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第五話 あの日、跪いた意味を今でも
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「オードゥンね。よろしく頼むわ」
「……はっ」
気が付けば、片膝をついていた。
あれは、確か六歳の頃のこと。
あの日見た眩しい笑顔は、今でも鮮明に思い出せる。
じりじりと照りつけるような暑苦しさではなく、初夏の陽だまりのような柔らかさ。きらきらと優しく、心の奥まで暖かく染みこんでくる笑顔だった。
私を見つめる瞳は、森の奥にひっそりと湛えられた小さな湖のようだった。
風も吹かず、波のひとつも立たない。水面は鏡のように穏やかで、底に沈んだ小石の形まではっきりと見えてしまうほど、澄んでいる。
あまりにも美しいコバルトブルーに圧倒される。
底が見えるから何? 底が見えたからと私を見透かせると思うの?
勝ち気な瞳は、そう語っているようだった。
頬が熱くなって、思わず頭を下げてしまった。これは、日射しを長く浴びすぎたせいだろう。
「それじゃあ顔が見えないわ。しっかりと頭を上げなさい」
「……はっ」
命じられるまま、ゆっくりと顔を上げる。アストリッド様は満足そうに何度も頷いた。
「ふーん。顔はまあまあね。あっ、いえ、それでいいのよ。良すぎると落ち着かなくなるから……ね。必要なのはそう、中身よ中身」
取り繕った言葉であったが、なぜか不快には感じなかった。
むしろ、その率直さに好感を覚えた。
この方になら、喜んでお仕えしたい。たとえ外見が評価されなくても。
「……お眼鏡に叶うよう、精進して参ります」
そう、中身でお仕えすればよい。私は、自身の才能に期待を持っている訳ではなかったが、それでもやれるだけはやってみよう。この方のために頑張ってみようと思った。
彼女の左右に控える、私より上位の婚約者たちを押しのけられるとは思わない。
しかし、せめて彼らから存在を認められるほどにはなろうと心に決めた。
あの頃のアストリッド様はとても利発で、お可愛らしいお嬢様だった。
快活で、誰に対しても分け隔てなく笑いかける、魅力溢れる少女だった。
この方のそばで、ともに時間を過ごしたいと思った。
それはどれだけ幸せなことだろう。
こんな話がある。
それは、私が初めてお目にかかった少し後のことだった。
お嬢様の前で、新入りのメイドが失敗した話だ。
ちょうど、勉強の合間に設けられた休憩の時間だった。
淹れ立ての紅茶をアストリッド様の前に置こうとしたのだが、どうもソーサーをうまく掴めなかったようだった。
緊張でもしていたのだろうか。無残にもお嬢様の紅茶は彼女の手から離れ、床へと落ちてしまう。
「もっ、申し訳ありません!」
がばりと頭を下げるメイドの肩は、恐怖に打ち震えていた。
これから何が起きるかなど、知れたこと。叱責され、罰を受ける。
いくらお優しいアストリッド様であっても、お気に入りのカップを割られてしまっては心穏やかにいられないだろう。
やってしまったなぁ、と私はメイドに同情した。
「……あらら」
アストリッド様は、こぼれた紅茶を見下ろし、少しだけ眉をひそめた。
おや、と意外に思う。怒声のひとつでも飛ぶかと思いきや。
「割れちゃったわね。まぁ、仕方ないわ」
笑っただけだった。優しく、寂しげに。
私は目を見張った。
驚いた、いや、戸惑ったと言う方が正しいかも知れない。
メイドも恐る恐る顔を上げ、信じられないといった表情をしている。
ひどい言葉、折檻すら耳にするこの世界で、笑って許されるケースがどれだけあるか。少なくとも私は笑い飛ばす貴族を一人も見たことがなかった。
私のような下級貴族ならなおさらだ。不注意で物品を壊したなら、給金から差し引かれることだってある。
貧乏貴族であれば、物は大事。大切に扱うべきものであり、怒りっても自然の反応だと思われていた。
だが、この方は違った。しかも、だ。
「――あとでお父様に謝っておくから、このことは忘れなさい」
などと仰る方が存在するなど、信じられなかった。
「はい……え?」
メイドがさらに戸惑うのも無理はない。
信じられるわけがないだろう。使用人の失敗をかばう貴族がいるなどと。
そんな彼女に、お嬢様はいたずらっぽくお笑いになり。
「あ、でも掃除はするのよ? 罰を受けたいなら、それが罰ね」
あの場にいた誰もが、胸を打たれたと思う。
これだ、と思った。これこそが、主としてのあるべき姿だと。
笑顔ひとつで複数の使用人の心を掴む。
これこそが理想だと私は深く心に刻み込んだ。
「そうそう、オードゥン。弟がね、私の顔をみて笑ってくれたのよ」
同じ場面がもし、自分に訪れたなら、きっとお嬢様と同じように。
そう思った時にはすでに、別の話題に移っていた。
こういったさりげなさもまた、お嬢さまの無力だった。
弟君のこと。母が違ってもきっと、慈しみをもって接し、立派に育ててゆくのだろう。
……今にして思えば、この頃が一番、お嬢様が輝いている時期だったかもしれない。
「……はっ」
気が付けば、片膝をついていた。
あれは、確か六歳の頃のこと。
あの日見た眩しい笑顔は、今でも鮮明に思い出せる。
じりじりと照りつけるような暑苦しさではなく、初夏の陽だまりのような柔らかさ。きらきらと優しく、心の奥まで暖かく染みこんでくる笑顔だった。
私を見つめる瞳は、森の奥にひっそりと湛えられた小さな湖のようだった。
風も吹かず、波のひとつも立たない。水面は鏡のように穏やかで、底に沈んだ小石の形まではっきりと見えてしまうほど、澄んでいる。
あまりにも美しいコバルトブルーに圧倒される。
底が見えるから何? 底が見えたからと私を見透かせると思うの?
