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第八章:散るは忠誠、燃ゆるは誇り――約束の交差点、勇者計画の終焉
第139話:魔王軍、暗黒の胎動ーーチェス盤に立つ者たち
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神魔大戦――
天使と悪魔が“世界の所有権”を賭けて争った数千年の闘争は、
人間史から抹消された、もう一つの神話である。
神の側に立つ四大天使が率いる天使軍と、堕天した七十二柱の悪魔が率いる魔族との、人間界の所有権を巡る長きに渡る戦い。
明けの明星たるルキエルの活躍により、大半の悪魔は地獄へ追放され、天界が優勢となる。しかし、肝心の悪魔軍の首魁たるパイモン(モリア)を倒すには至らず、戦線は膠着状態に陥った。
やがて天界も疲弊の色を濃くし、ついに停戦協定が結ばれる。
しかし、戦争はそこで終わったわけではない。
天界と地獄が直接人間界に干渉する代わりに、人間と魔族を駒とした代理戦争の幕が切って落とされたのである。
これが、魔王と勇者という伝説の始まりであった。
天界は、熾天使ガブリエルを中心に、人間に神への信仰を広めさせ、人間界を支配下に置こうと画策する。傀儡政権による間接支配である。
さらに天界は人間側を有利にするため、ルキエルが携える原初の聖剣「プロトタイプ」のレプリカを複数製作し、選ばれし者へと授けた。その聖剣と契約した者こそが、「勇者」として覚醒するのである。
一方、悪魔たちを率いるは毛玉の魔王。 しかし彼は人間界の支配にさして興味を示していなかった。そもそも魔族は人間よりも強く、いずれ悪魔は信仰の対象となるどころか、その存在すら忘れ去られ、やがては伝説上の虚構とみなされようになった。
古来、人間の帝王が自らを「天子」と称したように、魔族の王もまだ「魔王」を名乗るようになった。
こうして人間界は、天と地獄が賭した巨大なチェス盤と化した。
毛玉の魔王は知らない。
彼が愛読してきた勇者物語に登場する「魔王」が、自分とは全く別の存在であることを。
本来、代理戦争の「黒幕」たるべき自分が、いつの間にか「表舞台の主役」に立たされていることを。
そして、それこそがモリアの仕組んだ罠であったことを。
さらに皮肉なことに、今、彼と戦おうとしている魔族側でさえ、真の魔王が戦いに身を投じたことには、まだ気づいていないのである。
*
九尾の狐はとある山の麓で足を止め、一枚の札を取り出して詠唱を始めた。
「オン・アビラウンケン・バザラダト・バン」
不思議なことに、山肌の岩は城壁へと変貌し、林立する木々は城を守る鎧の如くその姿を変えた。最も驚くべきは、城壁から忽然と現れた竜の頭部である。どうやらこの山全体が、彼の体の一部であるらしい。
「お帰りなさいませ、コハク様」
低くも良く響く声が、森全体に満ち渡った。
「留守を預かりご苦労なのじゃ、エンシェント・シェルガイア。これより四天王会議を開く。お主も参じるがよい」
「申し訳ございません……わしは複雑な話はよく分からぬゆえ……できればご指示だけいただければ、粉骨砕身、必ず成し遂げてみせます」
「……わかった。後ほど伝えるのじゃ」
コハクの顔に一瞬浮かんだ失望の影を、彼女は素早く切り替えた。そして、ゆったりと城内へと歩み入る。
エンシェント・シェルガイアは他の四天王に比べ、実に従順で話も聞いてくれる。しかし、どうにも思考力に難がある。地竜としてのんびりとした生活を送ってきた天性のせいか、その頭の回転は鈍い。兵士としてはその圧倒的な力は申し分ないが、四天王としては……いささか物足りない。
