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6・同行準備

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手土産を用意した。
相手がどこの会社なのか、誰が来るのか、全く予備知識なしで購入しなければならなかったので、日持ちのする物を選んだ。
デパ地下で人気のスイーツブランドの焼き菓子セット。一箱3種類12個入りで五千円だったので、6箱買った。
こんな高価なお菓子、食べたことない。
会社に戻って来たら、定時が過ぎていた。専務室のドアをノックしてからカードキーで開けると、まだ中に本人がいた。
電話をしながらチラリとこちらを目視して、そのまま話している。
邪魔にならないようサッと戻り、明日の準備をしておこうと荷物をローテーブルに置いた。
すると、デスクに小さな箱が置いてある。
それは、新しい名刺だった。
なんと今日の今日で名刺を印刷…な訳がない。うちの会社で名刺を作るのは、1週間前には申請しないとならない。
ということは、私の異動は少なくとも1週間前には決まっていたということだ。
怪我をしたまま歩いていたのが面白いから、という理由は嘘ということになる。本当に一体どういことなんだろう。
中を開けて見れば、驚愕の肩書き。
「専務秘書…!?」
「そうですよ、言ってませんでしたっけ?」
腕を組んでドア枠にもたれ掛かった専務が、こっちを眺めていた。
一体いつのまに電話を終えて移動して来たんだ。音もなく動くから怖い。さすが猛禽類。
「言われておりませんが。」
「それはすみませんでした。渡辺さんは今日から僕の秘書です。どうぞよろしく。」
雑用係って言ったじゃないか!
「…よろしくお願いします。」
「明日は、出社したらすぐ出ます。服装は…」
上から下まで品定めするように見られる。とても嫌な感じ。
「渡辺さんは、他の服も似た感じですか。」
「はぁ…まぁ。」
入社した時から着続けているスーツと、ファストファッションの無難なオフィスカジュアル、それを常にローテーション。自分の服に使うお金がないので、くたびれているのは否めない。
「これから時間はありますか?」
「はぁ、特に予定はありませんが。」
スッと歩き出し自分の荷物をまとめると、私の方へやって来た。
「ぼさっとしてないで、帰る準備をしてください。」
「は?」
「上司命令です、付いて来てください。」
待って明日の準備をまだ何もしていない。でも、専務はどんどん行ってしまう。
慌ててバッグを持ち、後を付いて行く。
「こっちです。」
常用のエレベーターを通り過ぎ、反対側の廊下へ行くと、もう一つのエレベーターがあった。
「こんなところにもう一つあるとは。」
「一般社員は知らないですね。役員専用の地下駐車場直結のエレベーターなので。」
呼ぶにもカードキーが必要らしく、ピッとかざすとエレベーターが昇って来た。
「すごい。」
「そうですか。」
「はい。」
ものすごく気まずい。
仕事以外で話すことなんてないし、これからどこに行くのかも分からない。

しばらくするとドアが開き、専務に続いて駐車場に降りた。
10メートルほど歩くと、黒くて高そうな車が停めてある。専務が助手席のドアを開けて、乗るように促す。 
「…失礼します。」
の、乗りにくいです、高級車。
革張りの座席はクッション性が高くて、とても座り心地が良い。
それが、落ち着かない!
運転席に乗り込んで来た専務から、ふわりと香水の香りがした。香水をつけてる男の人ってキツめの香りがするけど、専務は嫌な匂いではない。形容するなら、入浴剤専門店みたいな匂い。
「あの、どこへ行くんでしょうか。」
シートベルトをして、車が走り出した。
あまりに滑らかに走るので、車に乗っている感じがしない。これが高級車か。
「僕の贔屓の店…かな。」
ヤバい単語出てきた。
贔屓の店…!どこだよ!?庶民には予想もつかないよ。
それ以上話が盛り上がることもなく、気まずいまま車中が静寂に包まれる。
せめて、専務がラジオか音楽を流してくれたら…!
いや、この車にラジオは合わない。強いて言うならオーケストラやクラシックピアノ曲だろう。そんなの流されたら、私は確実に寝る。
「足、大丈夫ですか。」
「えっ?」
突然の会話に、一瞬何のことか分らなかった。
「先週の怪我、結構酷かったでしょう。」
ああ、不快なストッキング事件。
まさか心配されていると思わなかった。
「大丈夫です。ご心配ありがとうございます。」
「珍しくパンツスーツなので、まだ傷が治っていないのかと思いまして。」
そう早くは治らないよね。
「はい。かさぶたにはなりましたけど、あまり見て気持ちいいものではないですし。」
というか、珍しくって何?確かにスカートのことが多いけれど、私が専務に会ったの先週が初めてだよ。
「やはりそうでしたか。」
そして、途切れる会話。気まずいままの車内。
そうだ、帰り遅くなるって家に連絡しなくちゃ。
「専務、申し訳ありませんが、家に連絡を入れたいので、スマホを使用してもよろしいでしょうか。」
「それくらい、許可を取らずにしてもらって構いませんよ。もう退勤してる訳ですし。」
いや、あなたが付いて来いって上司命令したんでしょうが!私にとっては退勤後じゃないよ。普通に勤務中だよ!
「ありがとうございます。」
バッグからスマホを取り出して、母と嵐にそれぞれ連絡を入れておく。夕飯は昨日のうちに作っておいたし、あとは勝手に食べてもらえばいい。
「渡辺さんは、弟さんがいらっしゃるんですよね。」
「はい、おりますが。何故ご存知で?」
聞いたけど、多分…波琉が言ったんだろうなぁ。情報漏洩の原因は全部波琉に決まってる。
「まあ色々と。弟さん、優秀だそうですね。」
「ええ、まあ!自慢の弟です。」
そこははっきり言っておく。嵐は本当に優秀なのだ。秀才で努力家、人一倍熱心で探究心がある。
「僕も、同じ大学出身なんですよ。学部も一緒です。」
「そうなんですか!?」
「はい、ついてる教授も同じみたいですね。」
専務もめちゃくちゃ優秀なんじゃんよ。そうでしょうね、あの作成リスト見ただけで分かりますわ。
言葉の端々に嫌味を感じるし、性格あんまり良くないなって思ってたけど、嵐と同じ大学なのは見直した。
嘴がカタカタ鳴る。
機嫌がいいと鳴ると言っていたけれど、何が機嫌を良くさせたんだろう。
「だから、生活が大変なのも分かります。」
「…そうですか。」
そういう意味の機嫌が良い、ね。
やっぱり性格悪いわ。
「着きました。」
スッと駐車し座席から降りると、行きと同じようにスマートに助手席のドアを開けられた。紳士感がすごい。
「ありがとうございます。」
車から降りて見えたのは、一等地に立ち並ぶ高級ブランドばかりが揃った店だった。
今の私、口があんぐり開いたままで、とてつもなく阿保みたいな顔をしていると思う。

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