「昨日見に来て、農業委員会に電話で聞いてみたんよ。この駐車場の部分、地目変更ができていないそうじゃわ」 

 駐車場にした場合、宅地もしくは雑種地に地目を変更しなければならない。現在、公図上は農地のままだというのだ。いわば違法状態なのである。 

 このまま三条申請をした場合この部分が問題になる。書類を受け付けた後、委員会を開く前にこの地区の農業委員さんと職員で現地調査がある。 

 図面上と現場に齟齬があれば委員会はまず通らないだろう。伊東さんは日差しに目を細める。 

「本来なら蒲池さんの方で駐車場の部分を分筆してもろて、四条申請してもらうしかないんじゃけんど、これやると一年かかる」 

「そんなー。また振り出しでえ」和美が泣くような声を上げる。 

 蒲池さんが天を仰ぐ。「私のせいですね……」後は言葉がない。 

「イトジイ。うらわざ! 裏技ないん!」和美が声を上げる。 

 イトジイ? 伊東の爺ということなのか。いつからイトジイになったのだろう。 

「無いことはない」南に見える白く春霞がかかった四国山脈を見ていた伊東さんは、和美に目を戻す。「今、山見て考えとったんじゃ」 

「もうー。イトジイ、焦らさんといてよ」和美は伊東さんの背中を軽く叩く。「でー、どんな裏技」 

「わしも奥さんの顔見とったら裏技出さんわけにはいかんけんなあ」と、伊東さんは笑った。 

         2 

 畑の西側を南北に走る道路はかなり狭い。軽自動車同士でも対向は不可能である。 

 農作業をする場合、農機具とか収穫用のコンテナ、農作物を運ぶ軽トラックなどが必要なわけだが、狭い道にこれらを放置したまま農作業をするわけにはいかない。 

 伊東さんの裏技はこうだ。つまり、この場所を駐車場ではなく農作業のための農業用施設と認めてもらおうというわけだ。 

「ほれで、この駐車場に農機具なんかを置いて、写真を撮って添付書類にしたいんじゃけんど。こんな形で使っていますよという証拠写真にする。それと蒲池さんにはお父さんが駐車場ではなく農作業をする為にここを作りましたという理由書を書いてもらいたいんですわ。それも添付書類として使う」誰かトラクターとか貸してくれる人があればいいのだがと、私と蒲池さんの顔を見る。 

「本家の婆さんに頼んでみます。トラクターと小さな耕耘機があったはずです」蒲池さんの顔が輝いた。私と蒲池さんは本家に向かって駆け出して行った。 

  

 トラクター、おもちゃみたいな小さな耕耘機―蒲池さんの本家の婆ちゃんの話ではこれは管理機というそうで、畦間の除草とか土入れに使うそうだ―他にネコ車、プラスチックでできた収穫用のコンテナなどを伊東さんの指示通りに並べ、撮影は滞りなく終了した。  

「これで添付資料は出来たんやけど。あと、この地区の農業委員さんに、ここを前もって見て貰(もろ)うとったほうがええでよ。その時は暇だったらわしも立ち会うけんど。委員さん知っとうで?」 

 昨年、農業委員会を初めて訪ねた時、この地区の委員さんの住所、氏名、電話番号は實平局長から聞きメモを残している。 

「交代があって去年の夏から農業委員やっとる筈じゃ。県の職員やっとったんやけど定年退職しとる。その人のお父さんはまだ健在やけん、多分お宅のお母さんなんかは老人会で知っとうと思うでよ。コンビニの端月ですって言うたら相手さんも分かると思うわ」 

 農業委員さんに電話をかけ事情を説明した。 

 伊東さんのアドバイスどおり「コンビニの端月です」と名乗ったら「お宅のお母さんにはうちの父が老人会でお世話になっています」丁寧に挨拶してくれた。 

 こちらの要請は快く引き受けてくれた。明日、日曜日の午後に立ち会いますと言ってくれた。 

  

        3 

  駐車場の件はなんとかクリアできたと伊東さんから連絡があった二日後の昼休みに、携帯に電話が入った。伊東さんは困ったことになっていると言った。 

「奥さんに電話したんやけど、今日は五時までコンビニ手伝わなあかんって言うとったんで」会社を早退できないだろうかと言う。 

「一緒に農業委員会へ行ってもらいたい。書類に不備があってね。わしのせいとちゃうよ。それとJ・Ⅰ・ライダーから変な話を聞いた。はっきりしたことは彼も言わんかったけど、ちょっと気になることを小耳に挟んだ。これは、奥さんよりあんた本人に聞いてもろたほうがええかもわからん」 

「どんなことなんですか」私は聞いた。 

 伊東さんは、具体的なことはわしも聞いとらん。實平局長が絡んだ話のようなんやがと、煮え切らない。早退できるようであれば車で会社まで向かいに行くけん。書類の不備については車の中で道々話す。そう言った。 

  

 私と伊東書士がカウンターのパイプ椅子に掛け、加賀さんが何時もの器用さで事務椅子を転がしてカウンター前に移動している。彼に会うのは昨年、和美と二人で委員会を訪れて以来である。和美は小作権申請のため五回ほど来ている。 

 實平局長の姿が見当たらないので聞くと、今日は出張で直帰だと言う。 

 二つずつ向かい合わせに並んだ四つの事務机の一番奥で、女性職員が熱心に端末のキーボードを叩いている。 

 書類の不備は車の中で伊東さんから聞かされていた。 

 この前、写真撮影をした駐車場は何とかクリアできたのだが、その駐車場に面した北側に宅地に入る長さ六メートル程の小路がある。門扉へと続く、幅三メートルほどの飛び石を施した細い進入アプローチである。 

 この市道から宅地へと続く進入路の、畑側に接する幅約二メートル×長さ六メートル分が公図上では農地となっているのだそうだ。 

 伊東さんは加賀さんからそれを聞き、慌てて持ち主の蒲池さんに電話で問い合わせたそうなのだが、そういえば祖母が住んでいた時は幅一メートル程の小道でしかなかった。親父が住むようになって進入路を広げたのだろうが、いつ頃かは分からないと言う。てっきり宅地の一部だと思っていましたと、その答えはあやふやなものだった。 

「昔の人は―」加賀さんは私を見て言う。「今後、自分の土地を売るつもりはないし、子や孫に譲るだけだから、自分の土地だから自分の好きなように使う。そんな考えだったのでしょうね。分筆するのも面倒くさいし」 

「ただ、売り買いが絡んでくると農地は農業委員会を通さないかんので、面倒(めんど)いことになるんよ。なあ、J・Ⅰ・ライダー」伊東さんが横から口を出す。 

「まあ、そんな農地はいっぱいありますけどね。水田に水を引くポンプ小屋ってあるでしょう。あれだって厳密にいえば農地法違反ですから」 

 市内各所でよく見かける。水田の一部にポンプを設置し、地下水を汲み上げ灌漑用に使用する。ポンプのモーターを保護するために小さな小屋が建っている。しかし農地法の細かな規定では直ぐに撤去できる建造物くらいしか農用施設とは認めていないそうだ。 

「農業委員会だってそんな細かなことは言いませんけど、伊東さんが言うように売り買いが絡むとやはりそこは厳密にとなる。―ところで伊東さん、今のJ・Ⅰ・ライダーって何ですの?」伊東さんに顔を向け続いて私の方に首を捻る。「以前、端月さんの奥さんにも何回か言われましたが」 