(勇者物語にありがちな、パワーだけが取り柄の役割……真っ先に倒され、他の天王から「あいつが我々四天王中最弱」と嘲笑われる定め……)
コハクはその現状にずっと悩み、もがいてきた。しかし、どうすることもできずにいる。
*
「これはこれは、ミスター・コハク。今宵、ご一緒にいかがでしょうか?」
会議室には既に一人の老紳士が座っていた。優雅に「ワイン」を嗜むのは、吸血鬼の真祖ノクターン・クロムウェル。四天王の一角である。
「わらわが熟女に見えるとでも? 焼き殺すぞ、無礼者め」
「ミスター・コハクは分かっておらぬ。女と酒は、年を経てこそ味わいが深くなる。若造どもは若い娘の血を好むが、我から見れば、大人の味の分からぬ半人前だ。『ジュース』でも飲んでおれ」ノクターンはグラスを揺らしながら、孤独の美食家のように悠然と構えている。理解されぬほど、己のセンスは卓越していると信じて疑わない。
「無駄口はよい。グロムスはどこじゃ? まさか欠席ではあるまいな?」
「来ておる。我より先に『歓楽』に浸っておる」ノクターンがテーブルの下を指さすと、そこには水色の粘体が蠢いていた。それはノクターンの「ワイン」の搾りかすの骨を溶かしている最中だ。
「分裂体での出席とは……いい身分よのう。まあよい、会議を始めよう」
コハクは三枚の写真をテーブルに広げた。
「ドクターが戻ってきたのじゃ」
「ふん、人間の男か。つまらん。あの仮面の下が悪魔の顔ならともかく、所詮は人間ごとき、我々の敵ではあるまい」ノクターンはドクターの写真を手に取り、失望を露わにする。
「わらわはそう思わぬ。奴は魔法も使える。姿を人間に偽るのは容易であろう。わらわはドッペルゲンガーを使って奴の力量を探ろうとしたが、残念ながら全て返り討ちに遭い、今やドッペルゲンガーを凌ぐ実力を持つとしか分からぬのじゃ」
「なるほど……つまり能力値のみならば、ドッペルゲンガー以上か。面白い」冷笑しながら、ノクターンは次の写真に目を向ける。「これは……天使だと?」
「ああ。しかも、飛び切り強力なはずじゃ。あの翼の数を見よ」
「十二翼?! 馬鹿な! 最高位の熾天使ですら六翼しか持たぬぞ! 何かの間違いだ!」
「ドッペルゲンガーの複製は外見も完璧じゃ。十二翼の天使と言えば、一人思い当たるではないか」
「明けの明星が帝国にいると? それこそ冗談だ! 今の若い者は知るまいが、あれは天災だ! どうしようもならぬ!」ノクターンの手が震える。真祖たる彼ですら、明星の前では塵芥に等しい。コハクもそのことを理解している。
「悩んだところで仕方あるまい。本当に明星なら、対策を講じるのも無駄じゃ。彼が帝国に協力するとは考えにくい。触らぬ神に祟りなしじゃ。わらわが最も懸念するは……こいつじゃ」
コハクは三枚目の写真を手に取った。
「何だ? ただの小娘ではないか。どこが恐ろしいというのだ?」
「この娘は……カメラに気づいておるのじゃ」
町中の監視カメラを利用し、あくまで偶然を装って撮影したはずなのに、彼女はその一機だけを最初から認識しているかのように、ポーズを取っていた。完全に見透かされていたのだ。
「悪魔じゃ……あの愛らしい皮の下には、悪魔が潜んでいる。わらわがその深淵を覗き込んだ時、その深淵もまたわらわを見返していた。あれは……危険すぎる」コハクの眉間に深い皺が寄る。ずる賢い彼女だからこそ、モリアの底知れぬ深淵に恐怖を覚える。