勝ち気な瞳は、そう語っているようだった。
頬が熱くなって、思わず頭を下げてしまった。これは、日射しを長く浴びすぎたせいだろう。
「それじゃあ顔が見えないわ。しっかりと頭を上げなさい」
「……はっ」
命じられるまま、ゆっくりと顔を上げる。アストリッド様は満足そうに何度も頷いた。
「ふーん。顔はまあまあね。あっ、いえ、それでいいのよ。良すぎると落ち着かなくなるから……ね。必要なのはそう、中身よ中身」
取り繕った言葉であったが、なぜか不快には感じなかった。
むしろ、その率直さに好感を覚えた。
この方になら、喜んでお仕えしたい。たとえ外見が評価されなくても。
「……お眼鏡に叶うよう、精進して参ります」
そう、中身でお仕えすればよい。私は、自身の才能に期待を持っている訳ではなかったが、それでもやれるだけはやってみよう。この方のために頑張ってみようと思った。
彼女の左右に控える、私より上位の婚約者たちを押しのけられるとは思わない。
しかし、せめて彼らから存在を認められるほどにはなろうと心に決めた。
あの頃のアストリッド様はとても利発で、お可愛らしいお嬢様だった。
快活で、誰に対しても分け隔てなく笑いかける、魅力溢れる少女だった。
この方のそばで、ともに時間を過ごしたいと思った。
それはどれだけ幸せなことだろう。
こんな話がある。
それは、私が初めてお目にかかった少し後のことだった。
お嬢様の前で、新入りのメイドが失敗した話だ。
ちょうど、勉強の合間に設けられた休憩の時間だった。
淹れ立ての紅茶をアストリッド様の前に置こうとしたのだが、どうもソーサーをうまく掴めなかったようだった。
緊張でもしていたのだろうか。無残にもお嬢様の紅茶は彼女の手から離れ、床へと落ちてしまう。
「もっ、申し訳ありません!」
がばりと頭を下げるメイドの肩は、恐怖に打ち震えていた。
これから何が起きるかなど、知れたこと。叱責され、罰を受ける。
いくらお優しいアストリッド様であっても、お気に入りのカップを割られてしまっては心穏やかにいられないだろう。
やってしまったなぁ、と私はメイドに同情した。
「……あらら」
アストリッド様は、こぼれた紅茶を見下ろし、少しだけ眉をひそめた。
おや、と意外に思う。怒声のひとつでも飛ぶかと思いきや。
「割れちゃったわね。まぁ、仕方ないわ」
笑っただけだった。優しく、寂しげに。
私は目を見張った。
驚いた、いや、戸惑ったと言う方が正しいかも知れない。
メイドも恐る恐る顔を上げ、信じられないといった表情をしている。
ひどい言葉、折檻すら耳にするこの世界で、笑って許されるケースがどれだけあるか。少なくとも私は笑い飛ばす貴族を一人も見たことがなかった。
私のような下級貴族ならなおさらだ。不注意で物品を壊したなら、給金から差し引かれることだってある。
貧乏貴族であれば、物は大事。大切に扱うべきものであり、怒りっても自然の反応だと思われていた。
だが、この方は違った。しかも、だ。
「――あとでお父様に謝っておくから、このことは忘れなさい」
などと仰る方が存在するなど、信じられなかった。
「はい……え?」
メイドがさらに戸惑うのも無理はない。
信じられるわけがないだろう。使用人の失敗をかばう貴族がいるなどと。
そんな彼女に、お嬢様はいたずらっぽくお笑いになり。
「あ、でも掃除はするのよ? 罰を受けたいなら、それが罰ね」
あの場にいた誰もが、胸を打たれたと思う。
これだ、と思った。これこそが、主としてのあるべき姿だと。
笑顔ひとつで複数の使用人の心を掴む。
これこそが理想だと私は深く心に刻み込んだ。
「そうそう、オードゥン。弟がね、私の顔をみて笑ってくれたのよ」
同じ場面がもし、自分に訪れたなら、きっとお嬢様と同じように。
そう思った時にはすでに、別の話題に移っていた。
こういったさりげなさもまた、お嬢さまの無力だった。
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……今にして思えば、この頃が一番、お嬢様が輝いている時期だったかもしれない。
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