 私と伊東さんは顔を見合わせる。伊東さんが私に「言え!」と目で促す。 

 私は恐縮して、J・Ⅰ・ライダーの命名過程とその名づけ親が和美であることを恐る恐る告げる。 

 加賀さんは途中から声を上げて笑い始めた。「奥さん面白すぎる。コピーライターの素質があるんと違(ちぁ)うん―」語尾で笑いを堪える。 

 奥の女性職員が何事かと怪訝な顔でこちらを窺う。 

「わしなんかイトジイやけん」伊東さんが笑いながら言う。 

 三人でひとしきり笑った後、加賀さんは真剣な表情に戻り、話を本筋に戻す。 

「端月さん。昨日、伊東さんと相談したのですが、この申請、来月まで延ばすことはできませんか」私の目を真剣な顔で見る。 

 加賀さんの話では、現在、農地法違反状態の進入路に関しての伊東さんが考えた裏技はあるのだが、實平局長がいい顔をしないらしい。 

 声をひそめて言う。「端月さん、實平局長と昔何かあったのですか」 

 私の顔は当然クエッションマークだ。 

「三月末におこなった農業委員さんの慰労会の二次会でね。實平局長から妙なことを聞いたんですよ。私それが気になって気になって」 

「一体どんなことを聞いたのです。確かに私と實平さんは高校の同級生なのですが、その当時もこれといった深い係わりはなかったんですが」 

  加賀さんは首を捻り奥の席の女子職員を窺う。 

 更に声が小さくなる。「何を聞いたかはここでは言えません。私の憶測ですけど、どうも實平局長、端月さんの土地の件に関して嫌がらせをしているようにしか思えないんです。最初にお越しになった時もそうですよね。局長が応対して五条で通るって言ったんですよね。青地と白地を間違えるなんて考えられないんですよ。あの時、確か局長は公図を見た筈ですが、図面を見て間違うなんてあり得ない」言葉を切り伊東さんの方に視線を投げる。「その後、伊東さんから電話があり、實平局長が間違ったことを端月さんに教えたと知ったのですが―局長に問うと、そんなこと言った覚えがない。―どうもおかしい」上を向き天井を睨む。 

「二次会で實平さんが何を言ったか気になりますね。私には全く思い当たるふしがないのですが」私は加賀ライダーの顔を見る。 

 加賀さんは制服の濃紺のブレザーの腕を組み暫し考え込んだ。 

「私もすごく気になっているんですよね。良かったらこうしませんか」少し時間をおく。 

「端月さんお酒飲めます?」私は付き合い程度ならと言い、頷く。 

「もし今日時間がとれるようでしたら、私のよく行く居酒屋で話しませんか。これは局長と端月さんのプライベートに関わることかも知れませんので、ここでお話するのはどうかと思います。私が週一ぐらいで行っている小さな店です。常連さんばっかりなので気楽です。市の職員も来ませんし、私の隠れ家なんですよ」伊東さんも一緒にと、言う。 

 伊東さんは顔の前で手を振り「わしは遠慮しとく。車やし。それに端月さんと實平君のプライベートな話なんやろ。聞かん方がええ話もあるけん」それより申請を一か月遅らすという話をしてあげてと言う。 

「わかりました。先程、伸ばしてくださいと言ったのは、四月いっぱいで實平さん移動になるんです。今のところ局長が反対しているので私としては委員会へ申請書を上げることが出来ないのです。端月さんの土地の件は奥さんが熱心に来られて、家庭菜園にかける熱意はいつも聞かされていますので。それと局長の最初の対応に悪意があったとしか思えない。私のゴッドファーザー―いやゴッドマザーかな―の夢を叶えてあげたい」眼鏡をずり上げる。この人お堅そうな公務員だが洒落は分かるようだ。 

 私は今の加賀さんの話の中の疑問点を口にした。「移動って四月じゃないのですか」 

「ご存知でしょうが四月の末に市長選挙があります」J・Iライダー加賀が言う。 

  そういえば、まだ告示前ではあるが選挙の前哨戦で市内は騒がしくなっているようだった。 

「移動は選挙が終わってから。今年度は変則的なのです。ただ課長以上は既に内示が出ています。市長選の結果如何では変わる可能性も無きにしも非ずなんですが、今の状況から考えると現職が圧倒的に強いみたいですし」 

「實平さんも変わり、あなたも変わるということはないですよねえ」私は内心、心配になる。 

「私この部署に変わってまだ一年ちょっとですから。三年くらいは移動がない。不文律みたいになっています」百パーセントとは言えませんがと、言う。 

「来月にもまた裏技使うけんな」横合いから伊東さんが笑う。 

「裏技は私の立場では認められませんよ」と、加賀さんも笑う。 

 イトジイが続ける。「端月さん。ほだけん今日はJ・Ⅰ・ライダーの疑問にも答えてあげて。端月さんも實平君が何を言うたか気になるやろ」 

 もちろん私自身思い当たることがないだけに大いに気になる。 

「じゃあお勘定は私に持たせてください」私が言うと、加賀さんは慌てて手を振る。 

「公務員ですので。それにこの件が継続している以上、二人には利害関係があります。割り勘ということで」この部分はお堅い公務員だ。若いけどしっかりしている。 

 加賀さんは腕時計を見て、仕事が終わったらすぐに行きますからと言い、店の名と場所を教えてくれた。 

    

            4 

 市役所から歩いて行ける距離だったのだが、場所が少し入り組んでいて同じ場所を二回ほどぐるぐる回った。 

 私が店に入るのと加賀さんが来るのとではそんなにタイムラグはなかった。 

 小さな店だった。十人程度が座れるカウンター席のみの店だった。 

 私が入った時はまだ時間が早いせいか他に客はなかった。 

 私と同い年くらいか、少し若いか―着物の上に白い割烹着を付けたいでたちの、あか抜けた感じの女将さんと、二十歳ぐらいだろうか、こちらは黒いデニムのシャツに下はジーンズ。その上に青地にパンダの絵が描かれたエプロン。なかなか可愛い娘がカウンターの中で下ごしらえだろうか、テキパキと動いていた。 

 若い娘からおしぼりを受け取った時、加賀さんが「お待たせしました」と私に頭を下げながら入って来た。 

「いらっしゃい。加賀ちゃん」娘は笑顔を作って彼におしぼりを渡す。 

「今日はヒロちゃん手伝っているんだ」加賀さんが言うと、カウンターの奥から女将さんが声を上げる。 

「そうなんよ。何時ものおばちゃんが急に来られなくなって。弘絵は今日、三時限目が休講になって丁度良かったんだけど」ヒロちゃんと加賀ライダーから呼ばれた娘は、女将さんの子供らしい。 

  女将さんは私達の前までカウンター内を移動しながら私の制服を見て、次に加賀さんに目を向ける。 

「加賀さん、こちら初めてね。八幡金属の方?」どうぞ御贔屓にと頭を下げる。 

 四時に伊東さんに会社まで迎えに来てもらい、制服のまま市役所へ急いだのだった。 

「うちにも八幡金属の方で常連さんがひとりいます。エビタさんといって確か製造の課長さん。ご存知?」女将さんが言う。 

「ああエビタンね。そういえばあの人も八幡金属って言っていたっけ。面白い人でね」加賀さんが引き取って言う。 

「何時も馬鹿話ばっかだけどね」弘絵と呼ばれた娘が微笑む。 

  

 会社では月一回の製造部門と間接部門の連絡会議がある。 

 私と田畑部長は交代で隔月の参加をしているのだが、出席者が係長以上なのでかなり大人数となる。製造部門の人となると未だ顔と名前が一致していないのだが、女将さんの言うエビタさんは知っていた。製造部二課の海老田課長だろう。 

 製造二課は主にスチール製の戸枠を制作している部門である。鉄板、ステンレス等を所定の大きさにカットし、所定の形状に折り曲げ、溶接をして組み立てる。 

 ある時、その戸枠の図面に関し問題が発生した。 

「この部分の溶接が非常に難しく、やってできないことはないのだが、しかし、仕上げの状態もかなり悪くなる。それに現場の効率も落ちる。図面の変更はできないだろうか」そう言ってきたのが海老田課長だった。 

 海老田課長の申し出を最初に受けたのは設計部の担当課長だったのだが、その案件は既に発注者の建設会社に承認図を送っていた。担当課長の手には負えないということで、その日は田畑部長が出張で不在だったので、私に話が上がって来たというわけだった。 

 私は海老田課長の意見と要望を聞き、事にあたった。海老田課長の指摘は的確で、彼が考えた代替案も納得のできるものであった。即座に部下に承認図と製作図面の書き直しを命じ、発注元へは事情を説明し事なきを得たのだった。 

 後で聞いた話だが、海老田課長はこと溶接に関してはプロちゅうのプロで、今でこそ現場には出ないものの、若い頃、溶接の技術大会で西日本一をとったこともあるのだという。「有難うございます。お蔭で助かりました。迅速に対応していただいて感謝いたします」海老田課長は笑顔をみせながら丁寧に頭を下げたのだった。 

  

「海老田さんなら知っています。今度、機会があれば一緒に来ますよ」私は女将さんと娘に言った。 

  