「そんなはずがない! 悪魔はとっくに……地獄に封じられているはずだ!」座っているのも忘れ、ノクターンは立ち上がる。現実を受け入れられない。グロムスの分裂体は相変わらず状況を理解できず、骨を溶かし続けている。
「来月、人間どもは攻め寄せる。この三人の異物は戦場の趨勢を大きく左右するじゃろう。帝国の将軍たちでさえ手を焼いておる。正面からの衝突は得策ではない」
「では、どうする?」
「暗殺じゃ」コハクは懐からもう一枚の写真を取り出した。女帝ツバキである。「あの三人に比べ、女帝を仕留めるは容易い。彼女が暗殺されれば、帝国は混乱に陥る。その時、我が魔王軍は即座に帝国を滅ぼすのじゃ。たとえあの三人が強かろうと、戦場の流れを変えることはできまい」コハクの瞳から冷たい殺気が漂う。彼女は既に、ツバキを如何に葬るか、七つの案を構想し、その中で最も成功率の高いものを推算している。
「ならぬ!」
しかし、その計画は実行される前に粉々に打ち砕かれた。
「そいつは余のものだ。勝手に殺すとは……死にたいか、狐め」
声の主は、魔族たちの王――ダークソウルである。
黒を基調とし、所々に白と緑をあしらった長髪。ハンサムで野性的な顔立ち。金色の皇帝服はフェニックスの羽で織られ、三本足のカラスが刺繍されている。
「魔王様、ステキ♡」
傍らには、過剰なばかりのバラで飾られた盛装の緑肌の美女――ベノムローズ=デライラ。四天王の一人であり、ダークソウルの妃でもある彼女は、今や最も寵愛される存在。コハクを嫌うのも、ダークソウルの寵愛が自分に向かないことへの嫉妬からだ。
「大体、余を差し置いて軍議とは何事だ? 貴様、魔王にでもなったつもりか?」
「と、とんでもございません! 魔王様がご休息中と聞き、お邪魔するのもはばかられまして……」
「余はずっとベノムローズと一緒だったぞ。言い訳が苦しいな」ベノムローズは勝ち誇ったようにコハクに舌を出した。騙されていたと、ようやくコハクは気づく。
(この……! わらわを魔王から遠ざけようとして、こんな手を……! 普段ならともかく、今この重大な時に……!)
「しかし、女帝は他の男の子を孕んでおります。高貴なる魔王様にふさわしくないかと……」
「誰がそいつを女として欲すると言った?」
「はい……?」
「そいつは余のカナリアだ。余がために籠で歌う定めの鳥よ。愛など要らぬ。所有こそ真実だ。心は奪うものではなく、砕くものだ。淫乱な狐とは違う、余は人間のような下等生物と交わる趣味はない。ベノムローズを抱く方が、よほど香りがよい」
ダークソウルはベノムローズの腰を抱き寄せ、その唇を奪う。
「魔王様、んっ♡ そんな……んっ♡」
ベノムローズはダークソウルのキスに身を委ねながら、眼角でコハクを嘲笑う。
「しかし、それでは我が軍の勝利が……!」
「やめなさい、ミスター・コハク!」
ノクターンの制止は遅かった。黒き雷撃がコハクを襲う。
「きゃああああ!」
高圧の電流が彼女の全身を駆け巡り、悲鳴を引き裂く。叫ぼうとしても声が出ない。胸の奥で何かが焼け落ちる音だけがした。
これが魔王の怒りである。
「余の勝利は当然のものだ。この戦争自体、あの気高いカナリアの心を折るためのもの。余がカナリアを手に入れるために、暗殺のような情けない真似をすると思うか? 余計な気を回すな。次は貴様ではなく、その雑種の息子に雷を落としてやる」
「お願いします……おやめください、魔王様!」
全身に走る電流と焼け焦げた痕にも構わず、コハクは必死に懇願する。
どうか、息子だけは……!
