1 / 23
妻の顔に見覚えがない
しおりを挟む
時刻は八時の少し前。スマホのアラームが鳴る前に愛猫の鳴き声で目が覚める。
朝ごはんをもらった事を報告しているのか、甲斐甲斐しく俺を起こしに来ているのか、妻の三十回目の誕生日にお迎えしたラグドールのミッシェルは土曜日だろうとお構いなしにベッドの周りをウロウロと歩き回っていた。
ニャッニャッ、と短く鳴くのは寝ている俺への気遣いなのか早く起きろという催促なのか。応えるように身体を起こし尻尾の付け根を撫でてやる。
三階の寝室から二階の居間へ階段を降りて行くと足元を擦り抜けてドタドタとミッシェルが俺を追い越して行く。
ニャッ、と短く鳴く声に続くように居間からもう一人の家族の声が聞こえてくる。
「今日はおしゃべりだね、ミッシェル」
まだ部屋着のままの妻がしゃがみ込んでミッシェルを撫でていた。
眼鏡をかけて髪を後ろで束ねた姿は無防備で、バリバリのキャリアウーマンである彼女の気の抜けた格好は俺しか見たことがないだろう。
「やぁ」
「やぁ」
結婚して七年が経った。
いつしかおはようやおかえりといった挨拶は全てやぁという一言で済まされている。
一日に一、二回交わされるとして二千回程度はやぁやぁ言い合っていることになる。
子供はいないが愛する猫がいる。三十五年のローンで小さいながらも不便しない立地に一軒家も買った。
仲睦まじい幸せな、自慢の家族がそこにいた。
ただ、その妻の顔に見覚えはない。
相貌失認や失顔症と呼ばれる病気があるらしい。
有名な映画スターがカミングアウトしたことで一時的に認知度が高まったその症状を目にしてドキリとしたが俺のはどうもそれとは違った。
いや、正式な医療機関で診断を下された訳ではないので違う気がするとしか言いようがないのだが、インターネットに散りばめられた当たり障りのない記事やらブログやらを読むも微妙に当てはまらず病院に行こうとも思えない。
件の症例は、顔のパーツは認識できるが顔として捉えられなくなるだの、人の顔が覚えられないだのといった症状らしいが、俺にはバッチリ目鼻口の集合を顔だとして認識出来ているし、人の顔を覚えるのは得意な方だ。
しかし、一緒に暮らす妻の顔だけが見慣れない。いや、慣れないのではないな。
毎日違う顔に見えてしまっていた。
「朝ごはんはまたお米とコーヒー?」
「空きっ腹にコーヒー飲むと気持ち悪くなるんだよ」
「お米とコーヒーは合わなくない? って意味だよ」
今のは佐藤くんがおかしいよね、とミッシェルに同意を求める妻の立ち振る舞いは出会った高校時代から変わらない。
高校一年の春に知り合い、大学時代に交際をし、社会人になり結婚して七年が経とうとも俺は佐藤くんと呼ばれ続けているし、俺は妻を鈴木さんと呼び続けていた。
出会ってからもう十五年以上経つのか、とふとした時に何度も驚く。
当然毎日顔を合わせた訳ではない。しかし、一ヶ月以上会っていない期間はないかもしれない。
その間、俺は毎度彼女の顔を見失っていた。
「はい!」
俺が解凍された白米を茶碗に移していると元気よく鈴木さんが挙手をした。
晴れやかな笑顔で俺に当てられるまで挙手を止めようとしない。
「では、鈴木さん。どうぞ」
「今日はケンタッキーを食べます!」
彼女は鶏肉が好きだ。焼き鳥でもフライドチキンでも好き嫌いせず食べる。だが、本当はクリスマスにスーパーに並ぶローストチキンが一番好きらしい。
彼女はチョコが好きだ。照り焼きが好きだ。漫画が好きだし、猫が好きだし、派手なハリウッド映画が好きだ。
こんなにも好きなものを把握しているのに俺は彼女のことを毎日別人だと思ってしまう。
頭では自分がおかしいことに気がついている。共通の友人も両親も彼女の変化に触れないのだから。
写真や動画を見返しても一日経てば違う顔に見える。どれが鈴木さんかを当てることはできるが、それは立ち位置や着ている服装で当てているだけに思えてしまう。まるで答えを覚えてしまった問題集の選択肢を間違えないような本質的ではないような不安は拭えない。
「ケンタッキーを食べる以外にしたいことは?」
「散歩してお腹を減らして……。ケンタッキー食べてスーパー行って、薬局も行きたいな」
「じゃあ、夕方前には全部終わりそうだね」
「明日何やるか会議しないと」
二人掛けのソファーに並び俺だけが朝食を食べている間、鈴木さんはクッションを抱えながらスマホを眺めては明日何やるか会議に提出する議題を考えていた。
ンッと声を漏らしながらミッシェルがテーブルに飛び乗ってくる。俺の茶碗とコーヒーグラスの匂いを嗅いで安心するとテーブルの上で溶けるように寝転んだ。
毎週繰り返される穏やかな土曜日の朝。
二人で並ぶ時、左側に俺がいて右側に妻がいる。
それが二人が落ち着く固定位置。
もっとも心が落ち着くはずの時間、場所の筈なのに初対面の人が我が物顔で妻の場所にいる違和感に慣れることはない。
コーヒーを飲みながら今日の妻の顔を眺めてみた。
頬には昨日までは無かったはずのホクロがあった。