 生ビールを注文し加賀さんにお薦めを聞く。豆腐が旨いと言う。カウンター内を目で示す。 

 中の仕切りを取っ払った、角型の業務用おでん鍋に木綿豆腐が四つ切にされて並んでいる。豆腐の間には出汁用だろうか、焼いた鮎が何尾も、淡口醤油と思うのだが、うすい琥珀色の汁の中で泳いでいる。 

「これがここの名物。常連の中にはこれだけ食べに来る人もいるくらいです」他は焼き鳥くらいかなあ。若鳥と親鳥があって、この店では「柔らかいの」「固いの」と注文するそうだ。 

「他には何もない」ビールジョッキを持ち上げる。 

「ちょっと加賀ちゃん、それあんまりじゃん。徳島は阿波踊りと鳴門の渦潮だけって言ってるのと、おんなじ」ヒロちゃんが頬を膨らます。「うちの料理はね。―あとは勝手に注文してくれりゃあ、出来るものなら作るよってのが営業方針さ」TVドラマの深夜食堂の小林薫の声色で言う。 

 二人連れの客が二組、相次いで入って来た。加賀さんは軽く手を上げ「どうも」と全員に挨拶する。 

 また一人、また二人と入店し瞬く間に満席になる。満席にも関わらず入ってきた人などは、店の隅に置いてある補助用の小さな丸椅子を引っ張り出し、やあやあと言いながら間に割り込んでいる。  

 それぞれのグループで声高に話の花が咲いていた。 

  

     5 

「奥さんの徳島弁、上手になりましたね」加賀さんが言う。多分これがこれから話すことへの前振りなのだろう。 

「変でしょう?」私が言う。 

「いや。最初みえられた時はちょっと。―私、笑いそうになったのですけどね」苦笑。 

「あの時点で私が対応していれば……。私も公務員なので伊東さんのようなことは出来ませんけど」話の糸口を探すようにぽつりぽつりと喋る。 

 暫しの沈黙。他の客の話声がボリュウムを増したみたいに感じる。 

 加賀さんはややあって口を開く。 

「三月末に農業委員さんを慰労するという趣旨の飲み会がありまして、終わってから職員だけで二次会をやったんです。職員といっても局長、私、女性職員、それと外回りの嘱託。もう一人若い女性がいるのですが今は産休で休んでいまして」 

 四人は實平局長行きつけの小さなスナックに入った。 

 實平さんはかなり酔いが回っていたらしい。 

 途中で女性職員と嘱託の人が帰った。加賀さんは實平さんに私達もそろそろ帰りましょうと促した。 

 實平さんは酔眼を加賀さんに向け、もう少し俺の話を聞いてくれと言った。 

「五月には移動するのだから。俺の悲しい失恋話を聞いてくれてもいいだろう」 

 加賀さんは暫し言葉を切り、その時のことを思い出すように天井に目をやった。 

 實平さんは続けてこう言ったのだという。「去年、奥さんと一緒に端月という男が来ただろう。彼は俺の高校の時の同級生なんだよ」 

「あの時そう言っていましたよね。だから局長が対応したのですよね。で、その局長の悲しい恋話(こいばな)って、端月さんに関係があるのですか」加賀さんは酔っ払いの法螺話だろうぐらいの軽い気持ちで話を促した。 

「おおありなんだよ。あいつが―端月が俺の恋人を奪い、そして殺した」 

 殺した! 呂律は回っていなかったが、いくら酔っ払いの話としても尋常ではない。殺した! 「どういうことなんです」加賀さんは驚いて訊いた。 

 しかし實平さんは、恋人を奪われただの、寝取られただのと呂律の回りかねる口で繰り返し、最後にあいつが殺した、恋人は殺されたと付け加えるばかりだった。 

「翌日、素面の實平局長に昨夜の件を聞きました。私としては殺した云々という部分がかなり気になっていたものですから」 

 しかし、實平さんは覚えていない。そんなことを言った覚えはない―の一点張りで、ごまかすようにその話から逃げたのだという。 

「本当に覚えていないのかどうかは分かりませんが」加賀さんが私の顔を見る。私に言葉を促している。 

「實平さんと接触があったのは高校以外にはないのですが、彼の恋人を私が奪ったなどという事実はない。ましてや殺したなどという物騒なことは。その時、實平さんはその恋人の名前を言っていませんでした?」私は頭の片隅に浮かんだある考えを確かめるべく加賀さんに聞く。 

 加賀さんは少し考える素振りを見せながら、その時の記憶を闇の中から引っ張り出そうとでもするように目を閉じ首を捻る。 

「たしか……」一回、目を開き天井を睨む。もう一度目を閉じる。「確かナカクラ……、ナカクラリョウコと言っていたような……」私も酔っていたので記憶が定かではないのですがと、付け加えた。 

「ナカクラリョウコ」先程の私の心の隅に引っかかっていた何かが形を整え「中倉涼子」という具体的なものへと変化する。 

 しかし實平さんの話と、私と涼子の話はリンクするはずはないのだ。實平さんの話が正しいのだとしたら、彼の恋人だった中倉涼子を私が奪った。そういうことになる。 しかも彼女を私が殺した。 

 確かに涼子は今この世には存在しない。大学二年の夏に交通事故で亡くなったのだから。 

 私は涼子の顔を脳裏に蘇らせる。彼女の透き通るような白い肌、肩まで伸ばした艶やかな黒髪、黒目勝ちのアーモンド型の瞳、先端がごく控えめに上を向いた鼻、ピンク色の形の良い唇。そして彼女の声が、彼女の体温が、彼女の匂いが―彼女の全てが遠い時を隔てて私の心に甦る。 

  

           6 

 私と涼子が初めて二人きりで話したのは高校二年の五月の中頃だった。 

 私は部活を終え、JRの駅へ急いでいた。途中で中倉涼子と遭遇した。 

 涼子はいつも何人かの女子生徒と一緒なのだが、今日はひとりだった。何やら浮かぬ顔で、とぼとぼと形容するのがぴったりする歩き方だった。 

 私は追い抜きざまに声をかけた。「中倉さん、急がないと汽車、間に合わんよ」 

 涼子は心ここにあらずというような声で言った。「ああ端月君……。一汽車遅らせへん? 私コーヒー飲みたいんよ。奢るわ」 

 私は彼女の歩調に歩みを合わせた。一緒に歩くのが嬉しかったのかも知れない。 

 彼女は学校では評判の美人だった。男子生徒の間では彼女は人気ナンバーワン。 

 私だって入学当初から汽車通学で顔を会せる彼女をいいなあと思っていた。ただ、こちらから声をかけても多分相手にはしてくれないだろうなあとも思っていた。 

 自分に自信がなかったわけではない。一年生の時に同じクラスの女の子と、もうひとり、同じ部活の子に付き合ってくれと言われたことがある。しかしそれはお断りした。 

 今にして思えば、心のどこかに中倉涼子という存在が潜み隠れていたのかも知れない。だから二年になって涼子が同じクラスになった時、少しうろたえたような感覚があったのを覚えている。 

「端月君と二人だけで話すんて初めてだね」 

 涼子は駅前の喫茶店に入り、コーヒーを注文して沈んだ声で言った。 

 教室では仲の良いクラスメイトと休み時間等にはよく話をしていた。私も涼子もその仲間達のひとりだった。 

「そういえばそうやね。ほだけんど中倉さんどうしたん。なんか元気ないでえ。いつもと違う」いつもの中倉涼子とは確かに違っていた。 

 涼子は私の顔を伏し目がちに見て溜息をつく。やがて顔を上げ、アーモンド形と形容してもちっとも間違っていない黒目勝ちの瞳を私に向ける。 

「端月君って好きな人おるん?」私の質問とは全然関係ないことを聞く。 

「それは……」私は口ごもる。何故かドギマギとした。「端月君。私のことが好きなん?」何故かそう聞かれたような気がした。 

 彼女とクラスが一緒になって、中倉涼子が近くになり、その時、彼女の存在が自分の心を大きく占領しつつあったのではないのだろうか。今ならその時の自分の心は分析できる。 

 私の返事にならない言葉を聞き、彼女はまた目を伏せる。暫く二人の間の時が止まる。 

「私、告白された」涼子はぽつりと言った。「断った」時間を置いてまたぽつりと言う。ふたりの間に沈黙の時間が流れる。涼子は思いつめたような顔で私を見て、思い切ったようにぽつりと言う。 