「ビッチのくせに、母親面なんて似合わないわよ。それで魔王様の気を引くつもり? きもい」ベノムローズは追い打ちをかける。
しかし、コハクは折れない。
「子は母を強くする。子を身ごもったこともないお主には、一生分からぬじゃろうな」
「売女が!」
遠回しに自分がダークソウルの子を孕めないと嘲笑われたことに激怒したベノムローズは、さらにコハクを懲らしめようとする。
「妃殿下、流石にそれ以上は度が過ぎる」
伸びた蔓を掴み止めたのは、ノクターンだった。
「なによ、あの女を庇うなんて? まさか寝たんじゃないでしょうね? 流石は淫乱狐、男にちやほやされてさぞ自慢でしょうね」
「茶番はここまでだ。余は寝室に戻る。共に来い、ベノムローズ」
「はい♡ 魔王様」
あっという間に態度を変え、コハクを見下ろすベノムローズは、ダークソウルと共に城内の奥へ消えた。
「すまぬのう……わらわらしくなくて」コハクはどうにか電流の痺れから解放され、陰陽術で傷を癒し始める。
「今回の魔王様は……この有様か。魔族の未来は、いったいどこへ向かうというのか」ノクターンは深い嘆息を漏らし、グロムスの分裂体を抱き上げた。「戻るか?」
「ああ……よその女に、わらわの子狐たちを任せてはおけぬ」
傷だらけの身体を押して、コハクは帝国へと向かった。
帝国病院の片隅で、彼女は得意の化け術を施す。瞬く間に、元の姿の面影は消え失せた。九本の尾も、妖しい耳も、その姿形すらも。小麦色の艶やかな髪は深い紫に変わり、特徴的な琥珀の瞳は静かな黒へと染め上げられた。
とある病室のドアを開けると、包帯に覆われたティアノが横たわっていた。
「……ミラージュじゃないか。今日も来てくれたのか。すまないな、いつも気を遣わせて」
コハクはその無理を押して作った笑顔を見て、胸の奥で静かに安堵の息をついた。
「とんでもないわ、陛下。あなたが無事でいらっしゃることこそが、何よりだ」
天使と悪魔が“世界の所有権”を賭けて争った数千年の闘争は、
人間史から抹消された、もう一つの神話である。
神の側に立つ四大天使が率いる天使軍と、堕天した七十二柱の悪魔が率いる魔族との、人間界の所有権を巡る長きに渡る戦い。
明けの明星たるルキエルの活躍により、大半の悪魔は地獄へ追放され、天界が優勢となる。しかし、肝心の悪魔軍の首魁たるパイモン(モリア)を倒すには至らず、戦線は膠着状態に陥った。
やがて天界も疲弊の色を濃くし、ついに停戦協定が結ばれる。
しかし、戦争はそこで終わったわけではない。
天界と地獄が直接人間界に干渉する代わりに、人間と魔族を駒とした代理戦争の幕が切って落とされたのである。
これが、魔王と勇者という伝説の始まりであった。
天界は、熾天使ガブリエルを中心に、人間に神への信仰を広めさせ、人間界を支配下に置こうと画策する。傀儡政権による間接支配である。
さらに天界は人間側を有利にするため、ルキエルが携える原初の聖剣「プロトタイプ」のレプリカを複数製作し、選ばれし者へと授けた。その聖剣と契約した者こそが、「勇者」として覚醒するのである。
一方、悪魔たちを率いるは毛玉の魔王。 しかし彼は人間界の支配にさして興味を示していなかった。そもそも魔族は人間よりも強く、いずれ悪魔は信仰の対象となるどころか、その存在すら忘れ去られ、やがては伝説上の虚構とみなされようになった。
古来、人間の帝王が自らを「天子」と称したように、魔族の王もまだ「魔王」を名乗るようになった。
こうして人間界は、天と地獄が賭した巨大なチェス盤と化した。
毛玉の魔王は知らない。