朝ごはんをもらった事を報告しているのか、甲斐甲斐しく俺を起こしに来ているのか、妻の三十回目の誕生日にお迎えしたラグドールのミッシェルは土曜日だろうとお構いなしにベッドの周りをウロウロと歩き回っていた。
ニャッニャッ、と短く鳴くのは寝ている俺への気遣いなのか早く起きろという催促なのか。応えるように身体を起こし尻尾の付け根を撫でてやる。
三階の寝室から二階の居間へ階段を降りて行くと足元を擦り抜けてドタドタとミッシェルが俺を追い越して行く。
ニャッ、と短く鳴く声に続くように居間からもう一人の家族の声が聞こえてくる。
「今日はおしゃべりだね、ミッシェル」
まだ部屋着のままの妻がしゃがみ込んでミッシェルを撫でていた。
眼鏡をかけて髪を後ろで束ねた姿は無防備で、バリバリのキャリアウーマンである彼女の気の抜けた格好は俺しか見たことがないだろう。
「やぁ」
「やぁ」
結婚して七年が経った。
いつしかおはようやおかえりといった挨拶は全てやぁという一言で済まされている。
一日に一、二回交わされるとして二千回程度はやぁやぁ言い合っていることになる。
子供はいないが愛する猫がいる。三十五年のローンで小さいながらも不便しない立地に一軒家も買った。
仲睦まじい幸せな、自慢の家族がそこにいた。
ただ、その妻の顔に見覚えはない。
相貌失認や失顔症と呼ばれる病気があるらしい。
有名な映画スターがカミングアウトしたことで一時的に認知度が高まったその症状を目にしてドキリとしたが俺のはどうもそれとは違った。
いや、正式な医療機関で診断を下された訳ではないので違う気がするとしか言いようがないのだが、インターネットに散りばめられた当たり障りのない記事やらブログやらを読むも微妙に当てはまらず病院に行こうとも思えない。
件の症例は、顔のパーツは認識できるが顔として捉えられなくなるだの、人の顔が覚えられないだのといった症状らしいが、俺にはバッチリ目鼻口の集合を顔だとして認識出来ているし、人の顔を覚えるのは得意な方だ。
しかし、一緒に暮らす妻の顔だけが見慣れない。いや、慣れないのではないな。
毎日違う顔に見えてしまっていた。
「朝ごはんはまたお米とコーヒー?」
「空きっ腹にコーヒー飲むと気持ち悪くなるんだよ」
「お米とコーヒーは合わなくない? って意味だよ」
今のは佐藤くんがおかしいよね、とミッシェルに同意を求める妻の立ち振る舞いは出会った高校時代から変わらない。
高校一年の春に知り合い、大学時代に交際をし、社会人になり結婚して七年が経とうとも俺は佐藤くんと呼ばれ続けているし、俺は妻を鈴木さんと呼び続けていた。
出会ってからもう十五年以上経つのか、とふとした時に何度も驚く。
当然毎日顔を合わせた訳ではない。しかし、一ヶ月以上会っていない期間はないかもしれない。
その間、俺は毎度彼女の顔を見失っていた。
「はい!」
俺が解凍された白米を茶碗に移していると元気よく鈴木さんが挙手をした。
晴れやかな笑顔で俺に当てられるまで挙手を止めようとしない。
「では、鈴木さん。どうぞ」
「今日はケンタッキーを食べます!」
彼女は鶏肉が好きだ。焼き鳥でもフライドチキンでも好き嫌いせず食べる。だが、本当はクリスマスにスーパーに並ぶローストチキンが一番好きらしい。
彼女はチョコが好きだ。照り焼きが好きだ。漫画が好きだし、猫が好きだし、派手なハリウッド映画が好きだ。
こんなにも好きなものを把握しているのに俺は彼女のことを毎日別人だと思ってしまう。
頭では自分がおかしいことに気がついている。共通の友人も両親も彼女の変化に触れないのだから。
写真や動画を見返しても一日経てば違う顔に見える。どれが鈴木さんかを当てることはできるが、それは立ち位置や着ている服装で当てているだけに思えてしまう。まるで答えを覚えてしまった問題集の選択肢を間違えないような本質的ではないような不安は拭えない。
「ケンタッキーを食べる以外にしたいことは?」
「散歩してお腹を減らして……。ケンタッキー食べてスーパー行って、薬局も行きたいな」
「じゃあ、夕方前には全部終わりそうだね」
「明日何やるか会議しないと」
二人掛けのソファーに並び俺だけが朝食を食べている間、鈴木さんはクッションを抱えながらスマホを眺めては明日何やるか会議に提出する議題を考えていた。
ンッと声を漏らしながらミッシェルがテーブルに飛び乗ってくる。俺の茶碗とコーヒーグラスの匂いを嗅いで安心するとテーブルの上で溶けるように寝転んだ。
毎週繰り返される穏やかな土曜日の朝。
二人で並ぶ時、左側に俺がいて右側に妻がいる。
それが二人が落ち着く固定位置。
もっとも心が落ち着くはずの時間、場所の筈なのに初対面の人が我が物顔で妻の場所にいる違和感に慣れることはない。
コーヒーを飲みながら今日の妻の顔を眺めてみた。
頬には昨日までは無かったはずのホクロがあった。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる