言祝ぎの巫

東雲 靑

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 建物の脇にある狭い外階段を昇る。綉はいつも佳を先に行かせた。
「落ちたらごめんね~」
 これは毎度お決まりのやり取り。そして、後ろを登る綉は「落ちるならそのまま帰れ」とか「俺は避けるけど」と言うのだ。それ以外の答えなんてないと佳は思っていた。だって『約束』みたいなものだから、これは。
「いいよ、佳ひとりくらい余裕で受け止められる」
「……え?」
 いつもと違う答えに、約束を破られたような気分になった。すこんと自分の心の何処かが抜け落ちてしまったような、不安な気持ちになって階段の途中で佳の足が止まる。
「ほら、途中で止まるな。大丈夫だから、落ちる前に俺が止めるから」
「そ、そう……じゃあ、そのときはよろしく、ね」
 佳の背中をやんわりと押して先へ促す。お決まりな会話の流れを変えたのはわざとだった。だって、未来は不確かだ。
 階段を昇りきったエントランスで佳がしばし佇む。ここに来るといつもそうだ。小さな木製の扉は篝火に照らされ揺れて見える。警戒しているかのような仕草で扉へ手を伸ばす様子に綉はふと思う。何度も来たことがある店の扉を開けるのに、なんで彼女は毎回こんなに緊張するのだろうか。いつもはさっさと入れと後ろから佳を飛び越して開けてしまうが、今日は少し待ってみることにした。
 不安気な表情で佳が振り返り綉を見上げた。どうぞ、とにっこり笑みで返事する。彼女の瞳を揺らすのは不安なのか、緊張なのか。それ以外のなにかなのか。扉に向き直り、薄く開けた。つかの間、中の様子を窺う。
「いらっしゃいませ」
 佳の肩がビクッと震えた。恐らく予想外だったはずだ。さすがに声がけされてそのまま様子窺いを続けるわけにもいかず、後ろから手を伸ばし、扉を大きく開けた。
「佳ちゃん、綉! いらっしゃい」
「……篠森さん!」
 さっきまでの恐る恐るな様子は一変して、佳は満面に喜色を湛えた。迎えてくれたのは長身の、美術館にある彫像のような男だ。佳が今日ここで会うことになるとは思い描きもしなかった人物だろう。
「ごめんね、俺で。今日はうたにちょっと外せない用事があって、ピンチヒッターなんだ。そのせいか誰も来てくれなくて、嘆いていたところ」
「そうだったんですか。こちらに入ることもあるんですね。でも、篠森さんにもお会いしたかったので嬉しいです。お正月にご挨拶したきりご無沙汰してしまって……」
「それは、お互い様。詩はいないけど、ゆっくりしていって」
 篠森に促された席へ並んで腰を下ろした。
「どうした?」
 篠森に会えたことを喜んでいた割りには、そわそわと佳の様子が落ち着かない。このとき佳は、初めて訪れた店のように感じていた。これまでに何度も訪れている店なのに、違和感が拭えない。
「うん……なんかいつもと雰囲気が違うなあって。詩さんがいないからね、きっと」
「あー、伊吹さんと詩さんじゃあ、雰囲気が正反対だよな。詩さんいたらそれだけで賑やかだし」
「確かに。詩さんにも会いたかったな」
 寂しそうな声色に「また来よう」と次の約束をする。
「うん。約束、ね」
 新たな約束に、佳は嬉しくなった。さっきの階段での会話で約束を破られたときのような、すこんと抜け落ちた部分が埋められていく。
「さて、何を召し上がりますか」
 篠森が正面に立ち、澄ました顔をつくった。
「せっかく伊吹さんが作ってくれることだし……なんかスピリッツ、常温で美味しいやつ。ストレートで」
「綉、お前かわいくないなー」
「嘘ですよ、どうしようかな。佳は?」
 今のやり取りに佳が動揺していることはわかりきっていたが、敢えてなんでもないことのように気が付かないふりをする。こんなのは、本当になんてことのないやり取りなのだから。
「あ、私は……えっと、ロブ・ロイにしようかな」
「珍しいね、甘いの」
「うん、デザート代わりに」
 佳も綉も普段カクテルは余り飲まないが、せっかく篠森というバーテンダーがいるのだから頼まない手はない。
「じゃあ、俺はバンブーにしようかな」
 それぞれの注文を聞き届け、篠森が手際よく用意を整えていく。その手元から目をはなさない佳の横顔を見つめながら、綉は迷っていた。作業の僅かな隙間で篠森が目を寄越す。今後のことを考えたら、やらないわけにはいかなくて。むしろやるべきだと提言してきたのは自分のくせに、いざとなると覚悟ができないでいる。
「あ、伊吹さんもなんか飲んでくださいね」
 バンブーの仕上げにオレンジピールを絞っているところで綉が声をかけた。先に飲んでてとロブ・ロイとバンブーがそれぞれの前に運ばれた。篠森は自分にビールを用意しているようだ。
「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
 グラスを持ち上げて目を合わせる。この視線が絡む刹那というのはなんとも官能的だ。佳は何も感じてないのだろう、浮かぶ笑みはただただ無邪気で。
「きらきらだー……グラスもすてき」
 ひとつ口をつけグラスを置いた佳の声は甘美に彩られている。
「佳ちゃんは相変わらずかわいいねえ。綉はだいぶ憎たらしくなったけど」
「いつまでも何もできない子供のままじゃないですよ」
 綉が挑戦的な目つきをしたが、その目には悲しみのような影がある。強気に出たはいいが、その言葉が自分を追い詰める。唇を噛んでうつ向いた綉の頭をやさしく触れるものがあった。
「どうしたの? 酔っちゃった?」
「…………っ」
「大丈夫よ、綉。そりゃ誂ったり茶化されりしたときは憎たらしくなることもあるけど……あなたにいつも助けられてる。今日も。ごめんね、ありがとう」
 篠森は黙って二人の様子を見ていた。注意深く。綉は下を向いたままでいる。
「ま、綉はまっすぐだからな。不器用だけど。ところで、佳ちゃん。その後どうだい? ここでは何を話しても大丈夫だよ」
「え……あ、はい……その後……」
 足元がもぞもぞする。波打ち際でに裸足で立ったときの、足の下の砂が波にさらわれていく、そんな感じがした。
「まだ人と話をするのは怖い?」
「いえ、そんなことはないです。でも、言葉を迷ったり……思ったままを口にしてしまったり……」
 綉の頭をなでていたはずの手は、いつの間にか綉の手に捕まっていた。その手のぬくもりが心地良い。足元はまだ落ち着かない。
「誰でもそうだよ。そんなに心配しないで」
 ふるふると首を振りながら、佳が小さく喘いだ。言葉を間違えてはいけないと、それは佳が幼い頃から言い聞かされてきたことで、それには理由があって……佳は息苦しさを覚えて、浅い呼吸を繰り返す。
「不安に思う気持ちもわかるけど、今ここでは、その心配はまったくないから安心して。間違ってもまったく問題ないから。間違ったら言い直していいんだよ。」
「…………」
「俺も、綉も。佳ちゃんが誰かを傷つけたり貶めたりするために言葉を使わないと知っている。だから、安心して」
 佳は返事ができなかった。言葉って難しい。一度放たれた言葉を取り消すことはできない。ましてや自分の言葉は……過去に浴びせ続けられた言葉が蘇る。右手がぎゅっと握られた。繋がれた右手から全てを守られているような気がした。今いるこの場所が、切り取られていると、なぜかそう思った。
「ねえ佳ちゃん。言葉ってもっと自由で、たくさん可能性を秘めたものなんだ。あの言葉は悪い言葉だから使っちゃいけないなんて簡単に決められることじゃないんだよ。そもそも善悪自体が単純に分けられるものではないし、表裏一体な部分もある。善があるから悪があるとも言えるよね。逆も然り」
「でも、私は言葉を間違えたらいけないって……」
「そうだね。たしかに、君の言葉は何にどう影響するかわからない……でもね。君の思いまでそこに縛られなくていいんだよ」
 二人の会話に、綉は口をはさむ予定はない。ただじっと聞いていた。自分と比べたらずいぶんと小さな佳の手を、壊さないように、でもぎゅっと握りしめて。
「例えになるかなあ……あのね。俺、すごく嫌いな言葉があるんだけど」
「嫌いな、言葉?」
「うん。言葉っていうか……よく『すみませんじゃなくてありがとうって言って』っていう流れがあるよね。あれがすごく嫌いなの」
 すごく嫌いだとにこやかに言い放つ篠森に、佳は戸惑っている。すみませんもありがとうも、どちらも佳が使ってはいけない言葉とされていない。でも、その言葉を嫌っている人がいるということに混乱した。
「すみませんって佳ちゃんならどんなときに言う?」
「……誰かを呼び止める時、何かをしていただいた時、謝罪する時……お礼のときも……」
「そう、いろんなシチュエーションで使える便利な言葉だよね。あー、佳ちゃんは今でも辞書暗記してるの?」
 小さく頷く佳に、篠森はそっかあと困ったように笑った。
「じゃ、すみませんの意味も覚えてる?」
「えっと、相手へ謝罪・感謝・依頼の気持ちを込めて言う言葉、ですね。『済む』に打ち消しの『ぬ』がついた『すまぬ』の丁寧語『すみませぬ』が元の形。『済む』と『澄む』が同源で……」
 ここで篠森が止めた。
「いや、相変わらずすごいな。まあ、この『すみません』ってさ、謝罪と感謝と依頼をこの一言で表せちゃう、超ハイスペックな言葉だよね。そこに感謝も含まれているのに、言われた側の好みの問題で、それをわざわざ「ありがとう」と言い直させるのが、俺は傲慢に感じてね」
 篠森が言ったことを、一言ずつ噛み砕いて考える。
「好みの問題でもあるだろうし。どうでもいいっちゃどうでもいいんだけど。謝罪やお礼の気持ちを込めて発した『すみません』という言葉を受け取らずに『ありがとう』と言わせて、そのことに満足する風潮がちょっと気味が悪いなとも思ってる。すみませんと言った、その言葉を選んだ人の気持ちは? ありがとうでは伝えられない気持ちを込めるから、すみませんという言葉を選んだわけだろう? それを否定して別の、感謝の言葉に変えさせるのは……うん、やっぱりなんか嫌なんだよね。だからといってありがとうという言葉を使うことを否定する気はまったくないよ」
 相手の好みの問題でもある……なら、すみませんという言葉を使わないようにするべき?