「私ね。好きな人がいるの……」また時間が止まる。 

 ややあって口を開く。「好きになりかけている。そう言った方が合っているかも……」私の目を見つめる。すぐに、さりげなく目をテーブルの隅に落とす。 

「少し前からその人に告白したいと思っている。でも……、怖いのよね。断られた時のことを考えると。とても怖いの。その人のこと全て知っているわけじゃあないし。でも……」彼女は言葉を切る。 

 喫茶店には有線放送でイーグルスのホテルカリフォルニアが小さな音で流れていた。 

「傷つきたくない自分がいる。でも私、相手は平気で傷つけている。その告白された人、中学校の時にも言われたのよね。付き合ってくださいって。その時も即断った。……私って言葉がきついのかなあ。こんな自分が嫌になる」小さな声で言う。 

「でも好きでもない人にあやふやな答えは出来へんし。八方美人にはなれない」コーヒーカップを口まで持っていき、思い直したようにソーサーに戻す。思い切ったように言う。「端月君、時々二人で話してもろてもかまへん?」 

  有線の曲はアバのダンシング・クイーンに変わっていた。 

  

 涼子とはほとんど毎日話した。仲間と一緒の時もあったが、二人きりのことの方が多かった。教室で、図書室で、屋上で、グランドの片隅で。駅から学校までの行帰り、列車の中、駅前の喫茶店で。 

 勉強のこと、部活のこと、友達のこと、先生のこと、家庭のこと、将来のこと。趣味のこと、好きな本、好きな映画、好きな音楽、好きな芸能人―話の種が尽きることはなかった。彼女との距離が急速に近づくのを私は感じた。 

  

 梅雨もまだ明けきらぬ七月の初めだった。私と涼子はいつもの駅前の喫茶店にいた。二人でかき氷を注文した。 

 私は涼子がかき氷をスプーンで口に運ぶのを見ていた。 

「リョウちゃん好きな人がおるって言うとったでえ。告白したいって。あれどうなった」 

 聞くには私もかなりの勇気が必要だった。 

 あれ以来、彼女との距離が急速に縮まり、リョウちゃん、ジン君と呼び合っている。仲の良い男と女の友達という間柄ではない―少なくとも私は彼女を特別な女性として意識していた。涼子の言動の端々にも私を男―彼氏として意識しているのではないかという―私の思い上がりかも知れないが―そんな思いはあった。 

「ジン君、あの時の私の質問に答えてないよね」悪戯っぽく笑って私を見る。 

『端月君って、好きな人おるん?』確かに彼女はそう聞いた。 

 あの時も涼子のことが心の片隅にはあった。しかし、それを心の一番奥に無理やり押し込めていたのかも知れない。多分あの時から、いや、もっと前から私は涼子を好きだったのかも知れない。探すことが出来ないように、心に濃い霧を無理やり発生させ、それを押し隠していたのではなかっただろうか。だから、あの時の涼子の質問には口ごもってしまったのかも知れない。 

 今だったら「好きな人がいる。告白したいと思っている」と言えるだろう。―多分。 

 そして、告白して断られてもそれはしょうがないと思う。―多分。心に傷は受けるかも知れない。振られた悲しさで涙を落とすかもしれない。でも、それはそれで良いのではないか。―多分。 

 このままずっと、よくいう「友達以上、恋人未満」の関係を続けることこそが自分を裏切ることになるのではないかと思う。 

 最近、心の真ん中に中倉涼子がいつもいる。もう考えまいとする。しかしそれはいつまでも消えてはくれないし、いつまでも心に負荷をかけ続けているのだ。そして心のもう一方には早くこのモヤモヤから解放されたい、早く楽になりたい。そんな部分がある。楽になるためには、思い切って自分の心の内を彼女にぶつけるのが一番良い方法ではないかと思う。 

 そんな決心を心には秘めているのだが、やはり実際に行動に移すとなると心が揺れる。いつか涼子が言っていたように、私だって出来ることなら傷付きたくはない。まだ高校生なのだ。心を固い鎧で装備することが出来るのはまだまだ先のことだろう。心は柔らかい。 

 だから涼子に対する冒頭の質問が口から出た。涼子があの時言った「好きな人がいる。告白したい」という言葉は、私にとっては大きな懸念材料であり障壁なのだ。 

 でもその前に彼女の問いに答えるべきだろう。涼子の「好きな人おるん?」という質問に。 

「前に聞かれた時、自分自身あやふやだった。今だったら言える。あの時も好きだったのだと思う。答えは―俺、好きな人がおる」思い切って言った。それはリョウちゃんだよと続けたかったのだが、続く言葉は喉の奥で空しく消え去る。 

「私も言うね」涼子が口を開く。「告白はまだ。でも最近、言えそうな気がしてきた」崩れかけたかき氷をスプーンで更に崩しながら言葉をつなげる。「明日、告白する」思い切った様に言って言葉をきる。考える風をする。「学校で放課後」短いセンテンスが続く。「場所は……」小さな時間が過ぎる。「晴れていたら屋上」私に目を向けて続ける。「ジン君も告白しなよ」と、言う。 

「じゃー俺も……。明日……」私の言葉は煮え切らない。かき氷のように語尾が融ける。 

 この店のBGMはいつも洋楽なのだが、今日は何故かピンクレディーの曲がかかっていた。 

放課後、部活が始まる前に涼子に屋上へと誘われた。 

屋上のフェンスの前に二人で立つ。遥か彼方に四国山脈の山々が曇り空の下ぼんやりとモノクロームの色彩で見える。 

九州地方の梅雨明けは昨日だった。四国のそれももうすぐだろう。 

「今日、屋上で告白するって言いよったんと違うん?」私は期待感と不安感がないまぜになった言葉を涼子に投げる。 

「ジン君もするでしょ告白。予行練習しよ」悪戯っぽく言う。「その前にここでお互いの好きな人の名前あかせへん? 目をつむって、イチニノサンで」私の反応を楽しむように微笑む。 

私の心臓は百メートルをマッハ3で走ったようにドコドコと踊る。 

意を決して目を閉じる。 

二人で声を合わせ「イチニノサン!」 

「リョウちゃん!」私の声だけが屋上に響く。 

私は「ずるい!」言って目を開ける。 

「約束と違……」彼女に向けた非難の言葉はフェイドアウトする。 

私の目に飛び込んだ映像。 

涼子は右手の人差し指を私の鼻先に突き付けていた。顔には微笑みがあった。 

  

これは後で聞いた話だが、涼子も入学当初から汽車通学で顔を会す私のことが気になっていたのだという。何かの機会に話しかけようと思っていたそうだが、私にも涼子にも、いつも連れ立った友達がいる。それに――と、涼子は言った。「ジン君なんだか冷たい雰囲気というか、クールな感じだった」付き合ってくださいと意を決して言っても、ごめんなさいと即座に断られそうな。 

 二年になってクラスが同じになり話をするようになった。 

「冷たいと感じていた部分はジン君の落ち着き――大人――上手く言えないけど」よく考え、言葉を咀嚼して外に出す。無責任な台詞は吐かない。そうかといって冗談などこれっぽっちも言わないというタイプでもない。「段々分かってきた。そして好きになった」 

 涼子も悩んだのだという。心から私を消し去ろうとしたこともあったそうだ。しかし、そうすればそうしたで反比例して心の中の私が大きくなっていった。やはり私はジン君が好きなのだと思った。 

そして初めて二人で駅前の喫茶店に入った。あの時は悩んでいた。落ち込んでいた。 

その時の心境が逆に触媒となって、私に対する心を加速させたのかも――と言う。   

あの時、抽象画のような「好き」が具象画のそれになったのだと言う。 

「人と人の距離って大事よね。だって同じクラスにならなければ好きになっていたかどうか……」涼子は言った。 

  

 二人は二階の私の部屋に居た。両親は酒屋に出ていて、弟の忠孝はまだ学校から帰宅していなかった。 

ベッドの端に掛け、涼子はため息をつく。 

「私なんかほったらかし。将来、嫁に行く女の子には興味を持っていないのよ」諦めたように言う。「そのくせ厳しいんだよね。大学は県内にしろって。県外での一人暮らしなんてもってのほか。ジン君、絶対東京でしょう」 