彼が愛読してきた勇者物語に登場する「魔王」が、自分とは全く別の存在であることを。
本来、代理戦争の「黒幕」たるべき自分が、いつの間にか「表舞台の主役」に立たされていることを。
そして、それこそがモリアの仕組んだ罠であったことを。
さらに皮肉なことに、今、彼と戦おうとしている魔族側でさえ、真の魔王が戦いに身を投じたことには、まだ気づいていないのである。
*
九尾の狐はとある山の麓で足を止め、一枚の札を取り出して詠唱を始めた。
「オン・アビラウンケン・バザラダト・バン」
不思議なことに、山肌の岩は城壁へと変貌し、林立する木々は城を守る鎧の如くその姿を変えた。最も驚くべきは、城壁から忽然と現れた竜の頭部である。どうやらこの山全体が、彼の体の一部であるらしい。
「お帰りなさいませ、コハク様」
低くも良く響く声が、森全体に満ち渡った。
「留守を預かりご苦労なのじゃ、エンシェント・シェルガイア。これより四天王会議を開く。お主も参じるがよい」
「申し訳ございません……わしは複雑な話はよく分からぬゆえ……できればご指示だけいただければ、粉骨砕身、必ず成し遂げてみせます」
「……わかった。後ほど伝えるのじゃ」
コハクの顔に一瞬浮かんだ失望の影を、彼女は素早く切り替えた。そして、ゆったりと城内へと歩み入る。
エンシェント・シェルガイアは他の四天王に比べ、実に従順で話も聞いてくれる。しかし、どうにも思考力に難がある。地竜としてのんびりとした生活を送ってきた天性のせいか、その頭の回転は鈍い。兵士としてはその圧倒的な力は申し分ないが、四天王としては……いささか物足りない。
(勇者物語にありがちな、パワーだけが取り柄の役割……真っ先に倒され、他の天王から「あいつが我々四天王中最弱」と嘲笑われる定め……)
コハクはその現状にずっと悩み、もがいてきた。しかし、どうすることもできずにいる。
*
「これはこれは、ミスター・コハク。今宵、ご一緒にいかがでしょうか?」
会議室には既に一人の老紳士が座っていた。優雅に「ワイン」を嗜むのは、吸血鬼の真祖ノクターン・クロムウェル。四天王の一角である。
「わらわが熟女に見えるとでも? 焼き殺すぞ、無礼者め」
「ミスター・コハクは分かっておらぬ。女と酒は、年を経てこそ味わいが深くなる。若造どもは若い娘の血を好むが、我から見れば、大人の味の分からぬ半人前だ。『ジュース』でも飲んでおれ」ノクターンはグラスを揺らしながら、孤独の美食家のように悠然と構えている。理解されぬほど、己のセンスは卓越していると信じて疑わない。
「無駄口はよい。グロムスはどこじゃ? まさか欠席ではあるまいな?」
「来ておる。我より先に『歓楽』に浸っておる」ノクターンがテーブルの下を指さすと、そこには水色の粘体が蠢いていた。それはノクターンの「ワイン」の搾りかすの骨を溶かしている最中だ。
「分裂体での出席とは……いい身分よのう。まあよい、会議を始めよう」
コハクは三枚の写真をテーブルに広げた。
「ドクターが戻ってきたのじゃ」
「ふん、人間の男か。つまらん。あの仮面の下が悪魔の顔ならともかく、所詮は人間ごとき、我々の敵ではあるまい」ノクターンはドクターの写真を手に取り、失望を露わにする。
「わらわはそう思わぬ。奴は魔法も使える。姿を人間に偽るのは容易であろう。わらわはドッペルゲンガーを使って奴の力量を探ろうとしたが、残念ながら全て返り討ちに遭い、今やドッペルゲンガーを凌ぐ実力を持つとしか分からぬのじゃ」
「なるほど……つまり能力値のみならば、ドッペルゲンガー以上か。面白い」冷笑しながら、ノクターンは次の写真に目を向ける。「これは……天使だと?」