「違うよ、佳ちゃん。そうじゃない。ありがとうと言ってほしいというのは受け取り側の勝手だし、別にそれに沿わなければならない理由なんてない。そもそも感謝の言葉という見返りを求めている感じが俺は嫌なんだけど。でも、それに納得できるならありがとうと言い換えたっていいし、違うと思うなら言い換える必要なんてない。君の気持ちを言葉にしていいんだ。言葉にしないで君の気持ちをどうやって伝える?」
「……でも、私は。私の気持ちは……、私は、だめ、なんです――」
「――硬いな」
 篠森が手を上げて合図をすると綉は深く息を吐いた。すっかりぬるくなってしまったグラスの中身を一口に飲み干す。苦かった。
「……もう一度だけですよ」
「ああ、分かってる」
 篠森は再びロブ・ロイとバンブーを用意し、自分のビールを注ぎ終えるとひとつ深呼吸した。
「――ところで、佳ちゃん。その後どうだい? ここでは何を話しても大丈夫だよ」
「え……あ、はい……その後……」
 今度の佳は足元を気にしていない。綉は繋いでいる手に集中する。全身で深く、深く集中していく。
「まだ人と話をするのは怖い?」
「……怖いとは思います。間違えたらどうしようって……不安です」
 そうだね、と篠森はそのまま佳に言葉の続きを促す。
「毎日辞書を確認して、この言葉は使ってはダメ、この言葉は使ってもいいって……でも、私が使ってはいけない言葉を……みんなは普通に使ってて」
「そうか……佳ちゃんには、なぜ使ってはいけない言葉があるの?」
 それは、と佳が言い淀む。綉はこの続きを聞きたくなかったし、彼女に言わせたくなかった。でも、道筋を作るために言わせなければならない。
「私の言葉は、呪いになる、から……私が、呪いで……私は、災いで……」
「佳ちゃんは、言葉で何を呪うの?」
「……!」
 佳の目が見開く。
「呪わない、そんなこと、しない……」
「そう、本当に? 誰も? 何も?」
「……呪わない、誰も。何も。呪いたくなんかない!」
「自分のことも?」
 ひゅっと息を呑む音が聞こえた。佳の手が震える。いつもより冷たくなっていた。
「佳ちゃんは、佳ちゃんのことを呪っていない?」
「……私は、私のことを……いなければいいのにって、思ってる」
「それはどうして?」
「だって、みんなもそう思ってるでしょう? 私がいなければ……いないほうがいいって。ずっとそう言われてた。私がいなければ……誰も私の言葉に怯える必要もない……私だって……こんな、理不尽な世界、いらない……必要なの? この世界は必要なの? それなら、この世界に私はいらないでしょう! なんでこんな世界で生きることを強制されなきゃならないの!?」
 普段、慎重に隠されている佳の本心だ。綉は三年前にも、彼女のこの叫びを聞いていた。己の無力さに失望しながら。
「……ねえ、みんなって例えば誰?」
「花咲の人たちは、全員思ってるわ」
「他には?」
「……わからない。でも、人が思うことは複雑だもの。誰がそう思ったって、不思議なことではないでしょう?」
「たしかにね、人が思うことは複雑だ……でも、俺は佳ちゃんに生きてほしいって思っちゃうんだよね」
「どうして……篠森先生は、優しいから……私みたいな面倒な子を押し付けられたのに――」
「ここまでだ、一旦閉じる!」
 綉の怒鳴り声が響いた。
「綉、何が――」
「何かが触れた。佳がじゃない。佳にだ」
「何かって?」
 篠森の疑問には答えず、綉はその触れられた辺りを探す。何かの気配は、見つけられそうになかった。
「だめだ、逃した。とりあえず、佳を戻そう。コタロー、来い」
「佳ちゃん、俺のこと先生呼びだったな……」
「伊吹さんが佳の先生してたのって、大学入学まで?」
 篠森が暗い顔をして頷いた。
「そう。だから、さっきの佳ちゃんは……どんなにいってても十四、五歳だね」
 言葉を覚えた頃から自分を呪い続けてる。
『なんでこんな世界で生きることを強制されなきゃならないの!?』
 彼女の叫び声は、二人の男の耳にこびりついて離れなかった。
 
 
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