涼子の父は開業医だった。二歳違いの弟がいた。父母は男の子に期待をかけているのだという。弟に医者として後を継がせる。弟には小学生の時から、当時としては、そして田舎では珍しい家庭教師をつけていた。 

 三年の夏休み前。そろそろ各自の志望校の絞り込みが始まっていた。 

私は二年の時から狙いを定めた東京の大学を第一志望としていた。その他の選択肢は考えていなかった。 

何となく工学部を志望していた一年生の頃、ある建築家が書いた書物に出会った。今では当たり前のコンセプトだが、その建築家は建造物と人、自然との調和をテーマに据えていた。斬新だった。阿久悠が「津軽海峡」と「冬景色」の間に「・」を打ったぐらい斬新だった。つのだひろが「つのだ」と「ひろ」の間を「☆」で飾ったぐらい斬新だった。著者の手がけた建造物にも心惹かれた。この建築家がいる大学で学びたいと思った。 

涼子は県内国立大学が第一志望だった。 

両親に懇願した。東京の大学へ行かせてくれと。 

父親は聞く耳を持たなかった。母親がとりなしてはくれたのだが、夫に逆らってまで娘の意見を押し通す力を母は持っていなかった。 

「ジン君と一緒に東京へ行きたい。私、ジン君と離れるのが怖い」目を伏せ、産まれたばかりの小動物が身震いするようにかぶりを振る。 

「大丈夫。俺は東京へ行っても変わらないし、いつもリョウちゃんのことを思っている」私は助けを求める子羊を慈しむように言う。 

「そうじゃないの。ジン君のことは信じている。そうじゃないの。私自身が怖い……」好きだから余計。語尾が震えた。 

「俺は休みには帰って来るし、電話もする。手紙も書く。何も心配することはない」勇気づけるように言う。 

「ジン君はやっぱり男の子やね」寂し気な笑みを私に見せる。「男はいつも空を見ているのよ。私は女だから地面ばかりを、足もとばかりを見ている」 

「どうゆうこと?」 

「男の目は未来をいつも見つめている。女は今だけを見ようとしている」自嘲気味に笑う。 

先程セットしたラジカセからビートルズの曲が小さな音で流れている。二人は黙りこくって聞いていた。二人を残したまま曲は先へ先へと進んでいく。 

「ジン君。……しようか」涼子は唐突に言った。声が喉元に引っ掛かり、少しかすれ、目は揺れているようだった。 

涼子とは二年生の秋に初めてキスをした。 

学園祭の準備で遅くなり、私は涼子の降りる駅で途中下車し、家まで送った。医院の門前で肩を抱いた。唇を重ねた。涼子は驚いたような丸い目で私を見て、やがてニコリと笑った。「また明日」と、言った。それ以来キス以上には進まなかった。きっかけがなかったのかも知れないが。 

終わったあと涼子は「ありがとう」と、恥ずかしそうな小さな声で言った。目が濡れていた。 

      7 

満席だった店内はいつの間にか私達二人と、カウンター席の真ん中に陣取った三人連れだけになっていた。三人連れは先程からプロ野球談議に花を咲かせているようだった。 

加賀さんはジョッキの底に少しだけ残ったビールを飲み干し、端月さんも――と言い、二人分のお代りをオーダーした。 

「實平局長と、その中倉さんですか。それと端月さん。接点は何もありませんね」私の話を聞き終え、彼は言葉を探すような口ぶりで言う。 

「その年の夏休みに九人で一泊二日の剣山登山をしました。その中に私、中倉さん、そして實平さんがいました。接点としてはそれぐらいしか考えられません。それと――」私は中倉涼子と實平さんが中学校の同窓生だったことを付け加えた。 

「話の中で、中倉涼子さんがある男の子の告白を断った件。確か中学生の時にも告白されたと言っていませんでした?」加賀さんは斜め上に首を傾げ、遠い目をして考える。「その男の子が實平局長だったとか――」合点したようにひとり頷く。 

「分からない。私も聞かなかったし、彼女も言いませんでした。その時、彼女は告白を断ったことを悩んでいた。自己嫌悪とでもいうのでしょうかねえ。でもそれは彼女のせいではないし」 

「そのあと付き合い始めたのですよね」加賀さんは言葉を切る。暫しの沈黙のあと、続ける。「振られた男を實平局長だと仮定しましょう。振られた直後に中倉さんはあなたと付き合い始めた。實平さんにとっては大きなショックだった。振られたとはいえ中学の時から思いを寄せていた女性ですから、そう簡単には諦めることはできない。ところが自分が振られた途端にあなたが登場したわけです。逆恨みの要素がないわけじゃあない」ビールを一口飲む。 

私もつられてジョッキを持ち上げる。加賀さんが続ける。「だから實平さんの頭の中では、あなたが中倉さんを奪い取った。寝取った。許さない。そんな妄想に発展した。私が聞いたのは、かなり酔っ払っていた時ですから、そんな大袈裟な言葉が出たとしてもおかしくはないでしょう」一応の説得力はあるだろう。 

加賀さんは推理を続ける。「昨年、あなたが奥さんと一緒に農業委員会に来た。これ幸いと、立場を利用してあなたに悪さをすることを思いついた」それがあの一連の対応ではなかったのだろうかと、言う。 

しかし四十年近く前の話だ。それを今頃になって意趣返しもないのではないか。そんなことをして何の得になるというのだ。あとで舌を出して「端月め! ざまあみろ」とでも言って溜飲を下げたのだろうか。人は色々だから考えられないことじゃあないのだが。 

「實平局長ね。去年の忘年会だったか、こんなこと言ってたんですよ。あなた――端月さんのことです。局長、端月さんの奥さんに会ったでしょ」 

實平局長は加賀さんをつかまえ「端月の野郎、若い時から美人にもてやがって」そう言ったのだという。 

「實平さん結婚はしているのでしょ」私は聞く。 

「していたそうです。結婚は遅かったらしいのですが、子供さんが出来て直ぐ離婚した。何でも嫁さんと姑さんの折り合いが悪かったそうです。實平局長、母ひとり子ひとりだった。子供の親権は妻の方に取られ、なんでも養育費は送っていたみたいなことを言っていたような……」母親は亡くなり、今は独り暮らしをしているそうだ。 

そんな現状だから、私と妻が仲良く農業委員会を訪れたので、悪戯心が起こりうっぷんを晴らした。そんなところではないかと、加賀さんは言う。「幼稚といえば幼稚なんですが」 

私は言う。「しかし酔った上の言葉とはいえ、私が中倉涼子を殺した。いくら何でもそれは言い過ぎ――いや暴言でしょう」涼子は交通事故で亡くなったのだ。それも私と別れたあとで。 

「その殺したという話。私ね、端月さんが車を運転していて事故を起こし、同乗していた中倉さんを死なせた――そんな風に考えたのです。しかし……」私はその時も今も運転免許は所持していない。 

            8 

カウンター席中央の三人連れが出ていき、入れ替わりにサラリーマン風の男が入店した。この人も加賀さんの顔見知りらしく、暫し二人のとりとめのない会話が続いた。 

私はひとり涼子との思い出を頭に巡らせていた。 

  

私は第一志望の大学に受かり、涼子も地元国立大学に受かった。 

遠距離恋愛はやはりきついものがあった。 

電話ひとつとってみてもそうだ。今なら携帯電話でダイレクトに話が出来る。 

当時は下宿の廊下の片隅に置かれた公衆電話で、空しくコインの落ちる音を聞きながら、お金の残り額を気にしつつ、近況を手短に連絡し合う。そうするしかなかった。 

涼子のいる時間帯を狙って電話をするのだが、いつも彼女が電話に出てくれるとは限らないのだ。二人が付き合っていることを涼子は両親にそれとなく話していたそうだが、涼子の家に電話をする私としては、両親が――特に父親が出てくれませんようにと願いながらダイヤルを回したものだ。 

手紙は頻繁に二人の間を往復した。いろんな事柄をお互いが記した。しかし、これも二人が顔を会わせて話し合うことに比べると、喉の奥に刺さった魚の骨がいつまでも抜けないような、鉄の鎧の上から痒いところを掻くような、そんなもどかしさがあることは否めなかった。 

休みには帰省し涼子と出来るだけ会うようにした。やはりフェイスtoフェイスなのだ。電話や手紙とは違う。言葉を発しなくともお互いのことは顔を見つめるだけで理解できた。 ただ丸々いっぱい休みを故郷で過ごせるかというとそれは出来なかった。学校のこともあったし、バイトのこともあった。 