「ああ。しかも、飛び切り強力なはずじゃ。あの翼の数を見よ」
「十二翼?! 馬鹿な! 最高位の熾天使ですら六翼しか持たぬぞ! 何かの間違いだ!」
「ドッペルゲンガーの複製は外見も完璧じゃ。十二翼の天使と言えば、一人思い当たるではないか」
「明けの明星が帝国にいると? それこそ冗談だ! 今の若い者は知るまいが、あれは天災だ! どうしようもならぬ!」ノクターンの手が震える。真祖たる彼ですら、明星の前では塵芥に等しい。コハクもそのことを理解している。
「悩んだところで仕方あるまい。本当に明星なら、対策を講じるのも無駄じゃ。彼が帝国に協力するとは考えにくい。触らぬ神に祟りなしじゃ。わらわが最も懸念するは……こいつじゃ」
コハクは三枚目の写真を手に取った。
「何だ? ただの小娘ではないか。どこが恐ろしいというのだ?」
「この娘は……カメラに気づいておるのじゃ」
町中の監視カメラを利用し、あくまで偶然を装って撮影したはずなのに、彼女はその一機だけを最初から認識しているかのように、ポーズを取っていた。完全に見透かされていたのだ。
「悪魔じゃ……あの愛らしい皮の下には、悪魔が潜んでいる。わらわがその深淵を覗き込んだ時、その深淵もまたわらわを見返していた。あれは……危険すぎる」コハクの眉間に深い皺が寄る。ずる賢い彼女だからこそ、モリアの底知れぬ深淵に恐怖を覚える。
「そんなはずがない! 悪魔はとっくに……地獄に封じられているはずだ!」座っているのも忘れ、ノクターンは立ち上がる。現実を受け入れられない。グロムスの分裂体は相変わらず状況を理解できず、骨を溶かし続けている。
「来月、人間どもは攻め寄せる。この三人の異物は戦場の趨勢を大きく左右するじゃろう。帝国の将軍たちでさえ手を焼いておる。正面からの衝突は得策ではない」
「では、どうする?」
「暗殺じゃ」コハクは懐からもう一枚の写真を取り出した。女帝ツバキである。「あの三人に比べ、女帝を仕留めるは容易い。彼女が暗殺されれば、帝国は混乱に陥る。その時、我が魔王軍は即座に帝国を滅ぼすのじゃ。たとえあの三人が強かろうと、戦場の流れを変えることはできまい」コハクの瞳から冷たい殺気が漂う。彼女は既に、ツバキを如何に葬るか、七つの案を構想し、その中で最も成功率の高いものを推算している。
「ならぬ!」
しかし、その計画は実行される前に粉々に打ち砕かれた。
「そいつは余のものだ。勝手に殺すとは……死にたいか、狐め」
声の主は、魔族たちの王――ダークソウルである。
黒を基調とし、所々に白と緑をあしらった長髪。ハンサムで野性的な顔立ち。金色の皇帝服はフェニックスの羽で織られ、三本足のカラスが刺繍されている。
「魔王様、ステキ♡」
傍らには、過剰なばかりのバラで飾られた盛装の緑肌の美女――ベノムローズ=デライラ。四天王の一人であり、ダークソウルの妃でもある彼女は、今や最も寵愛される存在。コハクを嫌うのも、ダークソウルの寵愛が自分に向かないことへの嫉妬からだ。
「大体、余を差し置いて軍議とは何事だ? 貴様、魔王にでもなったつもりか?」
「と、とんでもございません! 魔王様がご休息中と聞き、お邪魔するのもはばかられまして……」
「余はずっとベノムローズと一緒だったぞ。言い訳が苦しいな」ベノムローズは勝ち誇ったようにコハクに舌を出した。騙されていたと、ようやくコハクは気づく。
(この……! わらわを魔王から遠ざけようとして、こんな手を……! 普段ならともかく、今この重大な時に……!)