二人の遠距離恋愛は大学二年の春まで続いた。 

そして私は涼子に振られた。 

手紙が届いた。別れようと書かれていた。私には信じられなかった。 

ずっと愛していたし、これからも思いは変わらないと思っていた。涼子も私と同じ気持ちだろうと思っていた。 

電話をした。「ごめんなさい」彼女は湿った声で謝った。 

私は、俺が嫌いになったのか。新しい恋人が出来たのか。一体どうしたのだ。矢継ぎ早に質問した。 

彼女は「私が一方的に悪い。私の我儘。ジン君は全く悪くない」そう言った。 

「会って話がしたい」私は言った。 

  

花は既に散り、葉桜の季節だった。 

わたしと涼子はP市の南、四国山脈の麓にある山林公園にいた。 

当時としてはよく整備された舗道の両脇に桜木が植えられ、花見の名所として知られていた。桜の終わった今の季節、人影はなかった。 

木製のベンチに座った。彼女は淡々と心境を語った。 

「別にジン君を嫌いになったわけではない。新しい恋人ができたわけでもない。でも私駄目なの。ジン君が傍にいてくれなけりゃあ。多分、私はいつも傍にいてくれる、いつも私の傍らに立っていてくれる、そんなジン君を好きになったのだと思う。一年間徳島と東京に別れて思ったの。この距離は二人にとっては――特に私にとっては、とてもとても耐えられない距離だって。ジン君が休みに帰省してくれた時、涙が溢れるほどうれしかった。でも東京へ帰ってしまわれると、涙が枯れるほど悲しかった。ジン君に徳島へ帰ってとは言えない。私が東京へ行くとも言えない。私これから何年間かこの状況に耐えられる自信がないの」だから別れてと涼子は言った。 

私はどうか思い直してくれ、私の君を想う気持ちは今もこれからも変わらない。たとえ遠い遠い火星に住んでいたとしても、私の気持ちは惑星が太陽の周りを廻るのと同じように絶対に変わらない――そう言った。 

「私も好き。だってジン君は私のはじめての男(ひと)だもの。私だってこれからもずっと好きだと思う。でも好きだからこそ別れて欲しい。これ以上付き合うと私、ジン君にどんな無茶な要求を突きつけるとも限らない。だから……」 

私は釈然とはしなかった。でも涼子の言っていることも何となくだが分かるような気もした。私だって会う時は嬉しい、反対に別れるときはその何倍も悲しい。できればこのまま東京なんか帰りたくない。そう思う。 

話し合いは平行線のままだった。ただ彼女は頑なだった。もう手紙は書かない。電話はしないでと言った。 

最後に言った。「ジン君ありがとう。楽しかったよ……。私いつまでも忘れない……」あとは言葉が続かなかった。綺麗な瞳から涙がこぼれた。葉桜が風にサラと揺れた。 

  

彼女の訃報は弟の忠孝からもたらされた。七月の初めだった。 

弟も彼女が交通事故で亡くなったことは数日知らなかったのだという。 

彼はその頃、高校に通っていたのだが、その同級生から聞いた。その級友は中倉医院の隣の家の子だった。 

近所でも彼女の美しさは評判だった。特に若い男の関心は高かった。 

「隣のお医者の綺麗な娘さんが交通事故で亡くなった。自殺だったとの噂もある」 

弟はその名前を聞いて驚いた。兄貴の彼女! 

弟と涼子は何回か会ったことがある。私と涼子が別れたことを知らない弟は慌てて知らせてきたのだった。 

私は夏休みに入って帰省した。中倉医院を訪ね線香をあげさせてもらった。仏壇の遺影が寂しそうに笑っていた。悔しかった。堪えようとしたが涙が流れた。 

涼子から別れを告げられ僅か数か月。人ってこんなに突然に、こんなに簡単に死ぬのだと思った。 

自殺だったとの噂を弟に確かめた。 

警察は交通事故として処理しているが、その事故を起こした運転者は彼女が信号を無視し、横断歩道にふらふらと入って来たのだという。夜の人通りの少ない場所で目撃者はなかったそうだ。 

「彼女は男に振られて自殺した。あんな綺麗な娘だから、振られたのが余程ショックだったのだろう」そんな根も葉もない噂が一時流れたそうだ。 

「俺、兄貴が涼子ちゃんを振ったんかと思うた」涼子に私が振られたことを知らない弟は、私を気遣ってか静かな声で言った。 

          9 

「私はリョウちゃん――中倉涼子が自殺だったとはその当時も今も思っていません。多分、彼女を轢いた運転者は自分を正当化するために彼女が信号無視で横断歩道に入って来たと言ったのだろうと思います。目撃者もいなかったというし。彼女は自殺をするような人ではなかったと信じています……」 

加賀さんは黙って頷く。やや考える風に二、三度うなずいて言葉を発する。 

「端月さんのお話伺っていて、私もその中倉涼子さんは自殺をするような人じゃないと思いますよ」いったん言葉をきり、喉を湿らすように残ったビールを飲み言葉をつなぐ。 

「彼女は強い人だと思います。自分から別れを切り出したんですからね。これはかなり勇気のいることだと思います。お互いにまだ好きだったんでしょう。嫌いになって別れてしまう場合は、相手に対する嫌悪も憎悪もある訳ですから、その行動をすんなりと自身の心に受け入れることが容易ですからね。好きなのに別れるのはつらいことです。でも彼女は自ら行動した。そこに至るまでに重い心の葛藤があっただろうとは思いますが。……中倉涼子さんは強い女性(ひと)です。絶対に自殺じゃありません!」最後の言葉は私を励ますように強く発声する。 

「そうですよね。……でもねえ……。私もね、彼女が別れてすぐに亡くなったのでそりゃあショックでした。彼女が切り出した別れを必死で拒否すればよかった。東京に来いと言えばよかった。私が徳島に戻ると言えばよかった。でもそれは到底出来ないこと――私にも彼女にも。……彼女が今も生きている、最悪でも何年か時間が経った後で亡くなったのであれば、これほど心には重荷として残らなかっただろう。今でも心の隅がきりりと痛い時があります」私は言う。 

「お気持ち分かります。でも、お話聞けて良かったです」加賀さんが頷き「私、實平局長が言った、端月さんが恋人を殺したという話が無茶苦茶気になっていたのですよ。その点は安心しました。それにしても實平局長、なんであんなことを言ったんだろう」私の話に対する同情と、實平局長に対する疑問がないまぜになって顔に広がる。暫し考える風をする。ややあって口を開く。 

「自殺。事故。……もうひとつ可能性が残されていますよねえ」言って私の目を覗き込む。 

「いや。……しかし、それは……」私はジョッキに残ったぬるくなったビールを飲み干す。 

「事故は夜中に起こったんですよねえ。なぜ中倉さんはそんな時間に出かけたんだろう。当時はコンビになんて無かったんでしょう。端月さん、彼女がどんな用で出かけたのか中倉さんの家族から聞いていません?」 

 私は目を閉じ、その当時の事を闇の中から引っ張り出そうとする。時間が過ぎる。 

 頭の中で遠い記憶のかけらが不確かな形で蘇ろうとする。私は口を開く。 

「彼女が亡くなった年の暮れに、帰省していた私は彼女の墓参りをしました。その時墓地まで案内してくれたのが彼女の弟でした」 

「その時に何か聞いたのですね」 

「なぜ彼女は夜中に出かけたのだろうと、たぶん私が弟さんに聞いたのだろうと思うのですが、夜中に電話がかかってきて、直ぐに帰るからと言って出ていったそうです」 

「電話の相手は男でしたか女でしたか」 

「いや、そこまでは……。当時の私の頭の中では、交通事故だったのだと納得していましたから……。まさかその呼び出した相手が……。」私は加賀さんの顔を見る。 

 加賀さんは暫し考える風をして、慌てたように「いやいや。ちょっと考え過ぎてしまいました」と言い、顔の前で大げさに手を振った。顔には笑みが浮かんでいた。 

「私ミステリー好きなもので。すみません、今の話は忘れてください。……でも、これで中倉さんが自殺じゃなく事故だったって、はっきりしたじゃあないですか」 

「どういうことです?」 

「中倉さんが何の用事もなく夜中に家を出たなら、自殺の可能性もあるんですが、彼女は誰かに呼び出され、家族には直ぐに帰ると言って出ていったわけですからね」 

「なるほど」私は頷く。 

「實平さん県内の大学でしたか? 私同級生なのですが彼の情報は何もなくて」私は思いつくことがあり加賀さんに聞く。 

「確か県内の私大を出て、市役所――いや、当時は町役場です。――に入ったと聞いています」加賀さんは記憶をサーチしながら言う。 

「ということは……涼子が事故で亡くなった時、地元にいたわけだから、あの自殺かも――という噂を知っていた可能性がありますね」 

「ひょっとして、あなたに対する腹いせで實平さんが流したとか」 

「いやあ。それはないでしょうが……。こんな風に考えられませんかねえ。實平さんは当時私と涼子が付き合っていたことは知っていたわけですから、男に振られて自殺したという噂を本当だと思った。つまり私が涼子を振って、それが原因で彼女が自殺した。つまり間接的に私が涼子を殺した」 

「うん。そのように思った可能性はありますね……」 

客は私達二人だけになっていた。 

店の前の歩道を行く酔客の話声が引き戸を通して聞こえた。 

    10 

五月二十五日の農業委員会開催日に間に合うように、伊東書士が裏技で考えた理由書をつけて、保留していた申請書類を提出した。 

實平局長は加賀さんが先月言っていたように地域課へ移動となった。課長としての横滑り人事だそうだ。 

新しい局長は以前も農業委員会を経験したことがあり、加賀さんの言葉では、酸いも甘いも噛み分けている人だそうで、今度は大丈夫、通りますと、伊東書士を通じ太鼓判を押してくれたのだった。 

裏技は伊東書士が考えた。 

駐車場の時、蒲池さんが提出したのと同様の理由書を提出する。ただし、その理由書の提出者は蒲池さんではなく私の名義にするのだという。 

伊東さんが原案を書いた。 

現在違法状態の農地部分――つまり宅地へ入る通路の一部のことだが――私が購入後その違法状態を解消します。おおよそ、そういった内容の文言だった。 

違法状態を解消するためには二通りの方法がある。ひとつはその部分を分筆して地目を農地から雑種地等に変更する方法。もうひとつは現状の通路を潰し、公図通りの農地に原状復帰する方法。伊東さん曰く、その二つの選択肢を後で選ぶことが出来るように「違法状態を解消します」と、ぼかして作文したのだという。 

「分筆して地目変更するほうが現実的やけんど、どっちにするかは端月さんの好きなようにして」伊東さんは言った。 

「蒲池さんには?」 

「わしの方から連絡しといた。お任せしますって言うとった。ただし、蒲池さんには違法部分の土地の測量費と、端月さんが分筆を希望するのなら、その後の法務局での分筆費用は持って貰いますって言うとうけんな――ただ、この部分のお金はわしが儲けるわけと違(ちゃ)うけんな。司法書士さんの領域じゃけん」伊東さんは笑いながら説明する。「ほなけんど除外申請はせないかんけん。一年以上かかると思うわ。ほんま農地が絡んだらややこしいんよ。――あっ、この除外申請の手続き費用はわしの儲けじゃけんどな」笑う。 

私は伊東さんに質問する。「私はまだ買っていないのだから、今現在の所有者は蒲池さんですよね。その理由書を今現在所有権のない私の名前で出して、たとえ購入後違法状態を解消しますとの条件付にしても、法律的に有効なのかどうか。蒲池さんの土地を私がどうこうしますというのは、私自身に権利がないことを理由書上で約束することになりませんか」 

「端月さんなかなか鋭いでえ。まあこれも以前言うた表と裏ですわ。J・Ⅰライダーとは話が出来とんよ。加賀君な、一か月遅れたこと気にしとってな。ライダー通して局長にも――。まあ三条申請を通すための方便と考えてくれたらええわ」 

「じゃあ、買ったあとで私の名前で農地法の四条申請をするというわけですね。但し費用は蒲池さん持ち」 

「そうゆうこっちゃ。端月さんもだいぶ分かってきたでえ。奥さんもあんたも苦労したけんなあ」ほんとに苦労した。私は苦笑いに近い微笑みを伊東さんに返す。 

「伊東さんにも農業委員会の加賀さんにもお世話になりました」頭を下げる。 

「わしは商売じゃけん。ほだけんどライダー加賀はようやってくれた。まあ彼も、實平さんのあんたらに対する最初の対応があったけんなあ。あの子は真面目やけん、それを気の毒がっとったわ」 

「私と實平さんとのことを何か聞いたのですね」私は伊東さんの目を窺う。 

「端月さんと實平さんが高校の同級生ということは知っとうけんど」笑いながら言う。他に何か聞いたという顔だ。 

「それだけ?」 

「前にも言うたやろ。聞かないかん話と聞かんでもええ話があるって。この齢になるとなあ、脳細胞がだいぶ減ってきとうけん。容量が少のうなっとんよ。どうでもいい話聞いたら必要な話忘れてしまう。パソコンでいう――何ちゅうんかいなあ――。そうそう上書き。いらん話を上書きしたらいる話が消滅してしまう」頷きながら続ける。「ほだけん、端月さんの若い頃の悲しい恋の話や聞いとらんでよ」聞いてるじゃないか! イトジイ! 

伊東さんはすました顔で笑っていた。 

     11 

上村司法書士事務所の応接室はフルハウスだった。伊東さん、蒲池夫妻、そして私達夫婦の五人。 

上村司法書士は事務机から事務椅子を持ってきて隅に腰かける。 

和美は数回会っているものの私自身は今日初めてお会いする。 

上村さんは六十歳半ばぐらいだろうか、中肉中背で温和な感じの人だった。 

ターコイズのボタンダウンシャツに、少し細めの同系色のネクタイを締めている。和美の話では、いつもスーツかブレザーにタイを締めたいでたちだそうだ。 

電話でのやりとりは最初に蒲池さんがしたのだが、彼も会うのは初めての筈だ。 

上村さんの奥様だろう、冷えたお茶を全員に出したあと、奥の二つ並んだ事務机に引っ込み何やら書類をつくっている。 

六月に入り湿度と気温の高い天候が続いている。特に今日は蒸し暑さが最高のようだが、事務所は程よく空調が効いており多人数でも心地よい。 

「端月さんも蒲池さんも農業委員会が通って良かったですね」上村書士は私達に視線を回す。 

「ほんま時間がかかったけんど、これにて一件落着じゃわ」伊東さんが私達に代わって言う。「今後は上村はんの出番じゃけん。わしもやっとバトンタッチじゃ」 

「本当にすみませんでした。私達が至らないばっかりに、端月さん、伊東さんにはお手数をおかけしました」蒲池さんがすまなそうに目を伏せる。「大阪なので動くに動けず、ご面倒を」奥さんの浪子さんも今日は機関銃トークのなりはひそめ、しおらしい。 

「とんでもない。私も一時は諦めかけたこともあったのですが、伊東さんをはじめ家族や会社の人、近所の人、それと農業委員会の加賀さんなんかに協力頂いて……。本当に皆さんのおかげです」私はこれまでの紆余曲折を頭の中で反芻しながら言う。 

横から伊東さんが口を挟む。「端月さんの奥さんがよう動いたわ。わしは仕事やけんなあ」「ほんなことないよ。イトジイいろいろ裏技出してくれたでえ。それとライダー加賀もよう協力してくれた。ほんま、みんなのおかげやわ」和美が言う。 

上村さんと蒲池夫妻は「イトジイ」「ライダー加賀」という意味の解らない単語に「何のこと?」という顔で和美を見る。私と伊東さんは苦笑いで顔を見合わす。 

「本当に和美がよく動いてくれました。私などは妻の半分も動いていませんから」私は一同を見回して言う。 

 和美は顔の前で掌を振る。「あなた、そんなことないって。あなたの一番の功績は私の永年の夢を実現するために、故郷に帰って家を買おうと決断してくれたこと。あなたはあなたにしかできないことをやってくれた」私の顔を見て微笑む。和美の胸の中にもこれまでの出来事が去来するのだろう。 