「しかし、女帝は他の男の子を孕んでおります。高貴なる魔王様にふさわしくないかと……」
「誰がそいつを女として欲すると言った?」
「はい……?」
「そいつは余のカナリアだ。余がために籠で歌う定めの鳥よ。愛など要らぬ。所有こそ真実だ。心は奪うものではなく、砕くものだ。淫乱な狐とは違う、余は人間のような下等生物と交わる趣味はない。ベノムローズを抱く方が、よほど香りがよい」
ダークソウルはベノムローズの腰を抱き寄せ、その唇を奪う。
「魔王様、んっ♡ そんな……んっ♡」
ベノムローズはダークソウルのキスに身を委ねながら、眼角でコハクを嘲笑う。
「しかし、それでは我が軍の勝利が……!」
「やめなさい、ミスター・コハク!」
ノクターンの制止は遅かった。黒き雷撃がコハクを襲う。
「きゃああああ!」
高圧の電流が彼女の全身を駆け巡り、悲鳴を引き裂く。叫ぼうとしても声が出ない。胸の奥で何かが焼け落ちる音だけがした。
これが魔王の怒りである。
「余の勝利は当然のものだ。この戦争自体、あの気高いカナリアの心を折るためのもの。余がカナリアを手に入れるために、暗殺のような情けない真似をすると思うか? 余計な気を回すな。次は貴様ではなく、その雑種の息子に雷を落としてやる」
「お願いします……おやめください、魔王様!」
全身に走る電流と焼け焦げた痕にも構わず、コハクは必死に懇願する。
どうか、息子だけは……!
「ビッチのくせに、母親面なんて似合わないわよ。それで魔王様の気を引くつもり? きもい」ベノムローズは追い打ちをかける。
しかし、コハクは折れない。
「子は母を強くする。子を身ごもったこともないお主には、一生分からぬじゃろうな」
「売女が!」
遠回しに自分がダークソウルの子を孕めないと嘲笑われたことに激怒したベノムローズは、さらにコハクを懲らしめようとする。
「妃殿下、流石にそれ以上は度が過ぎる」
伸びた蔓を掴み止めたのは、ノクターンだった。
「なによ、あの女を庇うなんて? まさか寝たんじゃないでしょうね? 流石は淫乱狐、男にちやほやされてさぞ自慢でしょうね」
「茶番はここまでだ。余は寝室に戻る。共に来い、ベノムローズ」
「はい♡ 魔王様」
あっという間に態度を変え、コハクを見下ろすベノムローズは、ダークソウルと共に城内の奥へ消えた。
「すまぬのう……わらわらしくなくて」コハクはどうにか電流の痺れから解放され、陰陽術で傷を癒し始める。
「今回の魔王様は……この有様か。魔族の未来は、いったいどこへ向かうというのか」ノクターンは深い嘆息を漏らし、グロムスの分裂体を抱き上げた。「戻るか?」
「ああ……よその女に、わらわの子狐たちを任せてはおけぬ」
傷だらけの身体を押して、コハクは帝国へと向かった。
帝国病院の片隅で、彼女は得意の化け術を施す。瞬く間に、元の姿の面影は消え失せた。九本の尾も、妖しい耳も、その姿形すらも。小麦色の艶やかな髪は深い紫に変わり、特徴的な琥珀の瞳は静かな黒へと染め上げられた。
とある病室のドアを開けると、包帯に覆われたティアノが横たわっていた。
「……ミラージュじゃないか。今日も来てくれたのか。すまないな、いつも気を遣わせて」
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そんなチートな箱庭でまったりと過ごしていれば迷い込んでくる女性たちがいた。
偽物の聖女が現れたせいで追放された本物の聖女やら国を乗っ取られて追放されたサキュバスの王女など。
チートな箱庭で作った現代技術たちを前に、女性たちは現代技術にどっぷりとはまっていく。
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