少し間をおいて、軽い嫌悪と薄い憎悪を顔面に滲ませ和美は続ける。「ほんでも腹立つんはあいつなんよ。偉(エラ)エロ局長の實平さん。ほんま腹立つわ」 

蒲池夫妻は「エラエロ局長」にも目を白黒する。私とイトジイはまたまた苦笑い。 

「うちの旦那の高校の同級生だから我慢してたんやけど」 

「その局長ってサネダイラさんて仰るのですか。端月さんの同級生?」蒲池さんが私と和美を交互に見る。 

「昨日、伊東さんからその局長のことはお聞きしました」蒲池夫人も横から口を挟む。「その人の意地悪で端月さん苦労されたんですってね」 

蒲池さん夫妻は昨日来県した。伊東さんの事務所を訪ね、これまでの経緯とか、今後の――測量のこととか四条申請について相談したらしい。伊東さん、農業委員会での経緯は話したようだが、局長の名前とか、彼と私が高校の同級生であることは言っていなかったみたいだ。 

「實平って珍しい名前ですよね」蒲池さんが言う。「徳島ではよくある名前なのですか」浪子さんが言葉をかぶせる。 

「さあどうなんでしょうねえ、珍しいとは思います。通常はサネヒラと読むのでしょうが、サネダイラと読むのはかなり珍しいのじゃあないでしょうかね」それまでやりとりを聞いていた上村さんが、首を捻る蒲池さんに言う。「何か気になることでも?」 

「いえ……ね。以前、何処かで聞いたことがあるような。……あれは誰に聞いたのか?」浪子夫人に「お前覚えていないか」というように目を向ける。 

浪子さんも記憶を手繰るような目で夫の顔を見返す。 

「私も珍しい名前なので聞いたことはある気がするのですが……。アラマー齢をとると駄目ですねえ、もの忘れがひどくなって」口に手を当てて笑う。 

「端月さんは高校の同級生だったとか。實平さんてどんな方なのです?」蒲池さんが私に顔を向ける。 

「いやいや、同級生だったことは確かなのですが、昨年暮れに農業委員会で会うまでは全く私の記憶からは飛んでいまして、その時もすぐには思い出せなかったくらいです」私はライダー加賀から得た情報と、今迄に私自身が思い出した数少ない記憶を継ぎ足して蒲池さんに告げる。 

「そうなんですか。實平局長、母ひとり子ひとりだった。……實平さんの父親ってどんな……」 

 蒲池さんは首を傾げながら私の顔を見る。 

 そういった類のことは加賀さんからは聞いていなかった。加賀さんもそこまでの情報を持ち合わせていなかったのだろう。 

「何故か気になるのですよね」蒲池さんは思案顔で言う。 

首を捻って暫し黙考していたのだが「サネダイラ……?」そう言って言葉を切る。やがて気を取り直すように口を開く。「そのうち思い出すでしょう。すみません。話を横道に逸らせてしまいまして」蒲池さんは首を捻りながら頭を下げ、冷たいお茶に手を伸ばす。 

上村さんが全員の顔を見回し、それではと言って、今後のスケジュールを説明する。 

「蒲池さん権利書と印鑑証明お持ち頂きましたね。端月さんの方は住民票」私と蒲池さんが頷く。「本日、契約書にご署名ご捺印いただきます。契約書は農地、宅地と家屋の全てをひとつに纏めています。売買金額の六百万円はトータルでの金額として書いております。ただし内訳として宅地部分が四百五十万、農地部分が百五十万となっています。売主、買主と税務署へ提出する分――都合三部に署名捺印をお願いします」 

蒲池さんは老眼鏡をかけ契約書に子細に目を通す。 

私達はそれぞれ署名捺印を行う。上村さんが三部の契約書の確認をし、一部は残し、これを税務署に提出しますと言い双方に一部ずつ手渡す。 

「これで契約は結ばれましたということですが。ただ、まだ代金の授受が出来ていませんので契約成立完了とはなっていません。お金の受け渡しは両者でご相談なすって下さい。私は法務局へ参りまして手続きをいたします。約一週間かかると思います」 

その点は私方と蒲池さんの間で既に話はできていた。登記の登録を確認した時点で蒲池さんの口座に全額振り込むということになっていた。伊東さん、上村さんへの費用も折半という話はできていた。 

「あと農地法に違反の部分――例の宅地への進入路なのですが。これは農業委員会の承認が下りてからの話になります。分筆は今すぐにでも出来るのですが、地目の変更は農業委員会の許可が下りてからでないとできません」伊東さんに顔を向ける。 

「昨日蒲池さんと話して、測量は今月の末にすることになっとんよ。その時点で名義は端月さんに移っとおけん、端月さんにも立ち会うてもらわないかんけんど」伊東さんが言う。 

「昨日、測量会社にお願いしてきました。今月末は確かなので、日時が決まったら端月さんには電話で連絡いたします」蒲池さんが私に頭を下げる。横の浪子さんも「端月さんみたいないい人に買って頂いて良かったです。有難うございました」言葉を重ねる。 

「今回は売り手と買い手の波長がぴたっと合って売買が成立したわけです。売り物件いっぱいありますけど、なかなか契約が成立しないらしいですよ。不動産屋さん嘆いていました」上村さんが言った。 

「蒲池さん。運が良かったんでよ。そらまあ、いろいろあったけんど」伊東さんが言葉を添える。 

蒲池夫妻は今一度頭を下げた。 

  

Interval 

 やっと契約にこぎつけることができ、安堵した反動なのかどうなのか、ひとつの不安が私の頭の中を黒い霧のように浸食し始めた。 

『自殺。事故。……もうひとつ可能性が残されていますよねえ』居酒屋で加賀さんはそう言った。 

『もう一つの可能性』それは、つまり殺人! いや、いや、それは無い。ライダー加賀も『私ミステリー好きなので、考え過ぎてしまいました』と、すぐ打ち消したではないか。あの場では、二人して、涼子は事故死だったという結論に達したのだ。 

中学生の時と高校の時との二回、涼子にふられたのは實平局長だったのではないだろうかというのが加賀さんの推理だった。 

局長は、数十年ぶりに私と再会し、昔を思い出し、幼稚な意趣返しをした。 

涼子が交通事故で亡くなった時、自殺ではないかという噂があった。 

徳島県内で住んでいた實平さんは『涼子はふられ、悲観して自殺した』その噂話を思い出し、『俺の恋人の涼子を端月に奪われた』『端月が涼子を殺した』そういった極端な、酒の上でのほら話を、妄想を、ライダー加賀にしたのではなかったのだろうか。それが、私と加賀さんのあの居酒屋での結論だった。 

しかし、私の想像は際限なくふくらむ。頭の中の黒い霧はそこばかりに留まらず、私のあまり強靭ではない心の内までも蝕み始める。 

私は東京、涼子は地元徳島。そして實平さんも徳島在住。實平は涼子に近づくチャンスだと思ったのではないだろうか。 

實平さんは中学校の時から涼子を好きだった。告白したが二度ともふられた。諦めきれない。恋敵の私は遠く離れている。 

そこで二人に何らかの接触・動きがあったのではないのだろうか。實平局長の一方的な行動かどうかは解らないのだが。 

思い起こせば、涼子が私に別れを告げた時、あまりにも唐突ではなかったか? 

涼子と實平は私には言えぬ何らかの秘密を共有してしまった。涼子はそのことを苦に、私に別れを告げざるを得なかった。 

そして、あの居酒屋で加賀さんが言及した『中倉涼子さんはなぜ夜中に出かけたのだろう』『呼び出しの電話は誰からだったのだろう』との疑問は、未だ解決していない。 

電話の主を實平と仮定してみよう。 

涼子と實平は何らかのトラブルを抱えていた。實平は涼子を呼び出す。夜中のことだ、余程の事、余程の関係性がない限り、若い娘が一人で出かけることは、考えられないのではないか。 

二人は争いになった。故意であったか恣意的なものだったかはわからない。實平は涼子を突き飛ばす。そこへ車が――。運転者も、涼子が横断歩道に飛び出してきたと証言していたではないか。ライダー加賀が言った『自殺。事故。……もうひとつ可能性』が具体性を増すのではないか。 

いやいや、ここまで想像を膨らませてしまうと、もはや推理というより妄想に近い。 

疑問点を確かめるべきだろう。 

私はスマートフォンで中倉医院を検索する。 

「医療法人双葉会中倉病院」と名前を変えたページのtelマークをタップする 

 
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